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1960.9.15
他人の文章を読むときしばしば感じることなのだが、一人合点の文章が多すぎるようだ。特にこの教養学部内で発行されているような、各種のビラだとかパンフレット類には、文章として如何にも読みづらいものが無数にある。
「・・・なのである。」と大見得を切った文章で、その内容も貧弱なら、文章のうまさも拙劣なのがなんと多いことか。駒場祭ニュース第一号の第一ページに、「委員企画について」という阪本哲郎という人の文が載っかっている。私にはこの文が非常に幼稚なものにしか思えない。全く書きっぱなし(例えばこの日記のような)の無責任さが目立って、これじゃ駒場祭委員会なるものに大した期待も寄せられそうにないと言う気がしてくる。例えば、次のような文章がある。
「本部企画はスローガンないしは統一テーマとよばれる基本態度に従って企画されるもので、このスローガンないしは統一テーマが重要な問題となって来るのである。」
この文章、一個の読点がほぼ文の中央にあって、「・・・ので、・・・である」という形をしている。この「ので」という表現は前段で理由を示し、後段でその結論を述べようとする形式なのであるが、この文章にあっては、少しも、前段の「理由らしさ」、後段の「結論らしさ」がはっきりしない。両者ともに強調されないままに放り出されている。この文章のまずさは、どうして「重要な問題になってくる」かが、重要な問題であるにもかかわらず、如何なる場所において重要なのかを示すべき前半の文章を安易に「・・・ので」で受け、後半の文章を空回りさせている点にある。
この阪本君の文章は、前に引用したものとほぼ同様の長さの文章が、一節を形作りながら、あまり緊密でない関係で後段につながっていく形式を有している。題は、「委員企画について」であるけれども、一向にその委員企画らしきものは現れず、阪本君個人の物の見方とか考え方とかが、主として現在の政治情勢、学生は如何にあるべきか等に対して述べられているに過ぎない。
最期の部分の
「現在我々に課せられている問題は多く、難しい。
その一つ一つを裏の裏まで究明することが、今なさねばならない我々の義務である。
以上が今考えている本部企画の基本態度であり、大体この線にそって企画して行きたいと思っている。」
は、一応、題にそぐわしい結論をつけてみたつもりなのだろうが、「大体この線」と言われても、何がこの線なのか一向に要領を得ないのだ。
「学生という身分は現社会体制の下では、必然的に支配階級の側に立つようになっている。ここに大きな悩みが存在し行動に踏み切れぬ
点となっている、が逆に考えると同時に無限の可能性をもっている。」(下線、筆者)
一体逆に考える、とは如何なることを意味するのか。この後の文章をいくら一生懸命読んでもなんとも説明されていない。それに文法的には、最期の”もっている”の主語が何なのか答えられない欠陥がある。
「学生たる者、大学祭の本質は反権力的な批判にある。これは学生という何らの権力に拘束されない自由な立場から生まれるものなのである。」
この引用文の冒頭の一文が、短いにもかかわらず、阪本君の頭の中の混乱を如実に示しているものとして興味深い。学生たる者の本質は云々と言う予定だったのに、急に大学祭を思いついて挿入してしまったところにこの文章のおかしさがある。あまりに意気込みすぎた結果
として、学生たる者、と仰々しく叫んでしまい、他のすべてのことを忘れてしまったのであろう。
それに続く部分は、もう一つ前に引用した文との関連において見る時、「学生という身分」としては、「支配階級の側に立つ」ものでありながら、「学生という何らの権力に拘束されない自由な立場」と持つというのは、どういうロジックなのか分かりかねる。
「必然的に支配階級の側に立つ」という時、「それが何らの権力に拘束されない」ならば、一体、「支配階級の側に立つ」とは如何なることを意味するのか。
その他、「政府の良い所・・・」云々から始まる文章にしても、自ら提起した問題には答えずに、「民主政治の根本」を持ち出して意味のない独断に終わっている。
以上、自分自身の文章のまずさを棚上げにして、少々長々と書いてみたのも、つまるところは、自分に返ってくる問題があると思ったからである。決して、一人合点の文章も、論理の矛盾も、独断も他人の問題ではなく、私自身の問題なのである。
阪本君の文章に見られる、総合的な見方の統一がなく、観念的な論断がばらばらに述べられている、欠点というものはとりもなおさず、私の文章の欠陥なのである。立派な文章が書けるように、常日頃努めていきたいものである。
(三時半)
明日の試験準備を開始する。
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