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文化としての日本的経営 第3章
前章では日本の組織の基本的構造が「気」の渦巻くウズ社会であることを示すととともに、組織の成員が様々な側面でこの「気」に拘束されている状況を見てきた。本章では更に「気」に支配されているウズ社会の実態を堀下げて分析してみよう。
ウズ社会の中の勤務評定は当然のことながら能力よりも「気」力によっておこなわれる。年功序列制の中の「年功」には、この「気」力の評価が大きなウエイトを占めており、これがただちに当人の序列に結付く。これがウズ社会は「気」が支配するという意味でもある。
まず、気を合せることがなによりの前提である。気が合せられないようでウズ社会の成員としては失格である。合せようとする熱意、姿勢で評価が分かれる。それに次ぐのがやる気。組織のために粉骨砕心努力するやる気を常に示し続けることが重要である。もちろん気が利くこと、気配り、気遣いなどもこれと同様に高く評価される。この評価そのものが、客観的な基準による評価というより、組織の他の成員である上司、同僚、後輩の気に入られるということに他ならない。つまり人気がなければならない。気を合せようとせず、やる気がなくては、気に入って貰えない。気が利かな過ぎたり気配りが不十分だと、気に食わない奴、ということになりかねない。気が良く行き届くということは、最上の誉めことばの一つである。周りに気に食わない奴と思いこまれたらウズ社会では絶望だ。浮き上がってしまう。こうしてウズ社会では、一瞬たりとも気が抜けなくなる。
この気の支配するウズ社会では、気にまつわる実に多彩な用語が極めてアクティブに機能しており、次ぎに示すように、その一つ一つがプラスイメ―ジを持つものとマイナスイメ―ジを持つものとに截然と分かれている。このイメ―ジはウズ社会のほとんど全ての組織に共通している。つまり、この「気」を介して人間を社会化(社会的人間とすること、つまり組織の一員としての適格性を付与すること)する文化が我が国の基本的な文化なのである。たとえそれが幼稚園であれ小学校であれ、会社であれ官庁であれ、組織といわれるものにいったん入るとその瞬間から、日本人はこの「気」の渦に揉まれる生活を始めることになり、その中で成長せざるをえなくなる。組織から完全に離脱しない限り、この渦から逃れることは出来ない。この「気」こそ、日本人の人間関係を規定する鍵概念であり、日本文化はまたこの「気」を基調とする人間関係を基盤として成立している。このことは取りもなおさず、日本におけるあらゆる組織=経営体=機能集団の基本的経営法である日本的経営が、このウズ社会の原理である「気」を基盤としてなりたっていることを示すものだ。
(プラスの評価) (マイナスの評価)
気が合う 気が合わない
気がある 気がない
気が行く 気が行かない
気が置けない 気が置ける
気が進む 気が進まない
気が揉めない 気が揉める
気を病まない 気を病む
気が腐らない 気が腐る
気が利く 気が利かない
気が行きとどく 気が行きとどかない
気が差さない 気が差す
気が渋らない 気が渋る
気乗りする 気乗りしない
気が立たない 気が立つ
気が変になる
気が散らない 気が散る
気が尽きない 気が尽きる
気が咎める 気が咎めない
気配りする 気配りしない
気遣う 気遣わない
気を抜かない 気を抜く
気構える 気構えない
気のある 気のない
気心の知れた 気心の知れない
気力のある 気力のない
気の良い 気の悪い
気が付く 気が付かない
気が強い 気が弱い
気に入る 気に入らない
気が長い 気が短い
気が大きい 気が小さい
気にしない 気にする
気にならない 気になる
気張る 気張らない
気に掛ける 気に掛けない
気が引ける
気が済む 気が済まない
気取らない 気取る
気後れしない 気後れする
気落ちしない 気落ちする
気兼ねする 気兼ねしない
気立ての良い 気立ての悪い
気移りしない 気移りする
気が変らない 気が変る
気疲れしない 気疲れする
気丈夫である 気丈夫でない
気根がある 気根がない
気障でない 気障である
気負わない 気負う
気概がある 気概がない
気組みがある 気組がない
気迫がある 気迫がない
気さくだ 気位が高い
気合いがいい 気合いが悪い
気合い負けしない 気合い負けする
気骨がある 気骨がない
気前がいい 気前が悪い
気働きがいい 気働きが悪い
