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組織の成員が気を合せることを前提としたウズ社会における日本的経営は、気を合せやすい均質の新卒を採用すること(いや、むしろ「均質の新卒しか採用しないこと」というべきか)を通じて、日本の教育制度に大きな影響を与えている。本章では、日本的経営が、我が国の教育制度とどのように関わり、それを規制しているかについて考えてみよう。
受験戦争は相変らず、熾烈を極めているが、その背後には学歴尊重の日本的経営がある。幼稚園から大学まで、苛酷とも思われる受験戦争を勝ち上がりいい大学に合格しない限り日本ではいい企業に就職できない。しかも、いい企業に入った後の出世にまでいい大学の卒業生であることや学生時代の優の数がついてまわる。つまり、現在でも、序列の高い大学の卒業生といういい学歴を持つものがいい企業に入りやすく、出世もしやすい。その意味で、受験戦争は、学歴社会を映す鏡である。
企業側としては自社の発展のためにできるだけいい学生を採用しなければならない。いい学生とは、いい大学の卒業生である。いい成績であればさらに申し分ない。人気の高い会社ほどいい大学のいい成績の学生を優先的に採用することができる。逆にいい企業のメルクマ―ルはいい大学の成績優良者をどれほど多く採用できるかにも掛かっている。いい学生の採用数は企業側の序列づけに一役買うとともに、逆に大学の方でも卒業生がいい企業にどれだけ多く採用されるかによって自らの序列が決められる。これが大学の序列化である。序列は、受験生の偏差値だけで決るものではない。そこで決った企業や大学の序列がまたいい学生を引寄せる吸引力として働く。両者の間には持ちつもたれつの関係が成立している。 日本の企業は新入社員に際だった個性や専門的知識を求めるわけではない。そうしたものは気を合せることを第一とする企業にとっては逆に邪魔になりかねない。むしろ受験戦争を勝抜いて来た素質を高く評価し、合格の難しい大学の学生を優先的に採用するのである。その意味で合格が難しい大学の卒業生ほどいい学生なのだ。小学校入学以来詰込まれた断片的な知識を試す記憶中心のペ―パ―テストではあっても、数知れぬほどの試験を突破して難しい大学に合格し、そこでも数多くの優を取り、最後に(形式的なものであっても)入社試験をかいくぐって入社してきた新人は、自ずとそれなりの素質を持つことを示して余り有る。与えられた課題に対し定められた時間内に的確にこなし回答を出す能力である。しかも、記憶力が良く、突出してできるものがなくても、まんべんなくできる。先生の説を子細残さず記憶し、忠実にそのままおしいただき、先生の気に入る答案が書け、多くの優を取れる人物は、その過程で確かに個性は喪失するが、入社してもたちまち回りの空気・社風に合せることができ、会社にとってもいい社員にすぐなれる人物である。受験戦士は容易に企業戦士に染替えられるのだ。これは「ウズ社会」の成員に相応しく、大量生産方式にはまさにうってつけの素質であり、「追付け、追越せ」をスロ―ガンとする時代の我が国の経済成長を支えてきたのである。 入社時に要求される知識にしてもそれほど高い専門性は期待されない。即戦力になることは最初から期待されていない。会社に入ってから徹底した再教育を施せばいいというのが大方の企業の考え方である。なまじっかの専門的知識は、これからその会社タイプの社員への純粋培養を始めようとする企業にとってはむしろ障害になりかねないのだ。
毎年大学新卒者に人気のある企業のリストが発表される。上位を独占するのは決って全国的に名の通った大企業である。中小企業が名を連ねることはほとんどない。結果的に中小企業に就職するにせよ、新卒者の大半は大企業志向なのである。その意味で大企業に入れないことが社会的おちこぼれにつながりやすい。
そのためあらゆる大学教育システムが、大企業の優越的地位を支えるためにできあがっている。卒業生が大企業に就職したことを喜ばない大学はない。このため、大企業が喜びそうな人材を供給することに必死になっている。
