F38AS880 421-3 900308 900529
不安定な為替相場、アメリカの巨額な財政赤字と貿易赤字、貿易摩擦の激化、特許技術情報の輸出規制、NIESの追上げなど、激動し、今後とも急速な変動を繰返す国際環境の中で日本が生きていくためには、国際環境との融和的な関係が不可欠であり、現在様々な面で国際的な軋轢を生出している経済構造そのものを国際社会と融和的なものにするかなり思い切った調整が必要である。これまでの日本的経営は、構造的な調整を遅らせるなど、国際的な緊張関係を助長する側面を多分に内包していた。今後、経済的構造改善を進めるにあたって、日本的経営がその推進母体としての機能を発揮しつつ自らの換骨奪胎を図り、新しい日本的経営へと脱皮していけるのか、本章ではそれらの実態をさぐってみよう。
現在、世界経済は様々な不均衡を抱込み喘いでいる。その背景にアメリカの経済力の衰えがある。かつて世界経済の土台骨を支えていたアメリカは今や巨額の財政赤字を抱え、大幅な貿易赤字を毎年計上する(八八年一二六五億ドル、八九年一〇九〇億ドル)世界最大の債務国へと転落している。これに反し日本は世界最大の貿易黒字を計上し、世界一の対外純債権国の地歩を占めている。しかもその日本が、アメリカ一国に輸出総額の三五パ―セント(八九年)を依存し、その対米貿易の黒字幅は、八五年三九五億ドル、八六年五一四億ドル、八七年五二一億ドルと年々増大し、八八年四七六億ドル、八九年四四九億ドルと久振りに減少したものの、アメリカの貿易赤字に占める対日赤字分は依然最大である。この様な状況を背景にアメリカは近年日本に対して半導体やコメの市場開放を求めるのみならず、日本市場の構造的障壁の除去を含む様々な要請を矢継ぎ早に突付けており、日本の対応が充分でないとして様々な報復措置を発動してさえいる。これが日米経済摩擦であるが、これにいかに対処するかが現在我が国にとって最大の政策課題となっている。
日本の貿易黒字は、八〇年以来八年間連続して増大の一途を辿り八七年では九六四億ドルに達した。八八年になってようやく前年比減少を記録したものの、黒字幅は九五〇億ドルであり、依然として高い。我が国に対する恒常的な赤字に悩む国は上記のアメリカのみならず、EC諸国、NIES、発展途上国を含め夥しい数に昇る。対日黒字国は、日本への資源輸出国のごく一部にすぎず、恒常的な対日赤字国は長年にわたり一向に赤字が減らないことを対し強い不満を抱いており、日本に対してより一層の市場開放を求めている。日本の対応がアメリカ中心であることに対しても、EC諸国や近隣のアジア諸国から近年不満とする声が高まっている。例えば、ECは日米半導体協定に基づく価格監視はガット違反ではないかと主張したように一方の主張を立てれば他方から非難されるという板挟みの状態に政府が置かれるケ―スが増えている。こうして日本は非常に多くの国々と構造的な通商摩擦の種を抱え、その対応に追いまくられている。
一九八七年十月十九日ブラックマンデ―と名付けられたこの日、一九二九年のいわゆる大恐慌を上回る株の大暴落がニュ―ヨ―ク市場を襲った。それに引続く為替相場の乱高下、各国の株式市場の株価の暴落は一挙に世界経済の前途に不安を呼びさまさずにはおかなかった。株式市場にはそれまでブ―ムに近い株価の値上がりが見られた。もともと実態経済を離れた株価の上昇であり、経済の不況で適当な投資の場を失った金が投機の場を求めて株価を押し上げていたにすぎず、早晩上がりすぎた株価の低下は予見されていたが、予想を上回る大幅な低下が多くの投機家の心胆を寒からしめた。巨額の損失を被った投機家も少なくない。こうして世界経済は一挙に先行きの見通しの極めてたちにくい状況に陥ることになり、「世界経済は依然、金融危機がいつなん時起こっても不思議ではない、ぜい弱な基盤の上にある」(1)。この様な不安定な状況を背景として今後日本を巡る貿易摩擦はますます激化の様相を深めていくことが予想される。
一九八五年のいわゆるプラザ合意後の急激な円高により日本の輸出依存体質は改善が進むものと期待されたが、必ずしも期待通りには進んでいない。多くの輸出依存企業が円高に対してむしろ企業の徹底的な合理化努力によりコストの切下げにより対応する道を選び、輸出企業に対するアンケ―トに対しても半数以上が依然として輸出依存でやっていくことを表明している。一九八八年度の我が国の貿易黒字は、前年度比でやや減少した(一・四%)ものの、これは輸入が輸出を上回って大幅に伸びた(二八・五%)ためであり、輸出そのものは、円高下にあるにも拘らず一五・六%という高率で伸びている。この傾向は八九年も続いており、貿易黒字は、対前年比で大幅に下落した(一八・八%)が、これも輸入の増加が一六・八%増に対し輸出の増が一〇・三%に止まったためである。輸出自体が決して落ち込んでいるわけではないことに注目する必要がある。
現在のように内需が好調で輸入が急増している時は比較的問題は少ないが、一旦内需が低迷し始めるとそれまで内需で消化されていた製品を始め、現在盛上がりを見せている設備投資による生産能力の増大分まで一挙に輸出に向かう危険性をなお孕んでいる。上述のように輸出依存企業の体質改善は必ずしもが順調に進んでいるわけではなく、すでに円レ―トが一二〇〜一三〇円台でも、輸出依存企業の多くはすでに競争力を回復しており、輸出は決して不調ではない。ただそれを上回る輸入の増大の陰でさほど目立たないだけである。現行の政府の経済運営五カ年計画(八八年五月策定)においては、経済成長の外需依存をマイナスに設定しており、ここ数年はその線で動いているが、今後景気が後退し、内需が低迷した時点でそれが維持できるかどうかがまさにわが国経済の外需依存型から内需依存型への構造転換を占うリトマス試験となろう。
