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文化としての日本的経営 第4章 


 

四  「 本 気 主 義」 の 社 会

 日本の組織は「気」の渦巻くウズ社会である。組織の成員は日常的にこの「気」の渦に巻き込まれ、拘束されて行動している。前章までこのように「気」に支配されているウズ社会の実態を分析してきたが、本章では、ウズ社会が言わば「本気主義」ともいうべき社会であることを示そう。

目次

1 進む機能集団の絶対化  

2 終身雇用制と年功序列制の定着     終身雇用制/年功序列制・  

3 本気主義  

4 本気主義の行き着くところ


 1   進 む 機 能 集 団 の 絶 対 化

 日本人は長い間、気を合わせることを基本として人間関係を結んできた。戦前、日本人が人間関係を持つ場は、家庭、地域社会、軍隊、機能集団(企業、官庁、学校)などであったが、そのいずれでもこの基本は変らなかった。言わばそれは日本人の文化的伝統となっていた。ところが、戦後は人間関係をもつ場が機能集団に集中することになったため、気を合せる対象が、自分の属する機能集団に限られるようになった。機能集団の中の他の成員の「気」、あるいはその集団の「気風」(社風、校風)にさえ合せておけばことが済むようになった。戦前はそのうえに超越的な天皇があり、天皇の命ずるところには盲目的に「気を合せる」必要があった。それがある面では、機能集団の要請を撥付ける側面があった。二十になると男子は「徴兵検査」を受け、合格すれば軍隊に強制的にとられ、上官の命令を「朕の命令」として聞かなければならなかった。一銭五厘の赤紙の威力は機能集団の辞令の及ぶところではなく軍隊こそ正しく強制的に気を合わさせる装置として機能した。そのうえ、「家」や「地域社会」も機能集団に対して対抗力を持つ組織として存在していた。家の中では家長の権限は強かったし、地域社会における隣組や町内会も個人の自由な行動を拘束する力を持っていた。

 戦後はこうした「気を合せる」対象がことごとく崩壊した。つまり、絶対天皇制から象徴天皇制への移行による天皇の権威の失墜、家の中核であった家父長制の崩壊による「オヤジ」の権威の失墜と核家族への移行、高度成長期における地方から大都市への人口の大移動による地域社会=村の崩壊と大都市における大衆社会の出現がそれである。伝統的な共同体から切離され、大衆社会の無名の一員となった日本人にとって、日々の糧を稼ぐという経済的理由から属せざるを得ない機能集団が、社会的には唯一の永続性のある人間関係の場となった。もちろん家庭も重要な人間関係の場ではあったが、戦後の食糧難の時代には機能集団からの稼ぎによって家庭の生存を確保せざるを得ず、そのためには、自分の属する集団の成員と必死に気を合わせそれこそなりふり構わぬ努力を傾けなければならなかった。むしろ、家族のほうが機能集団に気を合わせたし、機能集団の成員のほうも核家族化した家族の他の成員に気を合わせることは二の次の立場を取るよりなかった。このため、気を合せる主たる対象がほとんど機能集団のみに集中することとなった。それだけに気を合せておけばまずは無難に生きていける。それ以外の対象に対しては、ほどほどに「気」を合せるか、あるいは「気」にしなくて(=無視して)差支えない。その代わり機能集団に気を合せられなければ、生きていけない。端的にいえば戦後確立された機能集団を中心とする「正統的な」社会からドロップアウトせざるをえない、という構造ができあがった。