先に見たように、あらゆる企業がウズ社会であるので、組織が大きくなればなるほどより多くの便益・恩典を内部に抱込み、従業員に提供するようになる。業界内での序列も高まり社格も上がる。不況にも強く安定性を増す。社格の高い大企業の社員ほど社会的ステ―タスも高くなる。それだけ人気が高くなっても当然というものである。しかも先にも述べたように新卒者にとっても日本では就職というより、就社に近く、一つのウズ社会の中でしか生きて行けないのであるから、会社を選ぶチャンスは一生に一度しかないようなものだ。ある会社(=ウズ社会)に入ってしまえばよほどの事情がないかぎり、定年までその中で生活する。とするなら、学生が物心両面のあらゆる必要物をすべて提供してくれる大企業に靡くのは当然であろう。できるだけ大きなウズ社会でできるだけ多様な物を提供してくれるウズ社会に最初から入らなければそれこそ一生の不作ということになる。そこで皆必死になって受験戦争に勝ち抜き、大企業への就職を究極の目標に頑張るのである。「寄らば大樹の陰」なのだ。大企業に就職するにはまずいい大学に入らなければならない。大企業によっては指定校制をとっており、まずその指定校に入らないことには、お目当ての大企業に就職するチャンスはない。
一度しか選ぶチャンスがないという意味では企業側も同じである。自由な労働市場は、新卒者に限られており、その採用期間はごく短い。そのため企業側にしても冒険はできない。「安全第一」、安定志向の採用をせざるを得ない。買手市場のときならともかく売手市場のときにはじっくりと学生の質をテストする余裕はない。よしんば買手市場であっても、いい学生を採用したければ無難な定評のあるいわゆるいい大学の学生を青田買いといわれようと早めに採用する手を打たなければならない。就職協定を守っていては手遅れになる。そのため公然とした採用試験もやらず(やれず)、水面下でこそこそと採用を内定する。また、特定の大学(の教授)と企業との間に採用のル―トがついていることも希ではない。こうして、解禁日にはあらかた勝負がついている。このように新卒者の採用の市場は意外と狭く流動性に欠けたものとなっている。学生の方でも企業の方でも葦の管から見える世界の情報に基づいて行動しているようなものなのである。 こうして受験戦争は益々激しくなるのである。
受験戦争が益々激化する事態の改善のためこのところ毎年のように国立大学の受験制度の改革が行なわれている。これは、目的としては受験生の負担を減らし、できるだけ自分の行きたい大学に行けるようにし、大学の方でも自大の求める人材を確保できるようにしようというものであるが、所期の目的の達成にほど遠く、かえって受験生を混乱させ、より大きな負担を強いることになっている。受験システムだけをいくらいじくってみても日本的経営を信奉する企業側が、現在の東大をピラミッドの頂点とするいい大学の序列に従っていい学生を選定し、青田買いまでしでかしてその採用に狂奔するシステムが存在する限り、受験戦争や大学制度の改革はうまく行かない。もちろん大企業への就職を選好する受験生側の意識も変えなければならないが、それに先立ち企業側の意識の変革が必要なのだ。
さらに基本的には、大企業の優越的な地位を支えている現在の社会構造を変えない限り受験戦争の根本的な解決はありえない。大企業に就職することが当選保障付の宝籤の購入に等しい以上それを買おうとするのはむしろ当然だ。猫の目入試制度の改革の陰で、ほくそえんでいるのは受験産業ぐらいなものであろう。ただ、大企業への就職がいい仕事ができる、満足の行く生涯が送れる保証まで与えてくれるものではないことは当然であって、ここに受験生や卒業生の価値観・幸福観・人生観の入りこむすきがある。
