筆者、20歳、大学一〜二年生当時の日記の連載を始めます(2002年7月26日)
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年月日 曜日 日記本文
1960.3.4 Friday

1960.3.4


映画鑑賞「北北西に進路を取れ」「アンネの日記」。
どちらもいい映画だった。それぞれ違った意味において。その批評を書く気力は、午前一時四十分近い今となってはないのが残念だが、自動車教習所へ、毎日午前七時少し過ぎには起きて熱心に通 っているためのものしてお許しを願いたい。
北北西の方は、なかなかシャレた感じの映画だし、アンネの方はアンネの清純な魂の美しさを戦争の醜さ、その逆境の中に於いて強く感じさせた。

 

1960.3.14 Monday

1960.3.14

 物事をもっとも悪く考えて、現実はにつかわしい。現実の重みには、如何なるカラ頼みも耐え得ない。深く徹底した現実の分析による、将来への予測以外の何ものをも、我々は信頼してはならない。将来への予測等というものは所詮人間の慢心のなせる技で、もっとも悪く考えた考えたつもりのものも、生ぬ るさを免れ得ない。現実はそれより厳しい。現実には妥協はない。だが、人間はそのカラ頼みを裏切られて、成長していくものなのだ。

 

1960.3.14 Monday

1960.3.14-2

『ドン・カルロス』
 読み始めたら止められない作品をこの頃読んだことあっただろうか。ドン・カルロス、このシラーの戯曲は私をとらえて最後まで離さなかった。
 感動が私に襲いかかり、胸を押しつぶし、瞼を熱くした。次から次へと展開していく場面 が、常にその後に来る場面に対する関心を益々高めて、胸の高鳴りの一刻も休まる暇もない。まことに構成の巧妙さとでもいうのであろうか。
 そこに美しい人生の知恵をちりばめて、その深い内容は、随所に人生観察、人生洞察の深さに対する賛嘆と感激を覚えさせる。
 感情のもつれ合い、葛藤、そう言った、人生の複雑な形相を、文字通り、劇を見る観客にしみじみと分からせてくれる。人と人との誤解の悲しさ、一堂に会して腹蔵なく話し合えば、本当に何でも片づいてしまうことがいつも悲劇を生むのだ。人を信頼することの如何に困難かを教えてもくれる。

 