 こうして、成人男子の主たる関心は機能集団のみに集中し、機能集団は成人男子にとっての全生活の場となり、成人男子は全人格をウズ社会に取りこまれることになった。機能集団に気を合せることがその人の生きがいのほとんどを占める社会が成立していくに従って、機能集団の持つ規範が成員にとって基本的な規範となり、思うままに成員の個人的自由を拘束するようになっていった。こうして機能集団の絶対化が進んだ。また、戦前の家、村などの強い共同体が崩壊したのに代って機能集団そのものが共同体化を始めた。今や機能集団の成員は全生活をそこに取込まれ、その命ずるままに動かざるを得なくなった。戦前の兵隊の位や一銭五厘の赤紙にかわって、今では機能集団内の序列を示す肩書や辞令がものをいうようになり、成員に上司や組織への徹底的な忠誠を要求するとともに、単身赴任を強制し瘴癘の地へも赴かせる力を持つようになった。。こうした動きに歩調を合わせる形で、日本社会そのものの機能優先、経済優先、文化軽視のモノカルチャ―化が進んだ。

 先に見たように機能集団の中で気を合せるという行為は、長いものに巻かれることにならざるを得ない側面を持っている。気を合せる対象は既成の気風、社風、上司(=既存の価値の体現者)であり、それが唯一無二化すれば、既成の価値の体系、既成事実の尊重、既得権益の擁護が当然のこととされ、足して二でわる現実主義が瀰漫することになりやすいからである。その行きつくところ、理念無き現実主義に陥る危険性を常に内包している。

 2 終 身 雇 用 制 と 年 功 序 列 制 の 定 着

  終身雇用制

 機能集団の絶対化・共同体化とともに、終身雇用制や年功序列制の定着化が進んだ。機能集団に徹底的に気を合せざるをえなければ、全人格を会社に取りこまれた会社人間になるよりない。A社の気風に完全に染まり、A社カラーの会社人間になってしまえば、A社に専属せざるを得ない。転職し、B社に移ろうにも、A社の気風にどっぷり染まっているので新しいB社の気風になかなか合せられない。溶け込めない。A社の規範がその成員にとっては基本規範なのであるから、B社に移るということは、まったく基本規範のことなる別の社会へ移るのと同様の困難を伴う。各組織ごとに異なっている気の渦という誠に複雑精妙な流れに合わせて生きていくというのは容易な技ではないのである。

 また、一度他社(A社)の気風に染まったと目される人が途中入社してきても、転職先(B社)の成員は多くの場合、なかなか気を合せようとしない。気を許さない(気を許すと自分が異質性をおびかねない)。帰国子女が、いじめの対象にされるように、ちょっとした異質性さえも目敏く指弾され排除の対象にされるだけでなく、他社にいたことがあるというだけで(余所の釜の飯を食ったことがあるというだけで)本質的に気=音に異質なものが混ざっていると見なされ、合わせがたいとされるのである。これが、他社の気風に染まらない新卒の新入社員がウズ社会で尊重される所以でもあり、合併企業がなかなかうまくいかない理由でもある。

 成人男子の場合、気を合せる対象が機能集団のみに限定されており、本来共通の生活体験の場を提供する機能を持ちえた家庭や地域社会などから遊離してしまったので、会社等の機能集団での生活体験を除けば、一人一人が共通する生活体験を持ちあわせないという面も、転職しようとしてもなかなか難しい理由でもある。成人男子の多くは、ウズ社会にどっぷり漬かっているので、地域社会・PTAとのつきあいでさえ、苦手となり、これがますます機能集団の中に自らを閉じ込める要因になる。

 このように、ウズ社会は、成員をその吸引力で内へ内へと巻込むとともに、他の組織に属した経験を持つものを排除するメカニズムを持っている。これが終身雇用制を成立させた一つの文化的土壌である。このように成員の全生活の場となり、一度その成員になったらいわば足が洗えないところが機能集団が共同体化という所以でもある。

  年功序列制

 純然たる機能集団であれば成員の評価は、機能集団が必要とする機能を提供する能力によって行われることになるが、日本の機能集団は共同体化しているため、純然たる能力よりも、共同体の一員としての能力が重視される。

