筆者、20歳〜21歳、大学二〜三年生当時の日記の連載を始めます(2002年9月26日)
日記の部屋1961-04/Diary1961-04


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(2002/9/26)

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年月日 曜日 日記本文
1961/1/5
Thursday
1961年1月5日
1961年1月5日は、自然の恵みが万人の胸にもひしひしと感じられるような美しい朝を迎えている。陽光が、地上のありとあらゆるものの上に明るく照り映え、青々と晴れ上がった空が地上からの反射光にきらきらと輝きわたっている。昨夜来の風がまだ完全には止みきらず、樫の木の葉の間を駆け抜けては、光の波を幾重にも織り成していく。空にも地上にも、みずみずしい香りが満ち溢れ、空気の冷たささえ、人の心に春を思わせる妨げにはなり得ない。深く息を吸えば、すがすがしい朝の思いが、胸いっぱいに湧き上がってくるようなそんな朝だ。

今朝、私は我が二十一回目の誕生日を迎えた。

二十一歳になったのだ。こう思うと、少なからぬ感慨が浮かんでくる。
二十一歳。もう何をしても十分な年齢である。それ以上に、何かをなさなければならぬ年齢である。世の諸賢天才を思えば二十一歳が無為に過ごしていい年ではないことが知られる。彼等の多くがすでに二十一歳の時には優れた業績を上げている。私も負けてはおれぬではないか。私なりの素質を十分発揮して、私なりの成果を上げねばなるまい。

成果とはいってもそれほど特筆大書すべきものを言うのではない.私に出来る範囲で精一杯のことをしたという満足感がこの二十一歳の終わりに味わえるとするならそれでいいのである。力みすぎて首の骨を折るような馬鹿げた行いをすることはない。二十一歳の分別はそうした行いを、自らに課するようなものであってはならない。青年らしい理想主義的な行為と、無謀な行いとは全然べつのものであることを銘記しておく必要があろう。

二十一歳ともなれば、自分の才能と言うものについてある程度の認識が生まれている。自分の才能がいかなる方向に向いているか、才能の豊かさがどれほどのものであるか。不十分にはしろ、ある程度、見通しうる。無謀な行いとは、自分にありもしない才能をあてこんで、夢のみを美しく咲かせることである。

才能があると自分が考える方向に対しては、いかなるもくろみといえども無謀といいうるものではあるまい。それは遂には、不成功に終わるものであってもよい。と言えばそれは無謀な行為と変わるところがないではないかという反論が出るかもしれない。しかし、自己の才能に対する二十一歳の認識の裏づけがあるかないかという点で決定的に異なるといっていいのではないか。

二十一年の経験をかけて、今年は徹底的に自己の才能に対する検討を行わなければなるまい。この検討は自己の埋もれた才能を開発するという点でも重要な役目を果たしうるものでなければならぬ。単に今までの才能の上を撫ぜさするだけで終わるならば、かえって無謀な行いという名目で自分のし穴太を局限することにもなろう。

才能開発と、才能を挙げてあることに取り組む年。これが私の二十二年目の年でなければならない。

◎ 年賀葉書
中川博隆、板倉周治、草野萬三郎、中島光恵、植木忠

1961.1.6 Friday 1961年1月6日
 昨日、私の誕生日の記念のために岩波文庫を三冊買った。
 トルストイ「青年時代」
 スティーヴンスン「若い人々のために」
 スタンダール「恋愛論」上

 いずれも、“若い”私の新しいけじめを記念するのにふさわしいものをと思って選択した。
 これらの本とともに、この一年を情操豊かに、楽しく送っていきたい。
1961.1.7 Saturday

1961/1/7
■深夜の暗黒の底で、一人ピアノソロを聞くこと。これは十分に楽しいことである。

■私はなんとしてももう少し語学の力をつける必要があるようだ。もはや他に抜きん出るためには、、日本人では足りぬのであって国際人で名変えればならない。日本という狭さから解放された世界と言う広大な活躍範囲を得るためにも、私は語学力、単に会話ができるというだけではなく、文章をよどみなく書ける位の力がなければなるまい。英語ではその程度になることを目標にして、仏語では、せめて会話ができるくらいにはどうしてもなりたい。こうした目標達成のためには、プレイヤーが必要となろう。四月には購入しよう。                                        
一月→二月十五日、試験準備(三十五日)                                                                          
二月十六日→三月上旬 試験計九課目                                                                       
三月上旬→四月上旬 休暇                                                                          
この間、下宿探し/旅行/会話力増強                                                                        
◎旅行はどこへ行こう?                                                                            
◎下宿はいい家が見つかるだろうか。                                                                          
◎北野恵子さんからお手紙。島原の正月の模様などを知らせてきた。                       

○プレイヤーを買ったら、会話用のレコードをあれやこれやと買って、それを徹底的に暗記する。これで耳の訓練と、反射的に話せる力をつける。その後は努めて外人と実際に話すチャンスを持つ。ビル・ハーシーを訪ねていってもいいだろう。                       
 だが、その会話をマスターするにも基礎をなる英語力がなければだめだ。毎日毎日地道に学ぶことなくしてどうして語学力を増強できよう。さあ、今日から始めよう。                                                    

1961.1.8 Sunday 1961年1月8日

この真夜中のしじまの中にかすかな寝息が聞こえてくる。この休み中私一人だったこの部屋も、あと四年生の広瀬さんを残すだけで、五人となった。明日から学校も始まる。いかなる星の巡り合わせか同じ部屋に、青春のある機関を過ごすことになった六人である。仲良くこれからもやって行きたいものだ。冬休みには文学書が少し読めただけで他に何もできなかった。明日から奮発して行こう。

(理髪)
1961.1.13 Friday

1961年1月13日
■今日家から小包が届く。◎文旦漬け◎干し柿◎ピーナッツ◎フライソラマメ◎即席しるこ        

■腕時計のゼンマイを巻く。ほとんど抵抗がないほどまでにゼンマイが戻っている。ちょっとさびしくなる。ついさっき巻いたんじゃなかったっけ。そのついさっきが一日以上も前だったことをゼンマイの抵抗の弱さが示している。一日の経つのの速さ。ついさっき巻いたなどと、365回巻き直している間に一年は過ぎ去ってしまうものらしい。ゼンマイを巻き上げようとネジをつまんだ時、祈るような気持ちで強い抵抗力を期待している。

 

1961.1.14 Saturday

1961年1月14日

今日K嬢から電話がかかってきて、お会いしたいという。午後三時に”でんえん”で会う約束をしてしまう。手紙を書いたが恥ずかしくて出せない。お会いすればお見せする。という。どんな内容だが皆目見当がつかぬ。案ずるより見るが易し。”でんえん”に行く。

さて話の半ばで彼女おもむろに手紙なるものを取り出す。言ってみれば、ラブレターである。男性たるもの、女の子からラブレターを貰って嬉しそうな顔を見せぬわけにはいかない。結構ニコニコしてしまうから罪な話である。

 手紙の結論とも言うべきところは本心を言うべきところのものなのだ。そこで           

 −−私の本心を言いましょうか、と来る。                             

 今しばらく貴方という人とお会いしたいの。でも、決してこれ以上好きにならないくらいに。そしてお別れする時にアデューと笑って言えるくらいに。ずいぶんエゴイストなことを書きましたが私への精神分析をお願いしますわ。                             

 彼女の要請に応じてここに冷静なる彼女の精神分析をすることはちょっと酷すぎよう。だから私も少しとぼけた分析でもやってみようかしらん。                                         

 「これ以上好きにならないくらいに」お会いしたいということ。これは如何なる心理的屈折を経て出てきたものか。手紙の他の部分にも言っているように、彼女は私に最初に会った日「自分では何でもないつもりで」会ったらしい。ところが「一人になってはっきり分かっ」てしまう。それ故に次のような決しての使い方の少々おかしな文章が出てくる。「決して決して考えてみてもいけないことを私はやってしまいそうです。」

