遺 書は風に散った | 情事のたしなみ|遺書をしたためる間に|ジョギングシューズ|浮気の報酬|二重の環|



『情 事のたし なみ』(1998/10/15~12/4連載)

こ の『情事のたしなみ』も1972年「小説サンデー毎日」(毎日新聞社)の
第 3回新人賞[推理小説部門]で最終候補作5篇に残った作品です。

ご感想を下記までお送り下さい。
<kiichiro@akybe.net>

情事のたしなみ目次

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第 3回サンデー毎日新人 賞選 後評

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         情事のたしなみ



 


1

 なるほどこれは奇妙な事件だった。
 一人の女性が変死した。青酸カリによる中毒死である。これはまぎれもない事実である。

死因が青酸カリときいたとき、私はてっきり殺人事件と思った。このところ青酸カリで自殺するケースにはめったにお 目にかからない。

 ところが、今のところ自殺とも他殺とも断定しがたいのである。

 自殺と断ずるには証拠があまりに薄弱だった。何ひとつ不自由しない裕福な家庭の夫人が、突然、自宅のベッドのう えで自殺しなければならない理由がどこにあろう。それに女子大を出たほどインテリ女性が、遺書を残ししもしないで自殺するなんてこことは、まず考えられな いことだ。女というものは、本来、未練がましく、かつ、あてつけがましいものである。インテリになれぱなるほど、その傾向はさらに強くなる。自殺という行 為の裏には、自分の責任を他人になすりつけたいという衝動が秘められている。死ぬと決まれぱ、あてつけがましい遺書のひとつも残すものなのだ。「あなたた ちが、生前私にどんな仕打ちをしてくれたか見せてやるわ!」そうやって、これまでのうらみを一気に晴らそうとするものなのだ。

 ところで、それでは他殺かというと、そうともいいきれない。一応容疑者はいるにはいる。しかし、彼がどうして殺 人を犯さなけれぱならなかったか、確たる動機がない。容疑者も自分h絶対に無実であると主張している。

 一体、起訴したものだろうか、私は大いに迷っているわけである。

 同僚の宮田検事から、本件を起訴すべきかどうかという相談を受けたのは、昨日の午後のことである。

 宮田検事とは担当が違うから、これまでこの種の相談を持ち掛けられたことはほとんどない。ただつい最近「神の山 殺人事件」の公判で、たまたま一緒に仕事をし、個人的にもかなり親しくなった。それで相談をもちかけてみる気になったのだろう。敏腕でなる彼が、そこまで 私を買ってくれたかと思うと私も悪い気がしなかった。

 しかし、この事件については、私は新聞情報程度の知識しかもちあわせていなかった。事件の詳細を知らずに、軽々 のことをいうのは慎まねばならない。そこで、宮田君から、本事件に関する書類一式を貸してもらい、昨夜一晩がかりで、捜査報告書、検視調書、死体解剖の鑑 定書、被疑者供述調書等の書類を読んでみたというわけである。

 読んでみて、宮田君が本件を評してして<奇妙な事件>と云った意味がよくのみこめた。宮田君ならずとも奇妙な事 件と云いたくなるだろう。

 昨夜、私が鞄を書類でふくらませて帰宅すると、それを横目で見ながら妻の良子が、

「あなたまたお仕事?」
と不服そうな声で云った。
「同僚の宮田君に相談をもちかけられてね。少し急ぐ仕事なんだ。お前も知っているだろう。例のT大助教授夫人変死事件 だ」
 私は自分の口調がいくぶん弁解がましくなっているのを意識していた。ところが、良子は、途端に目を輝かせ、
「私、週刊誌で読んだわ。なんだか奇妙な事件らしいわね」
と身を乗り出してきた。

 私は週刊誌は嫌いなたちだが、妻は好きなほうである。もっとも自分買って読むほど好きではないようだ。「このご ろの週刊誌は、新聞の広告でタイトルさえ見れぱ、大体の内容の見当がつくわ」
 妻は、いつもそう云っている。この事件については、つい先日美容院に行ったとき、髪をセットしながら読んだので、事件 の概要は知りている。とても興味をそそられた、と云うのである。

 そんなわけで、夕食を終ると妻も一緒になって事件の記録を読むことになった。妻とは、このところ仕事が忙しく て、十日ほども、ベッドを共にしていない。妻が、私のふくらんだ鞄を見て、不服がましいことを云ったの
そのあたりに原因がある。そのことは私にも良くわかる。といって、今夜のうちにこのじけんの記録に一通り目を通しておい て、翌朝、宮田君に私の意見を云ってやりたい気持ちのほうもおさえがたい。その点、妻がこの事件に興味をもって、一緒に調書を読んでみたいと云いだのは好 都合だった。

 妻とは、これまでにも何度か一緒に調書を続んだことがある。結婚して五年にもなるが子供のない妻にとっては、こ ういうことも、結構、いい退屈しのぎになるらしい。

 子供ができないのは、私にも責任の一端がある。

 結婚して最初の二年間は、二人だけの生活を楽しもうということで、避妊をした。避妊するために、いろんな方法を もちいた。少くとも五、六種類はもちいたように思う。私はコンドームはあまり好きではない。そこで、経験の浅い妻に、ペッサリー、リング、ゼリー発泡剤、 経口避妊薬などいろんなものをもちいさせた。ところが皮肉なことには、避妊を止めても、一向に子供ができないというわけだった。ひょっとすると、私が妻に あまりにいろんな避妊法をもちいさせたのが原因なのかもしれない。そう思って私は責任を感じているわけである。

 話が少し横道にそれてしまったが、そういう家庭事情も手伝って一緒に事件の調書を読んだりしているうちに、妻も 近ごろでは調書の読み方にもなれて、結構いいアドバイスをしてくれるようになった。時として、私の思いも及ぱないような発見をしたりする。とくに、女性の 心理や生理に関しては、こちらがなるほどと思われることがしばしばある。つい先だって公判の終わった「神の山殺人事件」でも良子が、

「たとえバーのホステスでも、女性である以上、夕暮れどきに、初対面の男の人と、そんなさぴしい空地へなど入って いくかしら」

と云ったことにヒントを得て、真犯人の究明に成功したばかりだった。

 ところで、このT大助教授夫人変死事件の記録を読んでいくうちに、私はもとより、良子の方もすっかり夢中になっ てしまった。私はことによったら、十二時前にベッドに入り、久し振りに妻を抱いてやってもいいと考えていたのだが、私のかたわらで一生懸命調書を続んでい る妻の横顔を見ると、私がたとえ誘ったとしても、今波度は逆にこっちの方が断わられそうな雲行だった。

 私たちが一通り調書を読み終わったのは、午前三時近かった。だから昨夜は、妻とはキスだけで眠りについた。

 ところで、いま私は、地方検察庁の私のデスクのうえに、例の調書一式を広げて考え込んでいるというわけである。

 もうそろそろ宮田検事が、例によって愛用のマドロスパイブを口にくわえ、

「吉野検事、君の意見はどうですか」

とでも云いながらやつてくるころである。ところが私はまだ迷っている。起訴すぺきか、起訴せざるぺきか、それが、 まったく問題というわけだった。

 事件のあらましはこうである。
 東京の目白台と云えば、高級住宅の立ち並ぷところである。都心に近いけれどきわめて閑静で夜になるとばったり人通りが 絶える。こういう高級住宅街では、血なまぐさい事件が起ようなことはめったにない。人目をしのんでそぞろ歩いているアベックが、行きずりのチンピラに、お どされる程度の事件が年間数件ある程度である。

 ところが昨年の十一月二十五日の朝、この目白台一帯を管轄しているM署に若い男の声で
「豊島区目白町二丁目三十番地に住む神
島譲の身内の者ですが、神島の妻怜子が、ベッドのうえで死んでいるのを発見したのですぐ来てほしい」

