創 作ノート |
創作ノート目次へ |
最近、エッセイ用の創作メモを 記載した、 1973年の黒表紙の大学ノートを発見した。どれも書きなぐりで完成したエッセイではないが、備忘のため、ここに収録することにした。(2003年8月 26日) |
|
|
(1973年6月4日執筆)
(2006/5/30掲載
|
|
日本人 は国会がど こにあるかと聞かれれば、国会議事堂はどこにあるのかと聞かれたのだと思い、そのありかを答える。大蔵省はどこにあるのかと問われても同じことであろう。 建物とい う具体的な ものはよく見えるが、人間が作っている組織というものはあまりよく見えないのである。中に入っている人間よりも、その入れ物のほうにむしろ関心があるので あって、東京見物に来たおのぼりさんも、国会議事堂を見て、国会を見てきたと人にも言い、自分もそう思い込む。国会で審議しているところを見たいというお のぼりさんはほとんどいず、国会の塔や赤絨毯や広い広場や天皇の控えの間を見て、満足し、国会というところはなかなか広くて厳かなところじゃわいと考え る。 これは 海外旅行に 行っても同じことで、イギリスという国を見ずに、イギリスという土地や建物を見て帰ってくる。国という概念そのものが、日本人の場合、土地と密着してい て、国土そのものや、そこに立つ立派な建物類が日本人にとっては国なのであって、そこに住む多くの民衆はほとんど目に映らないのである。 多くの 人が、海外 旅行に出かけ、イギリスに行ってきた、フランスに行ってきたというが、多くの人は、ロンドン塔を見たエッフェル塔を見たといって自慢するが、イギリス人と 話し合った、フランス人はこういう民族のような気がするというような話はあまりしない。イギリス人やフランス人を見るということは彼らの旅行の目的の中に そもそも組み込まれていないのである。東京見物は「東京人」見物ではなく、東京名所めぐりである。 このこ とと、我が 国の防衛とか戦略を練る際の国民の発想とは深く結びついている。「国を守る」と言った場合の国とは、民衆を抜きにした国土(注:1973年版の「自衛官への道」 (防衛庁版)においても「美しい国土を守ろう」と記されている。)ないし壮麗な建物・都市・橋梁・交通網・工場・プラント装置・制度(これらの建物に代表 される)なのである。 ここで は「国滅び て山河あり」という言葉も深刻には考えられない。山河(国土)があるかぎり国があるというのが、日本人の基本的な思想だからである。 こうし た物優先の 思考が、日本人には強く染み込んでおり、「物」を守るために、人命が不当に軽く扱われてきたのは、歴史的に見ても、容易に証明できる。(天皇陛下から賜っ た銃は、新兵の命より重かった。船や飛行機一台を維持するために、無数の人命が犠牲にされたような例は、第二次世界大戦における日本軍の行動の中に多数見 出すことができる。) 物優先 の思考法は 「物」が一度存在すれば、それを恒常的な存在と考える思考ともつながっており、存在する限り理があるとして、安易にその物を受け入れるということになりや すい。ある「物」が、存在するということについて、懐疑を抱く人は少なく、日本人にとっては、物は先験的に存在してしまい、存在するものには、安易に存在 妥当性が与えられ、その物を破壊することに対しては、心理的な抵抗を覚えるようになってしまうのである。 日本人 は、先験的 に「物」の存在を認めてしまうので、およそ物の「認識論」でノイローゼになることはないとは、イザヤ・ベンダサンの指摘するとおりで、反面対人関係では、 日本人はよくノイローゼになるのであるが、日本人がノイローゼになる対人関係というのはあくまで、対人関係の生じうる範囲内にある人なのであって、その範 囲外の「人」であれば、そこにおれども見えず、そういう人は、物以下の存在になってしまうのである。 した がって、我が 愛する国土を守るために生命をかける兵士がおり、我が愛する妻や子のために生命をかける兵士がいても、自分の関知しない「他人」(である多数の国民)のた めに生命をかける兵士はおらず、我が愛する国土を守るためには、その他人である国民が殺されたり(沖縄、サイパン島で土着の人が殺されたり、自殺を強要さ れた例を見よ!)