目次
1.ポーランドへ=1 2 3 4
2.アンナ=5 6
3.キジ猫=7
4.いたずらな子供たち 8
5.ボイテック一家 9
6.日本大使館10 11
7.タクシー 12
8.肉屋13
9.新しい家14/15
10.アメリカン・スクール16/17(工事中)
新 し い 家
電車通りを右に折れて、並木がたくさん植わっている歩道の広い通りを暫く行くと、道の両側に大きな屋敷が立並んでいます。肉屋を出てからもう十分 も歩いたでしょうか。ミコちゃんが、右手前方の大きな建物の一つを指差して言いました。
「チビクロ、あれがワタシたちの新しいお家よ」
三階建ての見上げるように高い立派な建物です。
「チビクロ、これが僕たちのお家なんだよ。上から下まで全部ぼくんちなんだから、すごいでしょ」
ひろしくんは、右手をゼ―ンブと言うようにぐるりと回しました。僕は、建物の一部だけをご主人一家は借りたのかと思ったのに、何とその全 部を借りたというのです。東京の家に比べたら、チワワとセントバ―ナ―ドぐらいの違いがあります。
玄関のドアは、分厚い樫の木で出来ています。ご主人がとりだしたキ―ホ―ルダ―には、長さが五寸釘程もある鍵が三本もついています。ドア に三つも鍵がついているのです。おまけに鍵穴の中で二回ずつ回さなければ鍵はあきません。なんと厳重に出来ているのでしょう。これではなかなか泥棒も入れ そうにありません。ご主人もどの鍵とどの鍵穴が合うのかまだ覚えていないらしくいちいちガチャガチャ試しながらやっているので、ドアが開くまでずいぶん時 間がかかりました。
「ギ―ッ」
分厚い割りには、ドアはスム―ズに開きました。
「ウァ―イ」
ミコちゃんとひろしくんが家の中にとびこみました。僕も負けずにその後を追いました。
「チビクロ、見てごらん。ここがサロンだよ。ずいぶん広いでしょ」
「ミコちゃんと昨日ここで鬼ごっこをしたんだよ。広いから面白いよ」
走りまわっているミコちゃんとひろしくんの後を僕も追いかけましたが、確かにこのサロンだけで、東京のご主人一家の家の回りを一回りする ほどあります。家具付ということで、ソファやサイドボ―ドなど一通りのものはそろっています。
「チビクロ、家の中を案内してあげるから一緒についておいで」
ミコちゃんとひろしくんが先に立って家の中を案内してくれることになりました。
一階はこの大きなサロンの隣が食堂とキッチンになっています。サロンかららせん型の階段を昇ると二階には、大きな寝室が一つと、小寝室が 二つ、それに広い洋式のお風呂場があります。
「この大きな寝室がパパとママの、その隣がひろしの、そのまた隣がワタシの部屋なの。ワタシたち昨日からもう一人で寝てるのよ」
ミコちゃんが得意そうに説明してくれます。
三階にも、もう一部屋大きな部屋があってその両側に納戸がついています。シャワ―ル―ムもあります。まだ、日本から船荷が届いていないせ いでどこもガラガラ、広い部屋が余計広く見えます。
「チビクロ、もうこれでおしまいと思うでしょ」
これ以外に部屋があるのでしょうか。三階から上にはもう階段もついていないのです。
「さ、チビクロ、ついておいで」
ミコちゃんとひろしくんが勢いよく階段を降りていきました。一階のサロンの階段のかげに、白いドアがあります。
「チビクロ、この向うに地下室があるんだよ」
「地下室ってこわいんだから」
ミコちゃんとひろしくんはいかにももったいぶったしぐさで白いドアをゆっくり開きました。少しカビ臭いような冷たい空気がすっとドアの間 から入って来ました。そこから地下に向かってコンクリ―トの階段がつながっています。