という電話があった。電話に出た山野という若い巡査が相手の名前を確かめると、
「安岡好雄と申します。神島譲の甥に当る者です」
と名のった。

 そこで山野巡査は、その安岡と名のる男に現場を保存するように頼み、上司の水上警部や、鑑識係、検屍のための警 察医ら数名とともに、ただちに現場に急行した。

 神島邸は、目白台でも、もっとも閑静な一角にあった。松や欅の繁った広い庭を前にしゃれた洋風の二階屋が立って いた。茶の材木地に白のコンクリート地を生かしたツゥトーンカラーの斬新なデザインひとつにも、かなり贅をこらしているのがうかがわれるような造りだっ た。

 玄関口に迎えに出た安岡好雄に案内されて捜査陣が通されたのは、二階の一番奥にある神島怜子の寝室だった。部屋 にはキツネ色の厚いじゅうたんが敷かれ、中央純白の豪華なベッドが置いてあった。そのうえに神島怜子の死体が横たわっていた。死顔にほとんど苦痛の跡がな かった。文字通り眠っているような顔つきだった。ごく自然な姿で毛布を胸元まで掛けており、ベッドのすぐ近くまで行っても眠っているようにしか見えなかっ た。もっとも顔色はすでに変色していた。すっかり青ざめて血の気が失せていた。生きておれば、年のころ二十七、八、色白のふっくらした感じの美人だったこ とだろう。裕福な家庭の若夫人、そんな感じだった。顔つきが、彼女の境涯をそのまま物語っていた。
 
 

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(1998/10/21)
2

 捜査陣は、早速、安岡好雄から事情をきいた。このときの安岡の話によるとこうである。

 彼は、神島譲の甥に当たる。彼の母の一番下の弟が神島譲ということで、神島譲は安岡の叔父に当るわけである。し たがってその妻の怜子は、彼にとっては義理の叔母である。

 安岡は、四年前に九州の田舎のs市から上京してきた。w大の法科へ入学するためである。彼はw大の近くに下宿し た。W大は、目白台の目と鼻の先だ。
 東京における唯一人の血のつながった親類ということで、安岡はしばしば出入りするようになった。夕食をごちそうしても らったり、汚れた下着類をボストンバッグ一杯詰め込んで来ては、叔母に洗濯してもらったりしていたという。

 ところで事件のあった朝、彼は、下宿の布団の中で眠り込んでいるところを、アパートの管理人にたたき起こされ た。札幌から遠距離電話ということで、彼はあわてて電話口まで飛んで行った。叔父の神島からの電話だった。
「まだ、寝てたんだろう。朝早く起こして悪かったな。学会があって一昨日から札幌に来ている。自宅に電話したんだが、玲 子が出ないんだ。別に実家に帰るという話もきいていないし、好雄、何かきいてないかい」
「別に何にもきいていませんが・・・」
「いったいどうしたんだろうな。実は、怜子に電話したのは、学会で発表するレポートの一部をうつかり忘れてきたので至急 FAXで送ってもらおうと思ったからなんだ。ほんとうに遣い立てして悪いが、俺の家まで行って、もし怜子が出かけているようだったら、そのレポートを至急 FAXしてくれないか。今すぐ送ってくれれぱ、講演は、今日の午後だから間に合う。玄関の鍵は、外で失くしときの用意に、門灯の脇のちょっとへこんだとこ ろに隠してある。よく探せばわかるはずだ。レポートは、一階の俺の右の一番上の引き出しに入れてある。見つからないようだったら、電話してくれ、九時まで なら、札幌国際ホテルの303号室にいる。電話番号は、011-731-076…だ。FAxの番号は・・・。それに家の中に何か変わった様子がないかよく 確かめておいてくれ。
 それが朝8時のことである。9時までホテルにいるということだったので、安岡はそのとき時刻を確めたというのである。
 安岡のアパートから神島の屋敷まで、男の足で12、3分程度しかない。

 安岡は、叔父に頼まれたので早速神島の屋敷にやってきた。ブザーを幾度か押してみたが人の気配がない。そこで、 門灯の脇から鍵を探し出して屋敷に入った。屋敷はシーンと静まりかえっている。叔母はおそらく外出しているのだろう思い、一階にある叔父の書斎に行き、レ ポートを捜した。叔父のいうとおり、机の右の一番上の引出しにあった。FAXで送るため、居間に行き、電話と兼用となっているFAXの番号を回し始めた が、叔父に家の中の様子をよく確めておいてくれと云われたのを思い出し、その前に、念のため各部屋をのぞいてみた。

 階下には何の異常もなかった。
 二階には三部屋あり、階段に近いところから応接室、叔父の寝室、叔母の寝室になっている。

 叔母の寝室をのぞいて見て安岡は驚いた。叔母がベッドのうえに寝ていたからである。あわててドアを閉め、玄関口 に戻りブザーを押し直した。鍵のかかった家の中で、突然声を掛けたり物音をたてたりすると、叔母が仰天するに違いないと思ったからだ。ところが、何度ブ ザーを押しても返事がない。これは少しおかしいと思い、玄関のドアをドンドンたたいてもみた。

 それでも返事がない。仕方がないので、玄関に上がり込んで、玄関先の電話で叔母の部屋に直接電話をかけた。各部 屋に電話がつながるようになっているのだ。

 ところがいくらベルを鳴らしても叔母は電話口に出ないのである。

<もしや・・・>
不吉な予感が安岡の胸をよぎった。
<睡眠薬でも飲みすぎたのかもしれない>
安岡は、あわてて、叔母の寝室に飛び込んでいった。

 しかし、もうそのときには、叔母は完全にこと切れて冷たくなっていた。

 安岡は驚いた。我が目が信じられなかった。

取るものも取りあえず、安岡は札幌にいる叔父へ電話した。011-731-076・・・
ダイヤルを回しながら、安岡は全身が、ガタガタ震えるのをおさえることができなかった。
 
 神島譲にとっても、それは晴天の霹靂だった。
神島はそんなことが・・・と絶句した。しかし、さすがに学者らしくすぐに冷静さを取り戻すと、安岡に対して、

「現場保存のうえ、すぐ警察に連絡してくれないか」
と頼んだ。
「俺は、できるだけ早い飛行便を見付けて東京へ帰る。それまで怜子をそのままにしておいてくれ。俺が帰るまで、悪いけれ ど、警察などへの応接は、良雄君、代わりに頼んだよ」

 安岡は、叔父に云われた通り、直ちにち警察に連絡したというのである。警察が通報を受けたのが九時少し過ぎであ る。時間的には、大体合っている。

 詳しくは解剖の結果を待つ必要があるが、死体の様子から推して、これは青酸カリなどの毒物による中毒死らしい、 しかも、死顔にあまり苦しんだ跡がないところからみて、おそらく眠っているうちに薬がきいてき、そのまま死亡したのではないかと警察医が推定した。

 死体を解剖に回すにしても、夫の神島譲が帰宅してからやるのが人情というものであろう。ということで、捜査陣 は、とりあえず死因と見られる毒物の捜索を開始した。ところがそれらしきものは発見されなかった。

 毒物ということで屋敷内の薬らしきものは一応すべて押収し、鑑識に回したけれど、いずれもただの風邪薬であり、 胃腸薬にすぎなかった。ただ、若干注目を引いたのは、譲の書斎の机の引出しに封を切ったばかりの新しいカプセルタイプの風邪薬のビンが入っていたことぐら いである。まだ、ほとんど使っていないと見えて、ビンの人口には、セロファン紙を細かく切ったものがいっぱい詰まっていた。これも鑑識に回して分析してみ たが、D社製の市販の風邪薬となんら変わりなかった。

 怜子が毒薬をのんだと思われる二階の洗面所のコップにも、毒物の痕跡はなかった。

安岡の話と死体の様子から推して、自殺の線が一番濃いと考え、捜査陣は、遺書らしきものを捜索したがそれらしきも のは見当たらなかっら。玄関を別とすれば、人が出入りした形跡も皆無である。屋敷内を物色した跡もなかった。