、天皇陛下の下賜された鉄砲をぞんざいに扱ったというだけで兵士がリンチを受けたり殺されたり、死力をかけて戦った兵士が軍旗を失ったと いうことで銃殺され、飛行機一台守るために犬死を強要されたりするのである。 「国 会」とか「大 蔵省」という組織・制度すらも物ということで、国会議事堂や大蔵省の建物でとらえるところからは、組織や制度は我々人間が便宜的に定めたものに過ぎず、我 々の都合が悪ければ、これを変えることができるのだという思考法が生まれてこなくても不思議ではない。国会(議事堂)は、まるで、故郷の美しい山や河のよ うに、永遠に不変のもののように考えられてしまう。山や河は、我々が生まれる前からそこにあったのであり、また我々が死んだ後にまでそこにあるものなので ある。それを疑うような日本人はまずいないし、それを疑うように日本人がいると、その他の日本人には、その人が理解できない。 そこで 日本人の自 慢は「物」の自慢ということになる。日本人は「美しい日本」といって日本の国土の美しさを自慢する。その場合、美しい「日本」とは、あくまで物であり、し かも、人工の加わらない、いわゆる日本人の「自然」なのである。四季折々、景観を変える風物が「美しい日本」ということの中で、「日本」としてとらえら れ、日本人の自慢になるのである。美しい日本というとき、日本人は決して日本の都市や自分たちの住んでいる住居を含めては考えないし、ましてや自分たち自 身、「日本」の中核ともいうべき「日本人」のことはまったく忘れさっているのである。 美しい 日本といえ ば、日本の、人工の加わらない四季折々の山や河や樹木や花々をさすということを日本人全体が前提としているかのようである。外国人の中にはそんなことはわ からないので、「美しい日本」ということで、都市や、そこに住む人々が美しいと思ってやってくるかも知れないなどとは誰も考えない。 日本人 が自慢する のは、たいていの場合「物」なのである。私の家には、こんなピアノがある。アルファ・ロメオの競争車がある。こんな立派な庭がある。こんな素敵な邸宅に住 んでいる。こんな豪華な時計を持っている。このゴルフのクラブは、タイトリストですよ。人を自慢する場合も、何か物に表されたやり方でしかやらない。この 優勝カップを見てください。この通知表を見てください。といったやり方で、しかも自分のことを自慢するのは、よくないことにされており、たまたま、他人が 優勝カップを見止めて「これは何ですか」と尋ねると「いやぁ、実は、この前のコンペで優勝いたしまして」といって、話し出すようなシステムになっている。 だから、「私たちの家族は、とても仲が良くて、幸せに暮らしています」とか、「夫婦で協 調していつも楽しく話し合っております」とか、「家族全員で、一つのことをやるために、努力し合っている」というようなことは、あまり、自慢の種にはなら ない。出来具合のどんな豪華なシャンデリアの光輝いている不幸な家庭よりも、裸電球の下で、楽しく音楽の演奏に打ち興じている家庭のほうがどれほど素晴ら しいことか知れないのに、人々はあまりそんなことを考えず、隣の人が豪華な車を買えば、自分も欲しくてたまらず、自動車がないということで不幸になる人が 実に多いのである。いわば、仲良く高度な生活を楽しむことが「文化」というべきものであるが、日本人には、そういう「文化」というものが理解できない。そ れは、このように生活のレベルにおいてさえ、「物」優先で考え、それ以外では考えられないからである。 しか も、日本人 は、「物」が豊かであることを「文化的」であると考えるという誤った思考法を身につけてしまっている(これこそ物優先の思考の結末であるが)。文化的生活 とは、豊かな物資に囲まれた生活というふうに考えている。便利で、居心地のいい物に溢れ、欲しいものが何でも手に入る生活が、日本人にとって文化生活なの である。このことは、基本的に「文化」というものを見る目を欠いているということと同じことなのである。まさしく物に還元できぬ人間のメンタルな思考・行 動システムこそが文化なのであるから。 