日本の企業が、輸出依存に固執することと、日本的経営とは深いかかわりがある。 第一に、企業の方向転換がなかなかできにくい体質を持っていることだ。つまり全成員が気を一にして、頑張ることが日本的経営の基本である以上、輸出第一ということで気を合せた以上それほど容易に転換できにくい。明治時代以来、我が国は海外に資源と販路を求める輸出奨励を国策としてきたが、戦後はこれが更に強化され、各社の気風として定着した。上から下まで同質化し、輸出志向型の企業・産業構造にいわばできあがっているので今更方向転換しにくい。
気を合せ直すには莫大なエネルギ―を必要とする。これは長年にわたり集中豪雨的輸出やダンピング容疑を繰返す業界の動きを見ても良く分る。輸出促進ということで長年にわたり気を合せてやってき、この間言わば同調による増幅機能(つまりウズ社会では一つの意見に気が合い始めると皆先を争って同調していく作用)が働いて、製造業者、所管官庁、与党とも完全同調に近い状態になってしまっている。一切の不純物は排除されてしまっており、内部からは輸出依存体質の改善を言いだすことも、促進することもほとんど不可能に近い。海外諸国から非難の声が高まると、業界ベ―スでは輸出自粛の申合わせをするが、いつも総論賛成各論反対で、各社ベ―スでは激しい競争を繰返す。気を変えさせるのに論理による説得は前に述べたように極めて難しい。外圧が危険水域を越えたと見ると、政府が乗出して来、そこで輸出「自主」規制を行うが、あくまで外圧にやむなく押切られたという体裁をとり、渋々規制を受入れる構造になっている。そのため、輸出依存体質の根底からの改善は進み難く、どの業界も自主規制枠や輸出カルテルが撤廃されればまた集中豪雨的輸出に逆戻りする体質を温存している。
しかも日本的経営は終身雇用制で成員の生首を切らないことを持って至上命令としている。このため、一時的にせよ売上が減少すれば、成員の首を切らなければならないということで、現在の生産量をどうしても維持しようと務める。そのためぎりぎりまで生産原価を切詰め頑張る。生産原価さえ回収出来ればよしとし、現在の生産品をその需要に応じて減少させるよりも、むしろ価格を下げても現在の生産量を維持する。これが激しいシェア争いや過当競争の原因となり、ダンピング輸出として世界から非難される原因ともなっている。
第二に、内需向けの製品へ切りかえようにも、なかなか適当な製品が開発できない面があることだ。というのも、日本的経営そのものが内需の振興に極めて不向きな経営法だからでもある。自縄自縛といってよい。つまり、日本的経営は全成員の気を一にするために四六時中企業に縛り付けておかざるをえない。円高不況となるとコストの切下げのために又しても「働け」「働け」の号令が掛かり、残業に継ぐ残業の連続で、週休二日制や長期休暇制度も一向に定着しない。休日も出勤や接待で多くの成人男子は仕事に縛り付けになる。一人当たりGNP世界一の国であるにもかかわらず、このところむしろ総労働時間は長くなっている。
その結果、潜在的に内需の最も大きな市場たりうる余暇時間向け・生活の質的向上向けの市場の開発がなかなか進まない。政府の内需振興策も旧態依然たる公共投資中心のものであり、産業構造の転換を促進する効果はさほど強くない。政府はまた、一部には内需振興とからめて週休二日制の実施推進を「計画」として発表しているが、産業界の反対の壁をなかなかつき崩せない。現在は、飽衣飽食の時代で、みんな物理的な限界に近いところまで着かつ食べている。従って新たな内需を起こすにはこれまで労働で拘束されている時間を余暇に当て国民の総体としての自由時間を拡大するとともに、空間についても、国民の活動する空間を従来の家とオフィスとの間を往復するだけのものから解放し、もっと大きく広げない限り不可能である。
つまり内需振興のためには現在の国民の生活様式そのものを変えなければ不可能であるが、労働者を四六時中会社に縛り付ける日本的経営は今やその阻害要因になっている。製品やサ―ビスを捌く大きなマ―ケットを必要としながら、自らその発展を阻害し、海外にその捌け口を求めて出ていっては摩擦を引きおこす。これが自縄自縛という所以である。
第三に、日本の企業(=ウズ社会)が文字道り渦構造をなしており、同じ渦の中に巻込んでしまって系列化するか、逆に渦が壊されないように遠く離れてまったく無関係になるかのいずれしかとれないこと、つまり「ウチ」と「ソト」とを峻別し、ウチ=ヒト、ソト=モノ扱いし、内部の成員第一、組織優先で、外部に対する関心をほとんど欠く体質を持っていることと、この輸出依存体質の改善が進まないこととは深く関わっている。つまり、他の国のことなどどうでもいいのだ。そもそもシェア競争に追われ過当競争体質を持っていることが、自社(=自らの属するウズ社会)以外の企業のことは考えず、「あこぎ」といわれようが、「物真似」といわれようが、なりふり構わず、自社のため自社の成員のため頑張る体質を持っていることを示すものだ。日本国内の企業に対してもこれだけ非情になれるのだ。これが外国のこととなるとほとんど関心の外になる。外国が困ろうとわれ関せず、集中豪雨的輸出やダンピング紛いの輸出を何遍繰返しても一向に企業自らによる体質改善は進ない。そして、その尻拭いを常に政府に持ちこむ。