 捜査陣は煙につつまれてしまった。
 とにかく、裕福な家庭の人妻が、ある朝自宅のベッドの」うえで死体となって発見された。死因は、毒物による中毒死とみ られる。ところが死顔は仏のように静かである。どうも無理矢理毒物をのまされたとも思われない。それでは自殺かというと遺書らしきものがなにも残されてい ない。これでは自殺と決めつけるけるわけにもいかない。自殺でないとすると怜子が間違って毒物をのんあという線が考えられる。ところが屋敷の中をさがし 回っても毒物らしきものはどこにも見つからなかった。応接室のホームバーに並んだ酒類や、冷蔵庫の中の水筒の水まで調べたが、何の異常もなかった。

 夫の神島譲が北海道から空路自宅へ戻ったのは、その日の午後2時半近かった。妻の怜子が死んだという知らせを受 け、可能ななかぎり早い飛行便で帰ってきたというわけだった。警察は羽田空港まで、パトカーをさしむけサイレンを鳴らしながら現場へ急行させた。

 神島は変わりはてた妻の顔を見ると、さすがに激情おさえがたいものがあるとみえて、ぺッドのそばに坐り込み、妻 の手を取るなり、

「怜子・・・」
と肩を震わせた。その怜悧な横顔が苦痛にゆがむのを、捜査陣は背後から見ていた。

しかし、しばらくして捜査陣のほうへ向き直ったときには、神島はもうT大助教授らしい威厳を取り戻してい。黒縁の 角張った眼鏡の奥から、如何にも切れ者の新進学者然としたするどい視線を光らせていた。

 神島は、T大理学部では最年少の助教授の一人であるが、分子生物学という学問の領域ではすでに国際的な業績を挙 げている。生物の遺伝の仕組は長い間まったく謎につつまれていたが、DNA(デオキシリボ核酸)がその担い手であることが発見されて以来、この分野の研究 は急速に進んだ。神島は、弱冠29歳のときイギリスの学会誌にDNAの構造及びその生成に関する大胆な KAMISHIMA理論を発表し、一躍国際的に名を知られるようになった。分子生物学は、複雑な生命現象を分子間の相互作用として理解しようとするところ に特色があり、近年とくに著しく発展した学問領域であるが、神島はその後も着々と業績を挙げ、この分野においてはすでに日本を代表する学者の一人に数えら れている。

神島が捜査陣の方へ向き直ったときに見せた物腰には、そうした権威を持つ物のみにみられる貫祿と余裕がにじみでて いた。

 神島は、警察の尋問に対して、妻が自殺しなければならないような原因はまったく思い当たらない、さればといって 殺されなければならない理由などおよそ考えられないと答えている。
 とにかく、死因がはっきりしない以上、捜査陣としては動きようがなかった。そこで、夫の神島譲の形式的な了解を得て、 死体を解剖のためにK大付属病院に送った。

 捜査陣の中には、有閑夫人の気まぐれ自殺にすぎんとまで極言する者がいたが、解剖の結果、捜査陣はにわかに色め きたった。意外な事実が判明したのである。

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(1998/10/23)

3

 死因はやはり青酸カリによる中毒死だった。ところが膣部に精液が残っていた。性的交渉後シャワーを浴びたものと みえて完全な状態ではなかったが、死亡直前に性的交渉があったことが認められた。ネグリジェにも精液の斑点があり、それはシーツに付着している精液と同じ AB型であった。死亡時刻は、11月25日の午前零時から午前2時の間と推定された。身体に何らの擦過傷がないところから、その交渉が暴力によって行われ たものではないことは明かだった。胃の中の状況から前夜アルコールを飲んでいたことも判明した。そして、咽喉部や食道上部に青酸カリの反応が認めれれない ことから、青酸カリをカプセルのようなものに入れて嚥下したものであることが判明した。
 
 

 この時点で、他殺説が、完全に自殺説にとってかわった。だれもが考えたのは、前夜、怜子と性的交渉をもった男 が、怜子を殺害したのではないかということだった。たとえ殺害しなかったとしても、怜子が死体で発見された事情を、その男が一番よく知っているに違いない ということであった。

 そこで、まず怜子の男性関係が調べられることになった。とにかく捜査の出発点として神島譲の血液型を調べてみる とA型だった。したがってAB型の男は、夫以外の男性であることが判明した。

 もっとも、神島譲には完全なアリバイがあった。怜子が性的交渉をもったと思われる前夜七時から十二時の間には、 札幌市内の「北斗」という料亭で、学会に参加した各大学の教授連と大いに歓談しており、怜子と性的交渉を持ちうるような立場にはなかったことは、その前に わかっていたことであった。事件の起こった日の二日前JALB747-507便で千歳空港に着いてから、事件が発覚した日、千歳春747508便で同空港 を発つまでの間、神島譲が北海道から一歩も外に出なかったことは、北海道警察の綿密な裏付け捜査ではっきりしている。

 とにかく、現場には、その男の手がかりになるようなものは何ひとつ残されていなかった。現場から発見された指紋 は、神島夫妻のものと安岡好雄のものばかりだった。安岡のものは、叔母を揺り起そうとしたときつけた程度のものであった。

 警察では捜査本部を設け、近所の聞き込み全力を上げたが、夜に入ると人通りのバツタリ絶えるような住宅地でもあ り、有力な手がかりはつかめなかった。
 そこで、警察本部は、夫の譲に、怜子に男関係があったのを気付いていなかったかとただした。
 神島は、私は怜子を心から愛していましたし、妻に男性関係があったなど全く思いも及ばなかったと答えた。捜査陣は、 AB型の精液が、あなたの奥さんの体内に残っていたのですよ、そのAB型の男があなたの奥さんを殺したのかもしれないのですよ、なにか思い当たることはあ りませんか、さらに追求した。
 

 神島は、同じ答えを繰り返すばかりだったが、捜査陣が、ちょっと気になった程度のことでもいいですから、なにか 普段とは違うなと思ったようなことはないですか、となおも追い縋ると、口元に自嘲めいた笑いを浮かべながら、まあ、はっきりしたことはわからないけれど、 ちょっと変に思ったことならないわけではないと口を割った。
 

 神島の話によると、半年ぐらい前から、大学から電話しても、以前より留守のことが多いような気がしていた。服装 の趣味もすこし変わってきて、日常の会話の内容にも、なんとなく、自分以外の誰かの影響を受けているようなところが、ごく一部だが感じられるようになっ た。夜の生活も、自分のほうから誘っても、まったく応じてこなくなった。

 そこで、お恥ずかしい話だが、つい二月ほどまえ、帝産探偵事務所に妻の素行調査を頼んだばかりである。まだ、報 告は一度も受けていないけれど、ひょっとするとその事務所で何か役に立つ情報を掴んでいるかもしれないというのである。
 

 この神島の話から浮かんできたのが、意外にも、彼の大学の同僚である三村雄三助教授だった。

 帝産探偵事務所では、神島怜子と三村雄三とが、八王子の市内ないある”エドワード”というモーテルから連れ添っ て出てくるところの写真まで手に入れていた。三村の血液型を確かめるとこれがAB型だった。

 同夜、怜子の部屋にいたのは、三村にまず間違いないということで、捜査本部は、三村助教授に任意出頭を求めた。 ところが、三村には、鉄壁のアリバイがあったのである。というのは、前日の午後四時過ぎ、目白台に近い高田馬場駅の近くの四つ角で、三村の運転していた小 型乗用車とタクシーが接触事故を起したため、三村は左足の関節を脱臼し、新宿の春日外科病院にかつぎ込まれ、同夜は、そこで治療を受けていたのである。同 病院の医者や、付き添って看護した三村の妹の克子が、本人はその夜歩けるような状態になかったと証言した。

 そこで捜査は、また振り出しに戻った。
 するとそこで有力な目撃者が現れたのであある。
 目白台の近くにある牛乳屋の店員が、事件の発生した日の朝六時半頃、牛乳を配達に行く途中で、神島家の方から急ぎ足で やってくる学生風の若い男とすれ違った。神島家から出てきたかどうかは断言できないが、神島家のほうからやってきとことに間違いない。その男は、なんとな く落着きがなく、人目をさけるような素振りがあったので、記憶に残っている。面通しをすれば、本人を確認できると思うということだった。
 