「二度目に会ったとき、彼女はもうこれっきりだと心に誓っている。しかし「名刺まで差し上げてしま」う。すなわち、これからも会いたいということになる。ところで彼女の方が私より少し年上だし、私は「勉強中で将来を約束された身」であり、彼女は「遠からず結婚しなければならない身」である。それ故自分自身を、「私は決して、貴方の恋人になろうとは思っておりません」という拘束のうちにおくことになる。こうした心理過程の当然の帰結として、「決してこれ以上好きにならないくらい」の「お会い」の仕方が要請されることになる。                                          

 だけど今日現実に会ってみて彼女のこの「くらい」という表現は随分あいまいな表現であるような気がして仕方がない。”でんえん”までのタクシー代260円を奮発して駆けつけてくるし、コーヒー代も映画も全部自分で持ちますと言うし、別れ際がまた極めて幸福そうなのだ。「お別れする時にアデューと笑って言えるくらいに」とは彼女の言い草だが、はたしてそううまくいくかどうか。

 彼女の言うとおり「結末はこうと分かってい」る我々のはかない”逢引き”である。人生のある段階においてこうした関係を経験することも悪くないであろう。「一生のうちの小さな想い出として残しておくだけならそれもいいと思います」。賛成!             

◆ところで今日見た映画は、オードリー/ヘップバーンの「許されざる者」と「全船艦を撃沈せよ」   
 「許されざる者」はなかなか良かった。結末がどうなるか全編、サスペンスに富んでいて最後まで引きずられていってしまう。ヘップバーンは相変わらず美しく、バート・ランカスターもいつものように逞しい。それに広々とした西部の口径がなんとも言えず美しい。

もう一つの方もなかなか面白くスリルに満ちた戦争映画。「深く静かに潜航せよ」に似る。ミレーヌ・ドモンジョ、ロッシドラゴ等出演。

 

1961.1.15 Sunday 1961年1月15日(日曜日)

成人の日。
◎お年玉抽選。五等当選一枚。                                       

自分の文字。書いた瞬間はーーうむ、悪くはないぞ。
一分経過。たいして良くないな。
五分以上経つと、なんて下手な字なんだ、くそ食らえ、見ていると胸がムカムカしてくる。ということになる。なんてきざっぽい。なんて幼稚な。なんて品の悪い。その時々の感情の赴くところ様々な悪罵と嫌悪のまなざしの絶好の餌食となり終わる。

 しかるにである。一年経って見返すとこういうことになるのである。
「一年前には僕もこんなにうまい字を書いていたんだな」
1961.1.15 Sunday

1961/1/15(その2)

キリスト教と私                                                                            
「地学の勉強は出来たかい」                                   
 海に網打つペテロに対して「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」とイエスは言われたという。ペテロを神の国に導く最初のきっかけとなったのが、この言葉であるとするなら、私にとって「神の存在」というものに対して新しい目を開いてくれるきっかけとなった言葉が、冒頭のあのへんてこな言葉なのである。もう少し事情を説明しなければ分かってもらえそうにない。                                        
 三学期の試験中のことである。夜の十時は少し過ぎていたがまだ明日の語学の準備も進んでいなかった。この分では夜が遅くなるなと思い、腹ごしらえに駒場寮の北寮にある売店に食べに言った。そこにたまたま僕の友人が来ていたのだ。アレコレと話しているうちに、友人が言ったのである。             

「地学の準備は出来たかい」                                   

 僕は最初きょとんとしていたが、とうとう笑い出してしまった。                  

「何を寝ぼけているんだい。地学は来週の火曜だろう?!まだ全然手も付けてないよ」                  
 僕は自信たっぷりにふんぞり返って相手の見当違いの質問を冷やかすようににやにやしながら、眺めたのだった。ところが、今度は相手のほうが笑い出してしまった。                     

「おい、おい」                                         

 相手の笑いは顔一面に広がり、「本気か」と来た。                        

 「明日の二校時じゃないか」                                   

 これにはさすがの僕もフラフラとした。                                                                            

 −エッ本当かい?!                                
−本当も嘘もないよ、嘘だと思ったら掲示板を見てくればいいじゃないか。確かに君の言うように火曜日にも地学の試験はあるけど担任の先生が違うんだよ。それに地学を落としたらえらい目に会うぜ。良くって経済学部に仮進だな。                          

 どうも彼の方が正しそうである。僕は自分の重大な過失を認めないわけには行かなかった。僕はその足で掲示板に急いだ。そこは真っ暗だった。一生懸命に闇に目を慣らし、壊れかかった机の上に乗っかって顔をこすりつけて試験の時間割を見た。確かに彼の言が正しかった。明朝の二校時僕の必須課目の一つ地学が行われることになっていた。                 

 その夜、掲示板から戻る銀杏並木路でのあの深い感動を私は言い表し得ない。私は救われたのだった。    
 銀杏の並木路の上には星が美しく輝いていた。その美しい星を見上げているうちに私はふと気づいたのであった。私にとって神の存在と言うものがもはや疑い得ないものになっていることを。自分が今その神の胸に他の誰よりもまして暖かく抱かれていることを。この全宇宙を作った神の細心の配慮が今自分を満たしている幸福感の源であることを。おおこの美しい調和をもたらす神よ。私は心からそのとき祈ったのであった。私のようなものも救われた。私がもしあらゆる偶然がもたらした友人のあの言葉を聞かなかったとした時の惨めさを考えてみると、神の配剤を思わぬわけにはいかなかった。もし僕が売店に行かなかったら、もし彼がその時・・・もし・・・     と考えれば考えるだけ、僕はそれが神の御心によるものであることを疑うことができなくなった。        

 私はこの経験を「キリスト教と私」という題の作文を書く以上どうしても言いたかった。私のこれまでの精神的環境が、あの時私の見た神を必然的にキリスト教の神にしていたのであるから。私はそれまでキリスト教にかなり深い関心を持っていて、教会に出かけてみたり、聖書を読んだりした。こうした下地があってあの時を境に二私のキリスト教に対する目がはっきりと開かれたことを意識したのである。    

 First Church of Crist,Scientistの厳かな雰囲気は忘れがたいし、昨年の安保闘争の時、私は心の中に聖書の中のこの言葉を繰り返しながらデモに参加していたのだ。    

 No servant can serve two master for either he will hate the one,and love the other;or else he will hold to one,and despise the other(Luke16)

民主主義と非民主主義の二つの主人に仕えることは出来ぬとそして  
 Father,forgive them;for they know not what they do. と。         

  私の過去を振り返って見ればまだまだキリスト教と私という題の下で書けることが沢山ある。        
  高校時代の白百合学園の女生徒との文通を通して聖書に親しむことを覚えたこととか、小中学時代の日曜学校の思い出とか、教会関係のボーイスカウトに入っていたためのいろいろの影響とか。高校時代にカナダの神父さんに英会話を習いに行ったこととか。ジイドの狭き門や田園交響楽を読んでキリスト教に激しく惹かれこと。欧米人のバックボーンとしてのキリスト教を是非自分のものにしたいと考えたことなど。書きたいことは色々とある。しかし、すで制限枚数を超えたようだし、一番最近に体験したことによって私の目がはっきりとキリスト教に対して開けれたことだけを強調したい。私の法学部進学の望みは神の加護によって達せられた。私はこの入舎の望みは次の聖書の言葉に待つのみである。

 