第四に、企業側に問題がこじれれば政府に泣付けばなんとかしてもらえるという意識があり、政府にもそれに応えて調整役を買って出、輸出不振に陥れば助成策を講じることも、日本の輸出依存体質が直らない原因の一つである。
ウズ社会の成員の関心の第一は、自らの属する組織のために頑張るということである。会社のために頑張ることが会社員として最善を尽くすことになっている。頑張るとは、秋川陽二が指摘するように、「もともと『頑張る』で、これは威張る、出しゃ張るなどと同じく、他人を押しのけてでも自己主張をするという意味の言葉」であり、「日本では、最善(ベスト)を尽くすということと、他人を押しのけてでも自分の立場を確保するということが同義語になっている」(2)。
そうしたなりふり構わず頑張ることを持ってよしとする体質で全員が同質化しており、組織第一で頑張れば頑張るほど高く評価されるのだから組織にとって有利なことはなんでもやる。他社のアイデアや発明・開発したものをすぐ真似る。ビ―ル業界では極めてドライなドライビ―ル戦争が繰広げられたが、どの業界でも、物真似精神に寛容なため各社ともまったく同じような物を作り生産過剰になりやすい。販売方式も物真似で各社同様のリベ―ト方式を取入れ拡販競争を展開するので、過当競争となり集中豪雨的な輸出になりやすい。ヨ―ロッパの人間には、真似につながる行為は考えられず軽蔑する。ところが日本では真似たり他社のアイデアを逸早く取入れた社員は軽蔑されるどころか年功の「功」の評価に当たって高い評価を受ける。こうしたル―ルやモラル無視の体質が輸出の際に発揮されることも、日本と外国との摩擦の原因になっている。
日本では赤信号があれば停車するが信号がない交叉点では強気で突っ込む車が勝つ。秋川陽二によれば(3)、イギリス人はそういうときに、一台ずつ交互にスム―ズに交わり、あたかも交通信号があるかのように振舞う。日本人がそのように行動するのは、強制力をともなう規制・規則があればそのいわば形式には従うがその規則・規制の背後にある精神には無関心であるためだという。これが自由貿易(フリ―トレ―ド)というル―ル・原則の精神を理解できず、赤信号がなければ文字通りフリ―と誤解して強気に交叉点に突っ込む集中豪雨的輸出につながっている。
最後にはお回りさん=政府が乗出してきて調整してくれると期待している。その安堵感に寄掛かって激しい競争を繰返すのであるが、その際の調整の権限や基準が、必ずしもル―ル化・明文化されていなくても気にしない。むしろ、カルテルを結び過剰設備の廃棄をするにせよ、輸出自主規制をするにせよ、これまでの販売額のシエアや既存の設備が尊重されることが多いことから、各社は日頃からシエア獲得に血眼になる。
また、業界内ではシエアの大きさに応じて企業の序列づけが行なわれ、同じ部課長の肩書でも会議等の時の席次が違う。そのため激烈なシェア競争を展開する。シェア競争は組織大に拡大された出世競争であり、強い序列意識の副産物である。出世競争がル―ルなしに行なわれるのと同じく企業間の競争もル―ルなしで行われ、上限のない頑張りが幅をきかす。
有利なことはなんでもやる半面、組織にとってすこしでも不利益なこととなると、それを自ら率先して実施することは非常に少ない。長期的に見れば会社の利益になることであっても、短期的に不利益なことを敢えてすべしと、組織の中で言いだすことは当人にとって不利益になりかねない。「ココム違反の恐れがあるので輸出を中止しては」と言出せば、社長命令に背くことにもなりかねず、他の成員との異質性を帯び排除の対象にされかねない。そこで誰もが回りの情勢から見て方向転換せざるをえないと心の中では思っていても言いださない。言いだせない。そこで何時までも方針の変更はできず、そのままずるずると突っ走る。その結果が過剰設備投資や集中豪雨的輸出、構造調整の遅れ、ダンピングのクロの認定、ココム違反事件といいうことになる。
その後始末は、自らはできないので政府に泣付き、いわゆる行政指導を仰ぐ。政府の指導によりやむなく方向転換を計るという体裁をとらなければ、自らはなかなか方向転換ができない。これが外圧の利用の原型である。自ら判断して方向転換を計るのではなく政府の要請や、外国からの圧力でやむなく変るという体裁を繕うのである。日本企業が今もって「甘え」体質・幼児性が抜けないとされ日本株式会社といわれる所以である。
こうしたやり方でウズ社会の内部に「言い出しっぺ」という異質なものの誕生を防ぎ、全員同質という基本を維持する知恵でもある。終身雇用制の下では、入社から定年まで四〇年近く常に企業側に立ち続けなければ功績は認められず、下手な言い出しっぺ役を演ずるとたちまち異端者の汚名を着せられる。敗者復活の機会は少なく長年冷飯を食わされる。
