写真の部屋

三内丸山・八甲田山・奥入瀬・十和田湖・八幡平を巡る旅

(2001年12月11日掲載)


9.ホテルとその周辺

翌朝、早めに起きて、ホテルの周辺を散歩した

 

高村光太郎の裸婦立像『みちのく』
拡大へ
   

 

裸婦立像『みちのく』遠景

 

 
   
   

■高村光太郎 (1883―1956)

詩人、彫刻家。明治16年3月13日東京・下谷(したや)に生まれる。父は東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科教授高村光雲(こううん)。本名は光太郎(みつたろう)。のち自ら光太郎(こうたろう)と称した。 初期の筆名に篁砕雨(たかむらさいう)を使ったこともある。幼少時父に木彫技法を学び、1902年(明治35)東京美術学校彫刻科を卒業。続いて西洋画科に進んだ。在学中の1900年に与謝野鉄幹(よさのてつかん)の新詩社に入り、またロダンを知って生命の躍動に力点を置く新しい芸術のありように目覚める。06年、彫刻修業のために渡米。ニューヨーク、さらにロンドン、パリと移って09年帰国した。この間、光太郎は西欧の文化・芸術の根底にある人間の根源性に触れ、それを自らの美の立場とするようになった。この立場は、けれども因襲的な日本美術界には容易に受け入れられず、11年に『光雲還暦記念胸像』を制作したほか彫刻はほとんど発表せず、「パンの会」に入ってその鬱情(うつじよう)を発散した。評論「緑色の太陽」や、詩「根付(ねつけ)の国」などには、その鬱情が挑戦的な形をとってほとばしっている。こうしたデカダンスは、やがて、いわゆる「自然の理法」の発見や、『青鞜(せいとう)』の表紙絵を描いていた長沼智恵子(ちえこ)の出現によって、生の肯定・賛美に向かって収束されてゆく。12年には岸田劉生(りゆうせい)、万鉄五郎(よろずてつごろう)らとフュウザン会を結成し、油絵を発表したが、翌年解散。詩集『道程』が自費出版されたのは14年(大正3)10月であるが、ここにはそうした自己定立の苦しい経緯が示されていて人を打つ。智恵子との生活が始まるのはこの年の暮れからである。  

以後、彫刻に専念する一方、『ロダンの言葉』(1916)、ホイットマンの『自選日記』(1921)、ベルハーレンの詩集『明るい時』(1921)などの翻訳を手がけ出版した。 1921年11月『明星(みようじよう)』の復刊によって、「雨にうたるるカテドラル」などで詩作を再開、続いて社会現実を鋭くえぐった「猛獣篇(へん)」とよばれる一連の詩を書き始める。これらは力感あふれる口語自由詩体の確かな完成を示している。  昭和に入っての光太郎の生活は、精神を病んだ智恵子の看病と、日本文学報国会詩部会会長に象徴される私と公とに分断される。一方に『智恵子抄』(1941)が編まれ、一方に戦争詩集『大いなる日に』(1942)などが出版された。第二次世界大戦後、疎開先の岩手県太田村山口(現花巻(はなまき)市太田)で、連詩「暗愚小伝」が書かれたのも、こうした半生を反省してのことであった。これを収めた詩集『典型』(1950)と、十和田(とわだ)湖畔の裸婦立像『みちのく』(1952)が最後の記念となった。1952年(昭和27)日本芸術院第二部(文学部門)会員に推挙されたが、これを辞退した。昭和31年4月2日没。花巻市太田には高村光太郎記念館がある。→智恵子抄 →道程〈安藤靖彦〉  彼はロダンに学んだヨーロッパの近代造形思考と、幼少時から身につけた伝統的造形手法との相克を鋭く追求し、『造型美論』(1942)にみられるような、面・量塊・動勢・肉づけを四因子とする、本格的な彫刻理論を結実させた。そして、寡作ながら『手』『裸婦坐像(ざぞう)』『黒田清輝(せいき)像』など密度のある佳作を生み、さらに『鯰(なまず)』『桃(もも)』『蝉(せみ)』などの木彫にも新生面を開いている。〈三木多聞〉 (C)小学館
   
   
   
   
   
   
   
   

back
index
next