遺 書は風に散った | 情事のたしなみ|遺書をしたためる間に|ジョギングシューズ|浮気の報酬|二重の環|
ジョギングシューズ
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| 1999/8/18掲載)
これは、わたしが1984年の7月に書いたものである。最近、書類を整理していて、偶然発見した。書いたこともすっかり忘れていた。 1984年と言えば、東芝のJW-6とかいう、プリンターとのセットで、100万円もするワープロを買い込み(参照:エッセイ「ワー プロの効用」)、いろいろと書くことに忙しかったころである。当時は、8インチのピラピラのフロッピーを使っていた。それも同時に出てきたが、現 在の3インチのフロッピーや、数多い記録媒体を思うとまさしく今昔の思いがする。プリンターの質も悪くて、OCRで読みとらせようとしたが、認識率が低く て、結局ワープロで打ち直した。ご愛読を乞う。 |
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ジョギングシューズ
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ちょっとした偶然が、しばしば人の一生を狂わせる。
この場合、湯原文子が、ほんの少しビ一ルを飲みすぎて夜中にトイレに立ったことが、二人の男の人生を狂わせてしまった。
文子は、若い頃、A省で一、二といわれたほどの美人だつた。長身で色が白くスポーツマンタイプの均整のとれたプロポーションをしていた。都立の普 通高校を卒業後すぐ初級職の一般職員として採用されたのだが、持ち前の美貌と社交性とを買われて、二年後には局長付きの秘書に抜擢された。局長付きという ことで、上級職で入省した、いわゆるキャリアの若い事務官にまでちやほやされた。もともとハデ好みの文子は、こうした若いエリート官僚グループに入り、そ の中で女王然として振る舞った。一緒にディスコやバーに行きもしたし、テニスを始め、スキーや山登りの仲間にも加わった。省内では、そのうち文子は、エ リート官僚の妻の座におさまるだろうともっぱらの噂だった。ところが、その当時からすでに二十年近くたった今、彼女は相変らず局長付きの秘書として、まだ 独身を守り通していた。
かつてすらりとした美人だった文子も、今ではその面影の大半を失い、少々丸みのついた十人前のオ-ルドミスになり、一般職員や若い女子職員のみな らずエリート官僚にも煙たがられる存在になっていた。
文子は、国電の高田馬場駅の近くにあるグリーンマンションの二階の一室に住んでいた。グリーンマンションはその名の通り洒落たグリーンのタイル張 りの建物だった。都心の割には閑静で緑の多い環境に恵まれていたこともあって、少々割高だったけれど、五年前文子は、それまでコツコツためた貯金を全部は たいて1DKのその部屋を買った。マンションの完成する前から何度も足を運んで調べた甲斐があって文子はその買い物にすっかり満足していた。
交通の便といえば、A省のある霞ヶ関まで地下鉄で三十分しかかからなかったし、買い物の便も駅の近くに大きなスーパーがあって申し分なかった。繁 華街に出たければ新宿にも池袋にも国電でわずかに二駅だった。しかし、文子が何よりも気に入ったのは、近くにテニスクラブがあることだった。マンションを この地域に選んだのも、それが大きな理由だった。文子は昔から運動を暫くしないでいると、すぐ体重が増える体質だった。
そのクラブは、高田馬場ローンテニスクラブといい、大手の製薬会社が三多摩地区に移転した跡地を利用して作ったもので、十一面もの全天候性のコー トがあり、クラブハウスや、食堂、浴場などの施設も良く整っており、最初、下見に来たときから、文子の気に入った。
文子はマンションに移り住んだ翌年の正月に、入会金をなんとか工面して入会し、その後は暇を見つけては、コートに顔を出した。今では、気軽に声を かけたり、練習試合に誘える仲間が二十人近くいた。腕前も、若い頃から続けてやっていたので、クラブではかなり上位に属しており、持ち前の押しの強さも手 伝って、クラブではちょっとした顔になっていた。
大晦日まで十日足らずのその夜は、このテニス仲間のプライベートな忘年会だった。文子が音頭をとって開いたような会だったこともあって、高田馬場 駅近くのスナックバーの三次会までつきあい、ついついいつもより余計に生ビールのジョッキを重ねたのだ。そのせいで、夜中に目が覚め、あわてて、トイレに 駆け込む羽目になった。
そのときだった。トイレの窓から何気なくマンションの裏庭を覗くと、目の端にチラリと動くものの影が映った。夜目をこらすと樫の植え込みの隙間か ら男が一人ひょっこり現れ、足音を忍ばせるようにしてマンションに近づいてくるのだ。黒っぽいジャンバーを着、帽子を被り、首には厚手のマフラーを巻いて いるように見えた。もちろん、顔の見分けは二階からではまったくつかない。ジョギングシューズでも履いているのか、身軽で、足早にマンションに近づいて 来、裏口からすっと姿を消した。思わず時計を見ると、午前三時に近い。
---いったい、マンションの住人かしら?
---ひょっとしたらドロボー?!
文子の体が急に熱くなった。
---もしかして、本当にドロボーだったら?
文子は、自分に落ち着けと命じながら、熱くなった頭で、どうしたものかと思案したが、もしマンションの住人だとしたら、どこかの部屋の明かりが点くにに
違いないと気づき、トイレの反対側にあるうベランダへ飛んで行った。
もう、ほどんどの部屋の明かりが消えており、わずかに三つだけ明かりの漏れている部屋があった。
と、驚いたことに、彼女の部屋のすぐ下の部屋の明かりがぽっと灯ったのだ。
文子はその部屋にどんな住人が住んでいるか知らなかった。グリーンマンションは南向きにカギ型に建っており、東側が家庭持ちのA棟、西側が独身者 用のB棟と呼ばれていた。文子の住むB棟には1DKの部屋ばかりだったので、すぐ下の部屋の住人も独身者に違いなかった。
---さっきの男がすぐ下の住人なんだろうか?