1961.1.18 Wednesday

1961年1月18日

わずかずつでも一日一日進歩していくということの困難さをつくづくと感じます 。一日の長さはごく限られたものですからその間に何にもかもできるものではあ りません。だからたとえば英語の単語の力をつけたいと思っても、毎日毎日根気良 く覚えていくということは実に困難なことです。ほんの十五分ずつでもと最初は思 うのですがそれでも忘れずにその時間を割くということは容易なことではないの です。時々思い出してはああしまった、と思い、その時には30分以上も割いて少 々の単語を詰め込み、これからはと誓うのですが、翌日には元の木阿弥になって しまうのです。

英語の単語一つ取り上げてもこうです。やれ会話力、やれ仏語、や れ独語、やれ法学、とこうなれば、全くのお手上げの状態です。一日一日を無計画 に、恣意的に取り上げたもので終わってしまうので結局は虻蜂取らずになるのです 。同じものを毎日続けていかぬ限り力はつかないものですから。

1961.1.20 Friday

1961年1月20日

人間を愛することの厳しさを私はまだ知らなかった。ひたむきな愛を誰一人に対 してもついぞ感じたことがなかった。毎日毎日がそれ故に空虚であった。誰かを愛 したいという欲求が何時もありながら、その誰かを見出すことが出来なかった。私 に好ましい感じを与える女性は何人となくあったけれど私はそのどれに対しても 積極的でなかった。思わせぶりな眼差しを投げかけることはあっても、それ以上の 行動を取ることが出来なかった。お互いに強く引かれているんだと感じながら、も う一つ相手の心がはっきりしないという不安から私は何の手も出せなかった。こ わかった。思い違いしないでね、と言われるのが。

思い違いなもんか。君のその眼差しとその振る舞いから僕がどんな思い違いをす ればいいんだ。君の眼ははっきり僕に言っている。私も貴方が好きですと。

僕がそ のいざと言う時こう言えるとしたら僕は自分自身を随分頼もしい男と感じたに違 いなかった。だけと私は弱い男だった。一番最初に“いやよ”という言葉を想像し て恐れていた。私は「逢う時はいつも他人」の一場面を思い出す。カーク・ダグラ ズが、キム・ノヴァックに誘いかけるところだ。君にどこかがお話したい。と自動 車の窓から男が話し掛ける。女は最初拒否する。男はお構いなしに何時お会いで きるかという。女はダメですを繰り返す。

When?Where?When?火曜日はどうだ。木曜日の晩はどだ。都合悪い?じゃ金曜日は ?女は思わず、言ってしまう。Where?キム・ノヴァックのあの息を呑むような緊張 した顔さえ思い出す。

 私はよしんば話し掛けたとしても最初のNoでたちまち意気消沈してしまうkと だろう。When?をあれほど強引に繰り返す勇気がない。しかし考えてみればこれで は男女の駆け引きを知らないといわれても仕方がない。カークにしろNo一言であっ さり引き下がってしまってはその後の恋は生まれなかったはずである。したがって あの映画は出来なかったであろう。

 その後の経過が示すように二人は深く愛し合うのである。キムはNoといいながら その運命を知っているのである。それを恐れるが故のNoであったかも知れぬ。女の Noはしばしば逆の意味合いを持っているのだ。男の強引さによってしばしばずる ずると引きずられてしまう可能性を持つNoなのだ。No!No!と曲がり角に来るたび ごとに男の手を振りちぎろうとしながらも、結局は男の家に連れて行かれてしまう No!なのだ。

Noには、女性における限り、特に恋に関する限り、二つの種類がある 。それの区別がつきかねるというならまだ恋をする資格がない。それでもNoにはし ばしば直面せざるをえにあ以上そのNoがどっちのNoであるにせよ、もう一つあつ かましく念を押すのが男の勇気というものであろう。

嘘のNoとは知りながらそれで もへたへたとしてしまうのがどうもこの私らしい、女のほうも賢いとはいえない がそれでは私もだらしなさ過ぎる。ああ恋せよ乙女。

1961.1.21
Saturday
1961年1月21日

■(朝日新聞)
NHKはラジオ歌謡の歌詞を募集する。内容は明るい感覚のもので題材は自由。締め切りは2月15日。入選作品はさ3月22日の放送記念日に放送の予定。賞金、入選一編5万円、佳作3編1万円。詳細はNHKに問い合わせること。

■私の肉体がいわゆる現世とか俗世とかやらでどんなことをしておったのか、それはもう遠い昔のこととてとんと覚えておりません。それよりもこのごろ私は永遠の魂の糧として今一度下界に下りていってはいろいろと本を読み漁る楽しみを覚えたのです。もちろん私どもにはおアシがございません。それで書物を購入して読むなんて真似は出来かねます。もっぱら覗き見専門ということにならざるを得ないんであります。

私どもはあまり眞昼間には出歩かないようにしております(もっとも歩くといっちゃ語弊がありましょうが)。と申しますのも私どもが近づいていきますと一種のサムケをあなたがたに覚えさせるからでございます。夜になれば、隙間っ風で首筋にひやりとするものを感じたなんて経験をそう異にする人は今ではなくなりましたように私どもは方々に出向いているんでございます。

眞昼間出かけたところで私の目指す本なんてものがそう容易に見つかるものではありませんし、この間は満員電車の中で週刊誌とかやらを覗き見させてもらったんですが、いやはや話にならぬとはあのことです。あんな環境では私ども天国住まいのものではたちまち病気になってしまいます。私は吊り革のぶら下がった棒にぶら下がって読まざるを得ない始末です。どだい無理な姿勢ですのですぐ疲れてしまってようやっとのことで満員電車の中から逃れ出たときはもうフラフラでした。

それになんですかあの週刊誌とやら。永遠の糧を求めてこの世に舞い戻った私にはなんの取り得もないものでした。私の目には人間の心の中の動きまですっかり見えてしみますんで、かえって私が恥ずかしい思いをするぐらいなもんです。変なところをピクピクさせながら顔を赤くして一生懸命読んでいる人間どもを見ると私もこの世ではこうだったのかという気持ちが起こってきて今の自由の身が何といっても尊く思われて来ます。

いや書物を読む人が少なくなりましたね。どこの家を覗いてもテレビなら熱心に見ている人も見かけますが、本を読んでいる人となると滅多にいないんですね。それに私が読みたいようなものを読んでいる人となるとますます見当たらなくなってしまいます。

本屋でこの本を読みたいとしばしば思いながらも、私には物理的な力がないので本を開いてみることが出来ないのです。たまたまそうした本を買っていく人があるとどんなに遠くまでもくっついて行くのです。くっついて行きながら一刻も早くその人が例の本を繙いてくれるといいがと念じているのですが、いつもその願い通りにことが運んだことはないのです。

家にたどり着いてすぐ本を読み出す人なんて今の世の中にはいないようですね。一昔前には、本屋を出たとたんに読み始めたというじゃありませんか。ところが今ごろじゃこうです。家にたどり着くと本はひとまず忘れさせられるのです。のんびりと食卓に向かいテレビも見飽きてそれからいよいよ本ということになるんです。いやこれだっていい方です。そのまま包装紙に包まれたまま、二日も三日も忘れられていることだってあるんですから。ようやく読み出したと思っても、最初の二三頁で居眠りする人があります。ほとんどの人が最後まで本を読みとおすなんて面倒くさいことをやりませんね。20頁も読むと一冊の本は投げ出される。私はついにほこりにまみれて転がっている本を横目で残念そうに見ながらその家をお暇しなければならなくなるのです。