 若い学生風の男という証言で、捜査陣が、まず思い浮かべたのが安岡好雄だった。
 そこで数枚の写真の中に安岡好雄の写真をまぜて牛乳屋の店員に示したところ、店員は安岡の写真を指差して、自分があの 朝、神島家の近くで見た男は、この男にまちがいありませんと断言した。

 安岡が、神島譲の実の甥に当たるということと、事件の第一通報者であるということで、捜査陣にも若干手落ちが あった。まさか甥と叔母が(仮にも義理の叔母とはいえ)肉体関係をもつはずがないという暗黙の前提で捜査を勧めてきたというわけだった。安岡は、事件の通 報者であるばかりでなく、当日の朝、下宿で神島譲の電話を受けたという証言も偽りはなかった(これは、アパートの管理人が、裏付けている)。あの朝、六時 半頃神島家の近くにいたというだけで、安岡を犯人と決めつけるわけにもいかなかった。そこで捜査員の一人は、W大に保管してある安岡の健康診断カルテから 安岡の血液型がAB型であることを確かめてきた。神島怜子の膣部から発見された精液と同じ型だった。
 これで、安岡好雄に対する容疑が一段と濃くなった。

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4
 

 捜査本部では、安岡好雄に任意出頭を求め、事件前夜から、神島譲の電話を受けるまでの間の説明を求めた。
 ところが、意外にあっさり安岡好雄は、同夜、神島家に泊まったことを認めたのである。おそらく、覚悟を決めていたので あろう。

 そのときの安岡の話はこうである。
 彼は、前日の午後五時頃、神島家に遊びに行った。いつも、五時頃ひょろりと遊びに行っては、夕飯をごちそうになって 帰ってくる。あの日もそのつもりだった。ところが、叔父は二日前から学会で札幌にでかけて留守だということだったので、玄関口で遠慮しようかと思った。叔 母と甥とは言いながら怜子が28歳、好雄が21歳である。二人切りで夕食を食べるなどということは、これまで一度もなかったし、二人きりで屋敷にいること はあったにしても、それまでは早晩叔父が帰宅するという制約があった。叔父の留守宅に若い叔母と二人切りでいるというのは何といっても面はゆかった。

 ところが、叔母は、かまわないわよ、さあ上がんなさいと、好雄を室内に導き入れた。叔母はなんとなく普段よりは なやかな化粧をしており、服装も外出着だった。
「どこかへ出かけるところじゃなかったんですか」
好雄が遠慮がちに声をかけると
「うーん、違うの」
叔母は、なんとなく力なげに答えた。何かを案じているようだったが、しばらくしてから、

「今日は、夕食の用意をしていないの。好雄さん、今から、美味しいのを食べに行かない?いいところがあるのよ」
と好雄をさそった。安岡は、家の中に二人切りでいるより、外出したほうが気分的に楽と思い、一緒に外出することにした。

 叔母は、家の近くでタクシーを拾うと、運転手に、行き先を告げた。好雄には聞き取れなかったが、タクシーが着い たのは、神楽坂のはずれにある、あまり人目につかない小さな料亭だった。玄関に出てきた女将と叔母とは、顔馴染みのようで、「お待ちしておりました」とい い、さっと先に立って案内にたった。その様子では、予約があったように思えた。

 通された個室にはすでに二人用のテーブルの用意が出来ており、二人が席に着くと、あまり間を置かずに、好雄がこ れまで見たこともないような料理が次々に出てきた。最初、軽くビールを飲んだ後、日本食には、日本酒が合うのよと、叔母はお燗した酒を取った。
 確かに、和食には日本酒はぴったりだった。叔母は、
「わたし、日本酒は、案外行けるくちなの」
といいながら、かなりのピッチで御猪口を空にして、好雄にお酌をしてとねだった。お酌をすると叔母はその徳利をとりあげ て、お酌を返し、
「好雄さんと二人切りで飲むのは、初めてね。今日は、とことん飲みましょうね。さあ、一緒に杯を上げて」

その度、好雄にも、一緒に杯を挙げるようにうながした。酒が回ってくると、すこし、姿勢を崩して、

「好雄さん、好きな人はいるの?」
というようなことも、口に出すようになった。好雄が、いないと答えると、うそばっかり、好雄さんはハンサムだから、女の 子がほっとくわけがないわ。白状しなさいよ、と酒で赤く上気した目で好雄の目をじっと見つめた。好雄が、女の子の知り合いが、それはまったくいないわけで はないというような言い方をすると、ほら、ごらんなさい、やっぱりいるじゃないの。ところで、その子とどこまで行ってるの。今夜は好雄さんのこと全部聞い ちゃおう。白状しないと、帰してやらないからと、からむような言い方をした。
 そんなわけで、叔母から聞かれるままに、好雄は、田舎にいたときの初恋の人のことから、上京して知り合った女性や、と うとう初体験のことまで、酒で酔ったの勢いとは言え、全部白状させられてしまった。

 「まあ、妬けるわねえ。この頃の若い人って、そうとうなものねぇー」

 酔った叔母の目には、普段見たこともない、女くさいギラギラしたものがあった。好雄は、叔母と二人切りで長く料 亭の個室にいたため、知らぬうちにその雰囲気に酔ってしまい、自分自身が、日頃の自分とは遠く隔たったところに立っているような気さえした。そして、叔母 が、叔母というより、これまでつきあったことのある若い生身の女性のように見えてきた。

 「好雄さん、今日はとことんつきあってよ」
 料亭を出ると、叔母は近くのバーに好雄を連れて行った。そこでも、顔馴染みらしく、バーのマスターに、
「今日は、可愛い甥を連れて来たの。W大ボーイなの。どう、なかなかもてそうでしょ。今日は、さんざいい話し聞かされ ちゃったから、酔いつぶれるまで開放してあげないの。さあ、じゃんじゃん、飲ませてちょうだい」

 そう言いながら、叔母は、いつものカクテルなるものを注文し、自分でも数杯飲んだ。
 十一時過ぎにバーを出たが、叔母はかなり酔っており、ハイヤーの中で彼の方へもたれかかってきた。好雄はやむを得ず叔 母を目白台の屋敷まで送っていった。

 彼が玄関口で失礼しようとすると、叔母は、玄関のソファの上に倒れ込み、こんなに酔っているのに、二階の寝室ま で連れっていってくれないなんて、好雄さんって随分、私には薄情なのね、恋人相手だったらこんなつれないことはしないでしょうに、とかなり大声でわめき始 めた。

 叔母のこんな酔態を見るのは初めてだった。とにかくそのまま帰るわけにもいかず、好雄は、叔母を抱き抱えるよう にして、二階の一番奥にある彼女の寝室まで連れて行った。寝室に入った途端、それまでぐったりと安岡に取りすがっていた叔母が、やにわに、好雄にむしゃぶ りついてき、くちびるを奪った。彼女から逃れようとしても、信じられないような力でしがみつき、唇に吸い付いて離さなかった。

「好雄さん、わたし、あなたが好きなの。恋人にしてやったようにわたしにもして
・・・」
叔母はそう言うと、さらに激しくしがみついてきた。

その部分の安岡の供述は、次のようになっている。

「わたしも、叔母をひそかに慕っていたことは事実です。叔父は世間的にも名の売れた学者でしたので、外向けには叔 母を愛しているように振る舞っていましたが、二人のあいだの愛情がすっかり冷え切っているのを、わたしは、随分前から感じていました。そのことでわたし は、叔母に同情してもいました。その同情する気持ちが嵩じて、叔母をひそかに慕うようになったと言われれば、そのとおりかもしれません。しばしば、叔父の 家を尋ねて行ったのも、叔父に会うことより、叔母と叔父が帰るまで、一緒にいることが目的でした。わたしのような田舎者に親切で、身内のような、やさしい 言葉をかけてくれましたから。

「でも叔母と肉体関係を持とうなどという気を起したことは一度もありませんでした。あの夜わたしは、これまで飲ん だこともないほど酒を飲んでいましたし、あの夜の叔母に誘われるまま、初体験のことまで白状させられてしまって、すこし、精神状態がおかしくなっていたこ とも手伝って、叔母にしがみつかれてみると、理性ではいけない、いけないと思いながらも、とうとう、感情に負けてしまったのです。わたしは、強い力でしが みついている叔母に引き摺りこまれるような形で、そのままベッドの上に倒れこんでしまいました。

