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筆者、21歳〜22歳、大学三〜四年生当時の日記の 連載を始めます(2003年4月30日)
日記の部屋1962-03/Diary1962 -03


ここには、「文芸日記1962」を掲載しております。

(2003/5/1~2003/8/5)。

(1961/12/20〜1961/12/24)(2003/5/1 掲載)

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*

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「文芸日記 1962」 の連載は以上で 終了です。 ご愛読ありがとう ございました。 2003年8月5日
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年月日 曜日 日記本文
表紙裏に
1962.1.17

22の歳を重ねて生きる日々の楽しきことも嬉しきことも

日記扉に  


いい加減で安心するな。

各人の中には、驚くべき可能性があるのだ。

君の力と君の若さを信ぜよ。

絶えず言いつづける事を忘れるな、

「僕次第でどうにでもなるのだ」と。    

  アンドレ・ジイド「新しき糧」より

**************


 

1962.3.1 木曜日

1962.3.1(木曜日)

春。

 うら若き乙女のやわき肌の感触にも似たりその調べ。ほら、幼き日、湧きいずる泉のほとりに、薄緑の若芽を見出した喜び。土の温かみを素足で踏みしめてみ た無邪気。うぐいすの初音を家中、音を潜ませて、ガラス戸の陰から聞いたお茶の木のかおり。

 友よ。僕の愛する春が来たんだ。大空に舞い上がり、ひばりのように暖かい春風に揺られて、むせ返る土の香りを腹いっぱい吸いたい春が、その春が来たん だ。


 

 

1962.3.2

 

金曜日


1962.3.2(金曜日)
午後3時

 聖餐式のパンがキリストの真の肉体であり、血であると繰り返し言うように強制されると、「心臓を刃物で刺されるように思った」のである。(トルストイの 生涯ーロマン・ロランの中の一節)


 この前の日曜日、私は本郷ルーテル教会に出かけたのだが、ちょうどその日聖餐式が行なわれた。その時に、私の感じたものと、トルストイの感じたものは大 体相通じていると言ってよい。もちろん、彼の人生経験と私のそれとでは大いにその背景を異にしているのであるから、そのごく一部分を取り出して、共感を強 要してみても始まらないことは知っているが、たまたま私の感じたことと同じような表現を見出したので引用してみたのである。

 ソーレンソン先生がその前に一列立ち並んでいる信者の人達たちに対し、汝はキリストを神と信じるや」とか色んなことを訊ねる。「信じ るならしかりと答えよ」「しかり」。異口同音に、すべての問いに対し、「しかり」が答えられ、最後に、薄く小さなパン切れを、ツマヨウジの先に突き刺し て、一人一人に対し「これはキリストの肉である」とソーレンソン師が、まるでツバメの親が子ツバメの口にエサを運ぶようにいちいち食べさせるのであった。

 私はフキダシタクもなった。まさに、それは滑稽なあるものであった。立ち並ぶ全員が真剣な厳かな顔をしてその薄っぺらなパンの一片 を、少々持て余し気味に口先で操りながら口の中に滑り込ませ、もぐもぐと食べるのである。まさしく宗教的「儀式」以外の何ものでもなかった。そして私はフ ト、ヒットラーに対して、差し伸べられた、幾万本もの腕、ハイル・ヒットラーと一斉に挙手する党員の手を思い出させたのである。そして、あの、カリスマ的 正統性という言葉をも。

 私は三度ほど続けて礼拝に行ってみた。そして行く度に、私の肌に合わないもののあることを感じて帰ってくる。何度立ったり座ったりす ることであろう。そして、まるでお経でも唱えるようによく暗記されたコードが繰り返されることであろう。真面目腐った、「お父さま」という言葉が意味も無 く、人々の口先に上ることであろう。なんと、儀式化され、定型化されていることであろう。まるで機械人形みたいに、式典の順序に従って信者はおとなしく立 ち上がり、聖歌を歌い、信仰を告白し、教義を暗誦し、アーメンを唱え、献金する。

