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 Shimabara  島原
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 MyDaTaBase-01
島原  Shimabara
し ま ば ら
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 掲載日
 13  島原郷土料理「いぎりす」 
Nov.25,2010 
 12
肥前島原と京都の遊郭「島原」との関係 (中里介山「大菩薩峠」より)

 
Nov.3,2010 
 11 龍馬の長崎への第一歩は島原から始まった 

 June 3,2010
 01  「五足の靴」(岩波文庫)から島原関係抜粋 
 Feb.24,2010
 02 竹久夢二は、島原・雲仙を訪れていた (安達 敏昭)
 Feb.24,2010
 03 島原キャンプは西鉄快進撃の礎(豊田泰光) 
 Feb.24,2010
 04  雲仙と雲仙観光ホテル
 Feb.24,2010
 05  「島原藩主ならでは  豊富な副葬品出土  深溝松平忠雄墓所」 
 Feb.24,2010
 06
深溝松平忠雄墓所
「16世紀の藍色、鮮やか  愛知・幸田 大名墓の欧州産ガラス器 日本最古の完成品発掘例」 
 Feb.24,2010
 07 慶應義塾の三田の地所は、島原藩の中屋敷を払い下げてもらったもの (福沢諭吉)
 Feb.25,2010
 08
 重松清著「きみ去りしのち」(文藝春秋2010/2/10刊)の中の「島原」 
 April 4,2010
 09  
島原市の鉄砲町について

司馬遼太郎「街道をゆく17」島原・天草の諸道より
 
 April 17,2010
 10 島原島原鉄道島原外港―加津佐間の廃線について

 April 26,2010
 11 龍馬の長崎への第一歩は島原から始まった 

 June 3,2010
 掲載日  November 25,2010  番号  13
 タイトル  島原郷土料理「いぎりす」    
 出典  島原温泉観光協会の記事から    
 解説  島原郷土料理に「いぎりす」というのがあります。

東京在住の高校同窓会の面々と、なぜ「いぎりす」というのかと、話し合ったことがありましたが、原料が「いぎす」という海草であることが分かりましたので、ここで紹介します。

なお、「いぎす」から、なぜ「いぎりす」になったのかは、不明です。
   
       
本文   
<<いぎりす>>
 島原南部の有明海に面した地域で、6月の大潮の時、潮が引いた沖に出て、「いぎす」という海草を採取します。足から腰ぐらいまで水につかり、綿帽子のようにふわっと浮かんでいる濃いえんじ色のいぎすを、金属製の八つ手のような「ごうかき」という道具でひっかけます。石についている根は簡単にはずれ、細かく枝分かれした固まりがとれます。てんぐさより長く、さわるとしゃりしゃりして心地よいのがこの海草の特徴といえます。

 島原の乱後、この地に移住してきた四国の人たちの影響で、今治(愛媛県)あたりのいぎす豆腐がもとであるといわれています。干しいぎすをさらすと、もとの一斤が約40匁に減ります。うるち米の新しい米ぬか5合を布袋に入れて水2升の中でもみ出し、一番ぬか汁でいぎす40匁を浸して洗います。水気をしぼって、二番ぬか汁2升くらいを入れ、火にかけて練る。ぬか汁は少しとりのけておき、加減を見ながら加えていきます。いぎすは水やもち米のぬか汁ではよく溶けませんが、うるちぬか汁で30分ほど煮ると、不思議と溶けてきます。

 中に入れる具は、にんじん、きくらげ、しいたけ、魚(さば、いわし、白身の魚など)を小さく切って砂糖醤油で煮ておきます。落花生は炒って渋皮をとり、ふきんに包んでたたいておきます。豆腐は小さくさいの目切りがよいです。
 いぎすがよく溶けてとろみが出てきたら、具と煮汁を入れて味を整え、また10分くらい練って、ねぎの小口切りを散らした流し箱に流して固めます。

 ようかんのように切って大皿に盛って出すが、中の具のおいしさと、のどの通りのよさで、ほかにごちそうがあっても、つい手が出てしまう素朴な郷土料理です。

 また、中に具を入れないものを白いぎりすといって、仏事に用います。細く切って、ごま醤油や白あえで食べます。この本いぎすに対して、もう一つ藻いぎす(えごのり)というものがあります。これは藻につく赤い花で、藻をとってきて花を集めます。この花を、ぬかではなく味噌を水に溶いた汁で炊くと、こりこりしておいしいいぎりすができます。

   
 掲載日  November 3,2010  番号  12
 タイトル  肥前島原と京都の島原との関係    
 出典  中里介山著「大菩薩峠」の巻の三「壬生と島原の巻」出典:青空文庫  p.56    
 解説  「大菩薩峠」に、肥前島原と京都の島原との関係について、下記のような記述があります。知っていたことではありますが、高名な「大菩薩峠」にあったということで、ここに収録しました。    
   

「島原が秀吉から許された天正十七年は、江戸の吉原が徳川から許された元和三年より三十年の昔になる。大阪の新町も、その創立を元和から寛永の頃とすれば、いずれにしても島原より弟であり妹である勘定になります。

そうして、柳町から六条に移り、「新屋敷」の名が「三筋町」となり、三転して今の朱雀へ移って、「島原」の名を得たのが、寛永十八年ということで。

「去んぬる頃より一つ合わせて、七条西朱雀、丹波街道の北に島原とて、肥前天草一揆のとりこもりし島原の城の如く、三方はふさがりて、一方に口のある故に、斯様には名け侍り」(浮世物語)

都名所図絵には、
「また寛永十八年に今の朱雀野へ移さる、島原と号くることは、その昔、肥前の島原に天草四郎といふもの一揆を起し動乱に及ぶ時、この里も此処に移され騒がしかりければ、世の人、島原と異名をつけしより、遂に此処の名とせり」
切支丹禁制の記念が、遊女町の名によって残されたことを思うと、因縁もまた奇妙な感じがします。
…
官許遊郭の根源こそはこの島原。島原の歴史にもまた相当の盛衰栄枯があって、…

   
       
 掲載日  Feb.24,2010  番号  01
 タイトル  「五足の靴」から島原関係抜粋    
 出典  「五足の靴」岩波文庫 2007/5/16
頁56~
   