1960.3.23 Wednesday

1960.3.23

 昨夜映画を観た。題名は『十三階段への道』。帰り道、一人の若い女性が言っていた。「気持ちが悪かったわね」と。日本語の、いや私自身の乏しい語彙の中では、あの多くの場面 に対して最初の感想を”気持ちが悪い”とその女性が使ったのとまったく同じ言葉でしか表すことができない。ニュルンベルクの被告達が二度と強制収容所の記録映画を見ることを拒んだように、私も二度とこの映画を見ようとは思わない。ましては現実において、あの映画と同じような場面 を私は見たくない。
 気持ちが悪い。この感想はもっとも初歩的な、幼児的な表現であるかも知れない。しかし、たとえ、どんな科学的な論拠によって主張される戦争反対の叫びでさえ、その出発点においてこの感想から無縁のものではあってはならないであろう。気持が悪いもの一般 に対して、私達が抱く、嫌悪感、憎悪感、排除したいという欲求、あってはならないという直感等々の中から戦争反対の根底を持った叫びは出発すべきであって、観念的な嫌悪感、損得ずくの科学性からの戦争反対者は、昨夜の映画を見ることによって、自己の動揺を暴露するであろう。
 あの映画は二度と見るべき映画ではないと同様に、同じような映画は、これから二度と作られてはならない。しかし、一度は作られねばならない映画であった。そして、全世界の人が等しく見るべき映画なのだ。全世界の人が等しく見て、等しく”気持ちが悪い”という感想を持つに至ったとき、戦争否定の主張は、なんと力強く世界を征服することであろうか。
 一度はあの現実は直視さるべきものである。そして、永久に人々の脳裏から消え去ってはならない。真迫性を云々する時に、記録映画は、現実に次いで、いな、ある場合は現実を越えて、最高の位 置に立つことさえできると思う。冷静な編集者達が、我々が見落としてはならないあらゆる細部的は要素までも引っ張り出して見せてくれるとき、現実は一つの高圧電流の張りめぐらされた鉄条塀によっても遮断されうるものであるからだ。
 強制収容所の至る所に無数に転がる死体と廃人の場面に、吸い付けられたように目を凝らしている観客達の黒いシルエットの沈黙した静けさは私には異様であった。あの無数の死体と、それを映画によって見ている我々との対比。数から言えば死体の山の方がはるかに我々の数よりも多いであろう。過去の悲しさは、それが如何なるものであっても現実を越えて力を有し得ないということである。
 我々はあくまで主体性のある観るという態度を保留することができた。一歩映画館を出たら私達は自由に笑うことも、はしゃぎ廻ることもできる。それが私達の現実であった。しかし、映画も現実を語っていた。無惨と悲惨の限りの現実を語っていた。
 レンズの一望の下の死体の数と同数にしか満たない観客はしかし、あくまで見ていたのである。我と我が身を、あの死体の中に置くことはできなかった。ガス室にツメの傷跡を残す立場とは、その着飾った観客との間にあまりにも隔たりがあった。その映画から観客達は一つの事実を知り得た。ああした現実が、”あった”という事実を知り得た。しかし、ああした現実が”ありうる”とまでどれほどの観客が想到したであろうか。自らの行動一つでああした現実を”起こらしめうる”とまで真剣に考えたであろうか。安保改定に対して知らぬ と答えた五十パーセントの人のうちあの映画を見た人もあるであろう。そして再度の調査にまたも知らぬ と答えるとするなら、その人は自らの気持の悪いという感想を大事にしなかった人である。”ありうる”とまで想到し得なかった人である。自らの態度が起こらしめていることに気がつかない人である。
 日本人が、”ああ、江田島”と、涙を流すとき、ドイツ人は十三階段への道を作った。もはや戦後ではないと十五年前の現実を忘れ去ろうとしている時、ドイツ人は、十三階段への道を持った。現実直視の勇気は我々日本人の最も不足しているところだと思う。臭いものにはフタ。これが現実に対する日本人の対処法である。国会における安保改定の審議一つを考えてみても日本人の現実に対する対処法がうかがえる。
 私は今、あの映画館を大入り満員とし、目を凝らして見ていた人々に期待したい。現実を見る勇気を我々は養っていかなければならない。現実をよく見てから、我々は主張すべきを主張しよう。