 こんなことが、キリスト教にとって本質的なものであろうか。あのような儀式で、人々の心が、どれほど、神の御前に近づくずくことがで きるのであろう。どうして人々は、俯いた姿勢をいつもとらねばならないのであろう。暗誦される教義の一つ一つの言葉が、そこで述べられている瞬間に銘々の 心の中にどれほどの重みを持って存在しているのであろう。まるで、試験勉強の丸暗記のごとくオウムが人まねするがごとく、誇らしげに唱えられているだけに 過ぎないのではないか。告白する人達のその敬虔な言葉と態度にもかかわらず、彼らの心は、まるで聴衆の前で演説するときのような興奮に満ち満ちてはいない のか。どうにかして教義に逆らわぬ言葉でもって、人々がなるほどと思うような、文章としてもあんまり可笑しくないものを作ろうとそっちのほうばかりに気を 取られ過ぎていないのか。どうして、その告白があんなへんてこな、重々しそうな、普段の声音と違った、音色で、しかも、作り出されて、なされねばならぬの か。告白とは、内心でのみ行なえば良いことなのだ。人々の前で、これ見よがしに、語られるべき言葉ではないのである。

 ある信者の人から手紙を貰った。その中にこんなことが書いてあった。「ワークキャンプでの私の小さなあかし、朝礼拝の時に話したこと をもう一度思い出して見て下さい」。

 この場合、あかしと告白とでは意味が異なるのかも知れないにしても告白をする時にも同様の心理傾向があると言えないだとうか。

 いつ何時、私は、「私の告白したことを、もう一度思い出してみて下さい」と言われかねないのではないかと思う。すなわち、告白する人 々には自らの言葉の中に、他人に価値を置くべく強要している点が見られるのである。

 告白とは私にはそういうものとしては考えられない。それは自己一人に関することで十分なのである。他人がそのことをそのよう考えよう が、受け取ろうがそれは告白する人の念頭にあってはならぬものだ。神と自己自身との間のみに関することではないか。他人を意識し、他人が、自らの告白の上 に何らかの価値なり意味なりを認めることを期待している言葉がはたして告白と言えるであろうか。私はたとえそれが告白でなくてあかしであっても、「もう一 度思い出して見て下さい」と後になって言えるような心理状態の下でなされたものである以上、それを信じないのである。

 そうした意味の無い告白を強要する礼拝。茶番じみた、聖餐式。信心深そうで、精神的冒険を回避し、自らのカラの中に閉じこもって安住 している人々。一週一度の礼拝のみで、自らの信仰が清められ、信仰生活が確立されていると信じている軽薄な人々。非信仰的なことについては、本来の自分自 身ではない面で、お付き合いしているのよ、と言った顔付きをしている人々。私には耐えられないことばかりだ。さっきの信者はこのようにも言う。

 あなたのために祈っている人々があることも覚えていらして下さい。ミスH・S先生、Iさん、私。

 こんな不遜な言葉ってあるだろうか。そしてまたこうした気持ちが、我々非信者に対する一般的な感情として教会そのものの中にあるので はなかろうか。この言葉から察するに、信者は我々が神を信じるようにとありがたくも祈っていてくださるのである。我々はその重圧の下に、耐え切れない圧迫 感を感じるのである。それが教会の空気の中にあって礼拝に行っても我々を伸び伸びとさせないのであろう。私は祈りというものは、やはり聖書の中に書かれて いるように、人には知られないように、部屋の中に閉じこもって一人で祈るべきものと考える。「祈っていることを覚えていて下さい」というのは、まるで、 「お前のためにありがたいお守りを買ってきてやったから、ありがたく思え」と、信心もしていない、成田大明神のお札を強要するのと少しも変わらないように 思われる。祈ってやるんだってことを公言して、多少にもしろ他人に心理的圧迫を与えるようなことは祈りにはそぐわないものと考える。そして、そのような祈 りしかできないものを本質的なクリスチャンと認めるわけにはいかないのだ。

 こうして祈りというような全く内面的であるべきことがらも、今では、その性質を失いつつあるように見えるのは、一週一回礼拝と称し て、教会に集まって、大っぴらに祈りあいをするための影響ではないのだろうか。いわば、自分ひとりでお祈りをする時間より、余計に他人の前で祈る時間が長 いのではないか。

 それは激しい内面の葛藤と、精神的な、大きなエネルギーが費やされてなされるべきものが、「皆さん一緒に祈りましょう」という、掛け 声で、なにやら、俯いて、お決まりの内面的なルートを一回りするだけの、まるで「いただきます」と言って、おかずが毎日異なっているにはしても、一通り茶 碗を空にし、お皿をきれいにする一食のコースと同じようなものに形式化され、空虚化されているのではなかろうか。