このように日本的経営のもとでは、全員が気を合せ一致団結して邁進し、組織のため成員のためを第一とし、不利益と思われるものは避けて通るので、どうしても新しい時代への対応が遅れる。これまでうまくいったことが何時までも踏襲され、新しいことへの挑戦が遅れがちになる。経営者の多くは自分の方針を継承してくれそうな気に入った人を後任に選ぶので、多くの場合、前任者の路線が踏襲される。思切った改革をやろうとする人は少ないがあえてそれをやろうとする人がいても、回りから足を引張られる。下手をすると浮上り、排斥されかねない。そこで致命的な壁にぶつかるまで手をこまねいて見ていることになる。
戦前の日本が、富国強兵路線で大成功を収めながら、何時までもその路線に固執し過ぎ、国際関係が複雑化していくとうまく対応できなくなり、次第に国際的に孤立化し、自らコントロ―ルする機能を失う形で太平洋戦争へ突入していった歴史過程は今もけんけん服用すべき多くの教訓を含んでいる。
日本的経営は人間尊重の経営と主張する人が多い。不況になっても簡単に首を切らないことをもってそういうのである。確かにこれは長所であるが、長所は常に短所を伴う。先に見たように、成員を容易に首にしないことが、市場の需要を上回る生産を生出し、これが過当競争や集中豪雨的な輸出と結付く。その被害を受ける他の企業や他の国の人々にとっては人間尊重どころか、人間無視の経営法であるともいえる。外国の教科書においては、「日本の商売は、ヨ―ロッパ人には冷酷にみえる」(フランス)とか、「西ドイツがECの中に確固たる販売市場を持っているのに対して、日本はあくまで孤立して」おり、「日本が国際市場を捜し求めてくる際、しばしば邪魔もの扱いされている」(西ドイツ)とかいった記述が散見する(4)。
しかも激烈な競争のために、人間的な生活にとって必要な自由時間を残業や接待のために犠牲にせざるをえない。これは本人にとっても人間尊重に当たらないばかりか、家族にとっては正しく人間性の無視である。一家団欒で夕食をとる風景を過去の遺物とし、父親なき「母子家庭」化を進める経営法が人間尊重を標榜するのはいささか滑稽に見える。
しかも、この日本的経営のもとに減量経営や余剰人員の首きり、関連企業への片道切符の出向、窓際族化等が行なわれていることを忘れてはならない。人間尊重で首を切らないというのはあくまで建前、景気のいいときの話で、一旦不況や、構造的衰退に追いこまれると日本的経営のもとでは上述のようななりふりかまわぬ対応策がとられる。これはなによりも企業(=組織)そのものの存続、あるいはその中枢部を占める幹部のイスの温存こそがウズ社会の至上命令であるからで、不況の時は、それが露骨に外へ現れるのである。
現在、いわゆる円高不況から脱して製造業部門でも多くの業種で好況を謳歌しているが、人手不足が発生し、臨時雇用で補っている。これも円高不況に際して大幅な人員整理が行なわれたことを示すものだ。しかも人員整理の対象とされる人の多くがまず会社の気に入らないものやコストの高い中高年齢者であり、労働者の正当な権利やル―ルは無視される。
確かにアメリカにはレイオフ制度があるが、実施に際しては厳しいル―ルがあり、会社側が勝手に気に入らない人から首を切る訳にはいかない。長年会社に勤め功績のある人には残る権利(シニョリティ・システム=先任権制度)がある (Last hired,First fired) )。日本の場合、高給をはむようになった中高年者が狙われるのとは対照的である。
また、日本的経営は、一度採用したものを終身雇用し続けるというシステムであるため、逆に採用については非常に厳格で長期的な計画のもとに必要最小限度しか採用しない。需要が増大しても現在員の残業で間に合わせる。正規の職員としては雇用せず、アルバイトや臨時工で補う。しかも本雇いと臨時雇いとの間には明らかな待遇面・労働条件面での差を設ける。これは伝統的な序列意識の反映であるが、これが親企業―下請企業構造を不断に生出す文化的基盤でもある。
単身赴任という極めて非人間的な措置も日本的経営のもととられるし、海外への単身の長期出張の中には、単身赴任と実質的にはなんらかわらないものもあり、家族は会社の横暴にもじっとたえるよりない。文句をいえば気に入らないとして本人が干されたり、浮き上らせられ、一旦不況になれば指名解雇の要員にされかねないのである。いわゆる年功序列制の「功」の評価は、能力主義よりはるかに権威主義的な色彩が濃い。
成員の首を切らないという一見人間的なシステムの背景にいわば影の部分として以上のようなものがある。その意味で需要がなくなればドライにレイオフし、回復すれば雇用するという外国のシステムは一見非人間的なシステムに見えるが、それなりの人間尊重の思想があるのであって、日本的経営のごく一部のみを強調して人間尊重の経営法と自画自賛するのは木を見て森を見ずの類いであろう。
日本的経営にはできるだけ低コストで、場合によってはコストを支払わずに、なりふり構わず労働者を使おうという意識が徹底している。これは長い労働時間、有給休暇・週休二日制の不徹底、残業・接待の多さ、不況時におけるコストのかかる中高年層の切捨て、労働組合活動への否定的態度、時間外活動の奨励(TQC活動)、提案制度、低い初任給、単身赴任などに見られる。こうした徹底したコスト意識は節税を越えた脱税紛いの行為を多くの企業がとりがちなところともつながっている。