 先に見たようにウズ社会は、「気」力を第一とし知力を疎んずる。知的関心を持ち勉強をし能力を磨き、機能集団が必要とする機能を的確に提供して実績を上げた人よりも、人当たりがよく気を合せるコツを身につけた人、つまり、人脈を作り根回しが旨い人の方が尊重される。一匹狼で実績を上げるよりも、実績はなくとも回りと気を合せて仕事をやる勤務態度・姿勢・気構えが高く評価される。機能集団の中で学生時代の成績優秀者、いわゆる優等生が、実績を上げた人より、貴ばれるのも、そもそも日本の成績優秀者なるものが「気に入るような答案」を書くのに長けた人物であるからに他ならない。その特質は社会人になった後でも十分高く評価されるのである。

 気を合せるには長年同じ組織に属しているほど巧みになる。気風の体現者として後進の指導に当たることができる。いわばこれらが「和を以て貴しとなす」共同体の一員としての重要な能力なのである。新しく共同体に入ってくる者は先輩の教えを受けてその組織の気風を学びとらざるを得ない。つまり年次が一年でも下の者は上の者に合せざるを得ない。そこに気を合せる序列が成立する。日本の組織の中では、いかなる集団であっても、気を合せる階級制がなんらかの形で成立するのであるが、年功序列制は、それを制度化したものということもできる。もっとも年次が上であってもその組織の正統的な気風の体現者でない者であることがわかればそれに合せる必要はない。そういう人は次第に組織の中枢から排除されていき、自ずと序列も下がっていく(肩書上では現状に止どまるにせよ、後から入った人が追いぬいていけば相対的には下になる)。こうして一生をそこで暮らすことを前提とした共同体の一員として、その集団への帰属年数と共同体を支える意識・姿勢とをミックスした独特の「年功」による序列づけが成立する。

 また、こうした年功による序列が成立した背景としては、そもそも純然たる機能集団と同様に、その任に耐えるかという「能力」の評価をしようにも「知」を軽視するウズ社会の中では日頃は気を合せることにかまけてほとんど知的努力をしていないのであるから、多くのものが不合格になってしまうので、それを基準にするわけにいかないという側面も無視できない。社会人になるとほとんど専門書を読まなくなるし、残業と接待の連続では、読む暇もない。へたに知識を身につけるよりも。カラオケやゴルフに習熟するほうがよほど実際的な効果を発揮する。つまり、肩書きと知力・文化度とはそれほど相関関係はない。

 日本の組織における肩書は正統的な気風の体現者としてのシンボルであり、お墨付きである。戦後、家庭での権威や地域社会での序列付けの一切をなくし機能集団に閉じこめられた成人男子にとって、職場での序列は唯一無二でかつ全人格的なステイタスシンボルである。と同時に、それが下のものに気を合せることを強要できるシンボルでもある。それゆえ、下のものも、上のものや回りのものに精一杯気を合せることによってすこしでも上の序列へ上昇しそのシンボルを得たいという欲望を煽られる。こうして、より高い序列を得ることが成人男子の最大の生きがいとなった。気を合させる権威を、序列を示す肩書や、肩書に応じて支払われるモノとしてのカネ(=給料)で裏付けることによって、年功序列による給与制度・昇進制度が定着した。

 3   本 気 主 義

 大幅な輸出超過による貿易黒字を抱え激しい貿易摩擦の中で、一九八五年九月以来急激な円高が進んだが、その直後に行われた輸出企業に対するアンケ―ト調査によるとそれでもあくまで輸出に全精力を注ぎこむという会社が意外と多かった。これが正気かどうかは別にしても、とにかく、社長以下全職員一丸となり本気で合理化によるコストの削減に取組むことに間違いない。本気になるとそれこそ休み返上で働くので、週休二日制はいっこうに進まない。その結果、二年足らずのうちに対ドルレートも一四〇円台に順応してしまい、ふたたび国際競争力を持つようになる。そうして、円高は一層進む。自ら努力して円高を招くようなことになる。しかし、何事であれ、本気で取組んでいる人を批判したり笑ったりすることは日本ではタブ―である。本気には逆らってはいけない。本気であればすべてが許されるのが日本社会なのである。