 単に清められるだけのためなら、礼拝の厳かな雰囲気も人々を酔わせてるであろう。

■購入した本
(1)『人間における自由』E・フロム  300円
(2)『社会主義入門』(上)ヒューバーマン  100円
(3)『チャイコフスキー物語』  100円
(4)『現代日本の政党と政治』  130円
(5)『宇宙船ボストーク』  150円
(6)『アジアアフリカ問題入門』 130円
(7)『資本論(2)』120円
(8)『資本論(3)』160円
■贈呈された本
 キリスト教入門

■川崎さんからパーティ券300円(未払い)


◇宝珠山先生が六月にアメリカに留学されることになって、学生センターとも二年間は、お別れ、それで今夕、センターで先生の送別会があった。私は連絡の電 話の時留守だったので、たまたま送別会に参加できたのだ。毎週金曜の英会話のレッスンの後で、キリスト教入門というタイトルで、色々な角度から先生は僕た ちに話し掛けられた。いつも、一番馬鹿げた質問を一番熱心にしたのは僕だったろう。そのいった面で、お馴染みに成っている。

 今日も、色々と楽しい談笑に一時を過ごしたのだが、よしみといっては編だけど、色んな関心事について、お尋ねしたり、意見を交換した り積極的に行なった。そして、参加した者、一人一人に先生が、記念に、キリスト教入門(赤岩栄)を下さった。ありがたく拝受し、その半分以上は一応読んだ 絵開けである。それに、僕が作詞した曲に川村さんが作曲してくれたのが出来上がっていて、彼がオルガンで皆にも弾いて聞かせてくれた。なかよさそうな曲で あった。後で送ってくれるということだった。

 そうして、全員が、まさに楽しく語り合い、ハープスト先生は、幻燈器で、アメリカのダコダから、シアトルまでの自動車旅行のステップ のカラーフィルムを見せて下さった。説明が英語だったのは、英会話のクラスのレッスンを兼ねたものであった。そうそう、アメリカから昨日届いたという、 レーズンの入ったお菓子やキャンディーもご馳走になった。


 

1962.3.3 土曜日

1962.3.3(土曜日)

West Side Story

 初めての70mm映画「ウエスト・サイド・ストーリー」。とってもすばらしい映画だった。それこそ息をつかせないスピーディさと、思 わずためいきをつかせる恋の甘味さとがおりこまれて、ほんとうに楽しい映画だった。ミュージカル映画の楽しさが満喫できたように思う。この映画のテーマソ ングがまた胸をうつもので、あのマリアとトニーが見詰め合って歌うデュエットの情感は、胸を張り裂かせるほどであった。
 
 ナタリー・ウッドはとっても素敵だ。恋人にはあんな女の子が欲しいなと思ってためいきをついて見詰めていた。



 

1962.3.5 月曜日

1962.3.5(月曜日)
午前3時50分

「チャイコフスキー物語」読了

 「チャイコフスキー物語」(岩波新書 園部四郎著)を読み終えた。今月 に入って初めて読み終えた書物である。今月は沢山本を読まなければと、いろいろと考えている。そしてその最初に読み終えたのが、この200ページ足らずの 音楽家の小伝である。

 極めてやさしい調子で比較的読みやすく書かれていることも、最初に読み終えた理由の一つだろう。なにしろ、この二日に1ぺんに9冊も 本を背負い込んでしまったので、片っ端から片付けなければならないのだけど、前の理由にも増して、僕がチャイコフスキーの人柄に惹かれてしまったことが、 その9冊の中で一番早く読み終える本になった、最大の理由だと思う。

 人間的な溢れるような情感−例えば自然の美しさに対する純粋の感動とか、子供たちへの深い理解や愛情とか、悲惨な人々への思いやりや 同情とかに現れた、人間的な情感が私を惹きつけたのだ。

 そして、今や、彼の音楽を血の通ったものとして私は楽しむことができるようになったと思う。


1962.3.5 月曜日

1962.3.5 (月曜日)
午前5時42分


「キリスト教入門読了」

 「キリスト教入門」(文理書院 赤岩栄著)が、今月の二番目の読了本となった。これは、二日、宝珠山先生から贈られた本で ある。読了してみて、色々と教えられるところが多かったと言える。私が今までいわゆるキリスト教「信者」に対する不満として抱いていたものに対して、多く の面で正当適確な批判がされていて、私にとってあるべき宗教としてのキリスト教と著者の立場はしばしば一致するのだ。