この意味で日本的経営はコスト意識に徹底した側面を持つといえる。これが日本経済の経済性の一つの源泉である。国際競争力が依然として高いのもこうした徹底したコスト意識を日本的経営が持っているからだ。これが多くの識者が指摘する、日本的経営が特殊な経営法でなく、万国に共通する経済性に即した経営法(つまり普遍性のある経営法)という側面に他ならない。こうした経済性がなければ日本企業がすぐれた競争力を持つことはおよそ不可能だ。成員を四六時中会社に縛り付けようとすれば欧米のような個人主義の強い社会では莫大なコストがかかりおよそ不可能だが、気の支配する日本社会ではそれが可能なのだ。気を合わせる名目のもとに社員は有給休暇も返上して働かざるをえないし(有給休暇をとることは今もって後めたいことであり、回りの人達との間に気まずさをもようさせるので、多くの人は気兼ねして半分以下しか取らない)、残業を断わる訳にもいかないし、手当を貰える分以上に残業をせざるをえない。
個人主義の強い社会では夫(なり妻)が、会社の要請にだけ忠実で夜の夜中まで連日残業して帰宅することを家族はそれほどすんなりとは受入れないであろう。男と女との間に簡単に給与格差・昇格格差をつけることを容認しないであろう。会社側の一方的な都合による人事異動(仕事に自分を合せる)や単身赴任、単身のままでの長期の出張など、人権に対する配慮のかけた労務管理としてただちに攻撃の対象になるであろう。
また現在近隣の諸国からの労働力の流入が激しくなっているが、違法な入国ということを盾にこうした外国人労働者が充分保護されていない。同じ日本人であってもパ―ト労働者などへの人権の配慮がかけがちな企業は、極めて劣悪な条件で雇用している。フィリピンである日本商社の支店長が誘拐されたときに明らかになったように、海外駐在員の安全確保対策の不完全さにも日本のコストと意識が反映している。人権に対して配慮しないことによってコスト軽減を図っている側面が日本的経営には付纏っている。
協力金という名目での親企業の下請企業への皺寄せによるコストの軽減も日本的経営の一つの特徴であり、日本企業にとって強みとなっているが、これも各企業の独立性が高く、個人主義的に振舞う社会ではなかなか機能しにくい。親企業から協力を求められれば、下請企業の方では親企業を上回る長時間労働などの労働強化でそれに対処する。その分労働条件は劣悪化する。その結果が企業規模が小さいほど労働時間が長いという労働条件面での序列化や円高不況といわれた八七年の実労働時間が前年を上回った事実に反映している。しかも、イギリスの社会科学者ド―アが指摘するように「二二〇〇時間という、OECD統計に現れるブル―カラ―の労働時間より、むしろ、他社より一日でも早く新製品のデザインを完成しようと研究開発部の若手技術者とか、新しい生産ラインの計画実施にたずさわっている生産管理者などが、毎晩十一時まで残って働く用意があることの方がより重要な競争力の秘訣であろう」(5)。
QCサークルは自主的といっても参加しないと村八分にされる。提案制度も義務的にアイデアを出すことが求められており、まともな提案をしようとすれば、労働時間外でも時間をかけてあれこれと考えなければならない。提案制度には賞金や賞品が出されることになっているが、正当な対価を支払おうとすればそうした賞金や賞品では間に合うまい。
職員の人事異動の度に繰返される歓送迎会も時間外に行なわれるが、自分の都合で出ないというわけにはいかない。これも職場の人間関係をスム―ズにするために行なわれるものであるが時間外手当が支払われるわけではない。支払いを請求しようものならその非常識がむしろ指弾される。新入の女子職員が新人歓迎会の翌朝その分の残業手当の請求をするマンガには「新人類」とのコメントが付けられていた。夜の接待も接待ゴルフも名を変えた超過勤務だが、残業手当が支払われることはない。午前様覚悟で、あるいは休日返上でお客様の相手をしなければならないが、交際費が使えるということで場合によっては逆に恩着せがましい扱いさえされる。それに不満をいうと「お前はそういう人間だったのか、良くわかった」。これまた村八分である。
社員は自社の製品を優先使用し、自発的に優秀なPRマンを買って出る。社員のみならずその家族も社員並みの貢献をする。しかし、自動車会社やビ―ル会社の社員(や家族)が他社の車を買ったり、ビ―ルを飲もうものなら、気を合せようとしない、気に食わない社員として排除されることは目に見えている。給与体系の中には家族手当が必ず取込まれているが、これは単なるアメとしてだけでなくいざというとき会社の都合を家族に押付けるためのムチとも化す。会社には家族ぐるみでお仕えしなければならないのだ。社員もその家族も常に会社に気兼ねして生きなければならない。
こうして通常の社会でなら当然莫大なコストのかかる多くのことがただ同然で手に入る。その結果、日本企業の国際競争力が強まることになる。
ただ労働生産性はそれほど高くない。経営者は相変らず、効率の良さより長時間労働によってコストを引下げることにより多くの力を注いでおり、このため労働時間の短縮化は進まず、他の先進工業諸国に比べて年間労働時間は驚くほど長い(第6章)。国際公約ともいうべき前川レポ―トのうち、この分野が最も遅れており、現実には先にも述べたように労働時間はむしろ長くなっている。経営者側には短時間で効率的に仕事をやり、労働者の健康の維持に留意しようという発想は乏しい。労働時間短縮への経営者の反発は強く労働基準法が四〇年振りに改正され週四八時間労働から四〇時間に改められたが、結局九二年までは四六時間とする経過措置を設ける妥協案に落着いた。これだけ長時間働いても日本の労働生産性はアメリカに比べ低いという実態はものの見事に忘れさられている。ちなみに諸外国ではすでに西ドイツように週四〇時間を切った国もある。精神衛生面への配慮も乏しく、長時間労働や気を使いすぎて神経の異常を来たす人は多いが、異常を来たそうものなら、これもまた気の合わないものとして排除される。