 解説   「五足の靴」岩波文庫2007/5/16のキャプションによると、
「明治40年盛夏。東京新詩社の雑誌『明星』に集う若き詩人たちー北原白秋、平野萬里、太田正雄(木下杢太郎)、吉井勇がいさんで旅へ出た。与謝野寛との五人連れは長崎・平戸・島原・天草と南蛮文化を探訪し、阿蘇に登り柳川に遊ぶ。交代で匿名執筆をした紀行文は新聞連載され、日本耽美派文学の出発点となった。」とあります。
岩波文庫案内で、この本に、島原に関する記述があるということを知り、探していたところ、今日(Feb.22,2010)書店で見つけましたので、早速買って帰り、島原に関する部分を抜粋しました。100年ちょっと前の島原の風物が描かれていますので、参考までに掲載します。
   
 本文
頁56

天草島の最南端を発し、最北端を乗り越して肥後国際崎(きわざき)に着いたのは午後二時である。今日一日は、海上に生活せんけりゃならんのである。故に昼飯も陸上では食わぬ、際崎の船着場に大阪流の船料理がある、そこへ上った。厳しい暑さだ、海へとび込みたくなる、K生を残して皆飛び込んで泳いだ、島原行きの船を待つ間の一興である。五時に三角から島原へ船が出る。三角から十町、今日久し振りに陸を歩くのである。三角は近年熊本の人が好んで海水浴に来る処であるという、三々五々、田舎者の癖に威張って歩いている。

三角から島原へ行く海路の景色は今日まで見た自然の内で最も美しいものであった。紺青の温泉(うんぜん)ヶ嶽が西の方行く手に聳え、日はその上にかかる、空の色、海の色の刻々に移り行くのを眺めて夢のような心になる。日が沈む、海が紅に燃えた。島多き島原に着た、真黒な眉山が港を脅かしている。いい所だ。島原の港はK生の詩でその一斑が分かろう。

今宵の客は唐津から
酒を積み来た船乗衆。
港を埋むたけ高き
無花果、木原色街の
海に臨める欄干(てすり)には、
ふんどし一つ、黒々と
裸のそろひ、さかなには
大皿に盛る瓜、西瓜。

むし暑き夜や、なまぬるき
海の風ふく、たわむれ女(め)も
胸乳(むなぢ)あらわに衣(きぬ)ぬぎて
紅木綿なるゆもじのみ、
わづかに掩ひ、上目して
客衆の膝によりかかり、
はた、肘をつき、腹ばひて
酸漿子(ほほづき)ならすしだらなさ。

ほろ酔(ゑひ)きげん、船乗は
胡座(あぐら)をゆすり、手をば打ち、
さつさ歌へと猥らなる
唄のかずかず。芸妓衆(げいしゃしゅ)は
汗しづくして三味(さみ)を弾く。
中に、しら髪(が)の爺一人、
いやがれし声に追分の
その一節ぞあわれなる。

下を通るは、かあちかち、
辻占を売る引板(ひだ)の音。
『よき運ひらくか、ひらかぬか、
待人きたるか、きたらぬか。』
奴すがたに肩ぬぎし
声より艶女(やしょめ)、ちりめんの
襦袢の袖の緋の色に
島原の夜はなまめきぬ。

九州人は原という字が下に来る地名をすべて『ばる』という。島原も『シマバル』だ。風俗の淫靡なことは有名なものだ、良家の処女といえども他国から来た旅客が所望すれば欣々として枕席に侍する、両親が進んでこれを奨励する。他国人と一度関係を結ばぬ女は縁附が遅いというほどだ。(以上、8/23)


***********
(頁61)
翌日朝飯を終えてから有馬城の故跡(あと)を観にゆく。島原の市街は存外に大きく、較(やや)都会の観を呈している。街の両側に清水が流れて川底が見え透くほど澄んでいるが、これが飲料水だと聞くと折角の快感が害(そこな)われる。川の中、店の前、車の上、全町到る所に西瓜の多いのには驚かざるを得ぬ。(頁61)
****************************
頁62)
爺さんが漕ぐ船の脚は遅い。正午、宿屋の裏から直ぐに乗って、日本形の船の間を潜り抜けて、肥後国長州行の汽船に乗った、この度の旅中に出会った汽船の中で最も小さなものだ、これで有明の海を渡るのかと思えば、少し心細く思われる。鯣(するめ)、梨子(なし)、焼酎等を売る女があって、『買わんせんかな、買わんせんかな。』と叫びながら櫓を操る。
……
物寂しそうな、白色の灯台を左にして、船(島原から長洲行きの汽船)は緩やかにはしってゆく。沖には千噸余の汽船が一隻停泊していて、海には浪の躍る日である。島原の港町が次第に隠れて、島原の城下町が次第に現れて来る。その街の尽きる辺から、広く青々とした裾野となって、高く仰げば温泉ヶ嶽は、大いなる母の如く聳えている。山は避暑の西洋人で一杯だ
と聞いて登らなかったのが残念だ。
   
 備考      
 掲載日  Feb.24,2010  番号  02
 タイトル 竹久夢二は、島原・雲仙を訪れていた    
 出典   竹久夢二と九州ロマン紀行
◇福岡や長崎巡った一夏の旅、日記・新聞で追い10年◇

安 達  敏 昭(あだち・としあき=ギャラリー経営)

日本経済新聞
2010/2/17 朝刊
文化欄
   
 本文
はるか遠い高みにいる芸術家が、じつは自分のふるさとと浅からぬ縁にあることを知る。とたんに身近な存在に感じられ、人となりをもっと知りたくなる。そんな経験はないだろうか。わたしにとって、画家の竹久夢二(1884~1934年)がまさにそうだった。
夢二といえば、黒猫を抱いた細面の女性が物憂げな視線を投げかける「黒船屋」が有名だ。そんな大正ロマンの代表格といった感じの夢二が、大正7年(1918年)に一夏かけて福岡や佐賀、長崎を巡り、大きなインスピレーションを得ていたことを知る人は少ない。福岡県大牟田市に住むわたしは、10年ほどかけて九州に夢二が残した足跡を追いかけてきた。

きっかけはプラント建設会社を退職後に始めたギャラリーの仕事で、夢二の版画展の運営にかかわったことだった。版画展は大牟田の北にある水郷・柳川で開くことになった。会場は旧柳川藩主、立花家の別邸「御花」。明治未完成の洋館が美しく、夢二の版画と掛け合わせれば、大正ロマンの相乗効果が得られるというもくろみだった。