 宗教的自由と政治的自由とは信者の中でもしばしば混同しがちであり、私はいつも、それを不満としていたが、著者はそれを明確に区別し て、しかも、両者の密接な関連性を指摘しておられる。

 ただ論理的に言って、「物の必然」という用語の中で、不用意に、社会的法則の必然性と、自然的法則の必然性とを、混同して、一緒くた にしている点が、説得力を弱めているのではないかと思われる。

 それから、やはり宗教的な問題を論ずるためにはつき物かもしれないが、論理的にスムーズに展開されているとは言いかねる点もあって、 私にはわかりかねる点も多くあった。

 この本がそれでも優れた点を持つと言えるのは、単なる非キリスト教徒への入門ではなくして、すでに信者となっている人々に対する批判 の書としてかなり厳しいものを持っているからである。

 たとえば「今のキリスト教は、「キリストのみ」ということを信仰の原理と考え、一切のことを排除して、最もよく見えるといいながらす べてのことに、盲目になっております。」という指摘は、まさに私が、キリスト教徒と見るとき常に危惧してきた点をついたものである。

 日本においては、キリスト教徒はまだ少数であるために、まさに「キリストのみ」に凝り固まって、あらゆる社会的な現実に盲目な信徒を 生みやすい。だから彼らが、いかに「よりよき社会」をその教理として説いても、それが社会的視野を欠き、単に自己内部の世界に閉じこもった狭い精神的安定 のみを強調するのと変わらなければ、一向に、社会全体としてのよりよきものは生まれてこず、社会的権力からの操作に盲従して、それを神の思し召し信じ、そ れを甘受していく、社会的には好ましからざる社会人を作り出していくことになっているからだ。

 著者の言う如く「社会をよくしようとする場合、ただ、私たちの善意だけでは、社会は決してよくな」らないのである。著者の視野がこの ように、かなり広いものである故に、私にとってそれほど反発を感じさせるものが無かった。それ故に、私にも信仰に入るということの少々の自信はついたよう に思う。 
 
 キリスト教が、私の考えていたほどに狭く限定されるべきでないということが分かった以上、私にとって、精神的な安定は必要だからだ。私はこれまで、決し て単に信者そのものから語られるキリスト教を信じ込まず、より広く、様々の角度からこの宗教を理解しようと努めてきた。そして、キリスト教は彼らが考える よりもっと広く自由なものとしてとられてきた。

 著者の立場とはまだ、納得行くまで一致するものでもないが、私なりのキリスト教を捉えて行きたいものと考えている。

 


 


 

1962.3.6 火曜日

 1962.3.6(火曜日)

 午後10時34分

 くちづけ


夢と見まごう    美乙女の
心弱くも       目を閉じて
我がくちづけに   頬染めし
春まだ浅き     林のかげよ

乙女の愛は    ほの かにも
春の初めの    バラのごと
うす紅に      色染めて
我がくつづけに  恥じらいし日よ

み髪(ぐし)は黒き 初 春の
おごりに酔いし  乙女子の
熱き血潮に     昂ぶりて
甘きくちづけ    重ねし日々よ




1962.3.15 木曜日

1962.3.15(木曜日)
午前3時30分

 まるで馬鹿げているけれど、一番肝心なものを一番後回しにしたような毎日をこのところ送っているようだ。朝(これも単に起き出したと きをそう呼ぶに過ぎず午前中であるのはマレである)から十二時まで、できるだけくだらないことに時間をつぶして、ようやっと読書にとりかかるのはいつも午 前零時を過ぎているという始末だ。

 だから遅々として読書ははかどらず、大部のものに挑むという楽しみは失われている。三月に入って読み終わったのは、どれもこれも、大 して持続力を必要としないものばかりだ。すでに日記に記した以外のもので、一応読了のリストに加えうるのは以下のようなものである。

�@社会主義入門(上下)(レオ・ヒューバーマン)岩波新書      3/12
�A宇宙船ボストーク号                           3/11
�Bこの人を見よ(ニーチェ)                        3/14
�Cマンフレッド(バイロン)                         3/14
�Dソクラテスの弁明・クリトン(プラトン)                 3/15
�E賃労働と資本(マルクス)                        3/13
�F共産党宣言(マルクス/エンゲルス)                  3/13

