日記の部屋1959(08)/Diary1959(08)

 

(1959/8/7〜1959/8/21)

(2002/3/16,3/30,3/31掲載)




 

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年月日 曜日 日記本文
   

日記の表紙

1959.8.7 Friday 1959.8.7 Freitag. die Bewoelkung
*朝日ジャーナル8.9号購入
*台風6号の接近で一日中曇りがち、風次第に強まる。

◆意志とは如何なるものか。
 私の腕は、去る3日の雲仙岳登山の時、草でかぶれたらしい小さなぶつぶつでいっぱいである。そのぶつぶつも後三日もたてば、かゆみも消え、跡形さえ見えなくなってしまうであろう。
 私の意志がこのかぶれの治癒を欲していることは確かである。だが、そのかぶれの治癒への方向を私の意志が決定しているわけではない。私の意志通りにかぶれが治癒するといっても私の意志の直接的な働き掛け(私がこのペンを動かしてこの文章をつづるような)はそこにはないのである。
 我々の身体にあっては、その損傷が常に我々の意志の欲する方向に無意識的に治癒しているのである。この事実は私に意志とは如何なるものかという問いを提起する。単なる一つの意志、例えば’前へ進もう’という意志とは何であろう。
 意志とは”よい意志”であるということだ。前に進むということが、身体の損傷に意志が欲した回復と等しく、我々にとってよいもの、例え前に進むという決定が我々の意志通りになるものでもなくても、そうなるに違いないものなのだ。
 我々は多くの虫や鳥獣に見られる本能を、驚嘆の眼で眺める。しかし、我々の身体が我々の意志に直接的に支配されない部分で、我々の意志の欲する如く働くことを考えれば、生物の行動が本能によりながらも、彼らの意志を行っていると考えてもよいのではないか。
 意志とは無意識と決定的に区別されうるものではない。無意志の行う良い意志を自覚した場で行うのが意志なのだ。
 意志とは本来的に”よい意志”なのだ。

◆Ich kaufte ein wochenblatt. Das Name ist "Asahi Joournal". Das ist das hochestWochenblatt in Japan. Neulich gibt es sehr vieles Wochenblaeter.  Die Gewissenhaften sind wenig.Wir muessen die Schlecht verweisen.


◆島原に帰ってから大いに日に焼ける機会を作った。テニスをやりに中学校と高校とを合わせると一週間は行ったし、水泳にも4回行った。8月3日には弟二人と普賢岳に登山したし、雲仙では炎天下ボートを漕いだ。私は見るからに黒々として今年の4月東大に入った頃の色白さはない。
 2月末に東京に来た姉は私の色白さにびっくりしたというから余程のことであったのだろう。色白きインテリを私はあまり好まないし、色の白さでもてかたが違おうと、そいう女の子が私にはもてないだけのことだ。
 とにかく若者は身体を鍛えておくべきだと考える。その為にこの夏休みほど絶好なチャンスはないのである。来るべき時、そう、我々若人にとってはるかに比重の大きい未来のために私は備えるのだ。たくましい身体こそ来るべき日に投資すべく私の今蓄えうる最たるものだ。もう一つの投資財としての勉学も勿論忘れてはならないものだが、夏休みの意義はやはり身体の方を重く取る。
 明日は双眼の台風6号で水泳にも行けまいが、ますます日に焼けねばならぬ。どうにかクロールの要領も掴めた観があり、泳ぐたびにうまくなっていくようで本当に楽しみだ。

◆学生歌原案
春 銀杏の芽の淡く 淡青の空映えるを
仰ぐは我ら
明日を生む 希望の瞳よ

夏 銀杏の葉の繁く 淡青の空燃ゆるを
仰ぐは我ら
今日を生きる 情熱の瞳よ

秋 銀杏の実の熟れて 淡青の空澄めるを
仰ぐは我ら
昨日を思う 沈思の瞳よ

冬 銀杏の枝寒く 淡青の空冴えるを
仰ぐは我ら
真理を求む 矜(ほこり)の瞳よ

◆つい先頃「24時間の情事」を見た。
決して”情事”という言葉で、つられて入った人種を満足させる映画ではない。息詰まるほどの緊張感あふれたスクリーンは、人間の忘却の悲しさを突き詰めているかに見える。今日広島での原水爆記念大会が終わった。14年前の惨劇を我々は如何ほど肌で感じ得よう。悲しい人間の忘却。”我が愛”を”ヒロシマ”で、長崎とともに世界で唯二の原爆投下点で、試さなければならなかったエマヌエル・リバの心理のカラクリは意味深長なのだ。