□ # □
お客さんから宿題
夢二とわたしを結ぶ赤い糸は、その会場にあった。あるお客さんがわたしにこうささやいたのだ。「大牟田出身の福井健夫という人が夢二と懇意だったそうですね」「えっ、そうなんですか」「知らなかったんですか。じゃあ、調べてくださいよ」。わたしは宿題をもらったかたちになった。
福井健夫氏の息子さんを紹介されて事情を話すと 「自分もよく知らない。ぜひ、調べてください」。
宿題からますます逃れられなくなった。

夢二の日記や当時の新聞雑誌などにあたり、調査を始めた。そのうち、夢二が大正7年の8月13日に長崎・島原半島の雲仙を訪れた事実に行き着いた。福井氏は雲仙岳の温泉ホテルで夏の間働いており、夢二が訪ねてきたのだった。

福井氏は当時、京都の同志社の学生で、夏に雲仙のホテルで働くのがならわしだったという。福井氏は夢二が最愛の恋人彦乃と京都で同居生活を送っている間、寝食を共にするほど信頼された間柄だった。
雲仙に宿泊した翌日、夢二は島原の町に赴いた。安養寺という寺院でお茶を飲み、求めに応じて自作の歌「定めなく鴎やゆくらむ青山の青の弐びしさ限りなければ」心半折の紙に書き付けた。
’
□ # □
白秋の「隠れファン」
ためしに安養寺に連絡を取ってみると、菊池喬住職が「見せたいものがあるので、来てください」と誘ってくれた。胸騒ぎしながら寺を訪れ部屋に入ると、「定めなく~」の書が軸装されて掛けてあった。筆跡は夢二の絵のようにあでやかで、墨の濃淡が軽妙なリズムを刻んでいる。

まるで目の前に夢二が現れたようで、身動き取れなかった。当時、夢二は欧米に旅行したくて何度も「洋行予告展」を開くほどだったが、恋人彦乃の病気などで断念せざるを得ず、かわりに九州漂泊の旅に出た。歌にある、さすらう鳥のさびしさは、夢二自身の心境だったのだろうか。夢二は島原の旅で聞いたキリシタン侍と娘の悲恋の物語をもとに、「島原巷談精霊流し」という力作も描いている。2002年にはこうしたエピソードを紹介する特別展を地元の島原市で実現させた。

この2人に接点があったなら面白いのにと夢想していたら、事実だとわかって驚いたのは、柳川出身の北原白秋との関係だ。夢二お気に入りの歌に彼自ら挿絵を付けて出版した選集「給人歌集」に白秋の短歌が9首も入っていたので、夢二は白秋の「隠れファン」だったのではないかと当時の文献を調べてみた。

すると、大正2年8月の「大阪毎日新聞」のアンケートに「好きな書籍は?」と聞かれて「詩歌は白秋の詩の或物」と答えた記事を発見した。版画家の恩地孝四郎にあてたはがきなどから、夢二が白秋の詩集「思ひ出」を愛読してい認できた。「詩を絵で画く」ことを目指した夢二にとって、白秋の詩歌はひとつの原点だったのかもしれない。

夢ニが福岡で兪の歌人、柳原白蓮に会ったこともわかった。夢二が白蓮の歌集の装丁を引き受けるなどすでに付き合いのあった2人だが、白蓮は旅に疲れ無口でホコリまみれの夢二を見て少し幻滅したようだ。長崎では夢二は歌人の斎藤茂吉と会い、着物の帯に2人仲良く歌を書き付けている。

□ # □
「夢二の旅」自費出版
掘り起こしたエピソードは「夢二の旅」と題して3部作にまとめ、自費出版した。柳川の「御花」にある旧守衛室に小さな展示室も開いている。「なんで柳川で夢二なの?」と観光客に不思議な顔をされることも多いが、そこですかさず白秋や島原の話をする。相手も「意外な話が聞けてよかった」と満足して帰っていく。ささやかな「驚き」の体験が、夢二と九州のファンを増やすきっかけになればと願っている。
(あだち・としあき=ギャラリー経営)
   
 備考      
 掲載日  Feb.24,2010  番号  03
 タイトル  島原キャンプは西鉄快進撃の礎(豊田泰光)    
 出典  
「凡々たる春のありがたさ」
豊田泰光
日本経済新聞2010/2/11
スポーツ欄「チェンジアップ」
   
解説   2/11の高校同窓会2月例会の席上で、仲間の一人から、今日の日本経済新聞に、元西鉄の豊田泰光が、西鉄・島原キャンプのことについて書いていたよ、
とサジェスチョンがあったので、OCRで読み取ったもの。
「西鉄の快進撃はここにキャンプ地を移した1954年から始まる。すべては島原の人と水のおかげだった。」とあります。島原人としては、鼻が高いですね。
   
 本文  
8日、宮崎市郊外のソフトバンクのキャンプを訪れると、駐車場から球音の華やぎに包まれた。九州一円はもちろん、東北ナンバーの車も目にとまる。車から降り、球場へ駆けだす子どもたち。ここまで盛んなキャンプ地も珍しいが、ウイークデーで、試合があるわけでもないのにお客は3100人。この動員力は野球ならではだろう。

メーン球場とブルペン、サブグラウンドを結ぶ小道の脇にファンが並び、選手に声をかけている。これと同じ。”花道”が私たち西鉄のキャンプ地にもあった。

長崎・島原。雲仙・普賢岳の噴火当時の市長だった鐘ケ江管一さんがやっていた旅館、国光屋を我々は定宿としていた。球場は坂道を上った山の中腹にある。

その道が我々の花道だった。

旅館を出ると小学生たちが待っている。「バットを持たせてよ」。結構きつい坂だったから”付き人”の登場は助かった。同じ子どもが毎年来て「大きくなったなあ」と話すのも楽しみだった。バットを運んでくれた子は私の一生のファンになってくれたのではないだろうか。

くたくたになって坂を下りる帰り道に、ところてん屋があった。水がよい島原のちょっとした名物で、そこで一服しながら、地元の人たちと語らったのも忘れられない。

西鉄の快進撃はここにキャンプ地を移した1954年から始まる。すべては島原の人と水のおかげだった。

我々の時代、ファンサービスという言葉はなかった。今どきは時間を決めて、サイン会などを催しているが、現地に溶け込み、自然に接するのが一番だ。ことさら構えて「ふれあう」のは変だし、それを「サービス」といって、何かを施すような態度をしていては話にならない。

ソフトバンクのキャンプには昔と変わらぬ風景があった。家族連れが目立つスタンド。親から子へ、野球好きの血が脈々と受け継がれている。キャンプの練習など毎年同じようなものだし、どこも似たり寄ったりだ。その凡々たる春が、毎年ちゃんとめぐってくる。これは幸せなことだ。    (野球評論家)
   