大体二日に一冊ということにはなるが、どれも岩波文庫で行けば、星一つに相当するようなものばかりである。如何に読書すべき時間を無益 に過ごしているかがうかがえるってものだ。

 十一日に鈴木さんの下宿に行ったが、彼女の話すところによれば、一日に二冊は普通なんだそうだ。起きればすぐ読書にとりかかり、寝る まで読書しっ放しなんだそうだ。私に今欲しいのはその持続力である。一日中、部屋に閉じこもって、敢然として、読書に打ち込むこと。これが私の欲する状態 だ。とは言え、私が読書以外の時間を、それほど徹底的に無駄にしたのではなかった。私は一応、タイプが打てるだけの技量もその間獲得したし、ハープストさ んのアパートも二度ほど訪問して、それなりに有益なものを得てきたのだ。
 
 人は本のみにて生きるものにあらずも、また一面眞なのだ。


1962.3.16 金曜日

 1962.3.16(金曜日)

 午前0時42分

 女がまだ燦々たる灼熱の太陽の下で美しくありえた時
 赤銅色に焼けた裸体が、鋼のように躍動して
 その一挙一動から、野獣のような敏捷さと
 男の心を圧し去るばかりの情欲のかおりが溢れ出ていた頃
 熱い砂の上に
 黒々とした大地の上に
 男と女が、嬉々として戯れ
 性愛の限りを尽くし得たであったろうに。
 
  女の叫び声は野獣の咆哮にように男の心を震わせ
 臓腑をえぐる激しい快楽に
 つばきに濡れた口を開き
 仰け反り返り
 黒髪を振り乱し
 女は、
 灼熱の太陽のごとき
 愛欲の瞳を光らせ
 激情に駆られた爪で
 男の心臓を抉り取ったであったろうに。

 ああ
 女が、薄暗いライトの下で
 弱弱しく愛撫され、
 ネチネチした粘液を
 惜しみ惜しみ搾り出し
 燐光のように青白い肌を
 怪しげな繊維に匿い
 芦の横笛よりもか細く
 唸り声を漏らして
 男の疲れた体と
 調子を合わせているこの時代に
 あの天の与えた
 生の讃歌を
 歌える女は死んでしまった
 


 


 

 

 1962.3.22 木曜日 

 1962.3.22木曜日

at Shimabara

◇三月十六日に東京を発ち、島原には二十日に帰ってきた。発ったのが午後十一時であれば家に着いたのも午後十一時十五分頃、一日を十分利用した後での出発 であり、到着であった。

 この四日間ばかりの旅行は、とっても実りの多いものであったように思われる。十七日の午前七時前にすでに三ケ日の学生センターのワーク・キャンプに到着 して、その日一日をフルに利用できた。

 東海七号は満員で眠るわかにはいかず、「アメリカ感情旅行」を読み終えることが出来た。だから、ほとんど徹夜しての十七日だったが、普通並に働けた。三 ケ日教会の最も基本的な骨組みを作る仕事を精力的にやった。

 家を建てる経験なんてものは先にも後にも、これ限りになりそうである。

 翌十八日は日曜で仕事は休み、ソフトボールに出かける。勿論日曜の礼拝は済ませてから。ポジションはショートストップ、大いに活躍したが、16対14で 僕らのチームの負け。

 で、その日の『雲仙』に乗るつもりで、全員の大見送りを受けてジーゼル・カーに乗ったものの、新所原止まりで、そこから豊橋までいかんとしても行き難く て、目の前を、「雲仙」が通り過ぎるのを、悔しくも見送り、仕方なく、宿舎『青年の家』に引き返す。少々テレクサカッタケレド。

 翌十九日は午前中働いてキャンプもこれで終わり。皆で浜名湖を、船に揺られて渡り、大館山に遊び、浜松駅で、僕一人反対方向に旅路をとる。

 雲仙は混んでいて席がない。お互い立っている同士の気安さから、近藤典親君と知り合いになる。早稲田大学の法学部に見事合格しての帰郷だから、その喜び が隠せない。柔道二段、背丈は僕より小さいくせに二十貫もある。東京で遊びに行きますからということになって別れる。

 さて、先ほどから空席になっていて、なかなか塞がらない席がある。「その人が帰ってくるまで」と言って座らせてもらう。悠々席に収まっている間に、中川 母娘が登場することになる。その席の人も帰って来たりして、四つしかない席を七人で、その夜一晩交代しながら夜明けを迎えた。実際は三つの席を六人で交代 した。我々は親切であったから、その年老いた母親から席を奪うことはなかったから。

