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文化としての日本的経営 第7章


 七   日 本 的 経 営 と 技 術 開 発

 自由主義諸国の中で米国に次ぐ第二の経済大国であり、すでに有数の技術大国となった我が国が今後とも経済的に発展していくには、一層の技術開発が必要である。しかもこれまでのように応用技術開発一本槍でなしに、世界に貢献可能な基礎研究が不可欠な時代になった。そういう時代に日本的経営はうまく適応できるだろうか。

 本章では日本的経営と技術開発の関係について考えてみよう。


目次

1 技術革新の時代  

2 技術革新は日本的経営の変革を迫る     ウズ社会における技術開発 /技術の評価のしにくい日本的システム  

3 基礎研究の重要性  

4 日本的経営は創造性を産みうるか  

5 米国による先端技術情報規制の動き  

6 国際研究協力の時代


 1   技 術 革 新 の 時 代

 現在は技術革新の時代である。様々な分野からその胎動が聞こえてくる。一頃技術革新の停滞が言われたが、今やそれは過去のことになった。エレクトロニクス、バイオインダストリ―、超電導、新素材、医薬品など様々な分野で次々と革新性の高い技術が開発され、それが商品化され、日常的な生活の利便性を高めるのみならず、技術革新がさらなる技術革新を産み、社会生活の極めて広範な分野にわたって様々な影響を与えつつある。技術革新の動きは二十一世紀にかけて宇宙へ、深海底へ、生命現象の深奥へ、極微の世界へと進むであろう。中でも、エレクトロニクスの分野では、コンピュ―タやコミュニケ―ションに関する技術の進歩発展が著しく、人工頭脳に近い機能を持つコンピュ―タの開発もかなり進んでいる。また生命現象に関する研究の進歩は、従来の倫理観にさえ厳しい見直しを迫るところまできている。

 科学技術の進歩は社会の広範な分野に影響をもたらすが、必ずしもこれが人々に明確に理解されているわけではない。とくにウズ社会ではその住人の関心がウズ社会内部に止どまりがちであり、日常的には同業他社との競争に没頭せざるを得ない構造になっているので、社会のそのほかの分野にまではなかなか気が回りにくい。ココム違反事件がはしなくも明らかにしたように経済人の中には東西関係への配慮など自分たちの商売にとって障害としか考えない人も相変らず多い。科学者や技術者の中にも、経済はともかく、軍事問題や安全保障になると拒絶反応を示す人もいる。逆に、国際政治に携りながら、科学技術に関心を示さない政治家も多い。しかし、科学技術の持つインパクトは、巨大化し、複雑化し、多元化しており、社会全般のみならず、地球環境そのものにさえ大きな影響を与えており、これをト―タルに把握する努力が、現代ではあらゆる分野のエクゼキュティブにとって不可欠になっている。そのコンテクストで世界的にもきわめて高い技術水準を達成している日本企業が、日本的経営の下で技術をどう取扱おうとしているのか、世界的に注視されているといって過言ではない。

 2   技 術 革 新 は 日 本 的 経 営 の 変 革 を 迫 る

ウズ社会における技術開発

 技術革新が戦後の我が国の経済成長を支えた大きな要因となったことは今更繰返すまでもない。  日本的経営のもとでの技術開発は、基本的な技術を外国から導入しそれを改善・改良する応用技術開発であり、これが研究開発の主流であった。これはいわばウズ社会型の技術開発というべきものであり、華道や茶道等のいわゆる「道」を極めるのと同じスタイルがとられている。茶道や華道などでは、それぞれの流派が自らの同質性の担保のために様々な改良・改善を加え、他の流派との異質性を際立たせて行こうとの意志のもとに純化運動を繰広げるが、これと同じ構造で日本の技術も磨きあげられていく。茶道、華道、書道など実に様々な創意工夫をこらして多様な形式や技やしぐさを産みだしていくが(茶入れの持ち方、点前のやり方等などきめ細かに決められているように)、他の流派もいちはやくそれと類似の工夫を取りいれるので、各流派の違いは本質にかかわるというよりごく瑣末些細なことが多い。