1959.8.8 Saturday
1959.8.8  der Sonnabend,der Regen und der Strum

◆先月の14日午前10時30分発の京都遊覧バスに乗った。
 その日はあいにく雨であったが、それでもそれなりに”遊覧”できた。幽暗とかきらびやかさといったものが、雨の情趣に背かぬものであるなら、雨の京都はそれだけに美しく優雅に感じられたのではなかろうか。
 静かな落ち着いた古都京都が、雨という最適のバックボーンを得てますますその良さを増しているかの如く思われた。
 しっくりと雨景の中に溶け込んで微動だにしない静寂を発散している京という都市の魅力は必ずや旅人の心を捉えて離さないであろう。
 清水寺からの眺望は素晴らしく、雨雲に低く閉ざされた嵐山の風情あふるる一景は私の心に藤村の千曲川旅情の歌をこみ上げさせずにはいなかった。

幾たびか栄枯の夢の
消え残る谷を下りて
河波のいざよう見れば
砂まじり水巻き返る

嗚呼古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
過ぎし世を静かに思へ
百年もきのふの如し

百年もきのふの如しという感懐、それは桂川の岸辺に立つ私にあまりに強烈であった。
伝統というか歴史というか、時代の厚みがどっしりと根を下ろしている都市というものの激しい放射能は、旅人の心を有形無形焼き尽くしてしまうのである。そこでは歴史の偉大さに不感症ではありえないのである。
 バスガールの殿上人という言葉に、応仁の乱という言葉に、その華やかさを、その痛ましさを、如実に感得できるのである。
 ウワキは取れない植物丼の竹の小枝がバスの窓をパチッとはじいた瞬間、清少納言の枕草子の一章を思い出さざるを得なかったほどに感情が高ぶっていたのだ。
 京都それは日本人の心の故郷である。これは真理である。京都という都市の雰囲気は不思議に私の心に安らぎを与え、母の懐に飛び込んだような感懐を与えたのだった。平安神宮、そこには伝統がなかった。明治時代に建てられたそのけばだった建物には私を不愉快にさせるものがあった。三十三間堂の中の空気こそ京都の匂いに満ちていた。
 金閣寺、それはすでにこの世になかった。それとよく似た偽物が池のあるさびた雨景に、溶け込むこともできずに、真新しい金箔を無意味に輝かせていた。
 京都、それは東京などと違って愛することのできる都会である。心に懐かしい都会である。忘れ得ぬ街である。また行ってみたいものだ。

◆台風6号は九州上陸の予測をはぐらかして日向沖を北上しつつあるらしい。釘で打ち付けられた戸がすっぱかしを食ってしょげている。

◆”去る者は日々に疎し”という言葉がある。日々という言葉は時間的な隔たりを言っているのであるが、日々と言ったような簡単な言葉で空間的な隔たりを表しうるものがあれば、それを日々の代わりに当てはめても最初の言葉は真理であろう。空間的な隔たりが如何に人間の忘却に大きく役立つものか。東京と島原の隔たり。それは意志を通ずるのに手紙で三日もかかる隔たりなのである。
 昨日まで大きな比重を占めていた一友人が一人の女の子が一人の先生が今日島原の私になんと軽微な存在と化すことであろう。時間的空間的隔たりが悲しいほどに存在の希薄化をもたらす事実は、やはり寂しいものである。その子を一目見ることで一日楽しかったほどの存在が今の私に何であろう。もはや刺激を重ねて思い出さねばならぬ存在に化しているではないか。