 我々と不遜にも書いてしまったが、この僕は彼ら先着四人の好意に厚くもてなされた一人に過ぎないのだ。本当に親切な人たちだった。厚くお礼を申したい。

 その旅すがら、中川母娘と知り合いになって、中川奈美さんとは親しく口を利きあった。彼女十九歳、159cmの長身。とっても、感じが良い人だ。

 母親との話しっぷりを聞いていると、なんとも言えない清々しさが、愛らしさが、感じられて、好もしかった。笑顔が素敵で、横顔が、岡田茉莉子に少し似て いた。一緒に博多駅で降り、十二時半の準急で、また一緒に肥前山口まで行きましょうという約束までするようになっていたが、とうとうそこまで一緒になるこ とはできなかった。五月の連休には東京に出てくるとか彼女がほのめかして、僕も、名刺をあげ、彼女からもアドレスを書いてもらった。またいつか再会できる ことだろう。

 ダンスが好きだそうだ。お転婆さんだったって話もした。いかにも伸び伸びとした感じの、三人兄妹の末っ子で、女の子は彼女一人だそうだ。読書が大好き。 井上靖、石坂洋次郎、源氏鶏太のファン。ウクレレも弾く。音楽は大好き、絵も大好き。映画はあまり好きではないらしい。

 お母さん曰く「名大の人や、何かが何人も付き合ってくれって言っても全部断ってしまうんですよ。そんなことしてたら、お嫁さんの行き手が見つからないっ て私は言うのですよ」 と、彼女少々顔を赤らめて、「だってまだ若いんですもの」「若い若いって言ってたって」・・・と、まあこんな話が、気持ちよく交わ されて、お母さんも感じの良い人だった。僕がお母さんの前で、彼女から住所を書いてもらっている時の会話だから、公然とお付き合いの資格を手に入れたもの のようだ。それに、近いうちに一家あげて東京に行くことになるかもしれないなどという。彼女もほとんど一睡もしなくて、博多に着いたのだけど、ちょっと化 粧した顔は見違えるばかりに美しくなっていて、最後のお別れの挨拶に僕らは十分に名残惜しさを分かち合ったのだった。



◇博多駅から、北野さんの寮に電話をかけたがあいにくと留守で、お友達の宮崎さんが電話口に出た。彼女のことは北野さんから聞いていたし、僕のことも彼女 は北野さんから聞き知っていて、お互いに意思の疎通には事欠かなかったけれど、その日いっぱいは二人とも忙しいらしい。

 それは僕には何よりのチャンスであり、口実を与えた。かねたから一度会ってみたいと思っていた人が博多には一人いる。むしろ、北野さんより、その人をよ り多く期待して、博多に降りたのだ。電話番号を局に尋ねると、難なく教えてくれた。

 少々ドキドキしながらダイヤルを回す。と、向こうの電話口に出たのが、まさしくその人だったのだ。
 
 我々にとって、九年間の月日が何であったろう。彼女は僕が姓名を告げるやたちどころ、思い出してくれて、デートの取り決めが、スムーズに運んだのだっ た。吉村恭子さんは、小学五年の時、島原に来た。五年、六年と彼女と同じクラスだった。中学一年の時、彼女は島原を去って行った。僕の幼心に少なからぬ思 い出の跡を刻んで。

 僕は彼女にほのかな憧れを抱いていた。彼女を通して僕は都会の匂いをかいでいたのだ。彼女の「都会」が島原の「田舎」から反発を買って、しばしば、いじ わるの対象となり、いじめられるのを僕は何と心を傷めて見ていたことだろう。可愛そうに。いつも、そう思っていた。といって、彼女と口を利いた記憶は残っ ていない。でも彼女にしても僕にしても、少なからぬ好意をお互いに感じ合っていたように思える。もしそうでなかったら、どうして僕が、九年ぶりに彼女にお 電話をして、その僕を彼女が快く迎えてくれるようなことになりえたろう。

  彼女は小柄だった。顔立ちはやはりかつての、あの子供時代の面影を十分に残していて、人込みの中で巡りあったとしても、お互いに、はっとして立ち止ま り得たであろうぐらいに変わっていなかった。