このように現在では大学は学問の場ではなく、むしろ、就職の為のファッション(=肩書)を提供するカルチャ―センタ―に変質している。だから、どうしても人気校は、東京、大阪などの大都市に集中しがちである。単科大学も人気がなく、総合大学に生徒が集まりがちになる。地方の国立より、中央の私立が選好される。大企業の本社のない地方ではなにかと不利なため、中央志向となる。本社採用者と、支社、支店採用者との間には抜きがたい差別がある。本社採用にならなければ一生うだつが上がらない。ウズ社会は渦の構造そのもののようにすべての権限が中央・中心部(いわゆる中枢部)に集まる。これもウズ社会というネ―ミングをした由来であるが、会社にしても本店が日本の中心である東京へ集中し、しかも権限の多くがその本店に集中し、地方支店では重要なことはほとんどなにも決定できない傾向が強まっている。一極集中はウズ社会の属性なのだ。 ちなみに自県内進学率(大学)は一九七五年の三六・一%から一九八三年には三九・二%と高くなったが、その後次第に低下し、一九八八年には三七%となっている。地方で、大学を誘致することで地方の活性化をねらうもくろみがあっても、入学生が定員を満たさない大学や定員の半分前後しか集まらないところさえある。一九八八年度の一八歳人口は一八八万人で一九九二年度には二〇五万人になるが、その後は次第に減り続け二〇〇〇年度には一五一万人になる。人気のない大学の見通しは暗い。例えば、一九八八年春の大学・短大進学志願者が一〇五万人に達したのにたいし入学者は六八万人であり、入学率は六四・九%と極めて低い。これは一九七〇年以来の最低である。このところ毎年大学の定員は増えているが目指す大学に合格しなければ浪人する風潮が改まらなければ入学率は上がらない。浪人を生出す背景に就職の際の有利性が大学によって大いに異なることがあるのは常識である。
受験制度の改革も大学側の都合によるところが多く、必ずしも受験生の立場には立っていない。大学側も受験生の便益を図るにしてもそれによって自大の序列が下がるようなあるいは余りに明るみになるようなことになる改革には本能的に反対する。いい企業に就職可能ないい学生に入学して貰わなければ困る。だれも大企業に就職できない大学の人気はおちる一方になるだろう。入試改革は、まず内容を多様化し、各大学ともどうぞご自由にと門戸を広く開くものでなければならないが、どうしてもこうした大学のエゴが先に出る。序列や権威ばかりを国公立大学は気にする。大学側には人間教育はどうあるべきかとの問題意識は薄い。企業側でも同様で人間性豊かな個性的人物より、会社の意のままになる優等生を依然として求めている。
入試に際して、相変らず、各大学とも五科目ないし三科目の極めて没個性的なペ―パ―テストで学生を選別し、いかなる個性的な人材が欲しいのかはっきりできず、個性的な選考方式を打出せないのも、結局はそれが卒業生の就職活動に有利に働くとの見極めができないからだ。現状では、どの大学も心の底では卒業生をいい企業にすこしでも多く就職させたいのだから、大企業が求める人材が特定できなければ大学が独自にその姿を描くわけには行かないのだ。大企業の方でも口では「個性的な人材を」といいながら、相変らず、東大を頂点とする有名校志向を変えない採用方針をとっている。それが続く限り、大学の方でも変えようがないのである。個性的な人材といいながら、有名校の均質化した卒業生の中で比較的個性的であるにすぎない。気を合せることを前提とするウズ社会であり、日本的経営を信奉する企業にとっては、気を合せようとしないほど個性の強い学生であっては困るのである。受験生の方でも受験する大学ができるだけ序列が上であって就職に有利であれば、むしろ特色のない何にでも通用する大学こそ望ましいのだ。すでに幼稚園から始まっている均質化の教育で受験生はかなり均質化しており、大学受験で急に個性を求められても戸惑う面がないでもないのである(1)。
五科目による共通一次試験が大学の序列化を進めたといわれるが、それは当然のことで同じ科目で試験をすれば同じ尺度で計るのに等しいのであるから、一目瞭然大学のいわゆる序列化は進むとしたものである。