 備考      
 掲載日  Feb.24,2010  番号  04
 タイトル  雲仙と雲仙観光ホテル    
 出典

(1)「近代日本の国際リゾート」砂本文彦著 青弓社8400円の書評(橋爪紳也)  朝日新聞2008/12/7
(2)ANA[Bird's]2009Winter vol.71 p.15

   
 本文 (1) 雲仙

「1930年代、鉄道省国際観光局は国際リゾート地を選定、あわせて点を線で結ぶべく国際観光ルートを定めた。この国策に応じて上高地、雲仙、志賀高原、阿蘇、唐津、日光などに国際観光ホテルが整備されてゆく。

…松島や蒲郡、琵琶湖などのホテルは日本趣味を強調する傾向にあった。対して山岳地のホテルは、スイスの山小屋風デザインが採択されるのが常だった。」

(出典)「近代日本の国際リゾート」砂本文彦著 青弓社8400円の書評(橋爪紳也)  朝日新聞2008/12/7


2009/12/13

(2)雲仙観光ホテル

大自然に抱かれたクラシカルホテルの建築美

当時、上海航路で来日した欧米人の避暑地として、昭和10年10月10日にオープン。3階建てによるスイスの山小屋風ホテルは、その建築美と大自然があいまって、訪れる人を夢の世界へと誘う。山海の幸に恵まれた雲仙の厳選された食材を使用した料理にも定評があり、ランチも多くのビジターで賑わう。

「ここは日光の金谷ホテルや箱根の富士屋ホテル、軽井沢の万平ホテルに並ぶ、日本有数のクラシカルホテル。いずれもそうだが、欧米人の避暑施設として建てられたものだ。…」

(出典)ANA[Bird's]2009Winter vol.71 p.15
   
 備考  この雲仙観光ホテルに2010年8月1日に妻共々宿泊した。本当に建物・サービスとも申し分のないホテルだった。    
 掲載日    番号  5
 タイトル  「島原藩主ならでは  豊富な副葬品出土  深溝松平忠雄墓所」    
 出典  東京新聞2009/6/2夕刊    
 本文  
深溝松平家廟所・本光寺(愛知・幸田)で、松平忠雄(1673~1736)墓所の修復に伴う発掘により豊富な副葬品が出土した。二代島原藩主であった被葬者にふさわしい絢爛豪華な副葬品は、譜代大名の生活を物語っている。

石殿墓標の株に、墓誌が刻まれた石蓋をもつ正方形に近い石室(一辺1.5メートル、深さ約1メートル)があり、中に平面六角形の木棺が納められていた。木棺には、慶長小判を含む43枚の小判、享保・正徳などの一部金117枚、飾太刀1、太刀2、石帯1具、金属椀、柄鏡、眼鏡などが、また木棺と石室との間には、飾太刀、ブルーのガラスコップ(高さ15センチ)、蒔絵の印籠6、同化粧道具1式、香道具1式、硯ほかの文具、眼鏡、煙草道具、陶磁器2、銀ポットと銚子などが検出された。

ガラスのコップには、杯を手にした男性と月桂樹の冠をもつ女性およびスズランの花が描かれ、口縁近くに横書きで「1599」と書かれている。出土小判の大半を占める慶長小判、染付八角形茶陶(明代末の景徳鎮製)とともに、長崎奉行と密接な関係を有していた従四位の島原藩主の持ち物として注目される。

近年、各地で近世大名家墓所の経年変化による修復工事が行われるようになってきたが、このたびの深溝松平忠雄墓所も昨年八月の集中豪雨に起因する倒壊防止工事に伴う調査であった。近世大名家の墓所の多くは史跡未指定であり、修復工事が進んでいない現状は憂慮に堪えない。未指定のため行政の管理と補助金の対象外におかれている大名家墓所を含む近世の墓所は、各地域の歴史を具体的に示す重要な資料であり、保存対応に目を向ける必要がある。
***********************************************************************************************************************

   
 備考      
 掲載日  Feb.24,2010  番号  06
 タイトル  深溝松平忠雄墓所
「16世紀の藍色、鮮やか  愛知・幸田 大名墓の欧州産ガラス器 日本最古の完成品発掘例」
   
 出典  東京新聞2009/10/5夕刊    
解説   
先に上の5に東京新聞2009/6/2夕刊のに「島原藩主ならでは  豊富な副葬品出土  深溝松平忠雄墓所」と題する記事を掲載しているが、その記事の続きを2009/10/5付けの東京新聞夕刊に見つけた。
   
 本文  
愛知県幸田町の本光寺にある大名の墓から四月に発見されたガラスコップが、十六世紀にドイツで造られた「レーマー杯」という様式の平底コップだと分かった。研究者が完成品と呼ぶ、破損のないものとしては、ヨーロッパ産のガラス器で日本最古の発掘例になりそうだ。(栗原淳)
このレーマー杯は、戦国〜江戸時代の大名・深溝松平家の七代当主(一六七三〜一七三六)の墓から発掘された。高さ十五センチ、直径一〇・五センチで、藍色のガラスに、黄色の服を着て杯を揚げる男性と、月桂樹を持つスカート姿の女性が描かれている。二人の間には「1599」という数字も記されていた。

レーマー杯は十五世紀ごろドイツで生まれ、オランダなどに広まった。胴体部にプランツと呼ばれる、手に持った時のすべり止めの突起があるのが特徴。ビールやワインを飲むために大量に造られた。

ヨーロッパのガラス工芸に詳しい岡泰正神戸市立博物館主幹・学芸員(日欧文化交流史)が、大きさや絵のデザインがほぼ同じものがイギリスの博物館にあることを突き止め、ドイツ東部のザクセン州で造られたものと断定した。

「1599」は製造年で、日本で見つかったヨーロッパのガラス器で、造られた年と場所が特定できる最古のものではないかとみている。

破損や絵の色落ちがない完成品だったのは、頑丈な石室が副葬品を守っていたうえ、石室内が石灰と炭の層で満たされて湿気が取り除かれ、水に含まれる塩分がガラスを劣化させなかったからーとみている。

「タイムカプセルが開かれたよう。高度な技術で描かれたエナメル絵付けが、製造時のまま残っている。この時代のガラス器で、ここまで保存状態の良いものはヨーロッパにも少ない」と岡さん。