1960.3.30 Wednesday

1960.3.30
 
 どんな小さなことでも良い、ものを完全に成し遂げたときの喜びは、決してそのものの大小には影響されないのだから。どんな小さなことでも良い。それを完全に成し遂げるならば。どんな小さなことでも良い。成し遂げたときの喜びはどんなにか大きなことであろうか。
 遂に小型自動四輪自動車の免許を獲得した。免許証は来月二日に貰いに行く。先月の二十五日京王自動車教習所に入所してから三十五日目である。
 本当に苦労させられた。免許されてみると苦しみも楽しい思い出に醇化されそうだが、とにかく、三十五日前は自動車に関して赤ん坊同然だったこの私が免許所持者となっている事実は思い出の醇化には役に立たぬ ことはあるまい。教程数は二十八だから普通だろうが、卒業試験は二度受けさせられた。それはまさしくショックであった。
 まあ、今日の筆記試験は無事一度で合格したのであんまり悔やむこともないであろう。
 今日の問題は難しい、との一般評であった。同じ京王の同窓生たちが十人程度一塊りになって発表を今や遅しと待ちかまえていた。”もうすぐ発表”があまりに早めに発表されて、ずいぶんと気を揉ませたものだ。自分の番号の見えるところに散らばると、あっちでもこっちでも心配だ、大丈夫だ、とうるさいこと。僕の側には京王の女の子が二人いた。二人の人の番号は百番台で僕の四百五十番よりよほど前である。
 一場の興奮が今や極まって、ランプがつき始めた。どよめきの渦、悲喜こもごもの嘆声。人間喜劇第一景。その女の子の番号は知らなかったが、ないわと言って肩に手を置き合っている。顔が赤い。「なかったの」と我ながら二人とも見事に落ちてしまったのに心配になりながら、ランプの走るのを見る。番号一から、一つずつ点いていくのだから、四百五十番はやりきれない。合格率は極めて低いままランプが走っていく。京王の男二人がやって来て、どうだと聞く。
 女の子が二人とも落ちたと言っている。二人の男は喜色満面、合格したと一目で分かる。しばし彼らは、「良かったわねー」とか、「残念だったね」と慰めたり、うらやんだり。
 女の子の一人が、僕の番号は「何番ですか」と聞く。「四百五十番」。まだ、ランプは二百番台。待つ身の切なさ。全部が見ているんだから、落っこちていたら大変である。さて、ランプは百五十、二百五十、三百五十の合格を灯しだした。「この調子では、きっと四百五十番も大丈夫だな」と独りよがりを口にしつつ、ついに四百番台になる。
 ランプがチョン、チョンと近づいてくる。あの時のキンチョウ感というものは凄いもの。身を切られる思いとはこのことであろう。ランプが一つ点くごとに、身がきっと鳴るみたい。一定の速度で点ってきたランプが四四八番ではたと止まってしまった。
 一瞬はっと息を飲んだ。時間がかかるということは、いいことではないからだ。さっきなんか一編に十四、五番先のランプからつき始めたんだし。周りの仲間は全部百番台だから、さっきから四百五十番だけを見ているんだ。隣の二人の女の子と言えば、僕と同じぐらい緊張して見ているんだから始末が悪い。頭がまさにじーんとしかかり、絶望感に身を委ねたくなる誘惑に剣が峰でこらえ、絶壁の頂上に危うく爪をかけて踏みとどまったような心の態勢で目を凝らしていた。
 思わず飛び上がってたね。
 口から歓声がほんとに飛び出していたね。
 隣の女の子二人だって同じさ。飛び上がったし、歓声を上げたよ。背中をたたき合ってね。興奮した赤い顔で笑って僕の方を見たね。「良かったわねぇ」って。
 四四九、四五〇って二つ続けざまにパッパッと点いたんだ。
 いや、胸をなで下ろしたね、嬉しかったね。安心したよ。女の子には気の毒だけど、嬉しさは隠せないね。
 「ショックだったね」、と女の子に慰めを言ったけど、「アタシたち、最初からあんまり期待してなかったからショックでもないわ」って、負け惜しみ言うんだ。おお、愛らしいオトメよ。
 二人とも本当に可愛らしい顔をした小さな女の子なんだ。だけど一人は二十六教程、もう一人は二十九教程と、僕の高校の同窓の伊東さんの三九をはるかに凌駕して優秀なんだ。帰りのバスで、この伊東さんも七六点で落っこちたことを知った。三人とも七六点なんだって。
「一つ間違ってつければ良かったわ」って、伊東さん。
 明日は必ず合格してみせる、と三人の女性達の張り切ること。
 「試験は何回受けてもいいんだろ」と僕。「あわてることはないよ、気長に受けにいらっしゃい。そのうち同じ問題にでも、ぶつかるから」
 合格したものの言である。女性群の悔しがること。
 ともかく、こうして、男性群は比較的高合格率で、女性群は惨敗の成績で、試験は終わったのであり、私は免許を獲得し得たのである。まずはめでたし、めでたしで、私のここ一ヶ月の努力が、この宿願達成で、やっと報われたのである。
 一切の費用を合計すると一一、〇六〇円。また、時間的な損失は莫大なものであろうが、冒頭にも書いたように、どんな小さなことでもやり遂げたという事実以上に貴重なものはないのである。