◆愛することは片務的であり得るか双務的でなければならないか。

◆我々が木の実であり、一日一日と熟れていくのなら我々は本来的に強い克己心を持っていなければならない。

◆「男もやはり自分の容貌に関心を持つのね」と言われた時彼の心の中に一種の恥じらいが生じた。「私はつい先頃まで知らなかったわ」
 その言葉は彼にとって唐突であった。なんだってつい先頃まで、18歳にもなるまで知らなかったのだ。いや、知るという問題ではないのだ。むしろ本来的なものとして次第に積み上げられてきた自然認識の部類に属することではないか。そんなことを出し抜けに話題に持ち出されて、なんだか後ろめたい心持ちにさせられるのはまっぴらだ。と彼は思った。

 

年月日 曜日 日記本文
1959.8.10 Monday 1959.8.10 das schoene Wetter,Montag

昨日、ミス不知火コンテストベスト・テン発表大会に行って見た。遠い席でsの容貌ははっきりしなかったから美の水準とかいったものの云々は出来ないがその他の点、近代性とか歩行態度などについて気づいたところがある。
 近代女性という言葉はあいまいには違いないが、ああいう舞台の上に立っても物怖じせずはきはきした態度をとれるという長所を含むべき言葉である。一様に小声で下を向きぼそぼそと話す話し方は主催者側の要求する封建的な”姫”君らしく振る舞おうという策略的魂胆であろうか。ミス○○コンテスト風景としてはいかにも不似合いな感じは免れ得まい。それに司会の女性があまりぎゃあぎゃあと話しすぎるのもいただけない。
 言葉を失った哀れさもまた彼女たちにあったかも知れぬ。島原弁で話すことはミス不知火コンテストベスト・テンのプライドが許すまい。さりとて、バリバリしゃべれる程マスターした日本語は他にない。
 ・・・でございます。そでございますと答えるだけでは言語能力は極度に落ちるはずである。”洗練”さが彼女たちにはないのである。極端な言い方をすれば”洗練”を田舎臭さが凌駕しているのである。ミス○○が一定集団の中のよりよいものよりよいものとして選択されることを思えば、一定集団が田舎臭いとき彼女たちばかりが際だって洗練さを有することは無理であろう。私の住む島原半島の生活水準の低さでもあろう。彼女たちの服装、彼女たちの歩行態度・・・
 またこういったコンテスト等で、大学でのミスについぞお目にかかったことがないように思うが、しかるべき理由がありそうに思える。ミスコンテストの意義など問おうというわけではない。お祭り騒ぎ的な楽しい気持を味わえればと言いたいのだ。その点、昨日の美女たちの消極的な態度は、主演者としての資格に欠け、見ている方が面はゆい。

◆同時上映「まり子自叙伝 輝く星座」は面白かった。宮城まり子はまことに愛すべき歌手である。憎めない。笑いがある。見てて楽しいのだ。

◆Ich habe ins Seebad gegangen.

◆フライ級世界選手権大会は、米倉の善戦及ばず、レフリ−カウント3-0でペレスが8度目の防衛に成功。ペレス52勝1敗1分。
◆松川裁判は最高裁判決が今日行われ、仙台高等裁判所への差し戻しと決まった。

◆自然の力が、人間の身体に、その皮膚を焼くほどに強烈に働くことがあるだろうか。夏の海辺の烈日の下、ジリジリと不気味な尾とさえ聞こえてきそうな裸像のある風景、ああこれほど激しい生の躍動がまたとあるだろうか。青い海、輝ける空、群立する積乱雲。赤・黄・青・緑・白、色とりどりのswimming trunks.
東京の美女たちもこれほど華やかな原色を持ったことがあったろうか。

◆明日からそろそろ勉強を始めよう。今日まであまりにスポーツのみに力を入れすぎたようだ。
一日少なくとも昼間2時間、夜4時間だけは机の前に座っていることにしよう。一回目の試験というものは何と言っても重要なのだ。悪ければズルズルと悪くなってしまい、良ければそれ以後のガンバリもきくというものである。来月の試験準備は今日から始めにないと間に合いそうにないのだ。
1959.8.11 Tuesday

1959.8.11 das shoene Wetter .
Dienstag
◆猫の目のようにという表現も
人の顔のようにという表現の敵ではない。
人の顔のように変わる。
変わることにおいてそれは最高の表現だ。
ワレながらホレボレする時もある。
ワレながらウンザリする時もある。
自分の顔であるということはわかるけれど、
それも自分の首の上にのっているからわかるだけ。
プラスティックのように一定の形を持たない顔。
笑って怒って泣いて・・・
めまぐるしく変わるその表情。
変わる変わる変わる。
おお、鏡の中でにらんでいるのは誰の顔。
ほくそ笑んでいるのは?
すましているのは?