我が国が、世界第三位のGNP大国、経済大国になったことをもって、文化的にも大国に なったと、多くの日本人が短絡した思考に陥ったのも、日本人に染み付いた物優先の思考法の当然の帰結といわなければならない。経済的に優れている、進んで いるということをもって、文化的にも優れている、進んでいると考え、経済的に遅れている国に行って、相手の国の文化を無視した振る舞いをする。というより 日本人の目には「物」しか映らないから、相手の国の文化を無視する気は全くないのである。そこにある「物」が、日本にある「物」に比べ旧式であり能率が悪 いということをもって、あらゆる面でその国が遅れていると考えてしまうのである。日本人には、具体的な物を見、物でもってしか思考できないのである。物で 表されなければ、それを数字という明示的なもので表して表示する。GNP 10とGNP 1とではGNP 10の方が問題なく進んでいるということになるのである。 「物」ではない「文化」の存在に、そもそも気づかない日本人は、自分たちが「文化」とい う物に見えないものをその国に持ち込んでいるということすら気づかないということにさえなるのである。自分たちが集団的他律的に動き回るのが、自分たちの 文化とは意識しない。自分たちの仕事のやり方が、日本文化に色濃く染まっていることに全く気づかない。がむしゃらに突貫工事でダムを作ったり、道路を作っ たりするやり方が、いかに他国人の文化とは相容れないものか気づかず、他国人をやる気のない怠け者、仕事嫌い、遊び好き、という風に考えてしまう。とどの つまり「我々は、こんなに身を粉にして、あなたたちのために働いているのに、一向に評価しないばかりか、反対するとは何事か」ということになる。 相手の国のやり方―要するに文化というもの―を、そうしたやり方が全く無視しており、相 手側としては、適応しかねていることにも気づかず、自分たちの文化を無理矢理押し付けているという意識すらなく、人間としてこうするのが当然であるという 意識で、遅れていると考える相手国の人々に、日本文化的なやり方を結果としては、強要しているのである。 こうして、我が国民は、あらゆる国で嫌われ、反感を持たれ、日本品のボイコット(バン コックの不買運動を見よ!)のみならず、日本人に対するボイコットさえされているのである(欧米のゴルフ場で、一度会員として入会を認められたものの、あ まりに日本人的に行動して、欧米のゴルフ・クラブ文化に適応できぬ人が多いため、次第に締め出しを食っている例がある)。 外国に長く滞在しながら、相手の国の文化というものをほとんど理解できず、単にそこにあ る景色だけを見て帰ってくる日本人の何と多いことだろう。彼らは、ほとんどその国の人と交際しようとせず、狭い日本人の社会を作り出し、相手の国の悪口を 言って慰めあっているだけである(そうしたあり方自体も文化ということに気づかないで、商売のときにニコニコしさえすればいいと思っている)。あるいは、 自分たちのやり方を押し付けようとして空しい努力を繰り返して、挫折感を味わっている。また、ある人は、自分のやり方を放棄して、相手国のやり方に自らを 完全に順応させてしまっている。 こうした他国の文化を理解できないという悲劇は、日本人の考え方が、物優先であるという ことのほかに、日本が島国であって、しかも同一民族、同一言語、同一文化の国であるということに深く根差している。とにかく、日本人は、他の文化が存在す るということに全く無知のまま文化の形成がなされ、文化そのものが、他の文化を前提とする文化ではない(文化に国際性が全くない)。文化が自意識を持って いない。自我のない文化である。自我がなければ他人(他文化)と自分のけじめがつかなくても不思議でもない。 しかも、文化そのものに自我がないことは、そこに存在する各人が自我がないことと深く結 びついている(各人が自我を持たないということもひとつの文化であり、各人が自我を持たないことが文化自体が自我を持たないことへ反映しているという風に 考えることもできるかもしれない)。自我がないということは、異なった考え方をする人がいないということである。