ミコちゃんとひろしくんは、するりとドアから忍込むと、足音も立てないように薄暗い階段を降りて行きます。僕もミコちゃんたちに調子を合 せて階段を降りて行きましたけれど、地下室には何もこわいものがないことは先刻わかっていました。地下室から吹きあがって来た空気をちょっと嗅げば、地下 室に何があるかぐらい僕には全部わかってしまうのです。
ミコちゃんがひろしくんの耳元でなにかささやいています。きっと何かいたずらを思いついたに違いありません。
カランカラン 突然つんぼになりそうな大きな音がしました。
「キャ―ッ オバケダ―」
ミコちゃんとひろしくんが悲鳴をあげました。僕もあわてて階段をかけのぼりました。
「アハハハハ」
ミコちゃんとひろしくんが笑っています。
「ごめんなさい。チビクロ。おどかしちゃって」
「ジュ―スの空き缶をミコちゃんが蹴っただけだよ。オバケなんていないよ」
「チビクロ、早く降りていらっしゃいナ」
僕は少しすねたような顔をして階段の上にしばらくじっとしていましたが、頃合を見て、尻尾をふりながら二人の所へ降りて行きました。
地下室は大きなガレ―ジになっていて、車がたっぷり二台は入りそうです。その他にも、洗濯室、作業室、物置き、食料庫等いろんな部屋があ ります。なにしろ一階、一階が東京の前の家と同じ広さがあるのですから、部屋が沢山あっても不思議ではありません。
「チビクロにも一部屋あげられるわねえ」
「それじゃ僕ママを呼んで来るから待っててね」
ひろしくんに呼ばれて降りて来た奥さんが、四畳半程もある部屋を僕の部屋に決めてくれました。東京の犬小屋に比べるとその何十倍もありそ うです。地下室とはいいながら空気が乾燥していて少しもじめじめしていません。それどころか空気が乾燥し過ぎていて、鼻先が物に触れると、ピリッ、ピリッ とそのたびに静電気が走るのです。犬の鼻先は特に敏感にできていますので、ジュ―スの空缶がカランカランいうよりよっぽどこの方がこたえます。奥さんが上 から持ってきてくれたダンボ―ルの箱に布を引いた僕のベットに寝そべって部屋をぐるりと見渡すと天井の所にパイプ管が二、三本走っていますがなかなかいい 部屋です。これなら安心して休めそうです。
「チビクロももうすっかり落着いたようだな」
ご主人も地下室に降りて来てダンボ―ルの箱の上からのぞきみこみました。
「それじゃひとつ、食事の前に久し振りにチビクロをお風呂に入れてやるか」
「ワタシも一緒に入る」
「僕も」
そこで、二階にある風呂場へ行き、ご主人にミコちゃんとひろしくんと一緒に、僕の大好きなお風呂に入れてもらうことになりました。
湯船は、畳一畳程もあります。三人と一匹で一緒に入っても平気です。お湯は下から沸かすのではなくて、フランクフルトソ―セ―ジ並の大き な蛇口からドゥ―ッと音をたてて出てくるのです。蛇口の所を少しいじると、シャワ―に切換えることも出来ます。
ミコちゃんが、たっぷりシャンプ―をつけてくれたので、僕はシャンプ―の泡で真白になってしまいました。
「これじゃ、チビクロじゃなくてチビシロだ。今から、チビシロって呼ぼうかしら」
「うん、そうしよう。チビシロ、ちょっとこっちをごらん」
ミコちゃんとひろしくんがこんなことを言いだすので、僕はあわてて体を揺すって泡を振り飛ばしました。
「キャ―ッ」
「チビクロ、もうチビシロ何て呼ばないから、そんなに泡をとばさないで」
僕は体を揺するのを止めましたが、まだ体のあちこちに残っている白い泡を、大急ぎでなめ始めました。
「チビクロったら、やっぱりチビクロって呼ばれるのが好きみたい」
当然ですよ。だって僕は生まれた時からチビクロなんだから。そう思って僕は、
「ワン、ワン」
と吠えました。