 これは日本の得意とするカメラや自動車、半導体にも言えることで、たとえば、日本が世界の市場を席巻するに至ったカメラの技術開発も、シャッタ―スピ―ドの自動化、ストロボ内臓化、オ―トフォ―カス化、ズ―ムレンズ装着化、撮影ソフトウェアの実装化と製品開発が進んでいるが、一社が何か気の利いた機能を開発して装着すると他の各社もたちまちそれを真似して製品化する。結局すべてのカメラが同じ方向に改善されていく。しかも各社ともお互いに特許を侵害しないようにそれぞれ違った技術を開発する。

 半導体や集積回路にしても256KB(キロビット)から1MB(メガビット)、4MB、16MBと各社が競って高集積化を一心に図っている。この分野でもより創造性やアイデアを要求されるMPUやASIC(特定用途集積回路)より、極細の回路製造技術を必要とするDRAM(随時書込み読出し記憶素子)を日本は得意としている。すでに基本的な技術が開発されているものに、あたかも道を極めるように各社が競って改良・改善を次々と加え、完璧な高密度の商品に仕上げていく。そうした努力が実って、最終的には誠に気の利いたレファインされた製品となる。記憶素子の分野ではほぼ三年ごとに四倍ずつ容量の多いものへと代替わりしており、64KMが約十五万個の素子であったものが、16MBのDRAMでは、一辺が数ミリから十数ミリの小さい面積に、実に四千万個近い素子を詰込み、1ミクロン(1ミリメ―トルの千分の1)より細い線幅で回路を描く。1MBのDRAMの市場シェアで日本は世界の九割強を占めるに至っている。

 この様なハードウェア中心の応用技術開発にはウズ社会の気の良く合った気配りの行きとどいた成員が、一心同体となり次々と頭を絞って、徹夜も辞さず、アイデアを出しあっていく技術開発の方法が適している。正しく小さい工夫をこつこつと何年もかけて積重ねないとできない分野では日本は抜群の強みを発揮する。日本人の得意の気を注込むことが製品の高付加価値化をもたらすのである。

 ただ、このやり方は、比喩的に言えばカメラやICそのものを発明するようなことには必ずしも向かない。ハードウェア的技術開発には向くが、ソフトウェア的技術開発には必ずしも適しない。応用技術を日本が得意とするのは、そもそも、組織がウズ社会であって気を合せることを前提としてなりたっているからである。何か既にあるモノに改良を加え、、お互いに目に見える形で一歩一歩確認しながら前進するほうが、気が合わせやすい。

 しかも、ウズ社会は自己の属するウズ社会優先の社会であり、自己の属するウズ社会の得になることであればなにをやっても、それをタブ―視されることはほとんどない。その結果、他国や他のウズ社会のオリジナリティをそれほど尊重せず、すぐ物真似することもよしとされているので、基礎科学で新しい科学的知識がもたらされると各社こぞってさっとそれに飛付くばかりでなく、他社がそれを改良開発しても直ぐさまそれをコピ―してしまう。このオリジナリティを尊重しない社会風土であることがまた、日本が基礎研究を不得意とすることに結びついている。せっかく長い時間と高額の費用をかけて科学的な新しい知識を発見しても、それが尊重されないのでは、文字通りやりがいがないことおびただしい。

 また、日本の得意とするのは、外国にあったモデルを改良する技術である。たとえば、新日本製鉄の電磁鋼板製造技術は当初米国の大手鉄鋼メ―カ―、ア―ムコから導入したものであったが、それに改良を加え、レ―ザ―を照射して性能を上げる技術にまで高め、逆に同社へ供与している。こうした応用・改良の創意工夫で日本の工業製品の生産技術は世界的にも極めて高い水準にあり、円高がこれほど進んでもその国際競争力はそれほど衰えないのである。工業製品の生産効率が高いのも、気を合せて大量(=工業的に)生産するシステムがウズ社会の属性に合っているからである。自動車、家電、半導体、など日本の代表的な輸出産業はすべてこのタイプであることは、ウズ社会がこのタイプの開発に極めて適していることを逆に示すものと言えよう。日本企業の終身雇用制による技術者を系統的に養成する仕組みが、この場合非常に旨く機能するのである。

 また技術開発部門でも、他の部門同様長時間・無償労働が普通で必ずしも残業手当はつかない。開発目標が設定され、それに合せて、成果を出さなければならない。そのための長時間・無補償労働となるのである。気を合せてやる組織となっている以上自分の都合で抜けて帰宅するわけにはいかない。このことも、ウズ社会が開発目標を設定しやすい応用・改良に向いていることを示す。