それに人がどういう動機で本を買うのか時々疑問に思うことがあるのです。これはと思う本を買っていったスマートな紳士にくっついて行って驚いたんですが、彼の書斎の本箱と来たらまった素晴らしいものなんです。このごろ流行りの全集ものと言うんですか、あれです。あれがビッシリと本箱に並んでいる。彼はといえば今買って来た本をおもむろに取り出して、丁寧に書棚の中に並べる。配本8の次の9だったというわけで、彼はいかにも満足げにいっぱい並んだ本を眺めては煙草をプカプカやっている。一週間も今夜は、今夜こそはという期待でその豪華な本箱のガラス戸が開かれるのを待っていたのです。

確かに二三度は開かれましたよ。だけど配本3の次の4が届けられた故であり、ちょっと彼が並べ方を変えてみたかったからに過ぎなかったんです。本を開くあのサラリという快い音をついぞ一回も聞くことなしに、そしてその時のあの芳しい新しい本の香りをかぐことなしに、私はこの家にも別れを告げねばならなかったのです。


私はある時表札に見覚えのある男の家に忍び込んだことがあります。確かどこかでこの人の書評とか何とかを読んだような気がしたんです。さすがすごいもんで先の紳士風の男の書物の量とは量が違います。家の半分が本なのです。本の中に埋もれて表札の男が原稿用紙を前にして座っているんです。・・・



■NHK
“誰かとそっと話してみたい”

昨日見つけた
田んぼのあぜに
こっそり咲いてた
蓮華草
もうすぐ来るのね
緑の春が
ああ、春の夢
誰かにそっと話してみたい

私のため息
知らないの
あなたを思って
頬染めて
切なくついてる
私の吐息
ああ、この密やかな私の思い
誰かにそっと話してみたい

私の望みを
知らないの
あなたと二人で
幸せに
暮らしていきたい
私の望み
ああ、この密やかな私の夢を
誰かにそっと話してみたい

私の涙を
知らないの
あなたと別れて
我知らず
夜風にこぼす
この涙
ああ、この密やかな私の憂い
誰かにそっと話してみたい
私の願いを
知らないの
あなたとともに
いつまでも
一緒にいたい
私の願い
ああ、この密やかな私の願い
誰かにそっと話してみたい

私の心を
知らないの
あなたのそばで
震えてる
恋に目覚めた
私の心
ああ、この密やかな私の秘密
誰かにそっと話してみたい

*    *************************

■乙女の恋心

私の思いを知らないの
あなたを思って頬染めて
切なくついた私の吐息
ああ、この密やかな私の思い
誰かにそっと打ち明けたいの

私のほほえみ知らないの
あなたの視線にうつむいて
思わず浮かべる私の微笑
ああ、この密やかな私の微笑
誰かにそっと打ち明けたいの

私の心を知らないの
あなたのそばで震えてる
恋に目覚めた私の心
ああ、この密やかな私の秘密
誰かにそっと打ち明けたいの

私の望みを知らないの
あなたと二人の幸せな
家庭を持ちたい私の望み
ああ、この密やかな私の望み
誰かにそっと打ち明けたいの

私の願いを知らないの
あなたとならばいつまでも
お話してたい私の願い
ああ、この密やかな私の願い
誰かにそっと打ち明けたいの

私の涙を知らないの
あなたと別れた寂しさに
夜風にこぼす私の涙
ああ、この密やかな私の憂い
誰かにそっと打ち明けたいの

制作時間1時間、午前1時42分






1961.1.22
Sunday
1961年1月22日(日曜日)

■    英語会の写真撮影

■    今日、私は東大YMCA寄宿舎の面接を受けに行く。クリスチャンでもない私。キリスト教というものをあまり分かっていない私。あまりうまくことが運びそうにはない。だけど、一応行くだけは行こう。

人生と言うものはこうしたものなのだ。絶えず万が一の可能性を当てにしてあっちこっちに動き回る。結局は徒労に終わることが多い。それでも動き回らずにはおれないのだ。人間の悲しい宿命か。人生そのものが徒労であろうとも今日は何もしないわけには行かないのだ。

私は敢えてYMCAに出かける前にこの文を書く。行く前と帰ってきてからとの私の心境の違いを注目したいのだ。結局は何をも生まない無駄な行動ではないかと思いながらもそれでも心の隅では一縷の望みを捨てきれない、こんな人間らしい心境を私は今持って出かける。だが私は帰ってきてどう言うだろう。

結果がどうであれ私の気持ちがあまり動揺しないことを念じる。こういう気持ちも出発前のものなのだ。

1961.1.23
Monday
1961年1月23日(月曜日)

ミス・アルマから久し振りの便り。消印が18日だからイギリスから日本まで5日かかったことになる。島原からでも手紙で三四日、小包で9日位はかかる。速いもんだと言えば言える。それにしてもずいぶんのんびりしたお返事である。クリスマスのお祭りのために忘れていたんだそうだ。まあとにかく手紙が途絶えてしまうよりは良かろう。私は今少々お返事の下書きみたいなものを書いた。見せしめに早急なる返事でも出そうかしらん。

1961.1.25
Wednesday
1961年1月25日

26日の午前3時である。
今日寮生大会があってその間消灯したためにこんなに遅くまで起きているようなことになったのだ。月曜日のアルバイトの日に2月から辞めることにしてきた。とにかく法学部の試験というものは大変らしいので僕みたいな者さえうかうかしておれなくなってきた。とは言いながら今日の勉強時間の大半を第三語学のフランス語に費やしてしまったような有様ではあるが。友人たちの様子を見ていると僕もじっとしてはいられなくなる。

1961.1.28
Saturday

1961年1月28日
Samedi 28 Janvier
小林直樹先生の「法理学」(上)はきわめて優れた本である。まだ全部を読み終わってもいないうちからこういうことを言うのも変だが、優れた本という構成要件に該当する実行の着手が既にあることは確かである。実行の着手があっても未遂犯に終わることはありえる。しかしこの場合結果犯といえるか単純行為犯といえるか問題であろう。最後まで読み通さなければ優れた本といえないかどうか。それとも継続犯というべきか。いやこうしたばからしい詮索が不必要なほど優れた書物なのだ。

まず問題意識の鮮明さを指摘したい。この鮮明な問題意識に支えられて、著者はあらゆる問題に真正面から正々堂々と四つに組む。決して問題を回避したりそらしたりしない。驚くべきほどの広い文献渉猟とそれらに対する的確な理解及び批判を通して独断的思弁を極力避けながら、相対主義的立場に立ちつつ自己の見解を大胆に開陳する。

著者の情熱と学問的業績が見事に融合した快著といってよい。

1961.1.28 Saturday

1961年1月28日
Samedi 28 Janvier
人間は一個の窓である。しかも主体的意思を持つ窓である。その自らの意思によって、自らの開く方向も巾も高さも、また自らを置く位置をも決定することの出来る窓である。

人間は幼少時においては必ずしも全て主体的ではありえない。しかし一度窓が開かれた以上、その奥に設置された光電管はどんなかすかな光であろうと感応して、自らの向きの首振りを開始する。我々にとって窓から差し込む光のみが全世界なのである。その光によって我々の主体性ははぐくまれ、その主体性は今度は逆に差し込む光の量と質とを決定する。こうした相互関係を繰り返しながら我々は成長する。