 
******** *********************

(1962.4.8 (日曜日)午前1時40分頃より書き継ぐ)

 僕らは天神町の一角に大きく構えている岩田屋デパートの二階のネックレース売り場で落ち合った。待ち合わせの時間に数分遅れて彼女はやって来 た。最初背後から話し掛けてきたのが彼女のほうであった。ハッとして、振り返り、九年間の歳月の流れを一瞬二人はお互いの上に目敏く見出しながらも、その 変化の中にやはり変わらずに残っている幼い日の原型をも見逃してはいなかったのだ。

 天神町か東中洲、呉服町あたりを二人して歩いた。彼女が色々説明してくれる。前夜の睡眠が十分でなかったせいか、いつもより早く疲れてしまって東中洲の 「モリナガ」で一休みした。そこで二時間も語り合ったろうか。僕は興に乗って、僕の小説の構想を話し、女性心理についての彼女の意見を求めた。そして、彼 女が、やはり生来の真面目さを失っていずに、考える人であることをしみじみと思ったのだった。

 北野さんが、たまたま彼女と博多市内の英会話の教室で巡りあったときの話から考えて、僕は彼女のことをもう少し、華やいで、お転婆で、物を考えるという ことをあまり好まない女子大生と想像していたのだ。でもそうではなかった。私の口から飛び出す軽薄な思考が、たびたび彼女の痛烈な批判の前に、怖気づき、 恥をさらして討ち死にした。彼女と面と向かって座っていると横顔よりも、正面の顔が一番幼い時の様子を保っているように思われ、また一番美しく感じられ た。

 小豆色のオーバーの下に、彼女は、もえぎ色のスーツを着ていた。それが彼女に良く似合っていた。きっと待ち合わせに数分遅れたのもお化粧に少々よけいに 時間がかかったからではなかろうか。薄く紅を引いた口元を少しすぼめるように丸めて、ほほえみながら話す時、僕の最も気に入った表情がそこにあった。彼女 は僕らが就職に一生を賭けるように私たち女性も結婚に一生を賭けると話した。色んなことを深く考えているらしかった。

 「男の方々にとっては、私たち女ってものは、可愛くて、おとなしくて、従順・・・でありさえすれば、どんな女(ひと)でもいいわけでしょ」と彼女は厳し く男性を非難した。彼女の言うことがしばしば私をどぎまぎさせた。ズバリと心中を言い当てられるようなこともあった。

 「私たち女性は」と彼女はゆっくりと話しつづけた。「結婚に一生を賭けるのよ。だから好きな人でなければ絶対にたまらないわ」 むしろ、僕の考えとして は、女性にとっては、男性はどんな男でもよいもののような実例が多くあるからして、彼女の考え方と真反対のようであると言った。彼女は否定した。

 モリナガを出て丁度街路の向こう側にあった本屋で、帰るときに利用する列車の時刻を調べた。彼女はそこで僕に博多人形の絵葉書を買ってくれた。

 「さやさやと涼しき音を立つる時博多の帯の夏はきにけり」と吉井勇らの歌が入った、博多人形の美しい絵葉書であった。

 「モリナガ」を出る前、今日は家でお金を貰って来たから西洋料理か、中華料理をご馳走しますと彼女が言い出した。僕はそれに甘えて、中華料理のほうを頼 んでいた。本屋を出て、とある街角を曲がるとすぐにやや大きな中華料理店があった。彼女はそこに僕を案内した。料理の名にはあまり詳しくない僕のことと て、ここに、そのとき何を食べたか記すことはできないが、おいしかった。親切も一緒に味わいながら、九年ぶりの彼女と差し向かいで食べる中華料理がまずか ろうはずがない。

 そこでもまた我々は大いに饒舌であった。色んなことを話した。彼女は島原のことを驚くほどに色々と覚えていて、僕すらすでに名前を忘れてしまったような 先生とか、友達とかの話をして懐かしんでいるのだった。そして僕自身についても、これまで面と向かってこれほど適確に僕の性格を言った人がなかったほどに 正確に一言二言語ってくれた。そして僕について彼女はこんなことまで覚えていてくれた。僕の方ではすっかりそんなことは忘れてしまっていたのだが。