◆伊沢弘志君から手紙が来た。彼の興奮がそのまま伝わってくr。あの寮の空気が私を包む。忘れていた寮生活の生の感覚がそこにある。同じ部屋に私が帰京したら一緒にケンカしようという相手がいるというのだから穏やかでない。ケンカの応援を頼むというのである。
 それに彼も後悔して今からでも遅くない。一生懸命勉強しようと提案してきたのである。それはイイ。二人して張り合いながら勉強するなら効果はテキメン(でもないかな)であろう。今月22日頃島原を発つ予定だ。また会おう。

1959.8.12 Wednesday

1959.8.12 Mittwoch

◆文藝春秋9月号購入(と申しても自分の金で買ったのにあらず、出費は姉)
◆ショートパンツ(同上)

◆我々が限りなく前進するならば如何に大冊の本であろうといつかは征服されるであろう。その期待、その希望に胸ふくらませて大著に差し向かう。
 今私が読んでいるのはThe Brothers Karamazov.読み出して五日になるというのにまだ10頁そこらしか読んでいない。まさしくその征服は「いつかは・・・」的表現を必要とする遠い先のことであろう。だが限りない前進の前には壁はない。必ずや読み終わる日の感激は私のものとなるであろう。今のスピードで行くとすれば255日かかることになる。8ヶ月半の気長な精進をもし私が見事にやりおおせたら私は私に何を贈ろう。もう一冊の大著War and Peaceはどうであろう。
 とにかく明日のために今日もせっせと読み、最後の感激のために挫折してはならぬ。

◆熊本から久子叔母さん一行到着。子どもは男の子ばかりの三人。

◆春の選抜の優勝校中京商が南九州代表の高鍋に昨日0-4で負け、春夏連続優勝はできぬと言うジンクスをますます強いものとした。明日の第二試合に長崎の海星が平安と覇を競う。高鍋に続き九州男児の意気を見せて貰いたいものである。

1959.8.13 Thursday 1959.8.13 Donnerstag

◆海へ泳ぎに行く。海の美しさ。渋みを含んだ濃紺の海の色。水平線へ向かって格調を高めている。水平線。これほどに美しい曲線はまだ人間の手になっていない。視野180°に広がる円周線の濃きブルーに一つの白点が輝きやがてその輝きを増す。白き船体が私の背後の夏の日に映える。

◆佐久間、村田の両後輩が受験についていろいろ聞きに来た。受験期という切羽詰まった気持の時代は恐らくもうほとんど来ないであろう、この私。私の経験は彼らに有意義なことを多く語りうる程に豊富なのだが、私の気持ちは、わずか半年前の苦難の時期をすでに完全に忘却しつくしていた。彼らに要領の良い忠告は言えても彼らの心の緊張感と何と異質の心で答えていたことだろう。
 この頃よく浪人としての一年があったことを忘れてしまっている。その一年が私に与えた計り知れない影響はいったいどこにあるのだ。この夏の暑い盛りにさえも来年の三月のために捧げ尽くしている受験生たち、おお今年の我は彼らに同情しようと力まねば出来ない。去年の私の心はどこに行った。
 とにかく両君の成功を祈ろう。
1959.8.14 Friday 1959.8.14 Freitag,das shooene Wetter