「わかったわよ、チビクロ。もう決してチビシロなんて呼ばないから」
「僕も 絶対チビシロって言わない」
二人が請合ってくれたので僕もやっと安心しました。 充分お湯で暖まり、シャワ―を浴び、湯あがりに体中をブラッシングしてもらいました。長い長い旅の疲れもこれですっかり取れました。
「まあ、チビクロ すっかりきれいになったわね」
奥さんが顔を出しました。
「もう食事の用意ができたんだけど、今日は、チビクロと巡り会えた特別の日だから、下の食堂でチビクロも一緒に食事をとりましょうよ。さ あ、皆早く降りていらっしゃい」
食堂に降りて行くと、皆の皿の上にはこんもりするほど大きなビ―フステ―キがのっていました。僕の皿にも、それに負けない位の大きな肉の 塊がありました。八百グラムのつもりで八キログラムもの肉を買ったおかげで、その晩は、ご主人一家も僕も食べきれないほどの肉の御馳走にあずかることに なったわけです。本当に美味しい、そして本当に素敵な夕食でした。
その夜は、新しい家の新しい部屋の新しいベッドだったのですが、ポ―ランドへ来て初めて安心してぐっすり眠ることができました。何といっ たってご主人一家と久し振りに同じ家で一緒に寝るのですから。
翌朝目を覚ましたとき、僕には自分が今どこにいるのかすぐには思い出せませんでした。辺りが真暗なので、まだ飛行機の収納トランクの中にいるかの ような気になり、胸がキュッと締付けられましたが、昨日、ご主人一家に巡り会い、ご主人一家が住むことになった家の地下室で眠っていることを思いだし、た ちまち元気を取戻しました。
「そうだ。僕はもうご主人一家と一緒なんだ」
そう思うと、うれしさが込上げて来て、ぼくは思わずブルブルと首をふらずにはおれませんでした。
まだ朝が早いのでしょうか。地下室の中は真暗です。半地下室なので、地面スレスレのところに窓が切ってありガラスがはめこまれているので すが、そこからも、明るい光は全く差込んで来ません。しかし、まだ暗いからといって、もう一度眠る気もしません。そこで僕は起きだして、地下室の中を探検 して見ることにしました。
僕が眠った部屋は、僕の日本での犬小屋に比べたら、それこそ、小犬と、石炭を運んでいた馬ぐらいの差があります。僕の部屋のすぐ隣には、 自動車がたっぷり二台は入りそうなガレ―ジになっています。きっとご主人は自動車を買ったらここに入れるつもりなのでしょう。ガレ―ジを挟んで、僕の部屋 の向い側には、食料貯蔵庫があります。引越して来て間もないせいか、そこには今は何もおいてありませんが、そこに漂っている空気や、棚に着いたシミから様 々なお酒、ハム、ソ―セ―ジなどの肉製品、バタ―、チ―ズ等の酪農品、玉葱、キャベツなどの野菜など様々な食品がそこに置かれていたことが僕にはすぐ分り ました。そこにはそのうちに様々な食品が置かれることになるでしょう。でも、そうなったら、今日の様に、食糧庫のドアは開けっ放しにしておいてほしくない な。だって、ハムやソ―セ―ジなんて、僕の大好物をいつでも、食べて下さいと言わんばかりにしておくのは酷と言うものです。
ガレ―ジの奥では、大きなガス・ボイラ―がひくい声でうなっています。確か、ここから家中に温かい温水を供給して部屋を暖房しているとの
ことでした。その脇を抜けると、もうすこし先にドアがあります。そこのドアも半開きになっています。僕は、興味をそそられて、その部屋に入っていきまし
た。そこは、どうも作業室になっているようでした。部屋の真中に、分厚い木の作業台が置かれていて、それに、万力やグラインダ―ががっしりと取りつけてあ
ります。大きなノコギリやハンマ―、ペンチ等が壁に掛かっており、部屋の一番奥のところには、作り付けの棚箱があって、その中には、様々なビンや、作業用