気品がある 気品がない
気が詰まらない 気が詰まる
気ままでない 気ままだ
気安い 気安くない
気紛れでない 気紛れだ
気迷わない 気迷う
気力がある 気力がない
気難しくない 気難しい
気弱でない 気弱だ
気後れしない 気後れする
気を許す 気を許さない
気に触らない 気に触る
気が滅入らない 気が滅入る
気を尽す
気を通す 気を通さない
気を取る 気を取らない
気が確かだ 気が狂う
気が触れる
元気がある 元気がない
勇気がある 勇気がない
根気がある 根気がない
活気がある 活気がない
士気が高い 士気が低い
正気だ 狂気だ
惰気がある
辛気臭い
陽気だ 気が沈む
気が晴れる 気が塞ぐ
本気だ 呑気だ
安気だ
気掛かりでない 気掛かりだ
気遣わしい
人気がある 人気がない
やる気がある やる気がない
気の毒
意気揚々 意気消沈
嫌気がさす
気疎い
味気無い
素っ気ない
気怠い
気分がいい 気分が悪い
気分を害しない 気分を害する
陽気だ 陰気だ
和気藹藹
以上例示したようにウズ社会の中では「気」の使いようでプラス・マイナスの評価がされる。この一覧表を見るだけで、ウズ社会の中でどのように立居振舞い(みなり、言葉づかい、挨拶等などを含めて)をすればいいかが一目瞭然であろう。これだけの項目にそれこそ気を配って生きていかなければならないので、気疲れもする。長年ウズ社会の住人を続ければ、気苦労の挙句、気が触れたり、気が狂ったりする人も出てくる。そんな気苦労は御免被るとウズ社会を脱出して自由業に転ずる人もいる。 気を配るのも、気にするのも気を回すのも、その対象は全て相手や周りの人の気である。人が人「間」といわれる際の、人と人の「間」に存在するものこそこの気に他ならない。気は、その本人に半ば属しつつ、半ば相手の気や周りの気と融合し、不可分の存在となる。この気と気が融合し、その境が判然としない状態が、気が合ったあるいは気が通じた状態である。ウズ社会の中で生きていくには、周りに気を合せざるをえない。絶えず周りに気を合せておれば独立した自我の確立は難しい。個性的な人物が少ないのはそのためである。江崎玲於奈博士が「日本の会社など組織の中では相対的な自我しか確立できず、創造性を発揮するのに必要な絶対的な自我は確立できない」(1)というのもその辺りの事情をいっている。
ウズ社会では「気」力で評価されるが、その中でウズ社会の中枢部へ到達するためには単なるやる気、気が利く、気配り、気遣い、気構えだけではなく、気の強さ、気迫、気合いの良さ、気の大きさがなければならない。「強気」は、その場の「気」をリ―ドし、それに巻きこんでしまう勢いをもつ「気」である。押しの強さ、争気といわれるものもこの強気の所産である。負けず嫌い、外柔内剛型の人物が育つ文化的土壌もここらにある。気の弱い人(弱気な人)は、強気に呑まれてしまう。気が弱くてはこのウズ社会ではやっていけない。弱気よりは強気が大抵の場合勝つ。というのもこのウズ社会が「気」を物差しに成立しており、強い気に常にプラス評価を与えるからだ。気迫があり、気合いが良く、気合い負けしないことも重要で、後先のことを余り気にし過ぎてじくじくしていては気合い負けになる。何事も気にしすぎると気に病むということにされかねない。
ウズ社会においては、しばしば粗野な強気の意見が、知性に裏付けられた合理的判断を押退ける。強気の人が必ずしも知性の人であるとは限らない。むしろ「気」力と知力とは天の二物の類いに近い。強気の人の判断が必ずしも合理性を持つとは限らなくても、ウズ社会では通りやすい。これは、ウズ社会は知力よりも「気」力が優先する社会であり、知力は二次的なものと見なされるからで、知性に裏付けられた合理的判断は多くの場合弱気に見られる。「分別のある意見といふものは大概臆病と間違えられて評判が悪い」(2)。「陸軍の信賞必罰は少なくとも公正ではなく積極論者には大目、慎重論者には手きびしかった」(3)。むしろ知や理と気とは水と油のようにあいいれない面を持っているがゆえに知的なもの、理の通るものに対しては感情的に反発する。つまりなんとなく「気に食わない」のだ。そしてこのウズ社会では気に食わない意見に対して不寛容だ。部下に「理」で負けるのをいさぎよしとしない上司がどこにもいる。「理屈」は「屁理屈」とされ、「理屈をいう」者は批判に晒され、「理屈を言うな」で片付けられる。気が食わないのも、意見が合理的であり、逆に合理的であって反論の余地がないがゆえに気に食わないことになる。意見をいうときは、まず気に入れられるような言い方が肝要だ。「課長のおっしゃることはごもっともでございますが…」とまず相手を立てその後で自分の意見を「つまらない思い付きで恐縮ですが…」と付加えるぐらいの気遣いがなければならない。それでも、「若い者の口にすべきことではない」「でしゃばり過ぎ」「言葉づかいが悪い」「あいつは生意気だ」などの感情的な反発を招く。後にしこりが残り、仲違いの原因になり一生の敵にされかねない。へたをすると干されたり、浮かび上がらせられる。