---もし、そうだとしたら、どうしてこんな時間にあんな植え込みの隙間から人目を避けるようにしてマンションに帰ってきたのだろう。
---ひょっとして・・・
その頃その一帯で放火事件が相次いでいた。焼死者も出ており、警察は必死の捜査を続けていた。文子も、身近な事件なので、新聞報道には隅々まで良 く目を通しており、犯人の手口の特徴にも通じていた。しかし、警察は、まだ犯人像の輪郭ですら掴んでいなかった。それほど、巧みな放火犯で、警戒網の裏を かいてもうすでに五件に及ぶ放火に成功していた。もっとも、近くの放火がすべて同一犯によるものとしてのことだが。
---もしかしてその放火犯では?
と思った直後だった。耳を聾するばかりのサイレンが夜空を切り裂いた。彼女が首を上げると、マンションの東手に火の手が上がっていた。次々に現場に急行す
る消防車のサイレンが音が、たちまちマンション界隈を喧噪の場に変えた。
「火事だ!」
「火事だ!」
遠くから叫び声が聞こえてきた。マンションの明かりもあちこち幾つか点いて、窓ガラスをあける音や、
「すげーや、まったく派手に燃えやがるな--」
と言った、若い男の甲高い声も飛び込んできた。
文子は、ふと気になってすぐ下の部屋を覗いてみた。いつの間にか明かりは消えひっそりと静まり返っていた。
文子は訳もなくブルブルと震え、抑えようとすればするほどその震えは大きくなった。文子は震える身体を両手で抱きしめながら、心の中に大きな疑惑
が頭をもたげてくるのを感じていた。
翌年の二月半ばの月曜日の朝のことである。
グリーンマンションのA棟にある森田康夫の部屋では、妻の好子が玄関口に座り込み、出勤する夫の靴を下駄箱から取り出しながら、
「あっ、そうそう」
後ろに立っている夫を振り返った。
「昨夜ゴルフの帰りが遅かったので訊くのを忘れたんだけど、あなたジョギングを始めるつもりなの?だったら、私も一緒にやりたいわ、テニスにもいいし」
「ジョギングだって?まさか。こう毎日忙しくっちゃジョギングどころの騒ぎじゃないよ。相変わらず国会の予算委員会はもめているし、それにアメリカとの先
端技術関係の摩擦がらみで毎晩午前二時三時なんだから」
「あら、だったらこのジョギングシューズ、どうしたの?あなたが買って来たんじゃないの」
好子はそう言いながら、下駄箱から一足の靴を取り出して、康夫に見せた。白の革地に二本の青いテープのストライプの入った、走りやすそうな靴だっ
た。靴底には大木用のノコギリの歯のような深い切り込みがついていた。ほとんど新品に近かったが、靴底には乾いた土が少しこびりついていた。
「こんな靴、これまで見たこともないよ」
「あら、そう。でも変ねえ。昨日の夕方夕食の買い物に行こうとしたら、下駄箱にこの靴があったのよ。てっきりあなたがここに入れたのかと思っていたわ。あ
なたでなければ一体誰が入れたのかしら」
二人して、頭をひねったが、訳がわからなかった。
「三日ほど前、あたし下駄箱の大掃除をやったばかりなのよ。そのときは、なかったわ。あら、サイズは26よ。あなたにピッタリだわ。使ってみる?」
「よしてくれよ。そんな薄気味の悪い靴なんか、履く気になんかなれないよ。捨ててしまおうよ。ついでだから、僕がゴミの集積所に持っていってやろう。むき
出しのままではなんだから、ちょっとビニールの袋にでも入れてくれよ」
好子は、スーパーで貰ったビニールの袋に入れて夫に手渡した。
「今夜も遅くなるからね。起きて待っていることはないから、適当な時間で寝てくれよ」
右手に書類の入った薄目のブリーフケース、左手にジョギングシューズの入った白いビニールの袋をぶら下げて、康夫は出掛けていった。
通常残業省といわれるT省に勤めている森田康夫と結婚してまだ三年、別に無理して起きている訳ではなかったが、マンションの一室で一人切りで寝て いるとなんだかよく寝付けなくて、好子は、夫がどんなに遅く帰っても、決まってその音で目を覚まし、起き出して行くのだった。
康夫はそんな好子に無理して起き出して来ることもないよ、どっちみち自分も寝るだけなんだから、といつも言う。その言葉に好子の身体を気遣う優し い面だけでなく、無駄なことをやってもしょうがないじゃないかといった、ちょっと突き放した面とが覗いていることを好子は気にしていた。
好子は、お嬢さん学校と言われる名門の女子大を卒業し、二三年家事手伝いをやった後、親の勧めるまま、お見合いで、康夫と結婚した。康夫の第一印 象は、真面目そうで、この人となら、まず無難な生活が送れそうだということだった。深く愛し合っているという実感もないまま、康夫のプロポーズを受けて、 一緒になった。それほど、結婚には期待していなかった。康夫も、結婚に多くを望むというより、第一の関心事は仕事であり、省内での栄進のように、好子には 思えた。好子が、両方の実家からの経済的援助もあって、家計のやりくりをきちんとやり、室内を清潔に保ち、たまの休みの日などに、康夫の好物の料理を食卓 に並べさえすれば、康夫は、それ以上何の注文もつけなかった。好子が夫の出掛けた昼間何をしようと、一切文句をいわなかった。
夫を送り出した後、好子は、手早く朝食の後かたづけを済ませ、時計を気にしながら、テニスに出掛ける用意を始めた。好子はこのところテニスに夢中 だった。二年前に、近くの高田馬場ローンテニスクラブに入会し、中級者向けのテニススクールに参加した。そのときのヤングミセスの仲間六人が意気投合して グループを作り、その後も、ほとんど毎日のようにゲームを楽しんでいた。
好子は、大学時代すこしかじったことがあるもののテニスの本当の面白さがわかったのは、このグループに入ってからのような気がしていた。意外と奥 の深いメンタルな要素の多いゲームであることが好子の気に入った。もともと工夫好きの彼女の意欲をそそるのである。
そんな訳でウイークデイはもちろんのこと、日曜日にも夫がゴルフに出掛けることが多いので、コートに顔を出した。おそらく高田馬場ローンテニスク ラブのメンバーのなかでは、最も利用率の高い一人だったろう。クラブの従業員にも好子の顔は知られていた。
グループの内で当番を作り少し早めに行って、いいコートを確保することにしていた。はじっこのコートや大通りに近いコートよりも、クラブハウスに 近い方がなにかと便利だったし、遅く行くとコートがふさがっていることもあった。好子はその日が当番に当たっていたので、遅くとも、九時十分前までに行く 必要があった。鏡の前であわただしくパフを叩いていると、玄関の呼び鈴が鳴った。
--あら、今頃誰から?