 「その夜の叔母の態度に幾分投げっぱちなところがあったかときかれれば、そうかもしれないという気がします。あ るいは警部さんのおっしゃるとおり、三村助教授が、その日交通事故のため、突然約束通り会うことができなくなったということで、叔母が幾分投げやりなって いたのかもしれません。おそらく、わたしが訪ねるすぐ前にその知らせを受けたのでしょう。叔母は外出着のままでしたから。

「わたしが誘われて行った料亭には、一週間も前から予約が入っていたということですが、おしゃるように、三村助教 授との会食のために予約していたのでしょう。料亭の女将さんの様子で、予約があったことはすぐ感じました。わたしが連れとわかったとき、女将がちょっと怪 訝な顔をしたことも覚えていますが、相手が若い学生だったので、そういう顔をしたのかとも思いました。しかし、わたしには、その辺の詳しい事情はなにもわ かりません。第一、三村助教授と叔母とのことは、それまで全く知りませんでしたから。
 

「いずれにしても、わたしのほうから、叔母を誘ったのではないことは断言できます。酒の酔いも手伝ってわたしは行 為のあとすぐ強い眠気を覚えました。叔母が、寝室の隣にある風呂場にシャワーを浴びにいったのは、ぼんやり覚えています。どのくらいたって戻ったかわかり ませんが、叔母がベッドに帰ってきて、わたしにしがみついてきて、顔にキスをしたとき、ちょっと目をさましたので、おぼろげながら覚えています。ええ、確 かに顔に何度かキスをしました。おそらく眠りについたのは午前一時過ぎだと思います。外出から帰ってきたとき、腕時計を見ると、時計の針は大体午前零時近 くを指していましたから。

「翌朝目を覚ましたのは、午前六時頃でした。最初わたしは自分がどこにいるかわかりませんでした。しかし、なれな いベッドの上にいることに気付き、すぐ昨夜の記憶を呼び覚ましました。わたしはあわてて、隣に寝ている叔母を見ました。ところが叔母の様子がなんとなく変 でした。驚いてよく確かめるともうその時、叔母は完全にこと切れていたのです。わたしは青くなって飛び起きました。全く夢想だにしないことでした。死顔は 穏やかでしたが、寝る前まであんなに元気だった叔母が急死した原因が、心臓麻痺なのか、脳溢血なのか、医学的な知識のないわたしには皆目見当がつきません でした。状況から考えて、毒薬に寄る中毒死などとは思いだにしませんでした。

「一体どうしたものだろう、とわたしは思案しました。警察に連絡したものか・・・とも思いました。しかし、わたし にはその勇気がありませんでした。叔父に、叔母とのことが露見したら・・・そう思うとわたしは怖くなって、前後のみさかいもなく叔母のところから逃げ出し たのです。

「逃げ出す前に、シーツのしわを伸ばしたり、叔母の寝姿をただしたり、指紋を拭きとったりして、わたしが叔母の家 に泊まったという形跡をできるだけ残さないように務めました。枕元にあった、行為の後始末に使ったティッシュやタオルはわたしが持ち出し、通りにあったゴ ミ箱に捨てました。避妊具は、自分は何も使いませんでしたので、それを処分した覚えはありません。叔母の家から下宿まで、それこそ走るようにして逃げ帰 り、布団にもぐり込んでブルブル震えていたのです。

「札幌から叔父の電話があったとき、わたしは本当にびっくりしました。わたしは、叔母が死んでいることを知りなが ら電話に出たのです。叔父から、自宅へ電話してみたが、叔母が出ない。どうも様子がおかしい。家の様子を確かめて来て欲しいと言われたとき、わたしの胸 は、叔父に対する申し訳なさで、張り裂けんばかりでした。わたしは、もう、目白台の屋敷には行きたくありませんでした。しかし、断わる訳にはいきませんで した。やむなく叔父の家へ行き、初めて叔母の死を知ったようなふりをして、叔父に電話し、警察の方へも連絡したのです。

 「とは言っても、わたしが叔母を殺したのではありません。叔母は、わたしが目を覚ましたときには、もう死んでい たのです。これは事実です。わたしが叔母を殺さなければならない理由がどこにありましょう。それに、死因が、青酸カリによる中毒死ということのようです が、一体わたしにどこから青酸カリを入手できるでしょう。どうやって、叔母にまったく気付かれずに、あんな行為のあった直後に、飲ませることができるとい うのでしょう。

 「状況から、他殺は考えられませんし、そうだからと言って、自殺も考えられません。あの夜の叔母のふるまいに は、自殺しなければならないようなところはなにも見受けられませんでした。百歩譲って自殺だったとしたら、わたしには、叔母がわたしとの道ならぬ関係を苦 にして自殺したとしか考えられません。その点わたしは、叔父や叔母に対して何と言っておわびしていいやら言葉もありません。これまでさんざんお世話になり ながらわたしのちょっとした軽はずみからこういうことになるなんて・・・」

 この安岡好雄の証言に対して神島譲は、妻怜子との夫婦仲に若干気まずいものがあったことは認めながらも、安岡の 言うほどすっかり冷え切っていたわけではない、21歳ぐらいの学生に夫婦の間の微妙な呼吸がわかるはずがない、噛んで捨てるような物の言い方をしている。

 安岡と妻の怜子との間に、肉体関係があったという事実を知ってから、神島の安岡に対する態度には、極度の憎しみ が見られるようになった。それは当然のことかもしれない。

 神島には、ありあまるほどの資産がある。もっとも、その資産のほとんどが、怜子の死去によって、神島に転がり込 んできたものである。怜子は、ストレイン電機株式会社の社長山岡啓蔵の一人娘で、六年前、当時、T大の貧乏助手だった神島と結婚したとき、ストレイン社の 株百万株を持って嫁入りしたのである。同社の株は、時価950円ほどしているから、株だけで10億円に近い値うちがある。目白台の豪邸も、もちろん山岡啓 蔵が、結婚祝いに、娘夫婦に買い与えたものである。

 そのありあまるほどの資産を、神島は、甥の弁護費用には一切出さないと公言している。

 安岡の九州の実家は、大して裕福ではない。安岡の実父はS市の助役をしているが、公吏の収入はたかがしれてい る。安岡自身もまだ学生である。まだ本格的な裁判が始まっていないからいいようなものの、もし、起訴されて裁判にでもなると弁護費用も馬鹿にならない。あ たら有為の青年が、弁護費用が足りないために、将来をめちゃめちゃにされるようなことになれば、見るに忍びないことではある。もっともこんなことをこの段 階でいうのは早すぎる。彼が起訴されるともされぬとも、決まっているわけではないからだ。わたしにしても、まだ迷っているのである。(続く)
 
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(1998/10/26)
5

 状況証拠という意味でなら、これほど証拠がそろっているケースもめずらしい。とにかく怜子の死因が他殺とすれ ば、犯人になりうるチャンスがあるのは安岡好雄しかいない。彼以外に犯人がいるとすれば、彼が眠ったあと、怜子が他の人物に会い、その人物から毒を飲まさ れたというケースがまず考えられる。しかし、これはあまりに不自然である。深夜一時過ぎにのこのこ他人の家に上がりこんで、何の抵抗もなく人妻に毒をもれ るような人物を想定するのはどうみても無理である。

 もう一つのケースとしては、怜子が就寝前に飲む薬や、ワインなどに青酸カリが仕掛けてあったということが考えら れる。
ところで薬の方は、怜子にはこれといった持病もなく、それらしき薬も屋敷の中からは発見されなかった。
 ホーム・バーのワイン・キャビネットに並べてあった高価なワインやリキュールの類からも青酸カリは検出されなかった。 もっとも酒類の中に仕掛けてあったのではないかという線は、怜子の解剖の結果から否定されている。酒や水に溶かして飲めば、咽喉部や食道に青酸カリの反応 が残るからである。