◆善子叔母さんとトモ子来訪。
◆トモ子・鉄元・博・和夫を連れて海水浴に行く。

◆今日の私の感覚とか感受性、発想法とか思考傾向といったものに、昨日のそれらと比較してどれほどの隔たりがあるのであろう。あってもほんのわずかと言わざるをえまい。だが、一月前の、一年前の、と期間を広げることによって、隔たりとは呼べぬ程の段差のあることがはっきりしてくる。今日のものと昨日のものとの隔たりがあってもいい。一体そういった隔たりはどこから来るのであろう。
 もし私の手元に一年前の日記帳があるなら、その段差を証明する資料を容易に見出すことが出来るであろう。が、今あいにくない。だが少なくともその時期の私にとっては時の流れの速さなりが日記をにぎわす問題であったはずだ。この新日記帳の今日までの短い内容の中のどこにもその問題は現れていない。とすると私の対外的な感受性の対象の変化は、一体何によるものであろうか。内的理由は考えられるであろうか。平穏無事な毎日が破局に陥る時、その人に如何なる内的欲求があったためであろう。すでに昨日のものと今日のものとの間に横たわるらしいわずかの隔たりは、しかし、単に外的条件の働きかけによるものと断じてしまえるものでもない。どうして私が今日こんなことを考えてみる気になったかという心の動きさえ解明出来れば、案外答は簡単かも知れぬ。フトという表現がぴったりなほどそれは私の心にポッカリと浮かび上がって来たのだ。読みかけた山塔の影響と決めてしまえば外的条件の優勢説になろう。
1959.8.15 Saturday 1989.8.15 Sonnabend,das schoene Wetter

*終戦記念日

その日、私は何をしていたろう。私の記憶はその日を全然とどめていない。だが、終戦後の生々しい事どもの片ぺんが心の底に不気味に沈んでいる。
日本人は皆殺しにされる、といったような風説を今も私は覚えている。あらゆる事が信ぜられた時期でもあった。
 アメリカ人が上陸してくれば、と。私の周りの人々は言った。皆殺しにされるのだ、と。
 本気でそれを信じて言っていたかどうかは私の拙い記憶は答え得ない。だが、その当時わずか満五歳にしかなっていない私のおぼつかない脳裏に焼き付くだけの強さを持っていたとすれば、あながち本気でなかったとも言えないではないか。
 小学校に入学したのは昭和21年4月であった。あらゆる物資の欠乏していた時の入学であった。本もカバンもクツも本当に何一つ十分なものはなかった。そしてその登校下校の時、何かしら恐怖に包まれていたような記憶が残っている。道路のあちこちに戦争時を思わせるような残物があったことにもよろう。
 しかし、まことしやかな風説からくる恐怖心が強かった。空から色んなものが降ってくる時代であった。道ばたのドラムカンはその一つであった。
 友人は言う。”万年筆とかフデバコとか空から降ってくる。米軍がまくのだ。だけど、それにちょっとでも手を触れると爆発してしまう”と。
 私はよほどたたなければそのドラムカンに触ってみる気になれなかったし、その時もまったくおずおずものであった。すでに空から広告ビラが落ちてくる頃になっても、空からの落下物に対する警戒心は残っていた。
 その残傷がいつ消滅したかは知らぬ。私の幼年期はまことに暗い時代であったと思う。その中で幼心が如何にもだえ、煩悶し、恐れていたことか。
年月日 曜日 日記本文
1959.8.16 Sunday 1959.8.16  Sonntag,das schoene Wetter

○忠叔父さん、マリ子、コウジ来訪

◆Miss××へMr.Abeからの第一信。そして最初で最後になるかも知れぬ運命的な便り。もし貴女がO.Kであれば文通は続くであろう。NO,である時片思い的文通は、文通の性質上、不可能であろう。
 貴女のaddressをNHKのラジオ会話6月号で手に入れました。貴女の趣味[テニス・映画・・]が真実を語るとすれば、僕の趣味と合致します。今頃はすでに楽しき文通を始めていられるであろう貴女にかくなる手紙を差し上げるのはある文通マニアの忠言、月遅れの雑誌で探した相手の人とは成功するチャンスが多いというのを信じこんだが故。だからと言って必ずしも真実ではないでしょう。もし貴女が楽しい文通に対する雑音でしかなかったとしたらお許しあれ。諾否にかかわらずお返事下されば幸甚です。現在長崎県島原市に帰省中。23日に当地を発つ予定。

