二通の手紙    山 羊 男  七つ泣き虫  ある官僚の死 
短 編小説の部屋
               Short story                
(2002/1/27掲載)

七つ泣き虫

 この短編は、おそらく1971年前後、千葉の稲毛に住んでいた頃に書いたものと思われる。先日、1971年3月1日の消印のあるA5 版の角封筒の中から発見した。

 この封筒は、文芸春秋社が、わたしの「オール読物」推理小説新人賞応募作「遺書は風に散った」が、最 終予選の5編に残ったので、ゲラ刷りを送ってくれた時のものだ。貼られた切手を見ると35円で、イカの図案である。



「ヒロシ、何をぐずぐずしてるの? 早く行かないと学校に遅れるよ!」
 母親にせかされてヒロシは、重い足取りで玄関を出た。
<今朝もとうとう言い出せなかった。担任の渡部先生には何と言おう。昨日、先生から、学級費を収めていない人は、明日忘れずに持って来るようにと言われた ばかりだったのに。>
そう思うと、ヒロシの足取りは自然重くなるのだった。

 ヒロシは、学校では活発でハキハキした子だった。そのヒロシが、今日は朝から何となく元気がない。渡部先生はちょっと気になっていた。

 四時間目の授業も終わった。
 子供たちは、もうそわそわしていた。放課後にはやることがいっぱいあった。野球をやることにしている連中は、一秒でも早くお城の原っぱに駆けつけて場所 を取らなければならなかった。女の子も、縄跳びの場所が欲しかった。だから、みんな今にも教室から飛び出さんばかりの姿勢で、渡部先生の締めくくりの話を 待っていた。しかし、その中でヒロシだけがポツンと寂しそうにしていた。

「さあ、今日の授業はこれで、終わりです。学級費はみんな忘れずに持ってきたでしょうね。今日も忘れた人は手を挙げてください」
そう言ってから渡部先生ははっとした。うつむきながら手を挙げたのはヒロシ一人だったのだ。
「ヒロシ君、明日は忘れないでね」
「はい」
ヒロシは小さな声で答えた。
 
 健や勝っちゃんが野球をやろうと誘っても、ヒロシは
「今日は用があるんだ」
と断った。ヒロシにとってみれば、本当のところ野球どころではなかった。明日学級費を持って行かないと、渡部先生は怒るだろう。あんなに優しくてきれいな 渡部先生を怒らせたくなかった。

<でも、今ぼくんちには、お金はないんだ。>
 そう思うとヒロシは、悲しかった。ヒロシのお父さんは、戦争からまだ復員していなかった。母親が内職して、小学一年のヒロシと、姉の小学六年のヨシコ、 小学四年のミツコ、それに四つになる弟のナオキの四人兄弟をやっとのことで養っているのだった。あちこちから借金して何とかやりくりをしている母親の苦労 が、年端もいかないけれど、人一倍気が廻るヒロシにははっきりわかっていた。
<ぼくがお金をくれと言うと、お母ちゃんは、悲しそうな顔をする。お金がないくせに、ないって言えないものだから、明日の朝、ヒロシが目を覚ましたら、枕 元に置いておくよと、決まって言うんだ。そして、一日中内職して疲れているのに、夜中あちこち駆けずり回って、お金を借りてくるんだ。ぼくはお母ちゃんを 悲しませたくない。>
 ヒロシは、学校の近くにあるお城の石垣に腰を下ろしてため息をついていた。
 <でも今夜は、何とか頼んでみよう。>
 そう思ってヒロシはやっと家路についた。

 それでも、ヒロシは、その夜はとうとうまた言い出せなかった。翌朝になって、朝ご飯を食べても、ヒロシは、まだ、言い出しかねていた。
 背嚢袋を作り替えたカバンを背負ってからも、ヒロシは言い出しかね、玄関先でぐずぐすしていた。
「ヒロシ、どうしたのよ。お母さんは、忙しいんだから、あまり世話をやかせないでね。用意ができたら、さっさと学校へ行っておくれよ」
「お母ちゃん」
やっとの思いでヒロシは口を開いた。蚊の鳴くような小さな声だった。
「えっ、なーに」
「あの・・・」
「いったい、何なの。はっきりしない子だね、この子は。何かあったのかい?」
 ヒロシは、急にたまらなく悲しくなった。とうとう泣き声になって
「お母ちゃん、先生が・・・」
「泣かずに、はっきり言いなさい。泣いたりしたらお母さんは聞いてあげないよ」
 ヒロシは、はっきり言おうとしたが、言葉にならなかった。言葉の代わりに悲しみがどっとこみ上げてきて、思わず、泣きじゃくった。
「変な子だね。学校に上がる前は、全然泣かない子だったのに、学校へ行くようになってから、すっかり泣き虫になってしまって。七つ泣き虫とは良く言ったも のだね。ほら、健ちゃんが迎えに来たわよ。早く泣き止まないと、笑われるわよ」
 ヒロシはそれでも、泣きじゃくっていた。

 ヒロシが中学生になった頃には、この話は、母親の思い出話のひとつになっていた。
「ヒロシはね、小学校に上がる前は、道ばたで転んでも、泣き声ひとつたてずに起き上がるほど強い子だったのに、学校に行くようになってから、急に泣き虫に なってね。七つ泣き虫とは良く言ったものだよ」
 この話を聞くと、父親が復員してから生まれた一番下のヤスオまでが、
「へぇー、兄ちゃんは、今はいばってるけど、そんな泣き虫だったの? ぼくなんか、七つだけど泣き虫なんかじゃないよ」
と言って笑った。
 ヒロシは、いつも静かにほほえみながら、黙ってこの話を聞くのだった。

(完)


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