こうしてだれもが気に入る意見を言い、強気の人に気を合せる。その結果、強気な、気合いによる意見がまかりとおることになりがちであるが、こうした強気のおもむくままの意見は、その場の空気に支配されるので、論理の一貫性は最初から存在しない。例えば太平洋戦争開戦は、いわば強気の産物であり、気合である。決して知性に裏付けられた合理的判断によるものではない。そこに至る過程を追ってみても、論理的な一貫性を見出すことは難しい。
強気と気合いが行きつくところが知性の蔑視・「知」の軽視である。ちなみに知性がいかに疎んじられるかは、陸士・海兵を出、出世を保証された日本軍の指導者が徹底した不勉強を貫き、世界情勢に疎く、急速な技術進歩に無知同然であったにもかかわらず、勉強するものを「ガツガツしている」「カ―ブをあげるやつ」と軽蔑し、ちょっと「堅い本」を読んでも「危険思想の持主」視していたこと(4)や、開戦に反対した多くの知性の人が「学者」という蔑称を奉られ、ウズ社会の周辺へ押しやられたことでも知れる。そこには「気に食わない」現実はことごとく無視し、「気に入った」情報で現実をとらえ、自分の「気に入った」論理で裁断する知的怠惰があった。戦争に負けたのは、単に物的な戦力・国力の不足だけでなく、指導者の知性・知力・能力の格差にも原因があったのである。
殷鑑は決して遠くはない。例えば経済摩擦に対する日本政府や企業の対応振りにその伝統が残っている。経済摩擦はなにも日本と米国の間にだけ存在しているわけではない。日本と経済関係のあるほとんどすべての国との間でかなり長期間にわたり発生しているのであるが、そうした「気に食わない」現実には頬かぶりを決込む。ただ「気に食わなく」とも見ざるをえない米国との間の摩擦だけを取上げ、しかも自分のお気に入りの「悪いの は米国で日本は悪くない」といった論理で反論する。円安の時には日本の貿易黒字の元凶はドル高といい、一転して円高になると米国の財政赤字が元凶という、粗雑かつ強気の論理をふりかざして、米国の苦境や各国の日本への欝積した反感を見ようとしない。そこに多くの外国人が日本人の傲慢さを嗅ぎとるのである。
その他にも社長ぐるみの犯罪であることが知れdた東芝機械のココム違反事件、ホテルニュ―ジャパンの建築基準法違反による火災、ロッキ―ド事件等などいわば、強気が知性を制した事件のように思われるがいかがであろうか。今もって知性の人たる「知識人」に、日本人は、多少のいかがわしさを付纏せているよう思える。 ウズ社会における気力・強気の尊重は精神力の尊重・過大視に繋がっている。太平洋戦争開戦に当たり「日本精神」「大和魂」が大いに喧伝されたように、論理性や合理主義より精神主義に走りやすいのもこのためである。「神国日本、鬼畜米英」、「神州不滅」、「欲しがりません勝つまでは」、「竹槍で戦車に立向う」世界は、今も日毎繰返されている「気力で頑張れ」の世界であり、日本人には骨の髄までおなじみである。
余談だが、日本では緊急事態が起こるとしばしば、それがどういう状況かをつかむまでにかなりの時間を要する。まったく新しい観点から見ない限り事態の掌握が不可能なような場合であっても、最初は、下のものは上の顔色を見ながら、皆の気に入るような意見ばかりを言いあっているので、なかなか事態の正確な把握が出来ないのだ。また、「知」を軽視するウズ社会では幹部をはじめとして不勉強なものが多く、日頃は勉強よりも付合いやカラオケ等で気を合せることにかまけているので日常的な業務は処理しえても、事態の急変を正確に読む力量も情報も持ちあわせていないことが多いからでもある。ニクソン・ショックや第一時石油危機の時の日本の対応振りなどにそれが顕著に見られた。日頃から気に食わない意見に寛容で、勉強が奨励される社会を作っていないと、緊急事態には対応できない。