 そこで誰もがつぎに考えたのは、安岡好雄が犯行後、青酸カリなり証拠物件なりを屋敷外に持ち出したのではないか ということであった。事実、彼の証言でも、タオルやテッシュを持ち出して捨てているのである。そういうわけで安岡を警察に留置している間に、警察では彼の 下宿の家宅捜索をやり、神島邸から彼の下宿までの通り道の一帯の捜索もおこなった。しかし、きめてになるものは何も発見されなかった。また青酸カリの入手 先についても捜査員が必死の努力を行ったにもかかわらず、皆目見当がつかなかった。

 また、怜子が自殺したとして、その方面からも追及が進められたが、きめてが出てこなかった。

 とにかく、遺書らしきものは何も残されてなかった。彼女のハンドバッグにあった小さな手帳にしても、たんなるス ケジュールや電話番号などが書き込んであるだけで、自殺をほのめかすようなことは何ひとつ書き込まれていない。逆に、死亡した日以降のスケジュールがあれ これと書き込まれている。死亡した日の翌日には、イタリア歌劇団の公演をサントリーホールに観に行くことになっているし、その一週間後には、池の坊の生け 花の展覧会を銀座のデパートへ見に行くことになっている。このことは、本人がその前に死ぬつもりがなかったことを物語っている。

 とすれば、あの晩、突然死ぬ気になったとしか考えられない。どうしても計画的な自殺とは考えられない。しかも、 甥と性交渉を持った後に死んでいるのである。突然、死ぬ気になったのは、そのことを気にやんでのことだろうか。 しかし、これも好雄の証言を信用すれば、 彼女の方から無理矢理誘っているのである。身体に何の擦過傷や、抵抗のあとがないところから、好雄が暴力的に彼女の操を奪ったとは考えにくい。自ら誘って おいて、行為の後で突然後悔したのだろうか。犯した過ちのあまりの大きさに愕然として、死をもって罪を悔い改める、とは文学的には真実とはなりえても、怜 子はすでに三村雄三なる人物と不倫の関係にあったのである。

 確かに、単なる不倫よりも、近親相姦の方が愕然としなければならぬ要素が強いかもしれないが、死ぬほど思いつめ るような女性とも思えない。それに、突然死ぬ気になったのしても、青酸カリの方は前々から用意していたと考えざるをえないところにこの説の弱点がある。

 しかも、解剖結果からは、カプセル状のものにわざわざ入れた上で嚥下しているのである。突然死ぬ気になったもの が、前々から青酸カリをカプセルに入れて準備していたと考えるのは、どうも辻褄が合わない。あまりに矛盾するところが多すぎる。
 それでは他殺かというとその決め手もない。

 ここで推理は再び堂々巡りに入ってしまうのである。宮田検事ならずとも、「奇妙な事件」と言いたくなるわけであ る。

 事件の骨格は極めて単純明快である。
 舞台は、目白台の高級住宅の一室である。
 時刻は、午前零時から午前六時までの間。
 登場人物は、裕福な家庭の人妻とその甥にあたる青年の二人だけ。その青年と人妻は、その夜初めて肉体交渉を持つ。道な らぬ恋に陥るというわけである。

 翌朝、青年が目を覚ますと、人妻は死んでいた。死因は青酸カリによる中毒死である。青年は犯行を否認する。さり とて人妻の方にも自殺しなければならない理由がない。自殺と考えると不自然な点がある。状況から考えて事故死とはいいがたい。

 自殺とも他殺とも決めつけるだけの証拠はない。こうなると、あとは検事側の心証次第である。他殺とするなら、青 年の殺意を構成するしかない。自殺とするなら、人妻の動機を推定するよりない。これはなかなか容易ならぬことである。

 ただ起訴するだけなら簡単であろう。云ってみれば、安岡にはアリバイがないからである。現場にいたことを彼自身 がはっきり認めてしまっている。一方、怜子には自殺しなければならない理由が何もない。しかも自殺にしては不自然なことが沢山ある。

 まず、青酸カリをわざわざカプセル状のものに入れて嚥下していることについては、これは犯人が他の薬といつわっ て飲ませるためにもちいた手段であるという主張が成り立つであろう。つぎに、遺書らしきものが全然ないばかりか、死後の予定を書き込んだ手帳が発見されて いる点でも自殺説を反駁することができよう。しかも、遺書らしきものが全然ないにもかかわらず、用意周到にも青酸カリをカプセルに入れて所持していたとは 考えられない以上、それは、犯人が携行していたに違いないという出張も可能であろう。

 それに安岡は、一旦、神島の家から逃げ出したばかりか、自分のほうからは当夜叔母の家に泊ったことを言い出さな かった。目撃者が現われ、追及されて初めて、泊ったことを認めたのである。泊ったことを隠そうとしていたと云えないこおてゃない。自分にまったくうしろめ たいことがなければ、泊ったことやその形跡を隠すことも、逃げ出す必要もなかったではないか、逃げ出したのは何らかの証拠を隠滅するためだったのではない か、最初から、泊った上、叔母の死亡を知っていたと申し出なかったのは、自らの犯行を隠すためではないのか、と冷たく論告すれば、かなりの説得力を持つよ うに思える。

 もっともわたしとてが、叔母と道ならぬ関係に陥った翌朝、となりに寝ていた叔母が死んでいるのを発見すれば、そ のことを黙っていたいと思う気持ちや、うろたえて前後の見境なく逃げ出したくなる気持ちがわからぬでもないが、やはり捜査に協力して自ら進んで供述しな かった点や、逃げ出したという事実の裏に、安岡の犯意を推定するぐらいは、やっても当然のことのように思える。

 とにかく、まったく動機のない殺人がないわけでもなく、また犯人の動機が究明できなければ、起訴できぬわけでも ない。

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(1998/10/27)
6

 わたしはこう思って、一応宮田検事には起訴を勧めるつもりでいた。
  
 ところが、いくら待っても、宮田君から一向に連絡がないのである。それでは、こっちから連絡してやろうと思い、わたし は電話を取り上げようとした。その途端、机の上の電話のベルが鳴りはじめた。

 宮田検事が今朝出勤途中、小型自家用車にはねられて重傷を負い、虎ノ門病院にかつぎこまれた、という知らせだっ た。命には別状はないが、全治までには少なくとも三月はかかるというのである。

 めぐり合わせとはいいながら、そんなわけでわたしがこの奇妙な事件を担当することになった。自分が担当と決まる と、第三者的な感想を云ってお茶を濁しておくわけにはいかなくなった。

 起訴に踏み切るにしても、もう少し詳しい情報を集める必要性を感じた。そこでわたしは、被疑者の安岡好雄や、神 島譲にも会って、わたしの心証を固めておくことにした。

 その日の午後は、比較的時間の余裕があったので、まずM署に留置されている安岡に会いに行った。

 安岡は、わたしが思っていたとおり、真面目で素朴な感じの青年だった。憔悴のせいか、頬がげっそりやつれている のがいたいたしい。わたしの訊問に対しても、一語一語ていねいに答える。一応の訊問をすませて私が椅子を立ちかかると。安岡は目に涙をためながら、わたし は絶対に叔母を殺したりしません、信じて下さい、と云った。わたしには、それが嘘を云っているようには思えなかった。

 神島譲には、大学まで会いにいった。
 正直云って、わたしは神島譲という男を好きになれなかった。わたしは神島より被疑者の安岡好雄の方にむしろ好感をもっ た。

 神島は、慇懃無礼な感じのする男だった。なるほど口のきき方は丁寧だった。しかし、その口ぶりには、なんとなく 他人を見下したようなところがあった。自分では気付かずに他人に反発を覚えさせるような傲慢さが潜んでいた。ときおりキラリと光る目が、油断なくわたしの 一挙一動にそそがれていた。通された神島譲の部屋には、文献が山とつまれ、壁の薬品棚には、各種の薬品がところ狭しと並べてあった。部屋の一隅には、顕微 鏡や、こみいった実験装置が置いてあった。

 研究室が手狭で、こんなところまで、実験装置を持ち込んで、研究をやっているということだった。

 わたしは、奥さんには自殺をしなければならないような理由があったのか、何か思いあたる節はありませんかと尋ね た。
 「まったくありませんな」
神島は、一言だけポツリと答え、それっきり黙りこんだ。
「好雄君が殺したのだと思いますか」
「わかりませんね」
これも一言だけ、ポツリと云った。
 