 その結果、集中豪雨的な輸出、輸入に対する閉鎖的な市場、過当競争体質は何年たっても解消できないが、これも各組織が上述のような本気主義とでもいうべき哲学を持っているためである。  本気とは、新明解国語辞典(三省堂版)によれば、 (一)冗談では(疑う気持ちが)なく、心からそう思っている・こと(様子) (二)[遊び、ごまかし・気まぐれからではなく]心からそうする気持ちになっている・こと(様子)、という意味である。

 「本気」の言葉の意味の中に冗談ではなく、遊びではなくという意味が入っているように、本気主義の社会には、冗談や遊び、ゆとりがない。むしろ、そういうものを気が弛むとして排除する。本気でないこと、つまりウズ社会の渦の流れに真面目に合せていないことが日本人のいう遊びなのである。みんなが捩じり鉢巻きで突貫工事に取り組んでいる最中に、大きなあくびをしたり、冗談口を叩いたり、ちょっとでもぽけっとしてでもいようものなら、すぐ課長に「遊んでいるときではない」とか「だれだ遊んでいるのは」とか注意される。だから日本では遊びは嫌われる。疎んじられる。機能集団を離れた所にしか遊びはあってはならないのである。

 本気主義の行きつくところが、実用一点張りの社会である。モノを作ったり、モノを売ったり、カネを稼いだりすることには長けて世界有数の経済大国にはなれても、文化大国にはなれない。それは、ゆとりやユ―モアがなければなりたたないからである。何時も本気で仕事に取組んでいるのでオフィスの明りは連日連夜遅くまでこうこうと輝いている。かつてイギリスは世界の工場になることをいさぎよしとせず、自らその地位を降りたといわれる(1)が、本気主義の日本はむしろそれを喜々として受け入れている。エコノミックアニマルといわれ始めた頃は、それを恥じていた日本人もいまや、仕事のためにはそうよばれてもいたしかたないと割り切っているかのようだ。日本の戦争映画を見ると誰もが何時も怒鳴りあっていて一片のユ―モアもゆとりもない。チャ―チル首相の戦時中の演説の中にも巧まざるユ―モアが溢れているのと大違いである。日本人は、いまも経済「戦争」を戦っているつもりで、まなじりを決して仕事にとり組んでいる。

 この本気主義の社会では遊びさえ本気で取り組む。いや、遊びですら、「気」の世界では「勤務」評価や「年功」の査定の対象になりかねない。管理職になると「そろそろゴルフを始めたら」と勧告を受ける。それに従わなければ、それなりの覚悟が必要になる。麻雀人事やゴルフ人事がないわけではない。

 日本人がテンション(緊張)民族であるといわれるのもそもそも仕事も遊びもすべてに本気だからである。本気の定義からして本気になって遊べばそれはもう遊びではない。その結果、日本人はなかなか気が抜けない。だが、四六時中本気では体が持たない。それ故、気を抜くための公認の装置・仕掛けをいろいろと仕掛けることになる。それが赤ちょうちんであり、カラオケバーや酒宴であり、その際の無礼講である。泥酔を許容する文化的土壌もここにある。日頃真面目な日本人がこのときとばかり大いに乱れ、羽目を外し、日頃のうさ=気疲れを晴らすのである。これは文字通り「気晴らし」といわれる。毎晩バ―やクラブで繰り広げられるホステスとの疑似恋愛遊戯に見られる荒唐無形さこそ正しく昼間の本気の陰画としてその埋め合わせをしているのだ。翌日になれば昨夜の乱れがまるでウソのような「台風一過の秋晴れ」顔をして、皆本気になって仕事に精を出す。