藍色は、ガラスの原料にコバルトを混ぜて出した色で、絵付けはガラス質の塗料であるエナメルが使われていた。祝杯を挙げる男女が描かれており、結婚式の客に贈る記念品として造られたようだ。

被葬者の忠雄は先代を継いだ二代目島原藩主。幕府直轄地・長崎の監視を任されていた縁で、出島を通じて取引されていたレーマー杯を手に入れたとみられる。墓からは、香道具や化粧道具、太刀や陶磁器なども見つかり、忠雄が多彩な趣味の持ち主だったことがうかがえる。
「忠雄はレーマー杯を見ながら、遠いヨーロッパに思いをはせていたのではないか」と岡さんは話している。
   
 備考      
 掲載日  Feb.25,2010  番号  07
 タイトル  慶應義塾の三田の地所は、島原藩の中屋敷を払い下げてもらったもの    
 出典  「新訂 福翁自伝」岩波文庫 1991年 p.209~214かかる    
 本文

「福翁自伝」から以下引用します。

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 慶應義塾が芝の新銭座を去って三田の只今の所に移ったのは明治四年、これも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。その前年五月、私がひどい熱病にかかり、病後神経が過敏になったせいか、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。また事実湿地でもあるから、どこかに引き移りたいと思い、飯倉の方に相当の売家を捜し出してはほぼ相談をきめようとするときに、塾の人の申すに、福沢が塾を捨てて他に移るなら塾も一緒に移ろうという説が起こって、その時には東京中に大名屋敷が幾らもあるので、塾の人は毎日のように方々の明屋敷を捜して回り、そこでもないここでもないと勝手次第に宜さそうな地所を見立てて、いよいよ芝の三田にある島原藩の中屋敷が高燥の地で海浜の眺望も良し、塾には適当だと衆論一決はしたれども、此方の説が決したばかりで、その屋敷は他人の屋敷であるから、これを手に入れるには東京府に頼み、政府から島原藩に上地を命じて、改めて福沢に貸し渡すという趣向にしなければならぬ。ソレには政府の筋に内談して出来るように拵えねばならぬというので、時の東京府知事に頼み込むは勿論、私の平生知っている佐野常民その他の人にも事の次第を語りて助力を求め、塾の先進生総掛りにて運動するうちに、ある日、私は岩倉公の家に参り、初めて推参なれどもお目に掛かりたいと申し込んで公に面会、色々塾の事情を話して、つまり島原藩の屋敷を拝借したいということを内願して、これも快く引受けてくれる。どこもここも至極都合の好い折柄、幸いにも東京府から私に頼むことが出来…(引用者注:福沢がそれに応えてやってやると)ソコデ東京府も私に対しておのずから義理が出来たような訳けで、屋敷地の一条もスラスラ行われて、島原の屋敷を上地させて福沢に拝借と公然命令書が下がり、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は一坪一円の割合にていわゆる大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよいよ塾を移したのが明治四年の春でした。 

   引っ越してみれば誠に広々とした屋敷で申し分なし。…この移転の一挙をもって慶應義塾の面目を一新しました。…この屋敷に久しく住居すればするほど、いよいよますます宜い屋敷になって来て、実に東京第一、他に匹敵するものはないと自ら感心して、俗に言う虫がしらせるような塩梅で、何だか気になるから無暗に急いで埒を明けた(引用者注:拝借地を他に先んじて急ぎ払い下げてもらい所有地にした、しかも「ほとんど無代価と申して宜しい」代価で)ところが、果たして然り、東京の諸屋敷地を払い下げるという風聞が段々世間に知れ渡ったその時に、島原藩士何某が私方にやって来て、当屋敷は由緒ある拝領屋敷なるゆえ、主人島原藩主よりお払い下げを願う、此方へお譲り渡し下されいと捻じ込んで来たから、私は一切知らず、この地所のむかしが誰のものでありしやそれさえ心得ていない、とにかくに私は東京府からお払いの地所を買い請けたまでのことなれば、府の命令に服従するのみ、何か思し召しもあれば府庁へお談じ然るべしと刎付ける。スルと先方もなかなか渋とい。再三再四やって来て、とうとうしまいには屋敷を半折して半分ずつ持とうと言うから、これも不承知。地所のことは島原藩と福沢が直談すべき性質のものではないから御返答は致さぬ、一切万事、君それ、これを東京府に聞けという調子に構えていて、六かしい談判も立消えになったのは難有い。

今日になってみれば、東京中を尋ね回っても慶應義塾の地所と甲乙を争う屋敷は一カ所もない。正味一万四千坪、土地は高燥にして平面、海に面して前に遮るものなし、空気清く眺望佳なり、義塾唯一の資産にして、今これを売ろうとしたらば、むかしお払い下げの原価五百何十円は、百倍でない千倍になりましょう。義塾の欲張り、時節を待って千倍にも二千倍にもして遣ろうと、若い塾員たちはリキンでいます。

「新訂 福翁自伝」岩波文庫 1991年 p.209~214

   
 備考      
 掲載日  April,4,2010  番号  08
 タイトル  重松清著「きみ去りしのち」(文藝春秋2010/2/10刊)の中の「島原」    
 出典

重松清著「きみ去りしのち」(文藝春秋2010/2/10刊)

   
 解説  重松清著「きみ去りしのち」(文藝春秋2010/2/10刊)の最終章(第9章)は、長い巡礼の旅の締めくくりの土地として、私の故郷、島原を選び、精霊船が、有明海に浮かぶシーンで終わっています。
以下、島原に関係のある叙述を、抜粋しました。
   
本文   

森のにおいのする風と蝉しぐれが車内に流れ込む。車は峠を越えたところだ。カーナビの地図によると、市街地まであと少し。山をまっすぐに下っていくと海に突き当たる。海岸線に広がる街が、島原だった。(p.333)

…車のスピードを落としてカーブを抜けた。海が見える。南のほうの遠くに霞む稜線は、天草の山並みだろうか。(p.335)

しばらく隠れていた海が、また見えた。青味の淡い色だった。水深が浅いせいだろうか。いままで見てきた太平洋とも、オホーツクとも東シナ海とも違う色合いだ。長い旅をしてきた。あらためて思う。(p.335)

山をだいぶ下りた。道の両側に家が増えてきて、高いビルのほとんどない町並みに、島原城の天守閣がぴょこんと突き出ていた。(p.336)

…風に埃っぽさが混じる。それが潮の香りに変わる頃、私たちの最後の旅の目的地に着く。(p.336)