各人は、自分の考え方を持っておらず、絶 えず他人の考えに追随順化することをよしとしている。 他人の考えとは、その場における権威者のそれである。権威者とは多くの場合年長者がな る。いわゆる目上である。日本人は、絶えず目上の考えに自分自身を追随することに意を用いる。これを集団的他律的な集団と言ってもいいし、他人追随型の 「隣百姓」(cf.イザヤ・ベンダサン「日本人とユダヤ人」)的パーソナリティを持っているといってもい い。したがって、相手が他国人であっても、異なった考え方、行動様式(=文化)を持っているということが理解できないのである。同一文化であったために、 あらゆる人間が、自分と同じように考え、行動するものと考えてしまうし、自分が相手に対して、目上関係に立つことになれば、相手も自分の考 えに同化して行動するものと思い込み、相手が違った考え方・行動様式を持つこと、たとえ、目上でも、それに従うようなことをしなくてもいいという文化を 持っているかも知れぬことには思いも及ばないのである。 そもそも日本人の間では、違った考え方を戦い合わせて議論するようなことはまずなく、あ らゆることに目上、目下関係が存在しているから、ほとんどの場合違った意見は、目上への追随同化することでもって吸収され処理されてしまう。追随しないま でも目下は、黙り込んで自分の意見を言わなくなってしまう。したがって目上の意見だけがまかり通る。目上にあくまで反対することは悪いこととされている。 目上にあくまで反対するときは、その組織集団から除け者にされるか、排除されることも覚悟していなければならない。村八分にされ、渋々ながら目上の意見に 従わされる。 目下が目上に追随するのは当たり前ということになっているのである。 ところで、こういう文化的風土の中に住んでいる日本人にとってみれば、あらゆるものを目 上・目下関係でとらえるという習性(=文化)が身に染み付いても不思議ではない。いや、身に染み付かなければおかしい。そういう物の見方をしない限り、日 本の社会ではなかなか容易には生きていけないからである。 そういう「文化的」眼を持った日本人が「文化」というものを考える際にも、ただちにこれ をタテ系列に序列付けして考えることになっても、少しも不思議ではない。むしろ、当然である。日本人があらゆることをタテ系列化してしまうものの考え方を しがちなのは(いわゆる兵隊の位を付ける)、こういう目上・目下関係が文化の基礎をなしているからと思われる。あらゆる職業も序列化されて、そこには常に 職業の貴賎が生まれる。そこでの序列付けは、言葉遣いにただちに反映される。 また、日本の社会が肩書き尊重社会といわれるのも、肩書きが、この目上・目下関係をつけ るためにはどうしても必要だからであり、その肩書きがなければ、相手に呼びかける英語のいわゆる「二人称」がなくなるばかりか、言葉遣いそのものさえ、全 く規定されないので、物の言いようがないのである。 この場合の図式はいうまでもなく、 進んだ文化=目上 遅れた文化=目下 ということになる。ここでは文化そのものが、上、下に二分割される(あるいは自分と同等 ということで三分割)ことになる。 そして、日本人は、進んだ文化と考えるものには、自らそれに追随することに何ら心理的抵 抗を覚えない反面、自らが「遅れた文化」と考える文化に対しては、まるで目下に自分の意見を押し付ける目上のように、自らの文化に追随せしめることを考え るばかりか、相手側から自発的に追随して当然ではないかと考えるのである(文化を意識していないとしても)。しかも、その際の進んだ文化と遅れた文化を区 別するメルクマールは、物優先の日本人のこととて、当然、物資のみに着眼し、その物資的豊かさの国のレベルでの最も象徴的な数字と考えられているGNPによることになるのは言う までもない。GNPが世界第三位になったときの日本人の喜びが異常なものであったことは、そのあたりのこと を物語っているといって過言ではない。我が国が、長く文化的に下位に置かれていたヨーロッパ諸国をついに抜き去ったという喜びが日本人の識者をしてさえ、 あたかも日本が「文化」においても、世界第三位になったような発言をせしめたことによく現れている。 