好子は首をひねりながら、ドアをあけた。そこには茶系統の地味なジャンバーを着た男が二人突っ立っていた。ちょっと雰囲気の良くない男だった。浮き浮き
していて、少々安易にドアを開けたことを後悔しながら、
「どんな要件ですか」
「ちょっと、お尋ねしたいのですが、これはお宅のご主人が捨てられたのですか」
メガネをかけた長身の男が、先ほど康夫が持っていったばかりのビニールの袋を目の前に差し出した。メガネの奥から、好子の身体をなめ回すような見つめて
いる目が、不気味だった。
好子は一瞬返事をためらった。中身のジョギングシューズといえば、昨日見つけたばかり、いわば出所不明のものである。「捨てた」と言えるだろうか。
「えっ、えー」
思わす口ごもって
「それが何か」
「ご主人が捨てられたものかどうかだけ、教えて貰えればいいのですよ」
小柄の、少し金壺眼の男が、雰囲気を和らげようとしているかのような、優しげな声で言った。しかし、眼は少しも笑っていない。
「一体、中身は何ですの」
考える時間を少しでも増やしたい一心で好子は訊いた。頭の方はどうして二人の男が、こんな物を持ち込んで、康夫が捨てたかどうかを訊きに来たのか、その
真意を探り出すために忙しく働かせていた。
金壺眼の方が、ビニールの袋から取り出したものを好子の前に置いた。紛れもなく先ほど、康夫が捨てに行った、青い日本のストライプの入ったジョギ
ングシューズだった。
---どう答えたものだろう?
夫が捨てたことに間違いないのだけど、捨てたといえばそれで済むのだろうか。新品同様の物をなぜ捨てたと訊かれたら何と言おう。たまたま下駄箱で見つけ
たので、気味が悪いと思って捨てたと言って信じて貰えるだろうか。
--正直に言うべきだろうか、それとも・・・
そうだ、こんな、どこの誰ともわからぬ人に答える必要があるのだろうか。いきなり他人の家にやって来て、不躾な訪問をするほうがおかしいのだ。主人には
いつも官僚の妻らしく何事にも慎重にと言われている。
「あの-あなたがたは一体どういう方ですの」
好子は、恐る恐る訊いた。二人の男は、顔を見合わせると、胸のポケットから、黒っぽい手帳を取り出した。金文字で警察手帳と書かれていた。長身の男が安
原、金壺眼の男が大峰と名乗った。
好子は突然目の前がくらくらとし、激しい震えにとらわれた。自分でも、信じられないほどうろたえていた。落ち着くように自分自身に言い聞かせながら、ど
うして刑事がジョギングシューズを持って突然現れたのか必死に考えていた。この靴は何か事件と関係があるのだろうか。それならば一層のこと慎重に対応しな
ければならない。何と言っても夫は中央官庁のキャリアの事務官なのだし、自分はその妻なのだ。震えている場合ではない。とにかく、下手なことを言って夫に
迷惑をかけないようにすることだ。それでなくても、毎晩仕事が忙しくて帰宅が午前二時三時になっているのだ。
それでも、好子は迷った。迷った挙げ句、そのジョギングシューズに何等責任を持つべき立場にないという結論に達した。つい昨日、下駄箱の中にある のを見つけ、あっさり捨ててしまった靴なのだから。
「わたし、見覚えありませんが」
好子は、相手の反応を窺うような自信なげな調子で、とりあえず否定した。二人の刑事は、さりげなく目と目を合わせるとそれでも優しく訊いた。
「本当に見覚えありませんか」
好子は、この調子なら、うまく行くかも知れない。このまま、シラを切ろう。その方がうまく行くに違いない。夫がゴミ捨て場に行くところを見られた
にしても、夫が捨てたことを妻たる自分が知らなくても、かまうまい。ジョギングシューズを私がビニールの袋に入れてやらなくても男だって自分でそのくらい
やるだろう。
「えー、本当に見覚えありません。主人はジョギングなんてやりませんし・・・」
「いや、そうですか。わかりました。朝早くからどうも失礼しました」
二人の刑事は、あっさりそう言うと、ドアを閉めて出ていった。
好子はほっとしたものの、いささか拍子抜けしてしばらく玄関口にたたずんでいたが、約束の九時にもう間もないことに気付いて、あわてて鏡の前に飛 んでいった。
五分後には結婚祝いに、貿易商を営む父親から買ってもらったフフォルクスワーゲン社のゴルフに乗ってマンションを出た。二人の刑事が廊下の端の部 屋でその部屋の主婦と話しているのに気付き、少し気になったが、それ以上にコートの方が気がかりだった。
その日は、テニスの調子は意外と良かった。いつも負かされているペアに6-1、6-2の大差で勝った。そのせいもあって、日中は、刑事が来たこと などすっかり忘れてしまっていた。その上、夫の帰りがその晩も午前二時を過ぎていたこともあり、夫には、そのことについては、何も報告しなかった。四五日 たって、夫の在宅中に、ひょっとしたきっかけで思い出したけれど、今更そんなことを夫に話したところで、何の役にも立つまい、余計な心配をかけるだけだ、 いや、逆にそんな大事なことをなぜ今まで黙っていたのかと、起こられるかも知れないと、思い直し、とうとうそのまま言わずじまいになった。
グリーンマンションの付近一帯を所轄しているS警察署では、これだけ証拠が揃えば、逮捕に踏み切るべし、という説が有力になりつつあった。森田康 夫 が、こっそりゴミ集積所に捨てたジョギングシューズと、その前々日の夜の放火未遂事件の現場に残っていた靴跡とが、ぴったり一致していた。しかも、靴底に こびりついていた泥と現場の土質が同一だった。