◆上のは適当に書き換えれば何通でも出せる仕掛けの見本。二三通実験して見よう。
1959.8.17 Monday
1959.8.17 Montag

○坂井秀子嬢ら三人に葉書で文通を求む。
○重馬叔父さんに残暑御見舞い
○北野宅に行く。土井富美子さんも来訪。一中に三人でピンポンに行く。
○夜7時半頃から海水浴に行く。全く静かな海。波一つなく上空高く十四夜の月。波の上に寝て夜天を仰ぎ星を数える。

◆今夜のように良く満ちた潮は今年初めてであった。飛び込み台の一段の上まで来ている水の中に立っていると、私の隣の男が言った。阿部君か。うなずくと、ずいぶん成長したなという。名前は覚えていないが、私の一年先輩だったことは知っていた。他に二、三しゃべりあったが、私の心にかかっている言葉は成長したなという表現である。
 その場ではなんだか、変な言い回しに感じられ、身体だけはねと答えたのであったが。成長という言葉をそう言う風に面 と向かって使われると何だか子ども臭い感じがするものなのだ。私のちょっとした反感もそこに根ざしている。
 しかし、いい言葉ではないか。あらゆる人間が日に日に成長しつつある逞しさといったものは、私のように相当長い月日をおいて島原に帰って来たりするものには強く感じられるのだ。成長、それは何だか恐ろしいまでものがある。恐ろしいまでの哀しさがある。恐ろしいまでも愛しさがある。
 今日土井富美子さんに会ったが彼女とは一年四ヶ月をおいての再会であった。すでにパーマをかけている彼女。
 時の流れをしみじみと感じさせる。時はとどめることは出来ない。この身一つをやがて互いに人妻として、夫として、一介のサラリーマンとして、老爺、老婆としてさらし合わねばならぬ 程、我々の人生は後が長い。
 成長、本当にいい言葉だと思う。
 願わくば老爺になりはてるまで子ども臭くありたいものだ。会うたびに他人から成長したなと言われうる人生を持ちうるとすれば幸せであろう。

◆窓の外は暗く静かである。鈴虫の音が聞こえてくる。コオロギもいる。ジージーと羽をふるわせる虫もいる。カトリセンコウの煙が、私の身体を包んでいる。ショートパンツに姉が作ってくれた、格子地のシャツを着て、私はこれを書いている。19歳7ヶ月13日のこの私。私の全存在が腰掛け椅子の上に乗っかって上半身を鏡の中に写 している。
 とにかく私の全存在が唯今ここにあるのであって他所での存在はありえない。私の身分とか資格は、東大生と言い、阿部家長男と呼ぶかも知れぬ 。しかし、この椅子の上の私が忽然と姿を消すときそれがいったい何であろう。それらも私と一緒に姿を消さねばならぬ のだ。なで肩の弱々しい存在。その存在の重みはなく、存在の意義は利己主義だ。存在の価値がいかほどあるというのだ。今ここで即刻失われても誰一人をもその存在の重みによって動かすことも出来ない。無限小の存在価値。
 この状態から一体何によって存在価値を増し存在意義を個人主義に出来るのか。何時?いかに?私の存在意義は窓外の吾人を楽しませる鈴虫一匹のそれにも劣るではないか。
 鈴虫がひときわしげく鳴いている。
1959.8.18 Tuesday

1959.8.18  Dienstag
◆夕立の後の空の青さはすばらしい。
 今夜8時頃から大手広場で盆踊りがあった。
 浴衣がけで出かけてみた。市民がずいぶん集まっていたが、そのすべてが輪を作って踊るのではなかった。主催者と称する森岳、霊久二地区の婦人会の盆踊り披露会と言ったほうがぴったりしたろう。人垣の三重目ぐらいからは良く見えないくらいの小人数で踊って見せるのである。
 人が踊るのを感心して見ている人間の多いのにも感心するが、どうして積極的に参加しないのだろう。踊りを知らないためか。司会者のうまさもずいぶん影響したろう。驚くべき司会者なのだ。引きずり下ろしてやりたいくらいだった。
「旦那様との今夜12時からの夜の演習」と言ったような下卑た言葉を二度まで使った。
「そのためあまり疲れすぎないでくれ」というのだから、バカにした話だ。婦人会が主催ならなら、なぜ、あんなへんてこな男の司会者を、もっと上品な女の司会者に代えなかったのだろう。
 それに嫌な奴というものはどんな集会にもいるものだが、どうしていつもいつも二十歳前後の青年連中がその役を買って出なければならないのだろう。火のついた爆竹を所構わず投げつけて喜ぶなどとは感覚麻痺にも程があろう。
 この盆踊りにしろあらゆる催し物においても彼らの本領発揮したところをまざまざと見せつけ彼ら自身の存在を他に顕著せしめる機会といったものがほとんどない。彼らはこそこそとしたそういう振る舞いで若い女の子の気を集め、自己を主張しようとしているのだ。