 

年月日 曜日 日記本文
1960.4.4 Monday 1960.4.4
◆昨夜、重馬叔父さんの家で姉に一年ぶりで会った。友達の及川さんと一緒で、その及川さんが今度辞めることにした松竹会館の映画を今日見せてくれた。伊沢と一緒に観に行った。題名『渚にて』(松竹セントラル)

◆この映画は相当評判になった映画だ。評判になるべく生まれた映画だ、と言ってもいいであろう。評判というものが、人の話題に上り、人々の関心をとらえると言うことを意味するのなら、この映画に対して無関心でいたり、口をつぐんではいられないからだ。人間の本性が、自分の未来に対して強い関心を持つようにできている以上、人類の暗澹たる未来を描いた映画に目をつぶってはいられまい。
 時は一九六四年。今日が一九六〇年であることを想起せねばならない。この映画は四年後人間が全滅すると言っているのだ。いや、人類全滅の日は生物全滅の日でもなければならない。放射能は一切の生物の生存をこの地球上に許さないだろう。もはや死後の腐敗さえないのだ。あらゆるかつての生物が永久に死んだままの姿で、この地球の回転の続く限り存在し続けるに違いない。人っ子一人通 らない大都会の昼を想像して見たまえ。いつの日かこの文化遺跡は発見され発掘されるのであろうか。はたして、”何者に?”
 誰もがこの映画を、未来の現実を描き得たものとは思うまい。思わないのではなくても、少なくとも思いたくないであろう。人類は、人類の良識を信じている。あらゆる人々が、”まさか”という安全圏を持っている。
 だが果たしてこの”まさか”がまさかの時に役に立つであろうか。日一日と安保体制が強化されていく現実を看過して、口に”まさか”と唱えてみても、まさかの時の現実性は日一日と高まっていくことを止めないであろう。
 人類の良識は、”人類は死滅すべきでない”と知っている。だが死滅しないためには千万分の一秒の躊躇もなしに、報復の押しボタンを押さなければならないのだ。どこかのつまらぬ 奴のつまらぬ一つの動作で、全人類が絶滅するようにできているとは、なんと巧妙精緻に発達した人類文化であろう。なんと喜劇的な人類文化であろう。演出、人類、出演、人類。いや忘れてならない。ただの人類ではない、その上に、”全”のついた”人類”の創作喜劇なのだ。観客は、果 たして誰か。少なくとも人類は、観客の役を受け持つには人手不足のようだ。
監督:スタンレー・クレイマー
主演:グレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー、フレッド・アスティア、アンソニー・パーキンス。
観客:私とその他大勢。
と、三者が揃って、初めて、映画の存在価値もあるのだ。第三次世界大戦が、どこかの誰かが、何者かもわからぬ 観客のために、我々が演ずべき喜劇でないことは、明らかであろう。
 映画がいうように、死に際して、人類が、あれほど冷静でいられるかどうかは分からない。全人類が死滅していく時に、一体誰に対して、恨みを言ったらいいのか。言う相手もいなくて彼らは冷静なのか。映画として描かれている以上、彼らの恨みは、我々の肩に掛かっても来る。だけど映画の中においては恨みさえも抱くことはできないのだ。渚にてドワイトを見送るモイラの胸中ほどに悲しい思いを人類はいまだかつて知らない。そして永久に知るべきではないのだ。別 れ、これほど痛ましく、これほど荘厳な別れは、映画だけで沢山だ。
 もはや戦争は存在しなくなった。明解国語辞典はいう。戦争--武力によって主張を貫こうとする、国家間の抗争状態--であると。人類文化が、核兵器で飽和した現代においては、そう言った意味での戦争は存在し得なくなった。人類の絶滅を引き替えに、一体何が主張されるべきなのだ。放射能に汚染した空気の前に、一体国境が何であろう。戦いを引き起こした国家に対する非難さえ虚しいのだ。全人類の非難の静かな眼でさえも、人類に未来が存在しない以上一体何であろう。未来消滅、一切の感情もまた、その時消滅せねばならない。
 現代はまだ我々の主張を貫くに時間がある。我々は主張せねばならない。
 軍備全廃、戦争をなくせ。と。
 少なくとも、あの悲しみの渚に立つ日のないために。
 There is still time...Brothers!
 