昨年の十一月半ばから、所轄地域内で、月に一、二件の割合で放火事件が発生していた。その中で最悪のケースは、十二月下旬に起こったもので三百平 米近くの木賃アパートが全焼し、七所帯が焼き出され、逃げ遅れた小学生の兄弟が焼死した。警察の威信にかけてもなんとか早く犯人を捕まえなければならない ところに追い込まれていた。一月中旬にボヤ程度の放火が一件あってから、今回までちょっと間が空いた。おそらく警戒が激しくなったので、犯人も迂闊に行動 に移れないのだろうと、憶測していた矢先、未遂事件が発生したのだ。ただ、これまでの放火が巧妙でいかにも人目につきにくい場所で、確実に火の付く方法を 取っているのにひきかえ、今度の場合はこれまで同様灯油を染み込ませた新聞紙を使ってはいるものの、若干人目につきやすい木造家屋の風呂場付近に、もみ消 したことのはっきりとわかる燃えさしの新聞紙が転がっており、木造家屋であるにもかかわらず、焼け焦げた跡がまったくないなど、犯行者が本気で火をつけよ うとしたのかどうか少し疑わしいところがあった。おそらく、犯行に及ぼうとした直後に現場付近を誰かが通りかかったので犯人はあわてて火をもみ消して逃げ たのだろう。というのが署内の一致した見方だった。犯人はうろたえたために濡れた更地の上にこれまで一度として残したことのない靴跡をはっきり残したう え、あまつさえ、その近くのつつじの植え込みの根元に致命的な証拠品を落として行ったのだ。森田康夫の容疑を決定的にしたのは、靴跡よりも、その、植え込 みの根元で発見された彼の名刺だった。
S署では、未遂事件現場を捜査した直後から森田のマンションの周りを見張っていたところ、当の森田が、事件発生から二日目の朝、ビニール袋に入れ たジョギングシューズをゴミ集積所に捨てに来たのだ。見張っていた安原と大峰という刑事が、森田夫人に夫がその靴を捨てたかどうか確かめたところ夫人はそ れを否定した。そのときの彼女の態度がどうも腑に落ちない。もし、まったく、かかわりがないのであれば、夫人はどうして否定したのか。これは、森田の犯行 の事実を夫人も知り、夫を庇おうとしたのではないか。何と言おうと森田は未遂事件の現場に残された靴跡と一致するジョギングシューズを捨てたのである。 まったく事件に関係がなければその靴をどうして森田が持っていたのか。犯行に何らの関わりがないとはどうしても信じがたかった。
しかし、森田を放火容疑で逮捕するにしても、彼は中央官庁のエリート官僚である。いまだ、三十そこそこにすぎないが、すでに課長補佐である。位で 言えば、S署の署長と同格である。誤逮捕でもしょうものなら、署長の首ぐらいすぐ飛びかねない。慎重に事を運ぶ必要があった。
それに相手は、れっきとした官僚である。すくなくとも、逃げたり、隠れたりするような相手ではない。あの程度の未遂で逮捕に踏み切るのはリスクが あり過ぎる。もうしばらく泳がせて、確実な証拠を手に入れるのだ。ただ、そうは言っても、森田を犯行現場で押さえることはもう事実上できないだろう。、な ぜなら、あの朝、安原、大峰の二人の刑事が訪ねて行ったことは森田を用心させるには十分だからだ。
S署では、物的証拠を手に入れることに精を出すとともに、森田の退庁後の行動を徹底的にマークすることにして、腕利きの刑事を尾行させることにし
た。
森田は、一般に慎重なキャリアの官僚の中でも飛び抜けて慎重な方だった。業者からの誘いなどにやすやすと乗るような男ではなかった。富山市で父親 は、従業員が二百人を越す鉄工所を営んでおり、4LDKもあるグリーンマンションの一室も、5年前森田がまだ独身のとき、結婚を見越して買い与えたもので ある。業者などから奢ってもらう必要がないほど十分な金を毎月送金していた。森田はその金をもっぱらゴルフにつぎ込んでいた。生活費は自分の給料と好子が 実家から貰っている金で十分まかなえた。
しかし、こんな男にも魔が差すときがある。森田の所属する基礎産業課の企業の中に、父親の企業の取引先の企業があり、その社長から、なんとか政府 系の中小企業向けの金融機関から定理の融資を斡旋してくれるように頼み込まれた。森田は、その社長とは田舎にいたときから個人的な面識があった。そこで中 小企業庁にある中小企業国民金庫金融課に根回しをして、中小企業国民金庫に口添えを頼んだところ、十億円近い融資が実現した。
ある日突然森田のところへその社長から電話がかかってきた。いま、東京に来ている。お礼を言いたいから、是非今晩都合をつけてくれと言う。
国会は、たまたま予算委員会が、対米軍事技術輸出問題の紛糾で審議中断になっており、再会の目処が立っていないこともあり、その夜は幸い空いてい た。どうせ田舎の中小企業のおやじのことだ、大した所には連れて行くまいと森田は気軽に応じたが、その夜は赤坂の料亭に始まって、青山、六本木のバー・ キャバレーと一流どころの梯子だった。しかも社長は、どこへ行っても大変な顔だった。それには森田はすっかり驚かされた。かねてやり手とは聞いていたもの の、まだ 四五というこの二代目の社長が並のやり手ではないことが森田には良くわかった。午前一時過ぎまで飲んでハイヤーで送ってもらった。そのうえ、翌日の土曜日 には、ゴルフに行く約束までできていた。