 基礎研究を不得意とするのは、そこではまったくの独創性が要求され、むしろほかの人と気を合せるようでは(=気を合せるような人では)独創的なアイデアは産まれてこないからでもある。従ってせっかく企業の中に基礎研究をやるディビジョンを作っても、なかなかうまく機能せず、いつの間にか金儲けに結付く応用研究のディビジョンに人が持っていかれやすい。

 日本人が良く「与えられた課題は見事に克服していくが、自らテ―マを見つけるのは苦手のようだ」と指摘されるのも、基礎研究を不得意とすることの一つの要因であろう。平均的な優等生を育てることを目的とする教育制度(九章参照)がその様な人物を輩出し、周りの人に気を合せることを絶対的要請とする日本的経営が更に磨きをかける。従ってこれまでの評価基準である、学生の優の数と従業員の協調性を変えないかぎり、基礎研究に強くなることは難しい。

 日本に対して欧米が基礎研究が得意なのは個性やオリジナリティを尊重する文化的背景があるからである。米国も昔は欧州の科学の成果を物真似していたが今日ではオリジナリティを尊重する文化が定着している。またそれほど会社等の組織内の序列も厳しくない。科学の重要性についての社会の認識も高く、それを推進する体制ができている。逆に物真似は軽蔑される。これは自動車のデザインにも現れていて、各社が極めて個性的なデザインをやっているのでBMWやベンツはモデルチェンジがあっても見まちがうことはない。日本車の中には逆に人気の高い外国車と類似していることをセ―ルスポイントとしている車さえある。

技術の評価のしにくい日本的システム

 ウズ社会においては、取りあげた技術開発の成果や進行状況が大して良くない、失敗だとと思っていてもなかなかはっきりした評価がしにくい。皆がなかよく気を合せてやっている社会なので評価をはっきりするとだれかが傷付く。そこでそれを避けようとして評価をしないのである。してもオブラ―ドにくるんだような評価をしかばい合う。はっきりしたことが言いにくい風土があるのだ。「ナアナア主義」といわれるのがこれである。

 これは裏返せば、突出したものもきちん評価しにくいことを示す。日本ではなかなか大発明であっても評価されず、外国で評価されて始めて大発明と知り、あわてて、逆導入を図ったり、おくればせながら、発明者に勲章を与えたりする。このことはまた、だれもが評価しやすい、応用研究に目を向けさせることになる。これは最初から開発の目的を定めて行う研究であるから、評価しやすい。基礎研究は何を目的にするかがまったく分らない研究であるから、極めて評価しにくい。そこで日本では益々嫌われる。

 ある大企業で、自社発明の中で業績を上げた大発明について調査をしたところ、、その発明者像には共通の特徴があったという(1)。

 大発明した人はむしろおしなべて社内の処遇に恵まれていない。職位、職階が同期に比べても低い。大発明には長い期間と大量の費用がかかる。研究が完成するまでには業績なしという評価で冷遇される。しかも、長期間特定のテ―マを追及して大発明するような人は性格的に信念が強く、回りと気を合せようとしない。これが第三者から見て頑固で協調性がない、と映る。これでは、気を合せることを前提とするウズ社会の内部では評価が低くなってもやむを得ない。その意味で、日本的経営は基礎研究に必要な強靭な精神力を持続できる環境を提供する点では必ずしも向いていない。年功序列制度も研究開発には向かない。むしろ肩書や、階級制のない自由さこそ重要なのだ。また、自分の気の入ったテ―マを自由に選べなければ、技術開発とくに基礎研究はうまく進まない。気に入らないボスがいても、またボスが研究テ―マを押付けても研究は滞る。定年まで、常にいいボスに恵まれることはまず不可能である。また、四十歳過ぎてもフレッシュな感覚で研究に励むのは難しくなる。そうした意味で終身雇用制にしても、研究開発には向いていない。

 外国では、科学の世界には複数の専門家の仲間による審査(ピア・レビュ―)というものがある。これは研究の成果やアイデアを正しく評価し、限られた研究費を有効に使うためのシステムである。日本ではボスができて、ボスが評価する、ボス支配になりやすい。日本ではピア・レビュ―という言葉さえ充分に知られていない。こうした客観的な評価制度を日本でも取入れるべきだと思われるが、外部からの異質なものの導入や批判を極端に嫌うウズ社会では導入には様々な困難がある。