1959.8.19 Wednesday 1959.8.19 Mittwoch

○京都市宇多野ユース・ホステルへ。8.24、25両日の宿泊申請(しまった!印鑑を押すのを忘れた。)

◆私のこれまでの短い人生のうちで、人生への対決とか言える時期があったとすれば唯一つ東大受験期が、すれすれの線で引っかかる位であろう。
 それにしても生半可な対決ではあった。あんな代物を実は対決といった言葉で呼ぶのをあまり好まないのだが、まあまあのいった気持で選に入れたわけだ。私としては一人前の自覚が出来て以後のすべての私の人生が”対決”と呼ぶのにふさわしいものであって欲しかった。
 かく考えると今日この頃の生活態度にたまらない嫌悪感をもよおすのだ。人生への対決といったような美辞に憧れるような態度そのものさえも気にくわない。
 私の唯一の対決期という受験期の後半を思い出すと現在の生活がその時期の生活に比して何に欠け、何処に見劣りがあるかということがはっきりするかも知れない。
 一日を無為に終わるということそのものが対決への資格に欠けることではあるが、その頃も今も私の犯しがちなことではあっても、痛烈な胸の痛みをもって反省するという態度は現在は失われてしまっているようである。明日があるという逃げ口上を良心に対する呵責を感ずることなく、連日連発している始末なのだ。 自分を甘やかし過ぎる態度ほど見にくいものはあるまい。自分自身に対して増長してしまった人間ほど、他人の失笑を買う存在はなかろう。実力も、学力も、社会に対して、人生への対決に対して、深い洞察もないくせに、ただ東大生という肩書きにのみ頼って生活しているような哀れさが私にないだろうか。やがて東大卒という肩書きのみを唯一の頼りとして、人生を巧みに渡って行くのが私の未来像でなくでなんであろう。
 人生への真剣な対決を知らないままで、現実の私から脱し、哀れな未来像を破壊することは出来まい。
 明日から直ちに人生への対決が出来るとすれば苦労はない。人生への対決という言葉が泣こうというものだ。一日一日の地味な努力が積み重なって初めて人生への対決へ進めようと言うものである。私の悪い癖だが、すぐ極端に走ろうとするのだ。早起きの習慣をつけようと思うと今日まで午前2時に寝に着いていた翌朝、午前5時に起きようとする性急さなのだ。今日までの生活にぴったりと悪というレッテルを貼り付けて、明日すぐに善というレッテルの貼れる生活を始めようというのだ。それだけ善悪に対しての感覚が鈍く、その把握が足りないの言えよう。悪から善へのあまりに急激な移行を敢行しようと力みすぎるが故に返って固すぎる鉄のようにポッキリ折れてしまうのだ。
 あまりに理想的な計画をすぐ作ってやってみようとするほどに本性は非計画的なのだ。
 明日から(この言葉にいつもあまりに力を入れすぎてきた)人生への対決の方向へ第一歩を踏み出さなければならない。この一文が単なる自虐趣味の現れとなったら益々情けないものとなろう。私は時にこういう文章を書いてみる意義を認めたい。なんらかの心の糧を、自分を俎上に載せて少々でも分析してみることによって得られるとしたいのだ。

○春子伯母さん来訪。

◆彼女の顔立ちは僕の好きなタイプの一つで清楚な美しさがあった。けれど、あまり近くから見た時、一つ一つの作りがバラバラになって見え、僕の心のどこかで失望が芽生えた。でも、やはり彼女は美しい。僕はいつも少し離れた位置から彼女を見ている。

◆色気などこれっぽっちもないからって彼女が魅力のない女性かというとそうではない。清楚な女学生らしさとピチピチした肢体、ちっちゃな口許にたたえたほほえみは、その歯の白さほどに染み通る堪らない魅力だ。私とその夜知り合い、その夜別れたままになった彼女は、津田女大の一年で、材木町の近所に家があるとか言ってたっけ。ああ、あのほほえみ!