 彼女が僕らの学校に転校してきて初めての国語の時間だった。先生がニレの木とはどんな木かと、生徒の質問を再び生徒たちに問い直した時、僕が手を挙げた のである。そしてよどみなく。「ニレの木とはこうこういう木で、葉は、何状をなし・・・・」と答えたのだそうだ。それを聞いて彼女は「なんてよく物事を 知っている人がいるものだろう。生物学的なことまで立ち至って・・・」と思ったのだという。かくて彼女の頭の中には最初の日から、僕のことが記憶されてい たと考えて間違いないようだ。

 モリナガを出たのが、十二時頃、その中華店を出たのが四時近くであったろう。僕らはそれから「琬をもった女」を一緒に観て、夕闇迫る頃、博多の人通りの 激しい路上で別れたのである。

 いつまた彼女に会えることができるであろう。この再会は、我々の間に新たなる友情を蘇らせてくれるものであったと同時に、すぐさま一つの思い出として定 型化される運命を持っていたように思われる。家に帰ってから実に十日以上もたった、四月二日、僕は彼女に遅れたのを詫びつつ、お礼の手紙を認めた。せめて 年に数度でもよい、お互いに文通でもして、友情を暖め、幼き日を懐かしみたい旨を伝えた。彼女はどんな返事をくれるだろう。

 八日、午前二時半、雨が激しく降っている。
 
****** ::
○1962/3/25 中川奈美さんから、絵葉書をもらった。

○ 1962/3/26 午前3時46分「モンテ・クリスト伯」読了

休み中に読んだ本

�@現代史(上)

�A戦国若衆

�B悪霊の城

�Cモンテ・クリスト伯

�D空気男とペテン師

�E井伏鱒二短編

�FA・クリスティ短編

�Gコナン・ドイル短編




 

1962.4.10  

1962.4.10

 

○四月九日 井上靖著「風林火山」読了

○四月十日 午前2時17分「悪の華」読了

○今日、母校島原高校を訪ね、旧師に会う。

中村、有馬、佐々木、石本、管崎、荒木、熊野、清水、古川の諸先生ら、主とし て中村、清水、佐々木先生と話す。

○一好さんから端書ありて、姉を迎えに加津佐に行ってくれと頼まれる。今日 (十日)の午前中にでも汽車に乗らんと思う。

○映画「女家族」「日本のお婆ちゃん」「京化粧」山本富士子よし。

 

 

1962.4.14

 

 

1962.4.14 午前1時51分

娘時代最後の夜を、今静かに深い眠りの中に閉ざして、わが姉・啓子は、すでに 今日、嫁ぎゆく身なり。胸中や如何。

 

○失われた幼き日の私の面影をその白い胸の奥深くしまい込んで、九年の長い歳 月にも色あせぬ思い出をまたもや蘇らせてくれたあなたに私は愛しさを覚える。

1962.4.15  

1962.4.15 午前零時57分

この日記の最後の余白を埋める日は、我が姉啓子の嫁いだ日となった。

なんとな く心の奥に悲しみのわだかまりがあって、今夜はしとりと静かに更けていくよう に感じられる。イヤイヤ姉の嫁いだことばかりが、私の心を悲しませているので はない。今夜が島原での最後の日でもあるあるせいも入っているのだ。姉が去っ て、なんとなく気の抜けたように寂しくなった我が家を跡にして、遠く東京に明 日は旅立つのだ。

自家もいつの間にか、本当に両親に和夫と祖母の四人家族に なってしまった。姉弟五人と両親、祖母八人が一緒に賑やかに寝起きしていた頃 が懐かしい。時の流れというものの恐ろしいまでの冷酷さが、びしびしと音を立 てて、染み込んでくるようだ。もはや還らぬものとなった多くのことどもがどん なにか私の胸裡に激しい思い出の渦を巻き起こすことさろう。

 今日の婚礼式はなかなか盛会であった。もう滅多に一緒になることもあるまい 兄弟五人が、暇を盗んで写真を撮った。果たしていつの日、兄弟五人が、一緒に この日の写真を囲んで過ぎ去った日を懐かしむことだろう。

 今ふと、その時が、両親の亡くなった日のような気がして、涙ぐんだ。なんと なく、今日の僕は湿っぽいようだ。でも思えば誰もがこんな経験をいつかは持っ たことがあり、いずれは持つのであろう。

 日記に別れの言葉を一言。サヨナラ、と。

     


 5月1日以来連載してきましたが、「文芸日記1962年」の連載は今日で終了です。長いことご愛読ありがとうございました。   (次へ)「私の日記1962年」へ

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