の小道具、植物用の肥料の入った袋、バスケット、壊れた懐中電灯、巻尺、ブリキ製のオモチャの自動車、花の鉢などが、ごちゃごちゃに並べてあります。
その中で、僕の目を引いたのは、星形の真鋳製の飾りのついた立派な犬の首輪です。恐らく、僕より三倍もありそうな犬のものに違いありません。あ
の飛行場で僕を救ってくれたシェパ―ドのマーテックにならよく似合うことでしょう。僕は、その首輪をよく見ようと思って後足で立上がり、木の棚箱に足をか
け、首輪をくわえてぐいとひっぱりました。
と、その瞬間、棚箱がギィ―といって、回転を始めたのです。僕は、あわててとびのきました。
棚箱は、ちょうど半分ほど回転して、止まりました。驚いたことに、その棚箱の後ろに、人間が一人入り込めそうな穴がぽっかりと開いたので す。そこからごく微かに、カビ臭い空気が流れ込んできます。一体、こんなところに、どうしてこんな穴があるのでしょう。僕は少し怖くなって、元どおり棚箱 を戻そうかと思いましたが、鼻先を突出して、辺りの匂いを嗅いでみても、それほど身に危険の及ぶような匂いは漂ってきません。僕は勇気を振い起こして、そ の穴の中を探検して見ることにしました。なにしろ、日本からポ―ランドまで一匹でやってきたぐらいなのですから、こんなことで、怖気づいていたのでは、チ ビクロがすたるというものです。
穴の中に入ってみると、そこは階段になっています。階段を十段ぐらい下がると、小さな部屋になっていました。極々小さな部屋で、人間一人 がなんとか横になれるぐらいの広さしかありまません。もうずいぶん長いこと、ここに人が来たことはなさそうです。でも、ずうっと前に人がそこに住んでいた ことは明らかです。アルミニュ―ム製の粗末な食器や壊れたコップの破片、蝋燭のしょく台、蝋のたれた跡などがそれを証明しています。こんなところに一体誰 が住んでいたんだろう、といぶかしんでいますと、部屋の隅の小さな穴のところに、ちらっと動く気配がしました。ハッとしてよくみると、二つの赤い光るもの が、僕の方をじっと見詰めているようなのです。
僕は、思わず後ずさりをし、体を低くして、ウゥ―と唸りました。と、その赤い光るものが、二、三度パチパチと明滅しました。
「君、一体誰。この辺りでは見掛けない顔だな。何か用なの」
キイキイ甲高い声が聞こえてきました。その赤い光るものは、どうやら生き物の目のようです。僕も、ほっと胸をなでおろし、
「僕はねえ、昨日から、このお屋敷に住むことになったチビクロって犬だけど、君は一体誰なの」
と尋ねました。
すると、穴の中から、一匹のドブネズミがピョンと飛出てきました。
「僕はね、この辺りを住かにしている、ドブネズミのロンっていうんだ。君は、どうして、こんなところにやってきたの。ここは僕らの専用の部 屋なんだから、絶対に譲れないよ。もし、力ずくで奪うっていうんなら、僕らにも覚悟があるからね」
「そんなつもりはないよ。僕は地下室に専用の広い部屋を貰ってあるから、別に、こんな部屋に住む必要はないんだ。ただ、こんなところに、ど うして、こんな小さな部屋があるのか不思議に思って、ちょっとのぞいてみていたところさ」
「本当に、それだけかい。間違いないね」
「絶対に」
「それなら、わかった。近くに住むことになったわけだから、これから仲よくしていこうよ。それじゃ、僕の家族を紹介するよ」
ロンが後ろを降りむいて、長い尻尾をひとふりすると、さっきの穴から、次々にドブネズミが飛出してき、僕の回りは、たちまちネズミだらけ になってしまいました。