◆あの夜のダンス会で、最初から最後まで一緒に踊り通した彼女。落ち着いた面長の造り。悪びれない謙虚な態度。肩まで長い縮らした黒髪。身体によく合ったワンピースを軽々と着こなして、目立たないが雰囲気もある。「さようなら」と言った時の彼女。二人のちょっとした戸惑い。もう一度「さようなら」と言って彼女は私の前から消えた。「さようなら」と振り切るように言った彼女。私の一言、それでその夜は二人の語り明かす宵にもなったろうに。名前も、住所も、学校も、彼女ついては何にも知らない。だが私は彼女を知っている。
1959.8.20 Thursday 1959.8.20、Donnerstag
◆目標には二つの種類がある。遠い目標と近い目標とである。現在の私には後者の方が欠けている。受験期には入試合格という目標が近いところにあった。それで生活に張りがあり、努力するにもそのカイがあったものだ。ところで現在は。近い目標がないのである。
 一学期末の試験にいい点を取る。これが目標とすると十月の目標は二学期末の試験にいい点を取る、ということになろう。大学生活が、これでは試験のためにむざむざと消費されてしまうようなものだ。あまりに落ちた目標だ。だからといって他に何があろう。近い目標といって遠い目標と区別するのも、それが現在の生活において張りをもたらし、努力のカイを作り出せばこその話なのだ。
 遠いところに遠大な目標を持つことはいい。しかし、それはあまり漠然として、生活の刺激とはなりえない。生活に活を入れるためには、近い目標の確立が要請されて当然なのだ。
 目標というものは天下りのものではない。未来の一点へ自己のエネルギー放射するために自らが定めた一点でなければ意味がない。自らが定めた、という喜びを、自らの力で完成する、ということによって倍加するのでなければ真の目標とは言えまい。
 この私の生活の集中射出を行うべき真の目標を私は決めねばならぬ。そこに初めて真の生活も生まれようと言うものだ。私の近い目標としてこの文章内での矛盾があるかも知れないが、第一回の試験を悔いのないものにするということにしよう。明日からの私の生活の焦点はそこになければならぬ。決して易しい目標ではない。あらゆる人間が、自己の力を完全に傾注し得たと感じた時においてのみしか、悔いのない状態は招来せぬものであるから。
 目標は決まった。ただ実践あるのみ。
1959.8.21 Friday 1959.8.21  Freitag

◆今夏猛島海岸で泳ぐのも今日が最後となろう。23日には島原を発つ予定だ。24,25には京都宇多野ユース・ホステルに泊まり、27日の朝東大着となろう。
 明日は祖母の77年の祝いがある。総勢18人集まってちゃちなことをやるらしい。
 帰ろうとすれば年四回帰れる大学生活である。
 今度の夏休みはおよそ40日間の滞在であった。
 薄暗い寮の中の空気ばっかり吸っているよりか確かに時たま帰って来る方がより健康的であろう。
 夏帰ってきたカイがあるのも、シャワーが自宅にあればこそである。やはり東京の方がやりきれない暑さが多いようである。
 美しい青空がここに座っていて三方に見渡せる。残りの一方から午後四時の長い日差しが家の中に竹模様を作っている。
 濃緑と空の青みのコントラストはまだまだ夏のものであり、アブラゼミの声さえ聞こえてくれば、まだまだ暑い。
 落葉樹の黄葉も、しみじみした秋にはほど遠い。
 故郷の印象はさすがにいいものであり、それが失われた感覚を持たなければ、私の心も悲しまずにすむ。少なくとも年三回帰れるから、慢性の故郷喪失症にはかからなくて済むであろう。東京に出かけてから一つ所にせいぜい四ヶ月しか住み着いたことのない私には、どこに行っても余所者感がついて廻った。やはり私が余所者でないのは今のところ島原しかない。だがそれも次第に怪しくなりつつあるようだ。


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