 日本人は自分の属する組織から要請されれば何事にも本気で取組む。ココム違反事件を起こした東芝機械では社長自らココム違反と知りながら工作機械の売込みを奨励していた。それを受けて全社員が工作機械の売込みに本気で取組んでいた。全社員がココム違反と知っていたかは分らないがたとえ知っていたとしても事態にはそれほど変りはなかったのではなかろうか。社長命令を撥付けることのできる社員はウズ社会にはほとんどいない。しかしそこには本気はあっても正気はない。会社のため脱税工作に本気に取組んでいる社員も恐らく正気ではなかろう。

 このようにして、正気であるか狂気であるかは別にして、ひたすら本気であることがウズ社会の成員には求められる。気を合せるためには本気でなければならない。そのため、組織の中に全人格を埋没せざるを得ない。その結果、日本の成人男子の多くが会社人間、組織人間になってしまうのである。それゆえに、機能集団がその人の「生きがい」そのものとなり、逆に組織側が成員各人に生きがいを提供してやらなければならなくもなる。全人格が組織に埋没してしまった成人男子にとっては、生きがいは必然的に、ウズ社会の中でのより高い序列であり、そのことを示す肩書となる。肩書は、組織の中でどの程度気にいられているかを、つまり、身の安全さを示すバロメーターでもある。人事異動に一喜一憂するのもそのためだ。自分の本当にやりたい仕事・職種とは関係なく人事異動の意味する自らの社内での評価・位置付けに一喜一憂するのである。だが、序列の高い肩書になればなるほど、その数は採用者数に比べて次第に少なくならざるを得ない。満足するものの数が次第に少なくなる。こうして中高年になればなるほど、ストレス、失意感が高ずることになる。自分の全生涯を捧げ、全身全霊を打ち込んで気に入られるように努めながら、それを評価して貰えなければ、一生を無駄にしたようでそれだけ失意感も強い。年齢が高くなるにつれて最近成人男子の自殺率が高くなっていることと、このことと無関係ではあるまい。

 「二足のわらじ」を履くことに日本の組織が極めて不寛容なのは、つまり、気に食わないとするのは、仕事を本気でやれば、つまり命懸け取組めば、外のことに気をまわす余裕(これこそ日本人の考える遊びである)がないはずにもかかわらずそれ以外のものに本業と同等に打込んでいるからに他ならない。それは組織の要請するところに本気に取組んでいるように思えないのである。本気になればそれ以外のことを入れる余地はなくなる(一本気)筈だ。他のものを入りこませることができるのは、気が散っており、気を抜いている、つまり遊んでいる証拠だ。として二足のわらじを履く人を排斥する。  二足のわらじとまでいかないにせよ、機能集団が認める本業以外のことにあまり精を出すことは、何にせよ快く思われない。「一」(=一致)を尊ぶウズ社会では、この道一筋が尊ばれ、そもそも二股掛けることが忌み嫌われる。多少とも気を合わせにくい要素が生じるとされる。つまり異質性がその分増すと考えられるのである。こうしてますます機能集団の成員はそのの生きがいを集団内に見付けざるを得なくなる。ところがその生きがいのシンボルとなる肩書は現在では高度成長時代に比べ相対的に少なくなっているのだ。

 4   本 気 主 義 の 行 き 着 く と こ ろ

 ひたすら、本気で気を合せ続けていけば、成員は個性を喪失し、いわば蒸溜水のように不純なものを一切含まない存在になる。これが没個性化であり同質化である。日本の組織を、ウズ社会と名付けたのも、日本の組織が、同質のものを中心部(=中枢部)へ集め、異質なものを周辺部へ分離する、遠心分離機のような強い機能を持つからでもある。つまり、本気で気を合せることをよしとする社会では必然的にちょっとした差異でさえ目敏く見付けて区別し、序列付け(差異化)せざるを得ない。そのちょっとした差異によって気=波長=音色が異なりそれだけ合せにくくなるからだ。その結果純度のより高いもの、気がぴったり合うものを中心部へ引付けると同時に、すこしでも不純なものを含むもの、気の合わないものを排除し、周辺部へと押しやる。序列は排除の序列でもあり、一番下位に序列をつけたものを一番外延部へ追いやる。通常一番外周部に追いやられるのは、女子職員、身体障害者、外人である。こうして組織は一色になる(十章および十一章参照)。