五科目とは、英語、数学、国語、理科、社会であるが、現在ではこれだけで、学生の質を判定できるほど学生の能力も限定的でないし、我が国経済社会が必要とする能力も狭くない。つまりそれほど国民の価値観は狭くないのだ。大学がひたすらこの五科目だけできる、しかもすべてが平均してできるものだけを選考しようとするのは、結果的には正しく同質的な青年だけを集めることになる。ソウルで行なわれたオリンピックの競技種目にしても数百種目におよび、237個の金メダルを巡って激しい争奪戦が展開されたが、各種目にその種目の申し子のような選手がいた。オット―、ルイス、ジョイナ―、ブブカ、モタ、ルガニス、シュシュノワ、斎藤…金メダルを獲得した彼等にしても、種目を取替えられればたちまち無名の選手の一群に紛込む。その様な多様な才能をたった五つだけの種目によるテストで測定するのはおよそ不可能である。
とにかく、日本人であり、五体満足で五科目ができることが必須条件で、この条件が一つでも欠けると、受験競争からおちこぼれる。その背後に日本的経営を信奉する経済界が控えている。
大学の方でも多様な青年を集める、内在的な必然性を感じていない。企業への売れ行きのいい均質の学生をより多く育て上げ、それをできるだけいい企業に送りこめれば、大学の序列も上がり、名声も高まる。私立なら経営も順調、国公立なら予算の獲得も太鼓判。多様な青年をへたに受入れて、大企業への就職者数が減少し、社会的評価=序列を落すことはないのである。手を焼くようなことになるより、無難なおとなしい鋳型にはめられた生徒の方が御しやすい。受験戦争で序列化されて質の悪い生徒が入って来ることは忌避すべきだが、均質的な出来のいい生徒が沢山入って来ることは別に忌避すべきことではない。
入学後も質の異なった教育を提供しようとしているわけではない。暗記・理解・独創のうち今もって暗記第一の均質的な授業を十年一日のごとく提供している。益々知識偏重の金太郎飴のごとき人材が生出される。記憶容量の大きさで値段の決まるICチップと同じレベルのことを人間に求めることはないのだが、現実にはいっこう改善が進んでおらず、理解、独創という真に人間に相応しい分野は放置されている。理解・独創のレベルまで引上げれば自ずと学生の個性化・異質化が進まざるを得ない。独創とは他と異なることに他ならない。大学側にとってはそれだけ扱い難くなることは目に見えている。しかも均質的な学生であっても、会社に売込めるし、大学の評価が落ちるわけでもない。むしろその方が会社に売れ行きがいい。異質性を帯びた学生は企業から嫌われる。企業にとっては再教育しやすい均質的な学生の方がベタ―なのだ。ここに大学と企業との間の暗黙の了解が成立している。
大学に残って学問研究に勤しむ学徒にしても上司(=教授)の意向に逆らわず与えられた研究テ―マをこつこつ真面目にこなす人物の方が歓迎される。教授の気に入らないものはまず優が貰えない、助手にして貰えない、助教授に引上げて貰えない。つまり、学生側の均質化の前に教育に携る側の均質化に問題があるのだ。自らが均質的な人材である以上、学生の側の多様な能力については関心が持てず、それをカバ―できる能力も持ち合せない。教授に気に入られて大学の教員に一度採用されれば、そこは無風状態に近く何等の学問的成果を上げなくともまた十年一日のごとき講義をしていても失職することもない。同じ大学の卒業生が伝統的にその大学の教授になるシステムが日本では一般的なのも学生や教授の均質化に拍車をかけている。
このように大学教授は様々の既得権益を持っているがそれに教授が固執することも受験制度を含めた教育改革を難しくしている。大学そのものがウズ社会であって、その渦の流れを変えることは難しい。そこでは、既得権益を侵略するものや権威に盾突くものは一切排除される。