是非ともゴルフをしよう。そのためわざわざ田舎からクラブを持ってきたのだという。森田の腕がシングルクラスなのはおやじさんに聞いて知ってい
る。グロスで挑戦したい。、土曜日まで東京にいるので是非お手合わせ願いたいといってきかないのである。
その日が森田にとってちょうど四週五休の指定の休日に当たっていたこともあって森田はその挑戦に応じた。午前二時近くに帰宅し、翌朝は五時起きのゴル
フ。社長が回してくれたハイヤーでゴルフ場へ行った。
試合はグロスのマッチプレイでやろうということになり、最初のところではほとんど差がつかなかったが、森田が13ホールから連続して2ホールバーディを
取り、最終ホールを迎えるところでは、森田が2アップリードしていた。社長が突然言い出した。
「どうです、森田さん。最終ホールを残して2ダウン、マッチプレイだから、本来ならこれで私の負け。そこで、一つ倍賭けというのはどうです。つまりわたし
がこのホールをとればオールチャラ。あなたは勝っても分けてもチョコレートを倍にするというのは」
森田はそれほど勝ち負けにこだわっていなかったこともあり、ええいいですよ、と気軽に応じた。結果は、二人ともパーで分けだった。
「森田さん、あなたはなかなか勝負強い。大抵のものはものは、あんなことを申し込まれるとびびってしまうものだけど。いや今日はすっかりやられました。結
局チョコレートを四枚とられることになりましたな。これでチョコレートを買って帰って、奥さんにたっぷり味わってもろうてください」
社長は無造作に財布の中から一万円札を四枚抜き取って森田の前に置いた。
この連日の接待の事実が尾行していたS署の刑事に押さえられた。接待した男が社長をしている企業への融資のために森田が省内を奔走していたという 事実も判明した。件の社長も富山県警の調査で、かなりいかがわしい資金運用や脱税紛いの粉飾決算の事実が明らかになった。とくに、使途不明金の額が、この 規模の企業にしては突出していた。
そこで、放火罪はともかく、収賄罪の容疑で一応任意同行を求めて取り調べてはどうかということになった。森田は翌週の火曜日役所を出たところで任
意同行を求められた。
森田は取り調べに対して、例の企業の社長とは富山にいたときからの知り合いであり、融資に絡んでの収賄の事実を全面的に否定した。放火の疑いもあると仄
めかすと、せせら笑いながら、
「えぇ、この私が放火した?何のためにそんなくだらんことをやらなくちゃならんのですか」
ジョギングシューズを突きつけて、この靴に見覚えがあるだろう。新品同様のものをどうして捨てたのだと質しても、それはあの日の朝たまたま下駄箱に入っ
て
いたのを見つけたもので、気味が悪いので捨てたに過ぎない。その事情についてなら、妻が良く知っていると強く言い張った。
取調官は、奥さんはそんなことはまったく知らないと言っていますよ、と言っても、そんなはずはない、もう一度確かめて下さい。その程度の甘い詰め
で私をこんなところに連れてきたんですかと言って少しも動じなかった。
そんな森田の自信満々の態度が取り調べに当たった一人の若い刑事の反感を買った。その刑事がたまたま夜回りに来ていて、森田がS署に入るところを見咎め
たA社の新聞記者に追求され、森田を任意同行したことを漏らしてしまった。その結果、翌朝のA紙の三面に、『中央官庁のエリート官僚を収賄容疑で連行--
-放火の疑いも濃厚』という大見出しが踊ることになった。
森田のエリート官僚としての生命はそれで終わったに等しかった。そんな形で大新聞の三面を飾った人物で厳しい官僚の世界をその後無難に遊泳し栄進 した人物は皆無だった。
警察では、どんな形にせよ、すっぱ抜かれた以上、森田を一日でも早く送検するための証拠固めをやるよりなかった。物的証拠としてかなりのものが 揃ってはいた。放火未遂事件の現場に残っていた靴跡と森田の捨てたジョギングシューズとが一致する上、靴底に付着していた泥と現場の土とが一致すること、 しかも、その付近の植え込みから森田の名刺が発見されたことは、かなり有力な物的証拠たりえたけれど、森田が犯行を全面的に否認している上、動機の裏付け ができなかった。森田がジョギングシューズを捨てた朝の様子については、妻の好子は後で前言を翻してむしろ森田の証言を裏付けるような発言をした。いずれ にせよ、実際の放火と森田とを結びつける何らかのはっきりした証拠を見つけださない限り、起訴のに踏み切るにしては少々手薄の観はいなめなかった。
そこでS署では、まず、放火未遂事件のあった日の森田の行動の裏を取ることと、例のジョギングシューズを森田が購入したという裏付けをとることに 捜査の重点をあてることにした。
その結果明らかになったことは、一連の放火事件の発生した夜、森田はいずれも役所で午前過ぎまで仕事をしており、無線のタクシーで帰宅していた。 無線のタクシーの利用券をチェックし、運転手にも当たってみたところ、森田は決まってグリーンマンションのすぐ前で下車していた。そこから放火現場まで歩 いていくことは時間的にできないことはなかった。