 明かに、こんなところまでのこのこ会いにきたわたしを煙たがっており、早く退散願いたいと云った口のきき方だった。

 これでは、らちがあかないと思い、私は腰を半ば浮かしながら、ふと、思いついたように聞いた。

「この部屋の薬品棚の中には、青酸カリはありますか」
その瞬間、神島の目がキラリと光ったように思えた。高い位置なので神島譲の表情がよく見えた。

 「ええ、もちろんありますよ。シアン化カリウムは、基礎的な薬品ですからな。あの薬品棚の、赤いラベルをはった やつは、全部劇毒物ですよ。飲めばイチコロってやつばかりですよ」
 そう云うと、それがどうしましたかというような目つきでわたしのほうを眺めた。
 わたしは、いろいろ参考になりました、と云って神島のところを辞した。

 もう、五時近くになっていたので、そのまま自宅へ帰るつもりで、地下鉄の本郷三丁目の方へ歩いていった。と、右 手に大きな本屋があった。大学の近くの本屋らしく、専門書が本棚にびっしりと並んでいるのが見えた。わたしは、フッと立ち寄ってみる気になった。神島の専 門である分子生物学に関して、まったくの門外漢であるので、すこし勉強してみたいと思ったのだ。

 奥の方にある「生物学」という掲示のある書棚の前に行き、「生体高分子学」、「動的生化学」、「生命の本質」、 「現代生物学」・・・と本のタイトルを追っていくと、「生物学の未来 T大助教授 神島譲著」という本が見つかった。

 わたしは、神島の著書であるということで興味を引かれ、本棚から抜き出した。ページをペラペラめくって、拾い読 みしてみた。一般向けにやさしく書き下ろした啓蒙書らしく、文章も読みやすかった。 値段も1500円で、手頃である。そこで早速購入し、帰りの地下鉄の 中で読み始めた。これがなかなか面白いのである。

 第一章には、現在、生物学においては、真に革命と呼ぶにふさわしい大変革が起こりつつあるということが、具体例 な例をひきながらかなり熱っぽく説かれている。

 現代文明が、人類の物理学、化学等の分野における革命的な進歩に依存しているように、今後の人類文明は、好むと 好まざるとにかかわらず、生物学の驚異的な進歩に依存せざるをえなくなるだろう。例えば、人工心臓、人工腎臓は、その端緒にすぎないが、近い将来に人間の あらゆる臓器が人工化されるだろう。また、移植技術の著しい進歩によって、心臓移植はもとより、脳神経の移植さえ、可能となってくるだろう。こうして医療 技術は果てしなく進み、人間の不死不老について真剣に考えなければならぬ時が早晩来るであろう。妻の脳神経を移植された夫の肉体は、はたして夫なのか妻な のか争われるようなときがくれば、それまでの道徳律や、法律は大幅な改変をよぎなくされるであろう。

 農業においても著しい変化が起こるだろう。ホルモンや化学物資を駆使する生物化学的コントロールのもとに、牛肉 や鶏肉をはじめ、果物や野菜までが工場生産化され、コンベアシステムで大量生産されることになろう。

 軍事面における影響も計り知れまい。ある種のガスーLSD・25を含むーは人間の抵抗する意志を徐々に衰えさせ ることが知られている。そうしたガスを秘密裏に大量散布すれば、敵国による”無血”侵略さえ可能であろう。たとえば、若者たちはすでにLSDを無思慮に使 い始めている。LSDは今後限りなく発展していくものと思われる精神コントロールのほんの一歩にすぎない。

 こうした生物学的革命の動きは、核エネルギーの問題と同じ程度に重大で、かつ、緊急な対応策を必要とする問題で ある。

 人類は、それを悪用することも善用することも可能である。核エネルギーを人類の叡智によってコントロールしなけ ればならないのと同じように、こうした一連の生物学的革命についても、人類の叡智によってコントロールすることを早急に考えなければ、手遅れになることが 十分考えられる。

 そういうことが書かれている。わたしは、生物学に付いては、まったく無知同様だったが、云われてみるともっとも な話である。いつぞや試験管ベービーに成功したという新聞記事を読んだことがある。正直云って、試験管で子供ができるようになったら、人間の威厳も何も あったものではあるまい。ほんものの人間が、赤ん坊工場とやらで、化学的に生産されるようになったら、既成の倫理観念や価値の体系は、根本的にくつがえっ てしまうだろう。著者の云うとおり、やはり、そういう技術が完成する前に、なんらかの対応策を考えておかなければならないのではあるまいか。

 そう思って、次ぎの章を見ると「人類にとってセックスは必要か」というタイトルになっている。

 これはどうも哲学的、生理学的に人間にとってセックスが必要かどうかということより、純粋に生物学的に、セック スの必要性如何が論じられているようである。生物の生殖プロセスに関する生物化学の著しい進歩によって、今日では”性”そのものが人類にとって必要かどう か問われているということらしい。

 たとえば”クローン人”の可能性について次ぎのように書かれている。
 コーネル大学の細胞生理、成長、分化研究所長のF・C・スチュワード教授は、ニンジンの初期の胚の一つから無差別に取 り出した細胞を栄養培養することによって無性的に普通の根と茎と花と種子のあるニンジンへ成長させることに成功した。この技術がその後、著しく発展し、い までは植物だけでなく、動物の、しかも、羊とか牛などの高級哺乳動物でも成功するまでに至っている。

 ここで重要なのは、こうしてできた、いわゆるクローン・ニンジンやクローン羊は、遺伝的にまったく同一であると いうことだ。動物の応用が進めば、名馬のナリタブライアンにしても、名犬リンチンチンにしても、牛乳を一日200リッター出す雌牛にしても、それとまった く同じ生きた複製を必要に応じてつくることができるようになるということである。かりにこれが人間に応用できるようになったらどうであろう。しかし、その 可能性はすぐ近くまできているのである。65人ものベートーベン、10人ものあなた自身をつくりだすことも可能になるのである。ただし、人間への応用につ いては、倫理的な側面から、いまのところ、認めれれていないが。

 こういうことが書いてある。確かに自分自身とまったく同じ人間がウジャウジャと再生産されると思うと何となく背 筋が寒くなる。生物学はなかなか面白いと思いながら読み進めていくと避妊のことが書いてある。わたしも避妊についてはさんざん苦労したことがあるので興味 をそそられた。生物学が避妊のことまで扱うとは思わなかった。その本によると、現在生物学の研究成果を取り入れた様々な避妊方法が開発されているのだそう である。

 経口避妊薬の発見は、生殖プロセスをコントロールしようとする生物学的成果の”はしり”にすぎないし、男性用の 経口避妊薬も開発されているのだそうだ。また、避妊用香水や事後避妊薬もそのうち現われるだろうということが書かれている。

 避妊用香水とは、イギリスの女流科学者ヒルダ・ブルースの発見したブルース効果の応用である。彼女が交尾したば かりの何匹かの雌マウスを、交尾した相手とは別の雄マウスの隣のカゴに入れると、その中の大部分は妊娠せず、まるで交尾しなかったように発情することを発 見した。研究の結果、これは雄のつくりだすある種のにおいが、雌の脳に作用し、膣分泌を変えるためであることが明かにされた。このブルース効果は、人間に あるかどうかは不明であるが、可能性としては、人間にも、ある。したがって、ただにおいを吸い込むだけの避妊薬のできる可能性が予想されるというのであ る。

 また、事後避妊薬というのは、受精卵が子宮壁に着床し、母親の血液に触れはじめる時期(人間の卵は、受精後六日 目から七日目に子宮内面に着床する)をねらって、着床をさまたげる物質ーたとえば、ジメチルスチルペストロールとか、ORF3858ーを与えることによ り、否認する方法である。アメリカの受精学会誌によれば、ネズミで行った実験では交尾後六日目までは妊娠を止めることに成功している。また、人間について も、強姦の犠牲になった女性も何人かふくめて試してみた結果妊娠を止める効果があることがわかっている。