日本の対外直接投資が最近の円高により益々拍車が掛かっている。八七年の投資額は三三三億ドルに達し前年比約五割増と大幅に伸びた。一九八八年末の日本から海外への直接投資残高は一一〇八億ドルに達し、西独を抜いて世界第三位となった。なお、一位はアメリカ(三二六九億ドル)二位はイギリス(一八三七億ドル)である。既に多くの日本企業が海外で活動を行っているが、これは一面で日本的経営の国際化を進める要因として働く。現地企業が日本的経営を実施するにしても、日本人を対象として慣習法的に生みだされた日本的経営はそのまま外国人に適用できない。なんらかの修正を施して適用せざるをえない。その経験がまた国内の日本的経営にも当然反映する。こうして日本的経営の国際化が進むわけである。
日本的経営による経営は成功したケ―スもあるが不成功に終わったケ―スも数多い。成功したとされる場合も、なんらかの形での修正が行なわれており、日本国内の企業におけるのと全く同じ形での適用が成功したわけではない。たとえば賃金制度や昇進制度は、多くの場合それぞれの国で慣行として定着しているものを採用しており、年功序列制をそのまま持ちこんでいるわけではない。また終身雇用制にしても、日本においてすら明確な契約に基づく保証ではないのであるから、外国でも定着率を高める努力をたとえば「レイオフしない」と日本人経営者が口頭で明言するような形で行っているが、これは日本国内における終身雇用制とは異質なもので、辞めたいという人まで引止めうるものではない。
日本人が一旦入社すると全人格的にその中に埋没し他の成員と気を合せようとするのに対して個人主義的意識の強い欧米では日本的意味で気を合せようという意識はない。従って、責任と権限を日本企業のように不明確なままでは企業は動かない。その意味でマニュアルを作成し、労働者の一人一人に示す必要がある。下からの禀議制にしても成員の同質性が高く気を合せようとする文化的土壌があって初めて機能する制度であるから、そういう伝統のない社会にそれを持ちこんでも機能しない。トップダウンでいくよりない。もちろん日本的経営の持つ成員の参加意識、共同体の成員意識を高めることによって一体化し、そのエネルギ―で生産性を高めようという経営法は有用であるので様々な方法でそのための努力が行なわれているが、それだけでは必ずしも日本的経営というわけにはいかない。
海外に進出した企業においては、日本的経営が日本文化の申し子であるとの認識を欠いて様々な問題に逢着しているケ―スが少なくない。例えば、東南アジアに進出した企業が、現地で採用した職員のうち優秀なものを選抜して日本に研修に出した。ゆくゆくは幹部職員にとりたてるつもりでいたところ帰国後全員もっと高い給料を出す他の企業に移ってしまった。これを忘恩行為とか、利に聡いといって日本人は非難する。しかし、これは、その人の現在持っている能力に相応しい賃金を支払うのを原則とする能力給の国で、日本の年功序列制の賃金制度を通用させようとして失敗しただけの事であって、辞めた当人たちにとってみれば当然のことをしているに過ぎず、なんら道義的非難を受ける覚えはないであろう。むしろ日本での研修を受けて能力があがったにもかかわらずそれをきちんと評価して給与を引上げなかった企業側こそ非があると考えるのである。
日本企業の海外進出では当初現地雇用の増加や労働効率の向上に目を奪われて日本的経営を賞賛していても時間がたつに従って基本的な価値観の差が次第に表面に滲み出てき、それがやがて超えがたいほどの溝にまで広がっていく恐れがある。日本的経営の中にどっぷり漬かっていると、極めて日本的発想であっても国際的に通用する普遍性を持ったもののごとく考えやすい。その意味で海外で日本的経営の運営に当たる人には、日本的経営の中の世界に通用する側面を積極的に生かしていく努力と相手国の価値観・文化的風土に対する開かれた視野や行きとどいた配慮が不可欠である。 例えば現地の人とのライフスタイルに余り大きな開きがあればこれが早晩軋轢を生出そす土壌になりかねない。日本的経営の理想とするライフスタイルは、これまでも見てきたように外国人の理想とするライフスタイルと多くの点で異なっている。日本的経営の理想が男中心、男女差別、仕事優先・休み返上、会社中心自己犠牲、自社利益第一、地域社会への無関心、遊びは従、お金優先、もうけ第一であるのに対し、欧米人の理想は、男女平等、夫婦・家族中心、休み重視、自己主体、仕事とレジャ―は同等、職場・家族の同等、地域社会への貢献重視、文化・遊びの重視、生活を楽しむために金を稼ぐところにある。一つ一つ違う。日本人管理者は自分と全く異なるライフスタイル・価値観を持つ職員・従業員を管理しなければならないが、これはことのほか難しい。逆に従業員にしても自分を全くライフスタイルや価値観を異にする管理者のもとで働くことは難しい。休み返上で会社のために働くことをよしとしてきた日本人管理者は、一週間も十日も続けて休みをとる従業員を低く評価する。家族の誕生日といって、定時に退社する従業員はけしからんと思いがちだ。これとは逆に日本から単身赴任していれば、夫婦単位で行動する社会ではそれだけでマイナスの評価を受ける。そういう管理者は部下を百パ―セント感服させることができない。自社利益第一で地元社会への貢献や文化を重視しない経営者は、地域社会から浮上ってしまう。 その家族も日本人社会だけでかたまり、地域社会に積極的に溶け込もうとしない。子供は、日本人学校に通わせ、本国の受験向けの勉強に精を出させ、現地の子供と突き合わせない。要するに日本人だけのウズ社会を作りそこに閉じ籠る。