 3   基 礎 研 究 の 重 要 性

 基礎研究の重要性はこれまでも口が酸っぱくなるほど強調されてきた。その際、日本の弱点とされる基礎的分野へ研究開発費を一層投入することが必要と主張される。しかし、これまで見てきたようにウズ社会においては、なかなか組織風土の制約から基礎研究は馴染みにくい。従って研究開発費の充分な投入というからには、ウズ社会特有の風土的桎梏から離れて充分研究に打込めるだけの財政的基盤を整えるというところまで含むのでなければ、大した成果は期しがたい。つまり、目先の利益優先の日本的経営の下では、どうしても金を効率的に使おうとして、現在の企業幹部や大蔵省の予算の査定のように、目的のはっきりしたもの、早急に成果の上がるもの、すでになんらかの具体的成果をあげた研究者(多くは応用研究分野で)へ優先的に金を配分してしまい、すぐ役にたつかどうかはっきりしない基礎研究にはおよそ金を回そうとしないからである。科学技術庁でも、基礎的研究が大切だと基礎の後に「的」の字を必ず入れる。つまり日本では応用につながる基礎研究という矛盾した概念が生きている。しかし、応用を考えれば基礎研究でなくなるのは欧米では常識である。日本の研究所の成功率が七十%で米国のそれが一%に満たないと良くいわれるが、これは、上述のことを裏付ける。せいぜい成功率が五%とまりなのが基礎研究の名に値するのである。また、ウズ社会の中で肩書きを手に入れようとすれば成果の上がりにくい基礎研究に打込むよりも、手っ取早い応用技術に走った方が賢い。こうしたもろもろの風土的制約から解放しうるような金銭的裏付けが必要なのだ。利益優先主義の日本的経営が今後良くその重荷に耐えて基礎研究にそれだけの金をさきうるだろうか。逆にそれだけ充分な金がないならウズ社会そのものの在り方を変えないかぎりなかなか独創的な研究は実を結ばないであろう。日本の会社は今では工場や設備よりもR&Dに多く投資するようになったが、真に基礎研究の名に値する研究への投資ははまだ微々たるものである。

 基礎研究ができるためには、若い能力ある人が独立して自由に研究にいそしめなければならない。階級制がなく(上司に言葉遣いを気をつけなければならないようでは自由な議論はしにくい)、雑用から解放され、自分のやりたいテ―マを自由に選択できること(上司にいわれたテ―マでは自由な研究はできない)。成果やアイデアの評価も、ボスの評価ではなく、専門家によるピア・レビュ―のような評価が可能なこと。立派な施設、たっぷりの研究費、二四時間利用可能なインフラ(たとえば、研究室、図書館、コンピュ―タ、デ―タ・ベ―ス、食堂)があり、途中で研究費を切られる恐れがないこと。この様な条件を、ウズ社会のなかに旨く取りこむことができるだろうか。

 ノ―ベル賞を受賞した利根川進博士が、博士自身が認めるように日本の研究風土に止どまったとしたら、受賞の栄誉を受けることにならなかったことは確かであろう。このことは、逆に日本人に創意工夫の能力がないのではなく、そうした才能を育てるシステムが日本にはなく、現存の教育システム、ウズ社会を前提とする日本的経営や研究体制がむしろそうした才能の開花を妨げていることを物語っている。もとより応用技術の中にも日本人の様々な創意工夫が発揮されているが、むしろ、その方面のみに適するようにあらゆる体制造りが進み過ぎたがゆえに、基礎研究がお留守になったのであり、これを基礎研究に適した体制に作りかえていくことには多くの困難が伴っているともいえよう。