 「外人」とは必ずしも外国人のみをさす言葉ではない。気を合せようとしない人が「外人」(ウズ社会の外(ソト)の人)である。気を合せようとする気持ちが、ウズ社会の吸引力に反応して渦に巻きこまれるのである。いわば鉄が磁場に置かれると磁力に反応するように。日本人は生まれたときから日本文化の中で育つのでいわば気の磁力に反応する鉄と同じ性質を与えられている。ところが日本文化以外の場で育った人は磁力に反応しないいわばアルミニュウムであり、銅である。従ってこういう人はたとえウズ社会に入っても磁力を感じない。そういう人を日本人は気が合わないとして排斥する。これが異質性排除のメカニズムであり「外人」にたいする閉鎖性として「外人」から非難される点である。ウズ社会ではこのように「ウチ」と「ソト」を峻別しており、ウズというネ―ミングから類推できるように「ウチ」には常に強い陰圧が働いており、外圧に対抗する内圧はなく、「ソト」と交わりようのない世界なのである。

 ウズ社会ではこのように成員がすべて本気になってしまうので、一度その気になってしまうと、それを変えさせることは難しい。一度本気になってしまうと槍も鉄砲も利かなくなる。気の合一は論理的な帰結ではなく、気が合い、気が向いた結果にすぎないので、論理的な説得は有効ではない。その場の空気や、そのときの風向きで、その気にいわば突然とりつかれ、本気になってしまう。本気になってしまえばそれが狂気であろうとなかろうといっこうに気にしない。ネバナラナイ、sollenが先行し、seinからの拘束・制約を受付けなくなる。そこから情報の軽視、知的判断の中止が生まれ、「命懸け」「死ぬ気になって」、精神一統何事かならざらんの世界が生まれる。ウズ社会は成員を文字通り気の渦=嵐=台風に巻込む。秒速数十メートルを越える暴風雨に巻込まれると正気か狂気かの区別はつかなくなってしまう。

 このように、ウズ社会では本気が行き過ぎ、しばしば外部の人、とくに外国人にとって狂気以外のなにものでもないところまで行き着きやすい。当然の事ながら、狂気の人と正気の人とでは、話が通じない。こうしてウズ社会の内部の住人と外部の人との意思の疎通ができなくなる。もともと勤勉が売物で円高になっても血の滲むような合理化努力でコストを引き下げ、休みを返上して働き、ひたすら輸出に邁進するウズ社会の住人と諸外国の人々との間では話が通じなくなっているのではあるまいか。

 戦後長い間、輸出立国を国是にしてきた日本が、貿易黒字がかつてのOPECを上回り摩擦が激化したので、輸出を少々押さえて輸入増加を図ろうといったところで、その直ぐ後で貿易収支の均衡は縮小均衡ではなく、拡大均衡でやるべしと付け加え、それほど輸出をセイブするつもりがないことを匂わせるのでは、輸出で本気になってしまった人々の頭を冷やし、日本全体の方向転換など出来たものではないのである。

 太平洋戦争へ突入していく過程で、当時の軍の指導層が軍部の中堅層に引摺られずるずると流されていくのも、それまでの上層部の見せ掛けの強気がいつの間にか中堅層を本気をしてしまっていたわけで、慣性のついてしまった本気はたとえそれが客観的に見れば狂気そのものであっても、もはや押しとどめることはできない。


注

(1)ラルフ・ダーレンドルフ 天野亮一訳『なぜ英国は「失敗」したか』TBSブリタニカ一九八四年 五七頁


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