このように日本的経営が暗黙のうちに前提としている価値観・文化的土壌と相手国のそれとの相剋が今後は益々激しさを増してこよう。日本企業が世界中に溢れるようになれば、単に雇用を創出し、経営効率さえ上げればいいという問題では済まなくなってくる。
このように様々な面で国際化の必要性が高まっており、日本の国際化の必要性が各方面で叫ばれている。ただ国際化のとらえかたは人によってまちまちであり、中には日本の国際化を危惧する人も少なくない。日本が国としてのアイデンティティを失う恐れがあるというのだ。しかし、国際化というのは、国際社会において国として標準化することにすぎない。国民の一人一人が社会人として生きていくためには社会人に求められる標準的なル―ルを遵守していくことが必要なのと同じ事で、日本も国際社会における共通のル―ルに精通しそれを遵守して生きていけるようになればそれでいいのである。それが国際化なのだ。もしそれが嫌なら江戸時代のように鎖国を決込み、国際社会から隠居してしまえばいいのだが、これまで国際社会が提供する国際的な公共財をたっぷり享受させてもらい、世界第二の経済大国に急成長した我が国が今更引退するわけにはいかない。引退すれば、江戸時代と同じ程度かそれ以下の生活水準に落込み、今の人口も半分以下に減らさざるをえない。いや、これほど科学技術や交通手段の発達した中で引退を決込んでも、強国の干渉を受けて属国化されるのが落ちというものだろう。とするなら、自ら国際化するよりない。国際社会の標準に適うように共通のル―ルを遵守して生きていくよりない。
共通のル―ルの多くは、国際社会の経験の長い欧米諸国の文化に根差しており、日本人には馴染み難い面があるのは確かだ。といって日本にはそれに代るル―ルの提供者の役割を果す能力も果そうという気もなく、今のところ、共通のル―ルを無視したり、違反したり、反発したりしている。しかし、日本が戦後ここまで成長できたのも外国にも門戸を広く開けるル―ルを欧米諸国が持っており、それを国際社会に適用したからにほからない。日本は欧米型のル―ルの最大の受益国だ。一民族一言語国家に近く、同質性の高い日本社会のル―ルをそのまま多民族多言語の国際社会に持ちこめば最初に困るのが日本だという皮肉な見方もある。もし今日本型のル―ルが適用されていれば、主要な米国市場の一部は日本製品に扉を閉ざしており、日本企業は米国の企業を買収することもできないだろう。 国際社会では金持ちは金持ちとして振舞わなければならない。近所付きあいも欠かすわけにはいかない。たとえばパ―ティに招待されたら、招待して返さなければならない。ところが日本はパ―ティに招かれても、自分からは誰も招かない。ホスト役を回避する。アメリカは長い間最大の金持ちということで、度々盛大なパ―ティを開き、気前良く日本も招待してくれた。ところが日本は招かれるばかりで、昔に比べると格段に金持ちの国になったにもかかわらず誰も招こうとしない。自分でパ―ティを取り仕切り、アメリカがホスト役を演じられなくなっている分を肩代りしてする気構えを持っていない。招待してくれといわれて渋々招待する。国際社会を運営する上での構想を自ら出そうとしない。
日本人の一人一人はウズ社会の住人だ。ウズ社会の住人にとってはおよそ自分の属するウズ社会が全社会・小王国であってそのウズ社会にのみつくしさえすればいい。従ってウズ社会の総体としての社会への、いわば公共のものへの寄与、貢献するという心構え気構えは持っていない。持てない。この生き方が、日本人の公徳心の欠如と繋がっている。これと全く同じ心理的傾向が、自己の属さない国際社会への貢献を二の次にする心理と分ちがたく結び付いている。
前述のように、ウズ社会間の付合いもうまくできず、問題がこじれるとすぐ政府に指導を委ねる。日本の中にあってもこうした交際は不得手としている。いみじくもウズ社会と名付けたように渦には適切な境際がなく、「交」際しようがないのだ。従って、国際社会との交際となるとその不得手さが倍増する。国際社会には介入して行政指導する機関が存在しない。そのため益々野放図になる。その一つの現れが集中豪雨的な輸出であり、ダンピング的行為である。それに堪り兼ねてアメリカ政府やGATTが日本に政策の変更を要求するが、それに対応する政府も各省の間の交際がきわめてへたときていて、まるで主権国家とも思われないバラバラの対応をする。