安原刑事はジョギングシューズの購入の裏付けを担当していたが、当初から、森田犯人説に疑問を持っていた。それは、森田夫人を訪ねて行った朝の彼 女とのやりとりがあまりにも間の抜けたものであったことがその一つの理由だった。森田が真犯人なら、しかも放火現場にジョギングシューズを履いて行ったの なら、もう少しジョギングシューズの取り扱いに神経を遣うだろうというものだった。しかも、役所に行くときに持っていく薄いブリーフケースには、ジョギン グシューズをしのばせて持ち運びするわけにはいかないとすると、午前様で、一旦家に帰り、わざわざ、ジョギングシューズに履き替えて放火現場に出掛けると いうふうに考えざるを得ないのであるが、そんなことをすれば、好子がそれに気がつかないはずがなかった。もし知っていたら、あんな無邪気な応対ができるは ずもないし、刑事に訊かれた直後にいそいそとテニスコートに出掛けられるはずもない。
安原はそう思い、上司にその疑問点を何度となく話してみたのだが、放火事件の早期解決を至上命令とする上層部は、森田犯人説に固執し、「とにか く、あのジョギングシューズが現場にあったことは間違いないのだから、その入手ルートを洗え」と、物的証拠固めを繰り返し督促するだけだった。
安原は、ジョギングシューズの入手先を裏付けるため、マンション近辺の靴屋の聞き込みを行ったが、その際にも、森田の写真を見せるとともに、同じ 靴をどういう人物が買いに来たかを確かめることも忘れなかった。捜査をしていくうちに、有力な手がかりがつかめた。例のジョギングシューズは売り出されて 間もない新製品であり、一足七千円もする高級品であるため、メーカーが品質保証書とともに愛用者へのアンケート調査票を添付して販売していることがわかっ たのである。そこでメーカーへ出掛け、回収されたアンケート用紙を一枚一枚チェックさせて貰った。
その中には、森田康夫の名前はなかった。そこで安原は、差出人の住所をチェックし、グリーンマンション付近の購入者を一人一人虱潰しに当たろうと 考えた。ところが、なんとそのカードの中から、森田康夫と同じグリーンマンションに住む吉村武という十九歳の男のカードが見つかったのである。
グリーンマンションの管理人に聞き込み調査をしたところ、吉村は、四国徳島の山林王の次男で、東大受験のために二浪中であることがわかった。マン ションは、吉村が二年前予備校に入学するため上京した折り、父親が買い与えた。高田馬場界隈は、有名な予備校が数多くあるので、名が知れていた。
安原が吉村武の部屋の呼び鈴を押すとニキビ面のまだ幼さの残る陰気そうな男が顔を出した。
安原は、ジョギングシューズの愛用者カードを示して、
「ジョギングシューズについて少々尋ねたいことがあるのですが」
と切り出した。吉村は胡散臭そうに顔をしかめ、
「うるせえな。靴のことぐらいで、いちいち訪ねて来るなよ、まったく。明日は、東大の受験日なんだぜ」
と怒鳴った。
「それは、悪かったな、坊や。でも、教えて貰わんことにゃ、ワシは帰れないんだよ」
ドスの利いた声で言い返しながら、安原は、警察手帳を吉村のニキビ面に突きつけた。相手が高飛車に出れば、こっちも高飛車に出る。これがこの道二十年の
ベテラン刑事が自然と身につけたやり口だった。たちまち吉村の顔が真っ青になり、ニキビだけが、ポツポツと赤く浮き上がった。
「この、履き心地は最高、値段が高いだけのことはあるって、気味が書いたジョギングシューズは一体どこにあるのかね」
「気に入らなくなったので友達にやりました」
吉村は小さなかすれ声で答えた。安原はこの男が放火の真犯人に間違いないという第六勘が閃いた。
「そんな答えじゃ、署まで一緒に来て貰うしかないな」
所管署まで任意同行し、取調室で同僚の警部と少々声を張り上げて追求すると、吉村は放火の事実をあっさり認めた。
「受験勉強でむしゃくしゃしていたのでやりました。やったのは模擬試験の結果の発表があって、こんな点じゃ東大は無理だ多予備校の教師に馬鹿にされ
たようなときです。火事だ火事だとみんなが大騒ぎするのを見ると、なんもかも忘れてすーっとするのです。そうでもしないと眠れないのです」
「どうして、靴底がギザギザのジョギングシューズなんかを履いて放火をしたんだ」
「まさか、あんな靴跡のはっきりつく靴なんか履いてやるほど僕は馬鹿ではありませんよ。ジョギングをしながら、それとなく、現場の下調べをするときには、
使うことはあったけれど」
森田康夫がジョギングシューズをゴミ集積所に捨てた日の前々日に、その靴を履いて、放火しようとしたのではないか、と問いつめたが、自分は一月の中旬以
来やっていない。二月は私大の受験シーズンに当たっており、東大の力試しに何校も受けたので、放火どころではなかった。ジョギングシューズは確か二月の半
ば頃、ジョギングをやって汚してしまったので、ちょっと水洗いしてベランダに干していたところで紛失してしまった。こそ泥でも、自分が食事に出たすきに入
り込み、持ち去ったものかと思ったが、それにしては他に盗まれたものが何もないので、野良猫でもくわえて行ったのかと思っていた。森田康夫という人の家の
下駄箱で発見されたということだが、一面識もない人の下駄箱にわざわざ突っ込むはずもない。所帯者用のA棟にはこれまで足を踏み入れたこともない。どうし