 4   日 本 的 経 営 は 創 造 性 を 産 み う る か

 企業はいま基礎研究所ブ―ムといわれ、業種をとわず代表的企業がぞくぞくと基礎研究所を作り始めた。これは歓迎すべき風潮である。しかし、ブ―ムという言葉がいみじくも明らかにしているように、これも会社の横並び意識の産物である面が少なくない。しかも、ここでも研究所というハ―ド面が優先され、基礎研究に相応しい組織造り・人事管理などのソフト面が後回しになっているケ―スが多い。本当に基礎研究に値するものがその中でどれだけ行なわれているか、疑問なしとしない。超電導に多くの研究所がわっと群がるようではそのこと自体がオリジナリティの不足を露呈している。基礎研究は未だ分かっていないことだれもやっていないことを、自分で設問を探しだして明らかにしていく作業であり、自分の中に評価の基準を持っていなければならない。応用技術や改良技術はウズ社会で大勢がアイデアを出しあいっていけばなんとかこなせるが、基礎研究はとくに個人の能力に依存する。その意味で能力のある人もない人も年次で昇格させがちな日本的経営の中で、能力のある人を選考しいかに自由に研究に没入できるようにするかが大きな課題になる。独創的であることはほかと合せないことでもある。そういう人物を能力あると評価し、研究費を支給し研究に勤しませることができるかがウズ社会のまず第一の関門であろう。しかもそういう人に長い研究の途上で回りに気を合せることを求めず、自由に振舞わせなければならない。これまでのウズ社会の組織原理に一つ一つ逆らうことであるのでその管理が極めて難しい。言わばウズ社会のなかにわざわざ求めて癌細胞を移植し養殖するようなことになりかねない。そういう危険性があったので日本企業はこれまで基礎研究を敬遠してきた面もある。これまでもなんどか基礎研究の必要性が声高に叫ばれながら、その割りにはめぼしい成果をあげえず、基礎研究といいながら、真にそれに値するものが少なく、日本人でこの分野で大きな成果を上げた人の多くは、利根川博士をひきあいに出すまでもなく外国の、もっと自由に研究に没入できるシステムを持つ研究所や企業に帰属している。 日本では産官学交流の必要性が叫ばれて久しいがこれまでそれほど大きな成果を上げていない。産官学の壁が厚く、産の側からも官の側からも、学の側からもなかなか破れないのは、それぞれがウズ社会であり、それぞれのウズ社会の中に立篭もりがちなためである。それぞれのウズ社会は独特のル―ルを持ち、他のウズ社会の成員のアプロ―チを拒むようにできている。たとえば、兼職禁止規定や研究費や施設の利用規定、研究協力の成果を国有とする国の規定等もウズ社会内部でのみの研究を前提としたものであるし、また研究員にしても他のウズ社会の成員と協力すると成員としての同質性を失い、村八分にされかねない風土がある。要するに研究協力を支えるシステムが欠けているのである。

 5   米 国 に よ る 先 端 技 術 情 報 規 制 の 動 き

 自らは基礎研究にそれほど力を入れず、欧米が積みあげた基礎科学の成果を利用して経済活動を発展させていくという日本のこれまでのいきかたに対して欧米諸国は最近とみに反発を強めている。これが基礎科学タダ乗り論である。日本が大きな経済力を持った現段階では従来のようにタダ乗りではもはや済まなくなった。

 日本では科学技術と一言でいわれるが、科学と技術は本来異質なものだ。技術は科学的な知識の上に成立つものであり、日本は明治以来、欧米の科学の成果を利用して技術を発展させてきた。戦後も導入した科学的知識を利用して技術力を強め、工業生産の生産効率を世界一の水準まで高め、これが経済大国ニッポンの基盤になったことは周知のことである。その意味で、日本は技術の面では非常に進んでいる。

 その結果、日本では技術の重要性は社会的に認識されており、技術を発展させるシステムも整備されているが、基礎科学の重要性については社会的に充分認識されていないし、基礎科学を発展させる制度も整っていない。しかも、研究開発費の約八割が民間負担であるばかりでなく(2)、官民合せた研究費全体に占める基礎研究の割合いは年々低下している。その結果、基礎研究分野における日本の貢献度は著しく低い。基礎研究の水準を計るメルクマ―ルとなるノ―ベル賞受賞者の数でも、日本はベルギ―と並び十二番目で、わずか五人に過ぎない。

 また、日本の科学タダ乗り論とならび、日本が儲け優先で、技術の軍事的側面に無関心なことに対して米国からクレ―ムが突付けられている。

 米国の関心は、軍事力の強化に役に立つ先端技術の東側への流出規制である。自由主義圏の盟主をもって任じる米国にとっては、先端技術の東側への流出は、自由主義圏全体の安全を脅かしかねないものであり、その規制に懸命になるのは当然である。日米科学技術研究協力協定の改定に際して、米国が日本に安全保障の観点を導入するよう強く要求したのは記憶に新しい。