また気が大きいこともこのウズ社会では度量がある、器が大きいととしてプラスに評価される。ウズ社会の成員が持つ様々な気を腹に飲込み融合させる触媒的な働きを持つからである。これが腹芸といわれるものだ。気が小さくては、その逆に疎んじられる。親分肌と言われるのはこの気の大きさをさす場合が多く、調整型のリ―ダ―にもこの素質が必要だ。日本のトップにしばしば調整型・融和型のリ―ダ―が就くことが多いのはこれは様々な異なった気を旨く融合させる能力がウズ社会では必要だからである。
ただ、このタイプがリ―ダ―シップをとると自らのイニシアチブで組織を引張って行くのではなく、言わば組織の有力な成員の総意をまとめ上げそのうえに乗っているにすぎないので、組織内で自らが触媒として醸成した気(=気風)に、「和」を貴としとする論理にも拘束されて、自らズルズルと引摺られていきやすい。これが気あるいは空気による支配である。太平洋戦争開戦という国の大事に際しても、日本陸海軍の首脳陣が、いかに自軍の大勢に引摺られていたかを見ると調整型・融和型のリ―ダ―の限界が分る。これが下克上の温床でもある。阿川弘之の「井上成美」の中に自分の気の大きさを見せようと、めくら判を押す上層部の話が出てくる。こうして鬼軍曹の強気の意見が罷通る。いずれにせよ、これは成員の気の和を持って貴としとする日本型組織=ウズ社会の限界でもある。
ウズ社会はその成員が気を合せるところから始まる。気を合せようとするところから「気」の渦が生じこれが、組織としての一体感をもたらす。たとえ、旅行社が企画した自由参加の小旅行のグル―プであっても、そのグル―プに参加した人は気を合せようと務めるものだ。一生を託す気で入った会社・官庁などの組織であれば、成員同志「気」を合せようとする気持ちは数倍も強くなる。
日本の組織の理想は成員のすべてが「気の合った」仲間になることであろう。機能集団であっても成員の能力や機能よりも、気が合うことつまり個人的な親しさが重要視される。各成員が家族の一員のようにお互いに気が通じ、気が合っている家族的経営が理想とされるのもこのためだ。ただ、組織が大きくなるに従って全員が気を合せることは難しくなっていく。気が合せられる範囲には自ずと限界がある。こうしてウズ社会の中にさらに小さなウズ社会ができる。派閥ができやすいのはそのためであり、大きくなった組織で、絶えず「一丸となって」という掛声を掛合い、一枚板・同心円である確認をせざるを得ないのも、組織内に別のウズ社会ができやすい構造を持っているからに他ならない。後任の自民党総裁選を前に中曽根首相が「中曽根派には一糸の乱れもない」と強調したのも同じ論理である。
ところで、この「気」を合せるとはどういうことなのだろうか。 気が合うとは、息が合う、呼吸が合う、調子が合う、波長が合うと様々な言い替えが可能である。この息、呼吸(呼気、吸気)、調子、波長のいずれも振動である。振動すなわち音である。つまり気が合うとは音が合うということだ。気が合う=共鳴=和音=協和音のことだ。逆に気が合わない=気が合わない=不協和音である。
ドイツ・ジャズ界の法王といわれるJ.Eベ―レントはその著書「世界は音」の中で、世界は音でなりたっており、人間そのものが様々な原子の組合せによる、調和のとれた振動体であり、音である。草原や畑や森の植物も固有の振動―つまり音―を持っており、周りの植物の振動と調和しないと成長が止まってしまうという(5)。従ってよりよい人間関係を持つということは、各人が持っているそれぞれの固有の振動=音を合せること、共鳴させることである。
「和をもって貴しとなす」という聖徳太子の言葉はこの真理を洞察したものに他ならない。つまり「和を持って貴となす」、の和は気(=気分)=音の調和・一致である。いわば肉体的・情緒的・感情的な共鳴・融和であって、知(意見、見識、論理、見解)の一致、合一ではない。論理的に詰めて合せることによる和の達成ではなく、論理に多少もとるにせよ、成員の心理面・情緒面を代表する気(=気分)を合せる(これこそ正しく気合いである)ことによる和=調和の達成を貴としとしたのである。
各成員がお互いにこれほど「気」を合わせようとするのは、それだけ日本人が気分を害することを忌み嫌うことをも示している。逆に言えば気分を害しやすく、気分を害されると益々感情的になって、収拾がつかなくなる恐れが強いことを示すものだ。その点を慮って聖徳太子はこれを十七カ条の憲法の第一条に据えたのであろう。しかしこれによって「気」は後々まで日本人を支配する基盤を得たのである。ところで、日本人は和をハ―モニ―と訳すが、ハーモニーとはそもそも和音を意味しており、それは上述したことと合致している。