日本人の異常なまでの出世欲は、このタテ系列の目上・目下社会で、一段でも上の段に這い 登り、自分の目下を一人でも多くしたいということの反映でもある。 日本人という民族は、世界をもまたタテ系列で見ている。いや、そういう見方しかできぬ。 日本人が大国・中国・小国と絶えず他国をランク付けするのみならず、自国についてさえ、現在GNP世界第三位であることをもって、経済大国といい、経済大国になった以上、政治大国になら なければならぬと有名紙が社説で説くのは、その顕著な例である。我が国ではあらゆる指数が、諸外国と比較されて、論じられている。 したがって「日本」という国は、世界の国々を相手に出世競争をしているようなものであ る。出世の上限は常に一位である。一位になってもいつまた抜き返されるかも知れぬ。ということで「日本」はあくなきエネルギーを、出世のために燃やし続 け、止まるところを知らないのである。 日本人は、目下から目上になるにつれて、その言葉遣いががらりと変わる文化を持ってい る。がらりと変えてもいい文化といってもよい。相手が目上か、目下かによって、言葉ががらりと変わるのみならず、出世することによって、これまでの同輩か ら一歩抜き出て課長になり、部長になるにつれて、目下に対してより偉そうな言葉遣いをし、社長にでもなれば、あらゆる人に対して、目下扱いをしていいこと になっている。 日本語を外国人へ教えることが難ししのは、常に目上・目下関係を意識して言葉遣いを変え ねばならないことに起因する。目上・目下関係が、決まらなければ、会話の基礎となる一人称、二人称ですら、決まらないのである。 日本のGNPは世界第三位であるということは、世界に140〜150も国があることを考えれ ば、日本がもう世界株式会社の副社長クラスになったように考えてもおかしくない。「後進国」へ行くということは、副社長殿が、平社員や新入社員のところへ お出ましになるのと同じことなのである。もっと、頭を下げて、畏まってお言葉を頂戴して当然なのに、副社長という肩書きを大して尊重しないばかりか、あま つさえぞんざいな言葉遣いをして、自分のいうことに少しも従おうとしない。これは何事か。と副社長殿は、怒るのである。 しかし、相手の方では、自分のことを、平社員とも新入社員とも少しも思っていないし、相 手を副社長などとは少しも考えない。GNPという言葉を聞いたこともなければ、それが文化とどういう関係があるかなどとも考えな い。そこで副社長殿は大いに失望し、肩書きの通用する社会へあわてて帰って来、お互いに「××副社長」「〇〇副社長」と言い合って、慰めあうのである。 また、欧米諸国に対しては、これまであちらが、専務クラスで、こちらは、戦後平社員のぺ エペエまで落とされ、すべての面で頭が上がらなかったのが、出世の他に見向きもせずに頑張ったお陰で副社長にまで出世し、相手が適当に生活をエンジョイし ながらやっており、専務のクラスに留まっているので、彼らと同格ないしはそれ以上になったような気になって、さて、どんな言葉遣いをしたものか、いきなり 「君」呼ばわりもできぬので、まあ、少しこちらが偉いんだぞということを言外にほのめかす程度にしておこうかなどと、相手の家に出掛ける前に胸のうちで考 えているようなものである。中には、馬鹿な男がいて、相手国に出かけて、さんざ目下に向かうようなことを言ったりするような奴もいるが、彼らは恥をかいて 帰ってくるのが落ちである。 (日本人が受験勉強に現を抜かすのも、大学さえもタテ系列で序列化されていて、同じ大学 の学生になっても尊敬され方が違うし、いい大学を出れば、一流会社に就職でき(日本人は、すぐに一流、二流、三流とランク付けするのも上に言った価値観の 表れ)、一流会社員は、二流会社員より尊敬されるからである。また、同じ会社に入っても、一流大学を出ていれば早く出世ができ、人より目上になるチャンス がそれだけ多いからである。同じ課長であり、社長であっても、一流会社のそれの方が目上になるように考えられ、そういう言葉遣いがされることになってい る。) |
|
| 以
下工事中 |
TOP |