日本の大学・大学院在学率は三十%弱で米国の五七%に次いで高く、大学卒業者は水準の高い均質の労働力を提供するという意味で、これまで日本の経済成長を支えてきた。こうした均質の労働力は大量生産時代にはまさに適したものであったが、現在のように価値の多様化した多品種少量生産時代には必ずしも適さなくなった。しかし企業側の意識の遅れもあって、従前どおり均質の労働力を今もって企業では採用している。もちろん、教育側から、そういう人材が供給されないという側面もあり、「鶏が先か、卵が先か」の論争を産む難しい問題がここには存在している。恐らくそうした意識や対応の遅れは今後我が国の国際化・情報化・サ―ビス化が進んでいくと様々なデメリットとして顕在化して来よう。多様な人材の確保に失敗した企業の業績が落ちるというような形でそれは現れるだろう。すでに、均質的な労働力による大量生産優先型の企業経営が時代の進展に乗遅れ現在様々の経済構造調整を余儀無くされ国際的な経済摩擦を引起こしている。現実にもすでに国際化に乗遅れている多くの企業がいる。我が国としても現在の国際化に多くの局面で乗遅れている。例えば英語を巧みに操って外交交渉できる人材がどれほどいるか。政治面、行政面、経済面でも多くの国際摩擦が起こっているし今後とも起こるであろう。これは国際的に調整能力を持った多様な人材をタイムリ―に供給してこなかった教育システムの失敗でもあり、採用する側の失敗でもある。
国際化の要請は、異質のものや異質なものとの共存を求めているにも拘らず、現実に日本社会でいい企業に就職しようとすれば悲しいながら異質性がすこしでもあるとただちにふるいおとされかねない。そこでだれもが五科目の競争に血眼になる。教育する側でも、国際化をさまられている社会の求めている人材の供給を、時代を先取して実施しようとすれば、経営がおかしくなり、予算獲得が難しくならないとも限らない。そこで、五科目という鋳型にすべての学生を押込もうとする。人間の本来もっている様々な特質をいかそうとする教育は行なわれていない。
今後は基礎的な科学や技術の研究で世界に貢献することが求められているが、むしろ、企業向けの人材―応用技術中心―に比重が置かれている。大学院生は企業の方で毛嫌いする。新入社員は横一線が望ましく、前後に突出した混ざりもの、異質なものが交っていない方がいいのである。そのほうがその後企業というフラスコの中で社風という雰囲気をたっぷり与えて行う純粋培養が容易なのだ。これが、日本が米国に比べ大学院生の数が八分の一という実態や、基礎研究の後れと結付いている。
こうして日本では今や[いい成績、いい学校、いい企業、いい肩書=幸福]という単純な価値観が成立するに至っている。この単純な価値観の下、国民生活の画一化が進んでいる。
これまでの大学は余りに経済界のしもべとしての機能に特化しすぎていたのではないか。経済界のいうまま均質な学生の供給に専念してきた。これが経済優先の国家の形勢に預かるとともに、いわば国際的な学問レベルでの貢献の低さをもたらしている。ちなみにノ―ベル賞の受賞者の少なさはその一つの象徴となろう。
大学は、単に経済界の求める人材を供給すればそれで用が足りるものではない。また、大企業さえいい人材を獲得でき、栄えればいいものでもない。国として必要とする極めて多様な人材の供給源として大学は機能して行かなければならないのである。現在の社会のニ―ズに応えるだけでなく、国際化・サ―ビス化・情報化の進む将来の社会に対応できる異質で多彩な人材や、人間社会を成立たせている多様な機能・要素に関する学問探求を行う人材もまた多数生出さなければならない。
しかし、大学は相変らず大量生産時代に相応しい金太郎飴みたいに均質の人材の供給に専念しており、将来への備えを怠っている。入試制度と大学制度と大企業の採用方針とが表裏一体となってそれを支えている。この堅いスクラムを突崩すなんらかの突破口をみつけださなければ、日本の将来を支える人材が不足することになろう。それは社会の硬直化、国際社会への不適応、国力の衰えとなって現れよう。
注
(1)一九九〇年一月に初めて実施された大学入試センター試験(新テスト)は、一部私立大学も参加し、史上最高の四〇万人以上が受験した。原則五教科受験だった共通一次試験と異なり、新テストでは受験教科・科目を各大学が自由に決められるようになったため、共通一次のような五教科の得点による大学のランク付けが難しくなったといわれている。これにより、従来の偏差値中心の進路指導が多少とも是正されるだろうか。