てそんなことになったのかまったく思い当たらない。という。取り調べが終わると悄然として、
「明日の東大の入試は受けさせて貰えないでしょうか」
放火犯人であることより、そっちのほうがよほど気になると言った風に尋ねた。
「馬鹿も休み休み言え」
安原が一喝すると、突然声を上げて泣き出した。
「徳島の両親には、今度のことを報せないで下さい」
と嘆願し、署員の失笑を買った。
真犯人は、見つかったというものの、捜査のきっかけになったジョギングシューズが一体どうやって森田康夫の家の下駄箱に紛れ込んだのか。それに吉 村武が放火していない日に、放火の真似事のような灯油を染み込ませた新聞紙の燃えさしが発見され、その近くのつつじの生け垣にどうして森田康夫の名刺が落 ちていたのか。安原にもその謎が解けなかった。安原はどうもすっきりしないものを感じていた。
真犯人が逮捕されたということで、森田は釈放するうことになった。収賄に関する容疑は初犯ということでもあり、厳重注意で済ませることになった。
しかし、森田が提出していた辞表はすでにもうT省であっさり受理されていた。
湯原文子は、若い頃、キャリアの事務官である外山という男とかなり深い仲になったことがある。外山は湯原文子の下宿に出入りし、肉体関係を一年ほ
ど続けた。ある日、別れしなに文子は、こんな関係をズルズル続けるのは嫌だから、早くちゃんと結婚して欲しいと切り出した。外山は言下に、
「悪いけど、僕にもいろいろ事情があって、君とは結婚できないんだよ。田舎にいいなずけがいて、両親が早くその娘と結婚しろと、この頃やけにうるさく言っ
て来てね。ちょっと、待って欲しいということにしてあるんだけど、まさか、いまさら、乗り換えましたとも言えない情況なんだ。それに、今度のことは君の方
でも、遊びじゃなかったの。省内じゃ、君に遊んで貰ったって人は案外多いって噂だよ」
文子は、外山と間違いなく結婚できると信じていた。自分の美貌と社交的能力が、外山の心を捕らえたものと自信を持ち、肉体も許したのだ。その自信
が脆くも崩れた。
その後、文子は、裏切られた外山に当てつけるためにも、外山も一目置くようなエリート官僚と結婚してみせようと、次々と男に接近した。しかし、どれも結
局は実らなかった。外山と深い仲になったが、ふられたとの噂も省内には広まっている様子だった。
それでも文子に接近してくるノンキャリアの男や中級職の男はいたが、妥協してそういう男と結婚する気に彼女はなれなかった。焦燥するうちに歳月だ
けが流れ、彼女の美貌も、かつての輝きを失っていった。彼女の胸の内に、外山をはじめとする、エリート官僚全体への憎しみが巣くっていった。局長秘書とし
ての立場を利用して、事あるごとに、彼女を裏切ったエリート官僚に対してダメージを与えることに力を注いだ。
時々、局長の伝言を少しねじ曲げて伝えた。すぐ来るようにと言うのであれば、十分後に来るように。局長が部屋に戻られたらすぐ連絡して欲しい、至急ほう
こくしたいことがあると、課長から頼まれても、時にはすっぽかした。局長が言いもしないことを、まことしやかに、
「あら、局長が○○さんのことを、このところ少し手を抜いているんじゃないかっておっしゃっていましたわ。いつも、自分への報告が半歩遅れるって」
そんなちょっとしたやり口で彼女はエリート官僚に対する上司の評価を下げることに努め、溜飲を下げた。しかし、当の外山は順調に出世コースを歩んでい
た。
湯原文子が森田好子と知り合ったのは、好子が二年前高田馬場ローンテニスクラブに入会して間もない頃だった。日曜日湯原文子がリーダー格でやって いるグループに好子が入ってきたのだ。彼女を見たとき、新婚ホヤホヤの初々しさに、彼女はまず、女としての嫉妬を覚えた。いかにも両家の子女らしくおっと りしており、年齢のかなり違う文子に対しても、少しも臆するところがなかった。グループに誘った女性が、わたしの大学の後輩なの、と名門の女子大の名前を 挙げて紹介するのを、文子は、家が貧しく、高卒後、すぐ独立して働かざるを得なかった我が身に引き比べ、心の中で唇を噛みしめながら、聞いた。
同じマンションの住人であることがわかって、土、日には誘い合ってコートに出掛けるようになった。コートまで歩いても十分ほどだったが、テニスウ エアに着替えて往復できると言うことで、好子の嫁入り道具という西独製のゴルフという車に便乗させて貰った。しばらくして、好子の夫がT省のキャリアの官 僚であることを知り、嫉妬の炎を更に燃え上がらせた。
しかし、そんな気配をおくびにも出さず、自分も中央官庁に勤めているので良く知っているけどと前置きして、若きエリート官僚の妻の座がいかに恵ま れているかについてとくとくと説明した。一般職員が課長補佐になるのに二十年かかるのに、キャリアの場合たったの五、六年しかかからないし、間違っても部 長クラスまではなれる。役所を退職してからも、しかるべきポストに天下りできるなどと、好子の虚栄心をくすぐるようなことを並べ立て、好子の歓心を買っ た。好子は好子でそんな話が好きなようで飽きもせず聞いた。
こうして二人はすっかり仲良くなり森田がゴルフで不在の日曜日など、テニスの帰りに、好子の部屋に上がり込んで話し合うほどになった。