山本樹里さんというひとから、先週、手紙が届いた。
…
<精霊流しに奥さんと一緒にいらっしゃいませんか?長崎県の精霊流しといえば長崎市が有名ですが、わたしの実家がある島原の精霊流しも、なかなかのものです。人口が少ないぶん地味ですが、精霊船が夜の海に浮かぶ情景にはなんともいえない味わいがあります>(p.337)

島原はこぢんまりとした城下町だった。雲仙普賢岳の稜線と有明海に挟まれた、のりしろのような平地に、古い街並みがある。(p.339)

「とにかく大きいんですよ。長崎の精霊船ほどじゃないですけど、向こうは山車みたいに曳くんですけど、こちらは担ぐでうから」(p.343)

路肩に船があった。ワラの束でつくった四、五メートルはありそうな船だ。船を横に貫いて両側に何本も突き出ている太い青竹を肩に乗せて担ぐのだろう。
樹里さんは船のそばで車を留め、「いまはまだ日が高いから骨組みだけですけど、夕方になったら、船の上に切り子灯籠が二百個ぐらい飾られるんです」と説明してくれた。
「切り子灯籠って、提灯とは違うの?」
「違うんですよ。これも、あとで実物を見てもらったほうがいいですね、島原の独特のものですから」(p.343)

車に残された私と洋子は、あらためて精霊船を見つめた。船の上には、細い青竹が三段になって組んである。刈り取った稲を干す稲架のような、やぐらのような形だ。船の長さや幅に比べて不釣り合いなほど背が高い。樹里さんの言っていた切り子灯籠は、そこに飾り付けるのだろう。(p.344)

襖を開けると、天井から吊されたたくさんの盆飾りに迎えられた。提灯や灯籠と似ているようで違う。上のほうは神社の鳥居のような形をしていて、ロウソクを灯す火袋の下には、青地に仏さまや極楽浄土の絵が描かれた長い短冊が、ハスの葉の飾りものと一緒に下がっている。どれも大きい。大人の背丈に近いものまである。
「切り子灯籠です。かなり変わってるでしょ?」
「ええ…」
「これを今夜、精霊船に乗せて流すんです」(p.350)

車で向かう先は、かつて武家屋敷が建ち並んでいた地区だった。
島原は湧き水の豊かな土地で、いまでも共同の洗い場や鯉の泳ぐ水路がある。
「いまから行くところも湧水路があって、映画のロケにも使われてるんですよ」(p.358)

車は小さな湖のそばを通った。
「ここも湧き水の湖なんです。江戸時代に普賢岳が噴火したときに、このあたり一帯に水が湧き出して、一晩で湖ができちゃって、その噴火っていうのは…」(p.358)

武家屋敷の家並みを保存した一角には、舗装していない長い一本道が延びていた。道の真ん中に幅数十センチの水路が掘られ、湧き水が流れている。石を組んだ水路の両岸は草が茂り、流れる水は山の中のせせらびのように澄んでいた。(p.361)

爆竹の音が、陽の暮れ落ちた島原の町に鳴り響く。切り子灯籠に埋め尽くされた精霊船は、灯籠の火が点くと、いっそう華やかに見える。
精霊船は市内に何カ所かある流し場から海に流される。樹里さんの町内会の船が(ママ)流すのは、いちばん西の流し場だった。(p.366)

船が一隻ずつ交差点の真ん中まで出て、練り回しをする。全力疾走でその場をぐるぐると回るのだ。しかも、途中で腕を上げて高々と船を掲げる。交差点を囲んだ人垣からは「もっと高く上げんか!」「もっと早く回れ!」と野太いヤジまでも飛び、それを煽るようにあちこちから爆竹が投げ込まれる。鼓膜の震えがこめかみにも伝わりそうな大きな音がひっきりなしに響き、火薬のにおいがたちこめるなか、男たちは汗だくになって船を回し、切り子灯籠が波打つように揺れる。(p.366~367)

江戸時代には島原の乱があった。キリシタンの弾圧もあったし、「島原大変」と呼ばれる普賢岳の大噴火もあった。平成に入ってからの大噴火である。
たくさんのひとをいっぺんに亡くしてしまうことの多かった土地だ。のこされたひとたちは、こっちは元気だぞ、こんなににぎやかなんだぞ、だから安心しろ、とお盆を終えて帰っていく個人のたましいに伝えたくて、こんなにもけたたましく爆竹を鳴らしつづけるのかもしれない。(p.368)

精霊船は練り回しを終えると、細い道を通って海へ向かう。ここからはゆっくり、静かに、船は進む。練り回しがにぎやかだったぶん、静けさが耳の奥まで深く染みていくようだった。(p.369)

精霊船の流し場は、波の静かな入り江になっていた。すでに沖のほうに船が何隻か浮かんで、無数の切り子灯籠の明かりが暗い海をぼんやりと照らし出していた。
入り江の前の広場では練り回しを終えた船が、流す順番を待っている。(p.370)

いま、順番が一つ前の精霊船が担ぎ手とともに海に入った。引き船にロープにつながれて、岸を離れる。波を立てて精霊船が倒れないように、と気づかっているのだろう、引き船はエンジンの音をほとんどたてず沖へ向かう。船着き場の石段でそれを見送るひとたちは、黙って手を合わせ、頭を垂れる。にぎわいの消えた別れの時間は、静かに、おごそかに流れていく。(p.371)

沖で精霊船を放した引き船が、船着き場に戻ってきた。樹里さんの町の船が、担ぎ手の歓声とともに海に浮かぶ。切り子灯籠が揺れて、海に映える光も揺れる。(p.372)

…海から風がすうっと吹いたきた。…
「あ、なんか、いい風だった」
私も同じことを思っていた。潮風なのに湿り気のない、洗いたての麻のシーツのような肌ざわりの風だった。(p.373)


   
       
掲載日   April 17,2010 番号 09 
 タイトル
 島原市の鉄砲町について


   
 出展  司馬遼太郎「街道をゆく17」島原・天草の諸道 朝日新聞社 2005.6.30  から抜粋(頁75~82)


   
 解説  私が、高卒まで育った町、島原市の鉄砲町(文中にもある「新建」(しんだち))についての、司馬遼太郎の記述を「街道をゆく17  島原・天草の諸道」から抜粋しました。    
本文   

 日本中が、ゴミ箱をひっくりかえしたような無秩序な景色になってしまったために、他家の座敷へ押しかけて行って感心するのが、ここ十数年来の海外観光旅行の一つの型になっている。