「君が力に訴えようとしたって、これだけ数が多いのを見たら、あっさり諦めたことだろうね。だけど、僕らは、人間ほど馬鹿ではないから、簡 単に力に訴えたりしないんだ。君たち犬だって、人間ほど馬鹿じゃないだろう」
僕は、人間が馬鹿だ馬鹿だというロンの話に少しばかりむっとして
「どうして、君は人間は馬鹿だ馬鹿だっていうんだい。人間は君が考えるほど馬鹿じゃないよ」
「君は、戦争を知らないからだよ。ほら、この部屋にこびりついているこのどす黒い血の跡を見たまえ。この部屋で暮らしていたユダヤ人が、殺 された時に流した血だよ。僕らはこの部屋から、自由に地下水道に出入りできる。そこでも多くの人々が戦い、お互いに傷付きあって死んでいったんだ。僕のお 祖父さんのひいお祖父さんのそのまたひいお祖父さんのひいお祖父さんのその百倍ぐらい前のお祖父さんの時代からの言伝えではね、戦争中にこの狭い部屋にユ ダヤ人が三人も隠れ住んでいたんだ。十歳になる男の子とその両親の三人だったらしい。このワルシャワが解放されるたった一週間前にドイツ兵に発見されて、 ここで射ち殺されたんだ。四年間もこんな狭いところに隠れて生きていたのにね。男の子だけは、ほら、この右手にある人一人やっと通れる抜穴から逃げのびた んだ。マイクという、その子を逃がしてやるために、父親と母親が両手を広げてドイツ兵の銃の前に立ちはだかったんだ。この両側の壁に、両手をこうやって ぐっと突っ張って、二人して、雨アラレと降ってくる自動小銃の玉を受け止めたんだ。その男の子はね、ここから抜出して、地下水道の中に一週間も隠れてい て、ワルシャワがドイツ兵の手から解放された日に救出されたんだ。もうすっかり骨と皮だけだったけれどね。その後、アメリカに渡って、風のうわさでは、す ごく偉い政治家になっているってことだよ。君も、その穴をちょっとのぞいてみないかい」
僕も興味をそそられて、その穴のところへいってみました。右手の壁のところに、レンガをとりはずしたような形で、人が横になってやっと通 れそうな穴が開いていました。僕にとってはゆうゆう通れる大きさです。
「さ、こっちだよ」
僕は、ロンの案内で、その穴の中に入りこみました。誰が、こんな穴を掘ったのでしょう。しばらく、同じような大きさの穴が続いています。 どこからともなく、水の流れる音が聞こえてきました。やがて、その音が次第に大きくなり、目の前に地下水道が現れました。大人でも立って歩けそうな広い水 道の中を濁った水がドウドウと音を立てて流れ、モウモウと湯気が立っています。その水流の側に、なんとか歩けそうな突出たところがあります。ロンがそこ に、ピョンと飛び降りました。僕も、真似してポンと飛び降りましたが、下が湿っていたせいで、スルリと滑り、危うく水流の中におっこちそうになりました。 と、一緒についてきたロンの家族が、一斉にその長い尻尾を僕の体に巻きつけて、引戻してくれました。こんなところで流れの中に落ちでもしたら、一体どう なったことでしょう。僕は、ほっと胸をなでおろしました。
「滑り易いから、注意しなよ、チビクロ」
ロンが後を振り返って、注意してくれました。僕は用心しながら、ロンの後をついて行きました。上の方から明るい光が差込んでいるところに出 ました。そこには石の階段がついています。
「チビクロ、ここから、外へ出ることができるんだ。さあ、おいで」
ロンは、素晴らしいスピ―ドで階段を昇っていきます。僕も遅れてはならじとその後を追掛けました。階段を上り詰めると、そこから、朝の光 とすがすがしい空気が流れ込んできています。
「ここから、雨水が流れ込むところなんだけど、格子が壊れているから、君だって外へ出れるよ。一緒に出てみようか。お前たちはここで待って おいで」