1960.4.12 Tuesday 1960.4.12
◆バイト第一日目

◆精一杯の努力が私から失われた。
 日々が私の目の前でシャボン玉よりあっけなく消えていってしまう。花火のようにもあっけないがそれほどの華麗さはない。日々が私のライバルでなくなった。私に胸を貸してくれる横綱でなくなった。私の努力が精一杯ぶつかっていく頑強な柱ではなくなった。私を薄い透明な膜で包み込み、ぷわぷわとあてどもなくさまよう、壊れることの脆いシャボン玉 になってしまった。
1960.4.26 Tuesday 1960.4.26

 私の右目の周りは、あさ黒く腫れている。右目下二センチメートル位のところに顔の中心から斜め上に、大小の順列に赤く皮下出血の跡が見える。押さえると眼窩を型作る骨がまだ鈍く痛みを持って反応する。
 右足の甲もまだ腫れている。痛い。内出血で一時はビッコを引かなければ歩けないほどであった。
 これが、無抵抗であった私に罵声を浴びせながら襲いかかった警察の暴力の私に与えた肉体上の危害である。
 今日の安保改定阻止請願デモによって私の被った肉体的損失でもある。
 空前の規模で闘われた今日の安保改定阻止全国統一行動に私も参加した。いわゆる、マスコミの言う、全学連”主流派”の一員として、少なくとも結果 的には主流派の一員として参加したことになっている。
 少なくとも、と言わざるを得ない悲しい目に私は合わざるを得なかったのである。いや、これは、”得なかった”と表現することによって他に責任を転嫁しようというのではない。あくまで私個人の問題として、今日のような一種の狐に化かされたような気持を結果 的に抱いてしまったと言いうるであろうから。
 ここで指導者の責任というものを考えてみたい。
 全学連の中央執行委員等になると、もはや警察に逮捕されることを少しも怖れない。だから当然そこに一般 学生との埋めがたいギャップがあると思われる。指導者は、部下の過激な行為の責任を取って逮捕されることは許されても、自らが過激に走って、その後ろに部下を密着させて反省しないことは許されるとは思わない。指導者は常に全てを我々に教えようとしない。いつもツンボ桟敷に置かれたような状態で、私は今日の行動を終始したように思う。他のほとんどの学生もそうではなかったか。そうした状態に我々をいわば眠らせたままにしておきながら、いざ指導者自らが走り出すと、何でも良いからぴったりくっついてついてこい、と言うのでは、我々、逮捕の怖い学生には、安心して彼らを頼れなくなるのである。よしんば今日は信頼を得ても、明日からは背かれることになりはしないか。
 彼ら(と言ってよいかどうか、。少なくとも本学の委員長)は、”突進しない”と確言して、駒場を出発した。
 我々を待っていたすべてのものが、私の予想外のものであった。三宅坂の電停前から、少々歩いたところで、道いっぱいにはだかっている夥しい装甲車と警察隊にぶつかった。少々の小競り合いはあったが事態は一応安定して、我々はその場で車道の上に腰を下ろした。
 警察の宣伝カーが、非合法集合を叫び、解散を要求するその地点が、全学連主流派の目的地チャペルセンター前であると知ったのはよほど後のことであった。なんと迂闊なことであったろう。だから最初は、その場で警察に釘付けにされたままで我々の今日の行動が終わって終うことになりはしないかと気を回したのであった。
 とにかくそこが全学連の目指す集合地なのであった。ぞくぞくと全都から横浜から、千葉から、学生が集まった。労働者も来た。
 ヘリコプターの爆音と、警察カーのアナウンスとの下で、中央集会の挨拶は続く。
 アスファルトの道路に腰を下ろして、我々は、とにかく謹聴しなければならない。