日本人の信ずる勤勉の哲学の中には、自分の信ずるところに従ってただひたすら最善を尽くせばきっと旨くいく。旨くいかないとすればそれは世の中が悪い。という思い込みをしやすい側面がある。現在の貿易摩擦を見ても品質のいい品物を生産し世界のために供給しているのだ。相手国の消費者には喜んで貰っている。たとえどれほど黒字を稼ぎ出そうとどこが悪い。努力しない方が悪いのだという思い込みがある。これは、世界(=世間)はもちつもたれつという事に対する、ウズ社会の住人らしい無知がいわしめる言葉だ。これが、もちつもたれつを前提とする国際的なル―ルの無視につながる。英国病というが自分たちも結構重症の日本病に掛かっていることに気が付かない。世界の人から職を奪い購買力を奪ってしまえば回り回って自分の首を締めることになるという単純な論理が分かっていない。太平洋戦争における緒戦の真珠湾攻撃の勝利が完膚なき勝利であり、しかも騙しうち(ル―ル違反)であったため全く「講和」の道を閉ざした。つまり、いかなる方策で戦争を終結させるかについては全く無知であった。今日の貿易戦争を巡る国際交渉においても各省がそれぞれに完膚なき勝利を目指して自らのル―ル違反も顧ず頑張るが、それではむしろ各国の総反撃を食って講和への道を失い日本が孤立無援となる恐れなしとしない。各戦闘における技術的な勝利よりも日本として長期的にどう結末をつけるかについて本当に真剣に考える必要がある。外国の日本バッシングには、非常に敏感に反応し、正論さえバッシングとして異常に反発しながら、自らが安易に英国病と言い、米国の製品は品質が悪い、労働者は怠慢で、市場開発の努力が足りないというなど、相手国を不用意にバッシングしている事実には気付かない。
同質の平均人社会では無知が同質化の基準になりやすい。知りすぎることは異質性を帯びる。太平洋開戦時の米国や欧州諸国の国力や、潜水艦の有用性などに対する軍部の無知はいわばその典型例であるが(6)現在の貿易戦争にも日本人の米国、欧州諸国に対する一種の驕りにもその種の無知からくる驕りが付纏っており、その当時とあい通ずる危険な匂いがたちこめている。無知が公認され、無知が最大公約数になって相手を侮る。「学者」を排除し、軽視し、組織の中の知的教養の豊かな人を「学者」という一種の蔑称でよぶ。「腰抜け」「弱腰」と侮る。「口の達者なものと、押しの強いものが主流を占め」、「単純な命知らず」(7)が偉くなる。
幸いにして現在我が国の経済構造は内需依存型へ転換しつつある。これは国際的経済構造調整にとって極めて望ましい。今後この方向への歩みを一段と確かなものにしつつ、日本企業の一層の国際化が図られる必要がある。それなくして今後の日本経済の発展はないが、日本的経営の中に国際的に通用する普遍性が取込まれない限り、国際的調整が旨く進んだとはいえない。日本的経営の理想とする価値観・ライフスタイルが余りに諸外国と掛離れていればそれは常に国際的軋轢を生みだす要因になりかねず、今後国際社会の中で融和的に生きていくことを難しくする。その意味で、日本的経営の中に国際的に通用する価値観やル―ルを取込む努力と自らの意志を相手に明確に伝える努力とが今後必須である。
例えば、日本的経営の下では国内はもとより海外進出企業においても、外国人や現地人が偉くなることが難しい。気の合いやすい日本人だけで企業の中枢部を独占しやすい。今後は他国の人材が偉くなれるシステムへの変革が必要となる。また自社の利益第一主義が色々な側面で、反発を招いている。利益を独占して相手国の市場を攪乱したり、その場凌ぎの口約束をしては、不履行を繰返してきた。自社を庇う余り、内向けと外向けの言葉を使い分け、曲言もする。これで多くの友人を失い、信用も失った。また現在近隣諸国からの労働力の流入が激しくなっているが、これは企業の利益に結付く側面があるにもかかわらず、必ずしも労働者の保護の面には目を向けず、単なるモノの輸入のように扱っている。一人の人格を持った労働者に対する労働市場の自由化に真剣に取組む必要がある。
日本的経営がいかなるものであるかについても海外へ進出した企業が懇切丁寧に説明していくよりない。そのためには、日本的経営がいかなるものであるか自らきちんととらえる努力が不可欠である。例えば、人事制度や意思決定過程などで、日本的経営には特有の「あいまいさ」が付き纏っているが、これが外国人に嫌われ、今後、日本企業による海外進出のアキレス腱になる可能性がある。しかし、この日本的経営が前提とするウズ社会の中では、コミュニケ―ションの方法がむしろ腹芸・あうんの呼吸に頼っており、むしろそうしたコミニュケ―ションの方法に日本的経営が依存している。自分の意見をはっきり言うことは異質性を帯びやすいためむしろ曖昧な表現をとる。「アレはどうなっている」「ソレでいこう」といった曖昧なコミュニケ―ションがウズ社会では一般的である。今後はより論理的技術的な言葉の訓練を行い、正確な言葉によって意志を伝達することが重要であることは言うまでもないが、上述のようにこれはウズ社会の存立基盤を覆すインパクトを持ちかねない。つまり、ウズ社会そのものの構造―同質化による異質性の排除―を変革するに等しいからだ。しかし、この面を変えていかない限りコミュニケ―ションの能力そのものは向上しない。「ウチ」向けには曖昧にしか喋れずに「ソト」向けに明瞭に話せる筈はない。言語明瞭意味不明では、国際社会では通用しない。
注
(1)フレッド・バ―グステン米国国際経済研究所長(『朝日新聞』一九八八年四月一三日)
(2)秋川陽二『幸福先進国フランス』講談社 一九八一年 一二一頁
(4)辻村明他編『世界は日本をどう見ているか』日本評論社 一九八七年 一九三頁
(5)ドーア『イギリスの工場・日本の工場』筑摩書房 一九八七年