 この点、国内でもかわらない。

 京都、津和野、萩などといった自然と人工とを丹念に秩序づけた町やその郊外へ出かけてゆく。若い女性のファッショナブルな写真雑誌は、京格子と紅殻(べんがら)の壁の前にモデルを立たせたり、竹の栽培林としては世界一うつくしい嵯峨野の藪の小みちを歩かせたりするが、同じレベルでヨーロッパの中世のにおいをもつ田園都市を舞台にする。

 べつに懐古趣味ではない。

 むしろ若い女性から先端的な景観としてとらえられている。というより、彼女たちの意識の底には、はんとうの文明のなかに自分を置いてみたいというねがいがあるのかと思われる。どこかに、たとえそのかけらでも残されていないかと思い、北欧の町へ行ったり、京都の上賀茂神社の古い社家の町を小川ぞいに歩いたりする。

 むろん、それらは偶然残っているのではなく、文明とは秩序美であるということを頭と体で知っている住民たちの意思と犠牲によって懸命に残されているといっていい。

 島原の町にも、そういう一郭がある。

 鉄砲町である。夕闇のなかを西へ歩いてその町へ行ってみた。

 旧城下町の西端にあり、屏風を立てたような眉山を背にして、緩傾斜の上にある。旧藩のころ徒士の居住区であった。
徒士というのは下士で、戦場では騎乗せず、家来をつれず、ただひとり徒歩で歩く。おなじ徒歩者でも足軽より上で、卒ではない。
士分(上士)と決定的にちがうのは、知行(領地)をもたないことである。従ってその俸給の高は石高ではかられず、扶持米ではかられる。扶持米とは藩主の米蔵から給されるもので、こんにちの給料に近い。

 士分は、建前として藩主の領地の一郎を分けられているから、藩主に御目見得する資格があるが、給料制の徒士にはない。

 徒士は、かたまって住んでいる。江戸でいえば府外の八王子に集団的に住んでいたのが八王子千人同心、府内の青山では徒士の住む区域を百人町とよび、大久保にも百人町というのがあった。徳川家では古くから徒士のことを、

「御小人(おこびと)」

ともよんでいた。べつに、御家人ともいう。

 こんにち、萩などでも比較的上級の藩士の屋敷はのこっているが、城下の徒士階級の屋敷が、区劃ごとのこっているのは、島原の鉄砲町ぐらいのものではないか。

 徒士の屋敷地は藩によってちがうが、均して七、八十坪、百坪といったところであろう。屋敷地は拝領地である。屋敷には、士分同様、門が付いてる。当然、玄関がある。足軽の場合は平百姓同様、門や玄関はない。

 二十数年前、この鉄砲町にきたときは真夏の昼の太陽が街衝(まち)ぜんたいを美しい茶色の色調に仕上げていて、通りの中央をながれる溝の清水だけが、白銀色に光っていた。

 いまは、銭苔のはえた石垣と石垣とのあいだから蝙蝠でもとびだしてきそうな刻限で、黄色い夕闇が、通りも溝も屋根も門もいっそううつくしいものにしている。

 鉄砲町の街衛は、京都の町のように碁盤の目に区劃されている。また北近江の柳ケ瀬の町のように、通りの中央に溝が石組でもって堅牢につくられていて、山清水がいきおいよく流されているのである。この水は眉山から滲み出してくるもので、むろん飲み水としで堪えうる。が、飲み水としては使われておらず、両側の家々の米とぎ、野菜汰い、食器洗いなどにつかわれる。この翌日、たまたまこの鉄砲町出身の洗保雄氏が宿の帳場に見えた。洗さんは市の助役さんで、大正七年うまれである。

 「町では、あの溝のことを川とよんでいました」

と、いわれた。厳密には川ではなく、堂々たる上水道である。

 水は上のほうの熊野神社の境内の湧水だという。夏は田へひくために、日中、断水する。夕方になると、いっせいに流される。いずれも、江戸期以来のことである。夏は砂ぼこりが立つために家々で打水をする。夕刻、水が流れてくると、家々から人がひしゃくを持ってそとに出るのである。
「町並の上のほうから順次人が出てきて水を打つのです」

 一軒でも打水しない家があると、そこだけが白く砂ぼこりが立つため、打たざるをえない。不文律の秩序が強制する義務ではあるが、しかし義務感というほど鋭角的な感じではなく、夏の一日のくらしのリズムのなかに組み入れられてしまっていて、風鈴の音やすだれごしの風と同様、真夏の景色になっていた。

「懐しい景色です」

と、洗さんはいった。

 飲み水としては、井戸がつかわれていた。

「いい家にだけ井戸があるんです」

と、洗さんはいう。

 よくきくと、鉄砲町は徒士ばかりではなく、石取りの士分の家もまじっていた。ざっと七十石以下の家だという。七十石でも石取りである以上、高等官である。おそらくそういう家に井戸があるのであろう。

 町筋が七つあり、上から上新丁、下新丁、古丁、中ノ丁、下ノ丁、江戸丁、新建の七つで、これに鉄砲町の北西角の柏町の新屋敷を加え、六百九十戸あった。

 「私の家は、中ノ丁でした。井戸がありませんので、男の子は朝起きるとバケツを天秤棒で荷なって井戸のある家へ水をもらいにゆき、水瓶に溜めるのが仕事でした。一度に三回ほど往復しました。それがおわってから朝食を食べ、学校へゆくのです」

「鉄砲町の言葉は、町方とはすこしちがっていましたか」

「すこしちがいました。家中言葉と言いますか」

と、洗さんがいった。


 鉄砲町の東西の通りを西へのぼって、古丁の角屋敷の角までくると、石垣の角にくぼみがつくられているのを見た。石を棚にして水仙の花が一束活けられている。

 近づくと、水神に捧げる花らしく。花の横に香水を入れる茶碗も置かれている。この石垣の基部が溝になっていて清水が湧いているのである。

「飲料水」

と書かれた小さな札が石垣にぶらさがっていて、アルマイト製のひしゃくが、石垣のすきまにさしこまれていた。通行人のために、古丁の町内会が、この泉を提供してくれているの

 だが、水神の石の古さからみて、江戸期以来の習慣であることがわかる。ひしゃくをとって、溝のなかの湧水を汲んで飲んでみると、味にまるみがあってじつにうまかった。

 「山本家」

という屋敷がある。

 この家の当主の好意により島原市が借りうけて一般の見学に供している。

 山本家はこんにちまで十一代つづいている。松平家三河吉田城主だったころから仕え、歴代のなかには砲術師範だった人もあり、藩の重職についた人もいた、と立札に書かれている。石高は十七石二人扶持で、小藩だからこのくらいの石高でも当主の能力次第では重い職につくことができるのである。