 最後に立った唐牛全学連委員長は言う。
「さあ諸君起立したまえ。そしてこのバリケードを突破したまえ。前へ前へ進み給え。このバリケードを突破することこそが安保改定を阻止する力となるのだ」
 だが面白い場面はその挨拶の間に見られた。壇上の演説者が、バリケード突破を絶叫する時、我々の間を廻ってくる本学の指導者はバリケードを一歩でも越えるな、と説いているのである。これは一体何であったろう。
 だが、唐牛は我々を起立させた。スクラムを組ませた。前へ前へと前進せしめた。そして第一線は早くもバリケードに突進を開始していたのであった。
 だが、何とあっけなくバリケードは破られたことであろう。ものの数分とかからなかった。おお、まことそこに最も異様なる一つの現実がある。装甲車にひしめき合って上っていく学生の姿。意外、意外。
 我々の間を廻ってきた指導者の言に従って私はバリケードを越えぬつもりであった。だが、事態の移り変わりがついに私を装甲車の上に上らせていたのであった。後から絶え間なく押してくる重圧から、どうして独り抜け出ることが出来たろう。それにあまりにあっけなかったバリケードは私のスクラムに別 個の行動を取らせた。教養学部の隊列から出て十分に歩める空間ができていた。私はスクラムに引っ張られて装甲車の前まで来てしまっていた。私は第一線を越えた。アナウンサーが実況放送していた。”全く警察が哀れと言いたいくらいの今日の様相です。”と。
”そうだ、そうだ”と私は怒鳴った。このアナウンサーの”哀れ”という言葉がそれからの私の行動を少し、慎重さを欠くものにしたことは否めない。そして第三列を越えたとき、私は全く第一線に躍り出たかっこうになってしまっていたのであった。思えば巧妙な警察の戦術であったに違いない。警察自動車から飛び出してまだ十分隊伍の組めない、また比較的少人数に分かれてしまったスキを狙って一挙に押しつぶそうというのであったろう。誘い撃ちにあったのだ。ロシア的戦術だった。ほんのちょっとした精神的ゆるみが圧死事件の二の舞を演じかねない、もの凄いもみ合いであった。
 だが我々は一人ずつ引き抜かれた。ついに最前列に出てしまった私が同じ運命に陥るのは当然であった。引き抜きがそのまま逮捕に通 じかねない心配が、たとえどんなに大きくとも、その力関係の非勢を一体どんな非現実的手段で防ぎ得たろう。私は引き抜かれた。大した抵抗もしなかった。いや、むしろ、その非勢さに、逆らうのを一切放棄して、彼らの手に下ったのであった。
 ところが、どうだったろう。
 一口も口をきくでもない、逆らうでもない私に一体何が浴びせかけられたか。彼らは少なくとも我々の公僕たる警官の名に値しない人間であった。暴力団、まさにピッタリであろう。こづき回されながら、暴力団が暴力団を取り締まる矛盾が可笑しかった。
”何をいいやがるんだ””生意気な”
 一体私が何を言ったろう。
”殴るな”と最後部の警官が怒鳴った。
 それだけ私は殴られていたのであった。
 足は蹴飛ばされ前後左右からボカボカとやられた。やっとその厚い警官の層を抜き出たものの、辺りにいるのはまだまばら以上の警官であり、報道関係者であった。報道者は私にパチパチとカメラを向けた。警官は一層親切であった。私をむんずとつかまえては、足を蹴飛ばしながら、前へ突き飛ばしてくれる。カメラマンまで、それに加わった。私に足払いを掛ける。
 ほんとうにやっとのことであった。何だかそこにいても殴られる心配もなさそうで逃げ回れる場所に出られた時は、まったくほっとした。

 

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