我々が自らの窓を田舎のわびしい寒村に開くならば、目の前にそそり立つ山ほどに我々の世界において高く険しい荘厳な山はないのである。我々は言葉を尽くしてその山を称えるであろう。しかし、我々が自らの窓をもっと高くもっと広く開くならば我々の目には、紫雲をたなびかせた富士の高嶺が泰然としてそびえているのが映るであろう。その時、我々は驚きを禁じえないのだ。今までの自分の世界が如何にちっぽけでくだらないものに見えてくることであろう。
その高く広く開いた窓からは連なる無数の山並が一望のごとく見渡され、昨日までの聖山が芥子粒のように遠く小さくかすんで見えることであろう。我々はその山並を前にして一瞬の驚愕に捉えられながらも、やや平静を取り戻すやまずやりだすことは自らの目を疑うことである。あまりに明らかな事実を前にしながらも我々にとって今まであまりになじみの深かった真理から容易に決別し得ないのである。

しかし、もはや真理の転換は不可欠である。我々はしぶしぶながら古い真理を脱ぎ捨てる。だがこうした心の痛ましい転換の傷跡は後々まで長く尾を引いて時々現れては心を痛みつけるのだ。さも良かろう。我々をして自らの窓を更に高く更に広く開かせしめようとした当のものこそ、その我々にとって古い真理であり、寒村の日々を美しく色づけていたあの小さな山であるのだから。

その山を、更に良く知り、その山に更に賛嘆すべき多くのことどもを見出すべく我々はその山の頂きに立とうとしていたのだ。我々はたまたまその山の頂きから、遠くに聳え立つ富士の山を見たのであり、連連と果てしない山並を知ったのである。

我々は自らの窓を主体的に支配しうる。しかし、主体性そのものの中にある制約性と歴史的社会的な外部からの制約とから絶えず厳しく拘束されているのだ。その意味合いから言えば我々の窓はビルに固定された窓に過ぎない。我々の主体性が発揮できるのは、単に窓を大きく開くか小さく開くか、夜開くか昼開くか、嵐に閉じるか霜に閉じるか、といったものに制約される。

我々はその固定された窓から目の前に展開される様々の情景を選択的に見ているのである。しかも我々は往々にしてその窓にフィルターをかけがちなのだ。一切を黄色に染まったものに見たり、赤色に染めて見たりする。目の前を通って行く物売りが言葉巧みにフィルターを売りつけていく。この黄色のフィルターをつけて世の中を御覧なさい。一切が美しく、楽しいものに見えますよ。と彼らは言う。我々は自分の貴重な現金をはたいてそのフィルターを購うのである。

私は今学問を学んでいる。私の窓は今学問に開かれているのだ。学問を学びながらつくづく考えることは何が寒村の山であるか、何がそそりたつ富士の高岳であるかをはっきり識別したいということである。我々にとって、その教科書なり教授の講義なりは今のところまさに窓を覆うがごとき大樹である。我々の窓は教授のフィルターによって色づけされている。他説や他の論理をさえも我々はそのフィルターを通してしか見ることが出来ないのである。しかし、我々は常に我々自身の目でフィルターなしに物事を見る力を養わねばならないのである。

そうした上で我々自身の眼が赤い色に染まっていようと黄色く染まっていることに気づこうとも、驚くに当たらないのである

言ってみれば我々は学問をしているとは言いながら、今のところマンホールの小さな穴から、しかも、かってにかけられたフィルターを通して外界をおずおずと眺めているに過ぎないのである。我々はしかし富士を見る前に目の前にそそりたつ山に登らねばならないのだ。それがたまたまエベレストであったとしても。

 

1961.2.1 Wednesday

1961年2月1日
■    貴殿ノ都合宜シキ日ノ正午オイデ乞ウ」ナオ出頭日ヲアラカジメ五九一・九五六七ヘ電話サレタシ」日比谷三井ビル秘書役山口
■    トク 八八 トウキョウ 二七0五四 コ三・九

■    十二月二十九日の私の日記をご覧願いたい。あの日記三十日の朝方にかけて寮の底冷えのする孤独の部屋で、出来るだけ思うままを書き綴ったものだ。日記といいながら手紙の草稿を日記代わりに書いたようなものだが、名宛人は旭化成の専務である宮崎氏だった。だから今日電報との寮内放送にビクビクしながら寮務室に駆け込んで、この電報を渡された時には、嬉しかった。忘れてしまわれたのではないかとも思っていた。それがちょうど丸一ヶ月おいて今日こんな電報と言う形を取って返事が舞い込んできたのである。心が騒いだ。身勝手の言い草かも知れないが、宮崎氏もなかなかいい人だ。普通の人には出来ないことだ。やはり苦学して専務になられた人だけのことはある。
■ だけど、正午に時間が割けるのは今のところ土曜日と月曜日ぐらいである。土曜日ならいつだって言いのだけれど、アチラのご都合が大方悪いと相場が決まっている。三月になるまで一ヶ月待って貰おうか。電報は「トク」で来たのであることも考慮せねばなるまいが。


 

先月一月cash memoをつけてみた。色々と面白いことがわかって興味が湧いた。これからもつけていこうと思う。自らの生活の経済面をはっきりつかんでおくことは有益だ。
まず、繰入金も入れて収入の部が16584円。支出が10233円。時期繰越、6351円。本代が支出のうちの40%弱の4070円を占めているのは興味ある現象だ。純粋の食費は2947円、これは家から千円以上相当額の小包を送ってもらったためらしい。
被服費は856円。交通費220円。写真15円。娯楽費映画一本180円。風呂代28円。学用品24円。医療費280円。散髪料130円。切手130円。洗濯代70円。歯磨き/シャンプー/ちり紙/クシ/ボタン213円。電話代10円。寮経常費1000円。弔費50円。以上である。
毎日毎日の残高がピッタリ帳簿に合っているのはなんと言っても気持ちがいい。これで決して無駄使いしていないことが分かるが、それで一万円以上かかっているのは下宿を考えると苦しくなる。
■    収入16584円
■    繰越9384円
■    賃金200円
■    奨学金2000円
■    家から2000円
■    アルバイト3000円
■    支出10233円
■    うち本代4070円
■    食料2947円
■    被服費856円
■    交通費220円
■    娯楽180円

1961.2.3 Friday

1961年2月3日(金)
堀内敬三の解説で春に楽想を得た数々の名曲を聴く。
メンデルスゾーン「春の歌」。ヨハン・シュトラウス「春の声」。グリーグ「春によせて」、「春のささやき」デリアス「春を告げるかっこう」。

それぞれに美しい。春の湧き上がる生命力が聞く人の心の中にもふつふつとした共鳴を奏でる。「春の歌」の暖かい春風そのもののごときふんわりとしたやわらかいのびのびとした春の雰囲気。「春のささやき」の萌えいずる若き生命力の語らいかけ。みんな楽しい曲だ。


1961.2.5 Sunday 1961年2月5日(日曜日)
ソ連が6・5トンの人工衛星を打ち上げた。この頃は人工衛星の打ち上げられることは珍しくなくなったし、カプセルの回収にしても先ごろアメリカがチンパンジーの乗ったカプセルの回収に成功している。
このところしばらくアメリカの活躍を沈黙して見つめていたソ連が6・5トンの大きな人工衛星を打ち上げて、また両国の競争は激化したといえよう。
しかも今度の人工衛星、発表された事実が少ないだけに何が飛び出すか不気味である。

1961.2.7 Tuesday

1961年2月7日(火曜日)

 昨日であったか。ラジオを聞いていた。天気予報をやっている。
「今日は小雨が降っていますが、これからは一雨ごとに暖かくなります」。おお、と私は感嘆した。もう今年も寒さの峠を越したのか。なんとなく思いがけぬものを聞く思いがした。

でもそうなのだろう。立春はこの三日ではなかったか。自然は我々を裏切らぬ。」自然の移り変わりを、暦の上に敏感に取り入れた人間の知恵もまた過たぬ。驚くのは我々不精の輩だけだ。