気が合うのにも主観と客観の二つの側面がある。他人へ気を合せようとするのが、主観であり、これは本人の意欲・努力による。自らを空しくして周りに気を合せようとする気構えがあれば、気は合わせうる。しかし、自分を空しくできなければなかなか気は合わない。相手の固有の音に耳を澄し、自らの波長を合わせていかなければならないからである。
一方、気質が合うか合わないかが客観である。人には様々な気質がある。気質の分類には、様々な試みがされているが、古典的な多血質、憂欝質、胆汁質、粘液質という分け方から躁鬱気質、分裂気質、粘着気質やタイプとしての経済人、理論人、審美人、宗教人、権力人、社会人という分類の仕方や、また民主主義的か権威主義的か、外向的か内閉的か、現実的か、夢想的かなど実に様々な分け方がある。これは自ずと外に現れなかなか偽ることが出来ない。いくら本人が気を合せようと努力しても気質が合わないとなかなか気が合わない。カラオケで音を合せようにもキーが違っていたり、根が音痴では旨くできないのと同じことだ。この主観と客観のコンビで同質性(気が合っている、息が合っている)と異質性(気が合わない、波長が合わない、和が保てない)が認定される。
日本人の「気」の合せかたは、日本の伝統音楽である日本民謡のやり方に似ている。これは現在日本文化に市民権を得たカラオケにも取入れられている。日本民謡では主唱者がいて、それに合せて合の手を入れる従唱者(お囃し)がいるが、気を合せるときもこれと同じパタ―ンをとる。その場の一番気の強い人(例えば、役員会の社長、教員会議の校長、課内会議の課長)に周りが合せる。多くの場合、声部が一つだけの同じメロディ―同じリズムに合せる、斉唱的な合せ方である。各パ―トに分かれるという発想がなく、皆が一斉に同じ旋律を歌い(=働き)、一斉に休む(夏期一斉休暇を見よ。)。
日本人はこれまでこういうやり方だけをもって気を合わせる=和と考え、それをかたくなに守ってきた。それ以外の合わせかたを知らなかったし、気付かなかった。このようなあわせかたでも「同一民族同一言語」であったためほとんどの場合破綻が生じなかった。日本人の持つ固有の気=振動=音はそれほど音程がずれていないため合せようと務めれば合せることが出来なくはなかった。幼稚園以降の集団教育の場は多くがこの気の合せかたの習練の場であったからほとんどの日本人はこういう気のあわせかたを成人になるまえに身につけていた。そうした訓練によっても身に付かない人は大抵小数であり、組織にはそもそも入ろうとしないし、入ろうとしても、入社試験などで篩い落としてしまう。組織に入っても村八分で排除すればよかった。
ここで「同一民族同一言語」といったが、日本人が自らを同一民族同一言語と規定するのは、日本という国土の上に、気の合う仲間だけの天国を作りだし、およそ気を合せようとしない民族・言語を排除し、無視したいという無意識の願望の現れである。ウズ社会の住人の本性が自ずと現れるのである。
しかし、音の合せ方にも西洋音楽のように、和声を取入れた重唱的・オ―ケストラ的な合せ方もある。音楽の歴史は協和音の発見の歴史でもあった。現在我々が代表的な協和音と感ずる三度も中世までは悪魔の音程とみなされていた(6)。現代音楽は不協和音をも取込んでいる。これこそ多民族国家の寄せ集めである国際社会に相応しいといえよう。社会環境が音楽の使う音そのものをも規定しているのかもしれない。
現代は個性の時代といわれ日本人の中にも日本人離れしたかなり異質の気=音をもつ人も現れてきた。また多くの外国人が日本にもやって来る。彼等は日本人と異なった固有の振動=音を持っている。これは日本人にはかなり不協和音に聞こえる。日本人が今後とも気を合せることを持って組織の統合の原理にするにせよ、これまでのように斉唱的な一つの音一つのメロディ―一つのリズムにだけ合せようとするやり方にはすでに限界がみえはじめている。それに固執すれば、いわゆる国際摩擦は、あらゆる面でますます深刻化しよう。
注
(1)日本経済新聞 昭和六二年十月十三日、利根川進氏がノ―ベル賞を受賞した際のコメントの一部。
(2)阿川弘之『井上成美』 四六六頁
(3)三根生久大『陸軍参謀』文芸春秋 一九八八年 一九頁
(4)長谷川慶太郎『これからの世界と日本』一九 九六頁以下
(5)J.E.ベーレント 大島かおり訳『世界は音』人文書院、一九 一一三頁
(6)前掲書『世界は音』一六七頁