 日本はこれまで米国が苦心の末開発した技術を導入し、改良改善を加えて量産システムにのせ大量に輸出して稼ぎまくる。半導体がそのいい例だ。しかも金儲け第一で、ココム違反さえしてまで先端技術を東側に輸出をする。日米協定改定交渉が難航した背景には、こうした日本の態度に対する米国側の怒りがあったと見ることができよう。  現行の技術の流出規制は製品と役務を対象としているが、現在では情報のほうが重要性を増している。しかし情報は元来規制に馴染みにくいものだ。しかも、科学技術が本来自由な情報の交流によって進歩発展するものであるので、安全保障の観点からとはいえ、規制が行きすぎれば科学技術そのものの進歩を阻害しかねない。現在の技術は民生と軍事のいずれにも使用可能な汎用技術が益々増加しており、科学技術の発展を阻害せず、しかも東西経済関係の発展を妨げず、他方、軍事面の技術力の向上に寄与する技術の流出を規制するのは、極めて難しい。ソ連のペレストロイカに端を発する一九八九年のいわゆる「東欧革命」により一挙に東西関係の緊張が緩和され、ココム規制にも緩和の兆しがみられるが、日本の科学技術の水準が、とくに応用技術の分野で今や世界のトップランナ―に肩を並べている以上その自覚を持つとともに、自由主義国の一員として米国や西側諸国と協調するのは当然の責務である。

 6   国 際 研 究 協 力 の 時 代

 今後の研究開発の方向としては、国際化を避けて通ることはできない。企業でも、松下電器、富士通、日本電気、住友電工、本田技研、等外国人研究者の採用に踏切る企業が急増している。敢えて、異質な人材を集めなければ独創的な研究開発が望めないとする企業側の切迫感がある。確かに円高を利用して諸外国の不動産を買いあつめて不評を買うより超一流の学者を雇いいれる方がはるかに有益ではあるが、果してかれらを充分に活躍させうるだけの体制作りができているかというと、まだ、不十分としかいえない。同質性を前提とする日本的経営の中に異質な人材をどう取込むかが大きな課題を抱えている。

 しかも、まだまだ日本で活躍する外国人研究者は少ない。米国で活躍する日本人研究者は二万五千人に対して、日本における米国人研究者は二千六百人でしかない。これは、国際的に解放された、世界的水準の卓越した研究拠点、いわゆるセンター・オブ・エクセレンス(COE)が日本では不足しており、米国からの研究者を十分受け入れることができないためであるが、この面でも米国は日本の門戸開放を厳しく求めている。米国のロックフェラ―上院議員(西バ―ジニア州選出)は日本が日本国内の研究所を米国人科学者に開放することに消極的な姿勢をとり続ければ、日本人科学者を米国の国立研究機関から締出すことになるかもしれないと警告している。これも、最近、米国等で広がりつつある技術交流に関するシンメトリカル・アクセス(均等な機会)あるいはコンパラブル・アクセス(相応な機会)論の一翼を担うものだ。日本の基礎研究タダ乗りに対する風当たりが強まっているのも、日本の技術情報の開放を求める声が強いのも、ハイテク分野での巻き返しを目指して、知的所有権の保護強化という戦略を組立てようとしているのもその現れである。

 その意味で日本および日本企業は、研究開発の枠組みそのものの見直しを迫られている。それはウズ社会のバックボ―ンを成す日本的経営そのものの在り方に変革を迫るものだ。いずれにせよ、現在は、研究開発のための資金を出すだけでなく、その場、機会を提供し、その成果を人類の共有財産として世界に公開していく心構えがなければ、我が国の存立基盤自体が危うくなりかねない時代なのである。次ぎの飛躍のためには、これまでの自社の金儲け優先の企業文化を破壊する覚悟がなければがならないのだ。


注

(1)『日本経済産業新聞』一九八八年二月四日

(2)研究開発費用の政府負担割合は、国防研究を除外した数字で米国が三〇%前後、フランスと西独が三〇%以上であるのに、日本は二〇%程度であり、先進工業国の中では比率が低い。


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