1961.2.10 Friday

1961年2月10日
 さて、駒場での授業はもうほとんど終わりになってしまった。せいぜい残るのは三回、語学は昨日の宮部先生の分で完全に終了した。すでに試験も一つ済んだ。小林先生の仏語である。テキストはマノン・レスコー。問題はやさしかった。語学に関する限り、後試験を残すのみで、もはや二度と講義を受けることはなかろう。中学時代からの八年間の語学の受講が終了した。我々は、好きなようにこれからはやれ!とばかりに放り出されたのだ。

やはりなんとなくさびしい気がする。自分の貧弱な力を考えると、誰一人として頼る者もなくこれからやって行かねばならぬと思うと、いつになったら独り立ちできるかと不安になる。本当は、この語学の終了の意味するところ、一本立ちできるからこその終了であるのだろけれど、努力の足りなかった私にはまだまだその意義にふさわしい力がない。しかし、絶対にこれからもやって行こう。Nichts gelt ueber Fleiss und Ausdauer!だ。

ところでその残り少ない授業も終わり、嫌な試験が終われば、私の駒場での生活も終わることになる。そうなれば必然的にこの駒場寮を出ざるを得ない。どこに行ったらいいのだろう?これが私の最も心にかかることだ。
私は自ら、学校の寮に入る努力を放棄してしまった。だからもはや残った道は二つしかない。学校以外の寮に入るか下宿するか。考えてみると前者はほとんど不可能であろう。適当なのがないのだから。行き着くところと言うか最初からのもくろみ通りと言うか、春四月からは下宿せざるを得ない。

ここで問題として浮かび上がって来るのは、我が経済事情と、下宿選択との関係である。したがって最初の問題、どこに行ったらいいだろう?は、この点で質的転換を行って、最初の寮・下宿間の“どこ”ではなくなり、下宿間の“どこ”に帰着する。“どこ”は単なる場所の問題ばかりでなく、私の経済事情に制約された“そのくらいの”“どういった種類の”といった観点を含むことになる。
現在私は家から月六千円送って貰っている。それに奨学金が月三千円。一月まではアルバイトをしていたからその他に月三千円入っていた。下宿をするとなると食事代と住居費に少なくとも8500円内外かかる。現在の送金と奨学金の合計九千円ではどうしてもやって行けない。必然的にアルバイトをやらなければならない。アルバイトというものはまた、必然的に学習能率を下げるものなのだ。しかし必要の前には止むを得まい。

アルバイトをどのくらいするか。つまり、最低日に幾らあればやっていけるか。8500円以外に最低幾らあれば十分だろうか。

4000円は欲しいところだ。少なくとも、月に2000円は本代で消える。残り2000円で一切を切り盛りせねばならない。交通費。衣服費。娯楽費。衛生費。

私にとって一つ有利な点がある。現在24000円貯金があることだ。月に2000円ずつ引き出しても丸一年大丈夫だ。三年の一年の間の学業次第で私の進路のほとんどが決定されようというのだ。下手にアルバイトに精を入れて、学習の能率を落とすことはあるまい。

送金6000円、奨学金3000円、貯金から2000円、計11000円。これでどうにか切り盛りしていけないものだろうか。それにはできるだけ安く上がる下宿を探すのが先決問題だ。下宿代が安いだけが安上がりの下宿ではない。交通費、食事の量、帰郷時の下宿代などが加味して考えられねばならない。大要の前には小要を捨てざるを得ないのはもちろんだが、ある程度環境が良くなくてはダメだろう。

理想的にはことは運ぶまいが夢見るだけなら自由であろう。静かで日当たりが良くて、親切で全然干渉しないオバさんがいて、食事も悪くなく、間代も安い。勉強がしたいだけ出来て、本郷から遠くない。うら若き麗人がいて、色々と世話を焼いてくれて…となると話が横道にそれる恐れがある。

とにかく、三月には私にとって下宿探しが大問題となるであろう。

1961.2.11 Saturday

1961年2月11日

貴方は私がこれこれこう言っていると言って非難なさいました。ところであなたが私の言葉だとして、言っておられる「これこれこう」のところだけをテープに吹き込んで、K氏はこういうことを言っているともし私が触れて廻ったら貴方はどうなさいます。貴方はこう言うでしょう。

「これこれこうとA氏が言っている」というところまでが自分の本当に言ったところだと。同じことが私にも言えるのであります。私が「これこれこう」の下に「でない」とくっつけたか「C氏が言っておられる」とくっつけていたか、そこまで引用して非難していただかないことにはお答えできかねるのであります。

1961.2.15 Wednesday

1961年2月15日

「出ようか」

と僕は言った。

薄暗いとある喫茶店の片隅のお二人用のシートで僕らはもう一時間半以 上もしゃべり続けていた。彼女は僕の声に半ば腰を浮かしかけながら、

「私たち五日目だというのに何も起こらなかったわね」

と言った。 僕は真っ直ぐ前を向いたままで、

「今から起こしてやろうか」

とかなり上ずった重々しい声で言った。 彼女の体に一瞬嬌声の渦が駆け巡り、僕は彼女の体の柔らかな波動を感じた。 彼女はすばやくテーブルの上のコップを取り上げて、グイと一口飲むとそれを僕の 目の前に突き出した。ひったくるようにして僕はコップを受け取ると、彼女の唇の跡 の上に自分の唇を重ねるように荒々しく飲んだ。コップから唇を離すと、その底に はまだ四分の一ほど水が残っていた。そのコップをそのままテーブルの上に戻そうか と心がちょっと躊躇する間に僕の手は彼女の目の前にそのコップをさっと差し出し ていた。 彼女も僕と同じようにして残りの水を飲んだ。

ーこれで1日目の教程が終了したのだった。

 

その日彼女は常に刺激的な話ばかりした。 彼女の思っていること、やって貰いたいことが僕には手に取るように分かっていた。

「昨夜大変な目に合っちゃたのよ」

と彼女は、ご招待の銀座のナイトクラブで40歳の課長に口説き落とされそうにな った話をした。

「40歳の男の人なんかに口説かれるなんていやよ」

と彼女は言った。僕は皮肉に

「二十歳の若者にならいいのかい」

と聞き返した。僕自身、そして彼女もまたその二十歳の若者の言外の意味を強く意 識していた。彼女はしばらく間を置いて

「うん」

と答えた。

四時の太陽はまだ眩しかったし、吹く風は冬の風ではあった。だが二人の 間に生暖かいおののくような突風がくるくると巻いたつのが感じられた。

僕たちは めちゃめちゃに歩き回った。彼女はどうしても、僕を解放しようとしなかった。そし て、とうとう最後に僕は喫茶店に連れ込まれていたのだ。

ー昨夜ね、

彼女はまた40歳の課長の話をし始めた。

ー私のビールのコップを取り上げて飲みながらこう言うのよ、その課長、間接キッ スだ、なんて。随分ね。課長の方では私のこと、普段から目にかけていたかも知れ ないけれど、私にとっちゃまだほんの二時間ばかりしか知らない人でしょう。それが 、間接キッスだなんて、イヤネ

ーそのくらい当たり前だ。間接キッスぐらい1日目の教程だ。 僕は強くつっぱねた。

ーあらそうかしら

彼女はさも怨じるように言った。

ー私たちもう五日間も会っているのよ

ーじゃ、間接キッスぐらいやってやらなくちゃだめのようだな

ーそ、そういうつもりで言ったんじゃないのよ

彼女は慌て気味に、さも心外だと言わんばかりに、しかも心の奥では強くそれを期 待しながら、打ち消した。

 彼女の手はすぐ僕の手のそばにあった。僕はその手をもう五日会いながらついぞ 握り締めてやったこともなかった。その手一つの表情からも彼女の思いも切々たる情 (きもち)も十分分かるようなものだったのに僕は冷たくそのままにしておいた。そ してその手が私の「出ようか」の声に、未練がましくシートの後ろの帽子の方におずお ず延びて行き、彼女は言ったのだ。