「こんなに若くて、4LDKもあるこんな素敵なマンションに住み、ご主人は東大法学部出のエリート官僚。あなたは美人でテニスもお上手。好子さん、あなた
は恵まれすぎているわよ、本当に」
「あら、わたし、恵まれすぎていて怖いみたいとでも言えばいいのかしら」
好子は、屈託なく笑った。
その笑顔を見た文子は身体が震えるほどの激しい嫉妬心にかられ、ちょっとしたいたずらを思いついたのだ。
森田が釈放された数日後、湯原文子は、大きな菓子折を持って、お見舞いかたがたと言いながら、好子を訪ねた。
「本当に好子さん、大変だったわね。私心から同情しているのよ。あなたがこの頃すっかりコートにお見えにならないので、みんな心配しているわ。あんまり考
えすぎると身体に毒だわよ。たまにはコートに出て、思い切りラケットを振り回したほうがいいんじゃない。家の中ばかりに閉じこもっていたらそれこそ神経が
まいっちゃうわよ」
好子は、人が変わったように生気を失い、かつての若きエリート官僚夫人の面影はすっかり影を潜め、目の周りには浅黒いくまができていた。康夫が不
在だったので、上がり込んでいろいろ慰めごとを言った。最初は黙って聞いていた好子も文子に慰められているうちに、次第に涙ぐんで来、とうそう最後には、
「もう、わたしたちはお終いなの」
文子の腕の中に泣き崩れた。好子が泣きじゃくりながら話すには、夫の康夫は釈放後毎朝どこへ行くとも言わず出掛けてしまい、夜遅くぐでんぐでんに酔っぱ
らって帰ってくる。夫がエリート官僚と思えばこそ、帰宅がどんなに遅くても、日曜日にゴルフに出掛けても我慢してきたけれど、考えてみれば結婚以来わたし
はいつも一人ぽつんと放り出されていた。共通の話題もない。それほど夫はわたしを愛していなかったのかも知れない。
今度のことだって、夫はわたしに対して、何にも話してくれないし、相談もしてくれない。わたしが、今後のことを相談しようとすると、うるさい、俺 は疲れている、俺に愛想が尽きたのなら、いつでも出ていってくれと、相手にもしてくれない。こんなことでは、わたしの夫に対する愛も冷めてしまいそうだ、 と言うのである。
文子は、まだあなたたちは若いんだから早まってはいけない。二人でじっくり話し合えば、また、以前通りの幸せな夫婦仲が取り戻せるわよ、と精一杯 励ましてやり、これからも時々元気付けに立ち寄るからと言って、辞意を告げた。
玄関で、別れの挨拶をしながら文子は、ちらっと傍らの下駄箱を盗み見た。
文子があの日、テニスのバッグに隠して持って来たジョギングシューズを、こっそり忍び込ませた下駄箱が、何事もなかったように飴色に光っていた。
文子は、深夜トイレの窓から怪しい人影を見た日以来、下の階の男の動静に細心の気を配り、その後一月中旬に起きた放火も吉村という二浪中の男の仕 業に違いないという確証を得た。二月の下旬のある日、文子は、自分の部屋のすぐ下の部屋のベランダにジョギングシューズが干されているのを見つけた。文子 は物干し竿の先に針金を結わえ付け、それをつり上げ、その日の夜半、とある木造家屋の風呂場付近に土地がむきだしていることを確かめた上で、その靴を履い てくっきりと跡をつけ、新聞で仕入れた放火犯人のやり方に合わせて、あらかじめ用意して置いた灯油の染みた燃えさしの新聞紙をそこに置き、近くのつつじの 茂みの所に、以前好子にせびって貰った森田康夫の名刺を落としたうえで、翌日テニスの後で、好子の家に立ち寄り、好子に気付かれないようにこっそり、その ジョギングシューズを下駄箱に忍び込ませたのだった。
「ちょっといたずらがきつかったかしら」
湯原文子は、森田家のドアを閉めながら、ぺろりと舌を出した。
文子は、祝杯を上げたいような気分で、B棟にある自分の部屋に戻って来た。ドアの鍵を開け、中に入ろうとしたとき、
「ちょっと失礼」
背後から、低い男の声がした。驚いて振り返ると、思いもかけないほど近くに、いつの間にか、茶のジャンバーを着た長身の男が立っていた。ちょっと雰囲気
の良くない男だった。メガネの奥から光る両の目で、文子の身体をなめ回すように見ていた。
「湯原文子さんですね」
「ええ・・・」
「今、確かA棟の森田さんの部屋から出てきましたね。森田さんとはお知り合いのようですな」
一瞬文子は、あなたは一体どなたですか、何でそんなことを訊くのですか、と聞き返したい気持ちに駆られたが、男の声にはそれを許さないすごみがあった。
「ええ・・」
ためらいがちに文子は頷いた。
「あんたは、吉村武という男もご存じのようですな。なにせ、ちょうどあなたの部屋の真下の部屋に住んでいる男ですからな。つい最近、放火犯というこ とで逮捕されましたよね」
文子は、はっとして、思わず目を大きく見開き、男の顔を見た。男の顔にはうっすらと笑みが走ったように、文子には思えた。
「いろいろと面白い話を聞かせて貰えそうですな。こんな玄関先で立ち話ってのもなんだから、ちょっとお邪魔させて貰って、美味しいお茶でもご一緒し ながらってのはどうです。思ってたより、あんたはべっぴんさんですな」
男は、もう一度丁寧に文子の身体をなめ回すように目をやると、上がり口に立ちすくんでいる文子の脇をするりと通り抜け、ずかずかと奥へ上がり込ん だ。その男の背中が、視界一杯にずんずんと拡がっていくのを、文子は背後から、呆然と見ていた。
(完)