 道をゆくと、門内の縦覧をゆるされている家に、篠塚家というのがあった。

「屋敷由来」

という立札か出ている。

 この屋敷に住んでいた人は、姓を篠塚と言い、代々順右衛門と称し、祖先は三河(愛知県)深溝であるが、寛文九年(1669年)松平主殿頭松平忠房が丹波福知山五万石から七万石島原城主として移された時に従って来て、明治初期まで十一代、八石から十三石二人扶持を給され、主として、郡方祐筆(書記)や代官などを勤めた。

 屋敷坪数はこのあたりすべて三畝(九十坪)である。
   
     
       
 掲載日  April 26,2010  番号  10
 タイトル  島原鉄道島原外港―加津佐間の廃線について
   
 出典 「本」 2008年7月号(講談社発行のPR雑誌)の17ページに「日本の廃線シンポジウム (筆者)原武史(ページ12~18)」という、国内の鉄道廃線 を嘆く架空のシンポジウムが開催されており、その中に島原鉄道の次のような発言が載っております。ご参考まで。
   
解説   このシンポジウムを紹介している「鉄道ひとつばなし」は、1996年から連載されている人気エッセイで、2003年までのものが、「鉄道ひとつばなし」その後2007年までのものが「鉄道ひとつばなし2」として、講談社現代新書にまとめられて発行されている。しかし、この2008年のものはまだ新書になっていない。なお、筆者の原武史は明治学院大学教授、専攻は、日本政治思想史で、私が氏を知ることとなったのは、「昭和天皇」(岩波新書)を通してである。(2010/4/26記す)    
 本文  
島原鉄道島原外港―加津佐間(1931~2008)

長崎県だってそうだ。わが県は、長崎新幹線を誘致することは熱心ばってん、島原半島の南部を走っているオイばあっさりと見放した。おかげで島原鉄道は半身 不随になってしもうた。(p.17)
………

大分交通部耶馬渓線
…交通が不便になれば、当然観光客も減る。耶馬渓の名付け親である頼山陽先生も、泣いておられるやろう。島原鉄道島原外港―加津佐間も、きっとそうなるん や。(p.18)


   
 備考  
原武史著「鉄道ひとつばなし」講談社現代新書2003/9/20は、上述の講談社発行のPR雑誌「本」に連載された同名のエッセイをまとめたものであり、その中に「駅から見た東京に出づらい都道府県ランキング」が載っている(p.16)
「何時何分までであれば、それぞれの「県」にあるどの駅から列車に乗っても、その日のうちに東京駅に到着できるかーーー。」(JTB時刻表2003/2月号による)というのである。長崎県は、21位で、加津佐(島原鉄道)を16時40分に出なければならない。その本の続編である「鉄道ひとつばなし2」2007/4/20でも、同じランキング付けが行われており(JTB時刻表2007/2月号による)、ここでは長崎県は、同じ加津佐で13位になっているものの、15時48分に出なければならない、「前回よりも明らかに東京に出づらくなった「県」として、長崎県が挙げられ、52分も早く県内の駅を出なければならなくなった」(p.26)と、コメントされている。
 ところが、上に引用したのは、「本」の連載はその後も続いており、島原鉄道は、2008年、上記のように島原外港ー加津佐間は廃線になってしまった際に、誌上で「国内の鉄道廃線 を嘆く架空のシンポジウムを」開催し、廃線を嘆いたもので、ランキング入りしていた加津佐駅そのものが、今や、なくなってしまったのだ。(2010/4/26記す)
   
   June 3,2010  番号  11
 
 龍馬の長崎での第一歩は島原から始まった
ryoumano   
 出展  本件については、下記の島原温泉観光協会のホームページを見て下さい。龍馬が上った海岸の階段の写真まで詳しく紹介されています。 kono   
   http://www.shimabaraonsen.com/ryouma.html    
   
 ひ弱だった土佐の青年は、剣術修行、脱藩、勝海舟との出会いなどをとおして、海外との目を開き、日本の変革を考えるまでにたくましく成 長をとげる。やがて龍馬は運命の糸に導かれるように長崎を目指すことになったのです。

 元冶元年(1864年)春、軍艦奉行並勝海舟の随行員として坂本龍馬らは長崎への道を急いでいた。英仏米蘭4カ国連合艦隊の長州攻撃を阻止するために、 海舟は外国勢との調停役としての幕命を帯びた旅立った。

  このとき龍馬30歳、海舟の片腕ともいえる神戸海軍操練所の塾頭を務めていた。

  一行は2月14日早朝、神戸港を出向。瀬戸内海をわたり大分佐賀関に上陸、そこから豊後街道で九州を横断し、熊本から有明海をわたって島原上陸、島原街 道、長崎街道をへて目的の長崎に到着した。

  往路10日間、復路9日間の旅だった。
↑坂本龍馬が上陸した階段

「中村家別当家」屋敷門→

 商店街の拡幅に伴い移転された屋敷門 龍馬を出迎えた門構えはその当時のまま残っている。

   
   
【往路】 『海舟日記』より
元冶元年 (一八六四年)
二月十四日 神戸を出港
十五日 佐賀関に入港
徳応寺に止宿
十六日 豊後鶴崎の本陣に宿泊
十七日 野津原に宿泊
十八日 久住に宿泊
十九日 内の牧に宿泊
二十日 大津宿を経て熊本城下新町の本陣に宿泊
(龍馬、海舟の使で横井小楠を訪ねる)
   
   
二十一日夜
(早朝?)
大津宿より乗船
島原へ渡る
二十一日 払暁、島原へ着船城下本陣へ休息
(本陣とは、大名等の宿泊所で、島原では町年寄・中村家の屋敷が利用されている)直ちに出立。
此地より長崎迄は、土地磽かく、田畑の間大石雑わり、小石、道路満ちて甚だ悪し、雲仙の嶽噴火せしによるか、西洋に云うラアの之年を経しものあらむ
二十二日 会津(愛津)に宿す
二十三日 長崎着、日見峠甚だ難所、直ちに奉行之御役宅へ行き面会、洋船未着之由を聞く、福済寺旅宿となる
   
   島原での龍馬の道(←クリック)    

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島原市(地図)