ー私たち五日目だというのにとうとう何も起こらなかったわね。

・・・・

 僕には1日目の教程を無事にやりおおせてしまいさえすれば、もうそれは無限の 教程につながる扉を開けたのも同然だということが最初からわかっていた。

 僕は彼女の手の上に僕の手をかぶせた。彼女は僕の左手を両手に包み込んで静か に持ち上げ、唇を押し当てた。

 それが堰を切ったのだ。

 それから先は二人とも夢中で頬を摺り寄せ唇ですすりあい、悲しいまでの思いに 紅潮して瞳の中を覗きあった。

 僕らはしばらくして喫茶店を出た。あたりは夜の帳がすっかり下りていた。星が 降るように美しい夜だった。風が、このときほど心地よく僕の頬に感じられたこと はない。暗い長い夜の道を僕らは抱き合うようにして歩いた。あらゆるものが幸せの 燐光に輝き、我々の心の壮大さがあらゆるものを包み込むようだった。

 二人して楽しげに歌を歌いあった。彼女は非常に性急で幾度か僕の歩みを止めて僕 にしがみついてくるのだった。

「落ち着いて、落ち着いて」

と僕は言うのだったが、その実ひどく心急いていた。

 十五分も歩いて僕らはやっと二人にとって絶好の芝生のある場所を探し出した。

 そこで、初めて完全な口付けをしたのだ。

 ああ、その瞬間、時間が永久に止まってしまったとしたら僕らはどんなにか幸福 だったろう。そのままそこにじっとしていつまでもいつまでもそうしていたかった 。僕らの唇は残酷なまでにしつこくお互いの唇を求め合った。痺れるような歓喜が 体の髄の中を稲妻のように突き抜け、僕らはただもう、無我夢中で抱きしめあい 、もはやこれ以上強く抱きしめることの出来ないのを知ると、悲しくなるほどだっ た。

 尾を引くような彼女の細いうめき声に僕はますます激しく愛撫を重ねた。

−悪い奴だ

ー誰が

ー僕も君も

ー貴方初めてなの

ーうん

ー本当?

ーうん

ーいつまでもこうしていたいわ

ー僕も

ー私も

ー明日の晩までも

 僕らの声はすっかりいつもの声と変わっていた。鼻にかかった甘い滑らかさが 、耳たぶの上の燃えるような熱い息と交じり合ってなんとも言えず快く感じられた 。四界の静寂の中で僕ら二人だけが熱く熱く燃え上がり、二月の寒気を寄せ付けよ うともしなかった。

 

1961/2/15 水曜日

 

1961/2/15 ー2水曜日

最近の重大ニュースを二つ。

(1)ソ連がまたまた意表をつ く大成果を宇宙開発の面で上げた。常に新手新手と我々の意表をつく科学力に今更な がら驚かされる。人工衛星を足場にしての金星ロケット発射なんて、ついぞ西側の 誰一人として予想できなかった。先の6.5トン人工衛星の打ち上げの時、すわ人間 衛星か,などと騒ぎ立てるのが関の山で、それを足場として金星ロケットを打ち上げ る一連の実験の一つと見抜いた者はなかった。まったく意表をつかれた思いである 。五月末には金星に到着するとと言う。この金星ロケットの成功を人類の一人として 願わずにはいられない。なぞのヴィーナスのヴェールが外される日も近いようであ る。

(2)コンゴーの前首相ルムンバが殺害された。これが今世界中に大きな政治問 題を投げかけてい る。色々と難しい問題があり,相当の紛糾は避けられぬところであろう。政治家が暗 殺される状態と言うものは東西を問わず正常なものとは言いがたい。

 

 

 

 

 

 

1961/2/17 金曜日

1961/2/17 金曜日

私は今日まで一度として試験に寝過ごして遅れて行く,という ようなことはなかった。ところが今日まんまとそれをやらかしてしまったのである 。

ハッとして、目が醒めるや、時間を眺めた。九時半。そんなバカな。眼をしばた いて見返す。九時半だ。間違いなかった。

厳粛なるこの事実の前に立たされて私の 心はうつろになった。目覚まし時計を見るとご丁寧に鳴り止めのボタンが押されて ある。とすると私は一度鈴の音に飛び起きてそれを押したことになる。全然覚えが なかった。いや、何だか覚えがありそうな気がする。だけど、それが昨日のことだっ たか一昨日のことだったか,本当に今日のことだったか皆目要領を得ぬ。

それはそれ 、とにかく私は急いで試験場に駆けつけねばならぬ。一刻の猶予も取り返しがつか なくなる。大慌てに服 をつけ試験場まで走る。友人の中にはもう試験場から出てきた奴さえある。私を見 てニヤリとする。息を切って部屋に飛び込み問題に取り掛かったのが試験終了時ま で25分しかない頃だ。もう深く考える暇なんてものはありはしない。めちゃくち ゃに書き付ける。文章のアチコチにオカシナところが出てくる。構っておれぬ。一, 二番はテキストから出ているからまずいいとして、三番目の応用解釈問題と来た日 にゃ、残るところ十分足らずという時間的な圧迫,それにも増して精神的な圧迫が私 の頭を鈍らせ,一向に意味が通らない。五分前。ままよと解答を殴り書きに書き終え れば終了のサイレンが鳴っていた。

 

1961/2/25 土曜日

1961/2/25 土曜日

禁欲ということが言われる。激しい欲望があってこそはじめて 禁欲ということが言われうるのだ。単に状態としてみるならば禁欲のような観を呈し ていようと、初めから欲望を感じないのでは禁欲ではありえない。激しい内面の葛 藤を克服しての禁欲こそが真の意味の禁欲と言うべきであろう。

しからば私はその禁 欲状態にあるのだ。この試験と言う重苦しい圧迫の向こうに一日も早く抜け出たいと いう激しい欲望があればこそ、私は禁欲を思うのだ。一切を投げ捨てて、自由にのび のびと自分の思うままの事をしたいと考える。試験なんかなんだ、という気になる 。こんな苦しい思いをするくらいならいっそのこと、ということにもなりかねない 。私の周りに無数に転がってい、楽しげなローレライの歌を口ずさむ誘惑の触手の 前には時として はヘタヘタと崩れ落ちかねない心の姿勢もある。だけど私の理性はそれらの魔手の前 にじっと耐えている。それらに対して目をつぶっているのではない。それらの楽し さも,解放感も生命感も、理性の冷徹な目には曇りなく映っている。それでも理性が 私に命ずるのは禁欲である。激しい欲望を感じながらじっとそれを耐え忍ぶことに私 の理性はより大きな価値を認めているのだ。

しかしだからといって理性が私に永遠の 禁欲を強いているのではない。現在私に禁欲を強いる価値判断の中には当然のこと として来るべき解放のあることが予想されている。でなければ価値判断というに値す まい。盲目的な価値判断は是か非で、常にあるものが是であり、あるものが否であ り続けるであろう。しかしながら実のある価値判断と言えるためにはそれはあらゆ る状況の 変化とダイナミックに結びついたものでなければなるまい。一切の事情の変化を無視して 、今日禁欲か欲望かと呈された問いに明日もまた今日と同じ答えをすべき理由はな い。こうした意味で価値判断は常に相対的なものと言わざるを得ない。

 