ロンは、家族にそこに残るようにいいました。僕はロンと連れだって、地下水道から外へ出ました。そこはどこかの大きなアパ―トの傍らでし た。
「こっちへ来てごらん。ここからなら、君の家が見えるよ」
アパ―トの端を回ると、ずうっと通りが続いており、両側に建物が立っているのが見えます。
「ほら、あの左側の、端から三番目の三階建てのグレイの建物が、君の、そして僕のすみかだよ」
確かにあの建物です。でもそこまで五十メ―トルもあります。まだ、朝が早いせいか、ひっそりと辺りは寝静まっています。きっとご主人一家 もまだ、眠っているに違いありません。
「フゥ―ッ」
ロンが、気が狂ったようにかけだしました。その後から、白黒のブチのある太めの猫が、それにおとらぬスピ―ドで追掛けていきます。ロン は、たくみに身をくねらせ、ジグザグを描きながら逃回ります。しかし、身を隠す所がないので、ロンは次第に、アパ―トの壁の方へ追詰められていきます。
僕は、ハッとして我にかえり、猛然とブチ猫の所までかけていき、精一杯大声をだして
「ウゥ―ワ、ワン。止めろ、止めろ」
と叫びました。
ブチ猫は、ジロリと後を降り返ると
「オヤ、ここらでは見掛けない顔だね。あなたは、犬じゃないのかい。だったらどうして、ドブネズミなんかの肩をもつのかい。こいつらは、ド ブの中でもうろついていりゃいいものをこんな朝早くから堂々と、私の縄張りの中をのし歩いている。ブチ猫ニ―ナの顔が立たない。ちょっと凝らしめてやらん ことにゃ。悪いことはいわないから。邪魔だてしないでくださいよ」
「僕は、昨日から、あの左側の三階建ての建物に住むことになったチビクロという犬だけど、今日のところは、僕に免じて見逃してくれません か。同じ町中に住んでいることでもあり、力ずくで、あなたとケンカする気にもなれないし」
「まあ、今日のところは、見逃してやりましょう。しかし、このつぎ、この辺りをうろうろしていたら、許さないからな、このドブネズミ」
ニ―ナは、悪態をつきながら、のっそりとアパ―トの中へ入っていきました。
ロンは震えながら、身を丸めています。
「さあ、ロン、急いですみかに戻ろうよ。そろそろ、僕のご主人一家も目を覚ましそうだし………」
今度は、僕が先頭に立って歩きはじめました。さっきまでの元気もどこへやら、ロンが首をうなだれて、僕の後からついてきます。マンホ―ル の割目のところから中に入ると、そこで待っていたロンの家族が、うなだれたロンを取囲んで、一体どうしたのかと聞いています。ロンの説明を聞くと、皆んな ものすごく興奮して、ニ―ナの悪口をまくしたてはじめました。ロンの家族のうちでも、ニ―ナの犠牲になったドブネズミが少なくとも五匹はいるとのことでし た。
「人間は、人間を殺し、ネコはネズミを殺す。地上の平和はいずくにぞある」
ロンが、その騒ぎの中で、哲学者めいたつぶやきをもらしたのが印象的でした。 僕は、もときた地下水道を引き返し、ロンの家族に別れをつ げて、地下室へ戻りました。半分開いた棚箱をもどすのに、一生懸命棚箱を押してみましたがビクともしません。そこで、もう一度、真鋳の飾りのついた首輪を 口でくわえて、ぐいと引張って見ると、棚箱が、ギィ―と動いて、元のようにぴったりと穴をふさぎました。
もう、半地下の窓ガラスから朝の光が差込んでいます。
おや、ミコちゃんとひろしくんの足音が近付いてきました。
僕はあわてて、自分の部屋にとってかえし、ダンボ―ルの箱の中にうずくまって寝たふりをすることにしました。だって、到着したその翌朝か
ら、家を抜出したり、ドブネズミと仲良しになったなどと知られたくありませんでしたから。