1961/2/26 日曜日

1961/2/26 日曜日

基本的人権は公共の福祉によって制限されるか,という問題は 日本国憲法の下においては極めて自然な問題提起のように思われる。なぜなら、一方 において、基本的人権は、「侵すことの出来ない永久の権利として」与えられるこ とを十一条親日九十七条の二か条にわたって規定し、他方,十三条において,この基 本的人権は「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で,最大の尊重」を 受けるという規定があるからである。なおこの公共の福祉と言う文字は十二条二十二 条二十九条にも現れている。もし憲法を無批判無反省に読む限りにおいては、基本 的人権と公共の福祉は相対立するものとしてとらえられ、しかも公共の福祉が基本 的人権の上に位し、常に基本的人権を制限できるものとして解されるおそれがない ではない。我々はここ において、基本的人権は公共の福祉によって制限できるかと言う問題提起そのもの の妥当性に対する考察を行わなければならない。そのためには単に憲法の文理上で のみの解釈を離れて歴史的に考察する必要があるであろう。この問題提起がひいて は,憲法の基本的人権そのものを如何に解するかにかかっていると言っても過言では ない。

 思うに我が日本国憲法は歴史的には,明治憲法の超克として、またヴァージ ニア憲法やフランス人権宣言その他の一連の民主的な憲法の遺産を引き継ぐものと して誕生したことを忘れてはならない。この点から見るならば、「公共の福祉」の 概念が、明治憲法における国家権力擁護のための「法律の留保」の概念とその存立 の基盤を異にすることが指摘されねばならないし,更に、近代諸国における憲法制定 が物語るようにこ の「公共の福祉」の概念が、絶対主義国家のエトスとしての「公共の福祉」の意味 するもの、即ち,原理的に個人の存在価値に優越する全体を先験的に措定する公共の 福祉であってはならないことは明らかだといわなければならない。したがって,我 々が日本国憲法において「公共の福祉」を考察するに当たり問題の対象とすべきは 基本的人権の展開とともに生まれた「公共の福祉」でなければならないのである。こ こに至って現行憲法の解釈として如何なる解釈が行われており、それが以上のよう な歴史的背景を持つものとして捉えられた公共の福祉理念と如何様に対応するかを 見ることが要求されよう。現在解釈として次の三つがある。

(1)基本的人権といえ ども無制約でなく、公共の福祉と合致する範囲においてのみ認められる。したがっ て公共の福祉の ために必要ならば基本的人権もその範囲内で制限されうると説く。判例の立場がこ れである

(26.4.4、23.3.3)

(2)これに対し、基本的人権は自然法 的な絶対な意味を持つから、公共の福祉によって制限できぬ。ただ二十二条二十九 条のように公共の福祉による制限の可能性を正文で認める場合に限って公共の福祉 による帰省を認める。十二・十三条は道徳的な指針と解す。

(3)第三説は基本的人 権を実体的に区分し、自由権は、自然法に基づく前国家的権利であるから絶対に制 限できぬが、社会権は歴史的後国家的権利であって公共の福祉のための規律の下に 服すると説く。この説では、二十二条、二十九条は自由権を制限するための特に例外 的な創設的規定として説かれる。  以上のような解釈を見るならば、そもそも公 共の福祉によっ て基本的人権は制限されるかという問題提起が必ずしも適切でなく,公共の福祉によ って何を解するか、こそが真の問題となるであろう。

(1)の見解が前に述べたよ うな絶対主義国家のエトスとしての「公共の福祉」と結びつくならば、それはもはや デモクラシーと相容れぬものとなり、個人の尊重をその原理として出発した憲法の 解釈としてまったく認めがたいと言わねばならぬ。したがって、この場合には (2)の見解が,憲法の基本的人権尊重の精神をより正当に理解した立場と言えよう 。しかし、この見解においても、基本的人権の展開として歴史的に生成した公共の福 祉の概念を無視するものと言う批判がなされうるであろう。我々は基本的人権の展 開とともに生じてきた「公共の福祉」の概念を歴史的に捉えなければなるまい。 個人の人権は決 して無制約に認めれるものではない。これはたとえば初期の人権宣言の中において 、絶対不可侵不可譲渡の権利として規定された権利であるといえども、そのない自 在的制約として当初から持っていたといわねばならぬ。それが歴史を経るにしたがっ て明確に捉えられ、その内在的制約性が意識的に立法者に捉えられ明文化されたも のとして「公共の福祉」を考えることは出来ないであろうか。すなわち「公共の福祉 」は、旧形態のイデオロギーと切り離された、個々人の権利を調整し、それら相互 の衝突を規制する原理と見ることができる。憲法十二,、三条に言う公共の福祉をこ うして「人権相互の調整を図る内在的な規制理念として,解して初めて、人権と公共 の福祉という不協和なアンチノミーを克服し、かつ不当な権利の濫用を有効に防止 するための原 理的基準が、デモクラシーそのものに即して得られるのではないか。  

 判例は, 公共の福祉による基本的人権の制限を認めている。これまでの例では、公共の福祉 を人権の上にあるものとして制限を加えてきているがこれは極めて重大だと言わね ばならない。公共の福祉による人権の制限を、専ら民主主義の価値原理の内在的な 原理として、できるだけ狭く解し、とくに権利による外的制約の弁明にしないこと が大切である。

   (1)説のような立場は,公共の福祉を如何に解するかによっ て正反対の結果を生じる。

 (3)説のような解釈は,その理由や区分の根拠が不明 確であり,公共の福祉の概念を深く極めないで,単に権利の区分に基づいて形式的に 一律の限界を設けることは戒めねばならぬし、この二つの区分によって三説の如き 制限の相違が生ず るかは疑わしいであろう。 

 最後にこの公共の福祉の法理念の現代において果た しうる機能について一言する。

 

1961/2/28 1961/2/28

1961/2/28 火曜日

 私はかつて、雄雄しくも涙ぐましい宣言をしたことがあっ た。

東大の受験に失敗した時のことである。私ははからずもその時永遠に私にとって 真理たるべきことを言ったのである。すなわち、如何に負けるかこそが我々にとっ て一番大切なことである、と。如何に敗北を受けとめるかによって我々の人生は意 義深くも、また意味のないものにもなりうるものである、と。

今日私は敗北した ことを宣言する。そして右に述べた真理が再び私の上に息吹を吹き返して来るのを 感ずるのである。私は徹底的に負けたのだ。昨日今日と行われた専門の試験において 私は見るも無残に敗北したのである。おそらく3科目ともすべて「可」以上を出ない ことを断言する。絶対に嘘は申しません。というかの有名なる言葉はここでこそ使わ れるべきであり、 ここでこそ絶対の真実を意味するであろう。

まず、私が緒戦で立て続けに可を三つも とってしまったことは明瞭なる事実として認識されねばならない。それこそ私の敗 北なのだ。私は成績の評価の中に何の反映を見るべきなのかが、私がこれを敗北と 語る以上明らかにされねばならないであろう。単に可三つでは敗北とは言い得まい 。そこに反映する私の側の何かがあってこそ初めて敗北といえるのであり,それこそ が敗北なのだ。私は私という全人間的存在として敗北したのだ。だからたとえその 成績の中に一個の良が混じって来ようとほとんど意味をなさないであろう。全人間 的敗北の徴表は、単に成績そのものの中のみならず随所に明確に見取られる のであるから。ただその集中的集約的な徴表としてシンボル的に昨日今日の成績の 中にそれが、認 められるというにとどまる。

私の全人間性敗北の溶岩が、ついに夜空に、噴出し 、毒々しい炎を今盛んに吹き上げているのだ。見よ!その海の如き溶岩の何と地底深 く根ざしているかを!その炎の色合いの何と不気味な、嫌悪感をもよおさせるものであ るかを!

 

     
     
    以下工事中


 

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