 こうのような研究が進めば、一月に一度飲めばよい薬もできてくるであろうということである。そうしてこうした研 究の成果が人間の生活そのものをー生活様式のみならず、倫理面、法律面においてもー大いに変えてしまうだろうとも書いてある。

 なるほど、とわたしは思った。

 こうした簡単な避妊方法が開発されれば、世の中はたしかに便利になるうはずである。コンドームとかペッサリーと かリングとかいった、大仰しく、しかも人間の羞恥心を無視した避妊方法よりどれほど助かるか分らない。一面こうした簡単な避妊法が、フリーセックスの風潮 を助長する面があるにしても、たとえば事後避妊薬が開発されれば、一時的な感情で身をまかせてしまった女性や、強姦された女性にとってはまことに大きな福 音であろう。今日でも、危険きわまる堕胎手術のために、一生を棒に振る女性も少なくない。要するにどんないい薬でもその利用の仕方でその良し悪しが決まる のだ。

 わたしはそう思いながら、第三章の「生命の合成は可能か」を読み始めた。しかし、ほんの数行読んだところでわた しの降りる駅に着いてしまった。

 本に熱中していたせいか、駅に着いたのが意外と早いような気がした。
 

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7

 家に帰ると妻の良子が、もの問いたげな面で現われた。おそらく、宮田さんには、どういう意見をおっしゃたの、と でも云いたいのだろう。今朝わたしが家を出るとき、良子は、
「わたし、好雄さんという人、案外ほんとうのことを云っているって気がするわ」
と云ったのである。自分の意見をわたしが取り入れてくれたかどうかをたぶん確かめたいのであろう。

 そこでわたしは、宮田君が輪禍にあって、この事件は自分が扱うことになった、実は、午後いっぱいかけて安岡好雄 と神島譲に会ってきたんだ、と報告した。
「大変ねえ」
 妻は、心の底からそう思っているようなため息をつき、<あなたは一体どうなさるおつもり>と云わんばかりの目つきをし てわたしを見た。良子にしてもこういう事件の難しさがよくわかっているのだ。
「起訴しても相当のところまで戦えそうなんだが、もう一つ決め手がつかめなくてね。ひとつ明日にでも、もう少しつっこん で被疑者の供述を取ってみようと思うんだ」
 わたしがそう云うと、妻はわたしの目の前に一冊の週刊誌をさしだした。良子が美容院で、T大助教授変死事件について読 んだという週刊誌だった。
 何かの参考になるかと思って、美容院まで行って貰って来たの、もう近所の本屋さんでは売っていないのよと妻は云う。

 わたしは、夕食をすませてから早速その週刊誌の記事に目を通してみた、何かの参考になればと思ったのである。

 週刊誌は文潮社という文芸ものを得意としている出版社が発行している「週刊文潮」といい、毎号”黒い事件簿”と いうシリーズものを載せている。最近起こったポピュラーな犯罪事件をモデルにして、フィクションも織混ぜながらドキュメンタリータッチで要領良くまとめて あり、毎号なかなか好評のようである。
 もちろん、登場人物は仮名になっているが、モデルになっている事件を類推することは、そう難しくない。これは全くフィ クションです、と断わり書きがついているものの、読むほうでは、誰もそれを完全なフィクションとは思っていない。人によってはおそらく全くの事実と思いな がら読んでいる人もいることだろう。
 しかし、われわれの立場からみると、かなり割引して読まなければならないところが目立つ。ときとしては、人権問題にな りかねないことが書いてある。無実の人を筆者の勝手な思い込みで残忍は殺人犯に仕立て上げたりするのだ。単に登場人物を仮名にしたり、これはフィクション ですと断わり書きをすればいい問題ではないとわたしはかねがね思っている。

 この”黒い事件簿”で、T大助教授夫人変死事件を取り上げているというわけだった。
 この記事では、神島譲が神谷博、怜子が麗子、安岡好雄が片山秀雄、三村雄三が、鈴村雄次になっている。これは、誰が読 んでもわかることだ。

 ストーリーは、麗子と鈴村の情事を中心に展開される。”有閑マダムの狂った火遊び””情事に揺れる象牙の塔”” 若い義理の甥との最後の濡れた夜”といった煽情的な形容詞が散見する。怜子と三村が利用したといわれる「エドワード」というモーテルの写真まで載ってい る。

 これで読むと、麗子という女性は、色欲に狂った妖婦のようである。一方の鈴村は、麗子の財産を狙う狡猾な情人に なっている。事件のあった夜も麗子は、夫が学会で札幌へ出かけ留守なのをさいわい鈴村とデートする約束をし、神楽坂の料亭の予約もしていた。ところが鈴村 が不測の交通事故で、来られなくなってしまった。

 会うことを予定してすでに燃え上がっていた麗子は、もっていき場のないやるせなさから見境もなくなり、たまたま 遊びにきた若い義理の甥の片岡をくだんの料亭に連れだし、酒で酔わせた上で、強引にベッドに誘い込み、自らの欲情を遂げた。しかし、さすがに、事が終わっ てしまうと、良心の呵責に耐えれれなくなり、自ら命を絶った。片山のほうに叔母を殺す動機がないので、これは、思慮に欠けた有閑マダムの浅慮からの、軽は ずみな自殺と思われる。と黒井健と名乗る筆者は推定している。
 たまたま叔母に誘われた片山が叔母を殺さなければならない理由はないし、また片山が、常時青酸カリを所持していたとす るのはいかにも不自然であり、この点からも片岡による他殺説は成り立ち難いとも云っている。
 また、鈴村と麗子が接近するきっかけになったのは、神谷家で催されたパーティの席上ということになっている。神谷は、 月に一回ほど、大学関係の教授連やその夫人連を招いて、パーティをやることにしており、その席上に欠かさず、同僚の鈴村を招いていた。そこで二人の間に愛 情が芽生えたという筋書なのだ。
 ところで、神谷と鈴村とは、”宿命”のライバルで、現にいまも、二人は分子生物学の正教授の椅子を争っている。2年後 に退任を控えている正教授の殿村は、自分を飛び越して世界的にも有名になった神谷助教授の才能に嫉妬し、若干煙たがっていたふしがあり、神谷よりは凡庸な がら、自分に忠実な鈴村のほうに傾きかけていた。神谷が毎月かなり派手なパーティをやって接待したのも、巻き返しのための売名行為に他ならなかったが、次 期正教授の本命は、殿村教授の末娘を射止めたものであろうとのもっぱらの噂である。

 これまでは独身の鈴村助教授が、この点では、断然有利だったが、今度の事件でいちじるしく評判を落としており、 逆に今度の事件で妻を失い、”有資格者”となった神谷助教授の大逆転の可能性も出てきた。いずれにしても、今後の両者のデットヒートは、ダービー以上の見 物である。・・・

 記事の内容は、あらましこういうことである。こうした記事の常としてどこまで真実でどこからがフィクションか はっきりしないけれど一応読ませるだけのストーリーにはなっている。検察側でつかんでいる情報と一致するところもかなりある。神島譲が、大学関係者を集め て毎月パーティをやったというのは事実である。ホステスを呼んだり、ジャズの楽団を入れたり、かなり派手なものであったこともつかんでいる。
 
 読み終わって、あれこれ思案していると、良子がコーヒーを運んできてくれた。いつもは、インスタントコーヒーだが、今 夜のはどうもサイフォンでいれたほんもののコーヒーらしい。

 湯気の立つコーヒーをすすりながら、近くのソファに腰を下ろした良子に
「良子は、この事件をどう思う」
ときいた。すると良子は、
「わたしの第六感では、犯人は、神島譲っていうところね。おそらく怜子さんは、自殺したんじゃないわ。巧妙な方法で毒薬 を飲まされたんじゃないかしら。わたしにはどういう方法かわからないけれど。だって、どう考えても、怜子というひとが、自殺するようなタイプの女性には思 えないの。自殺するとしたら、もっとあてつけがましく死ぬんじゃないかしら。それに、甥の安岡好雄を窮地に追い込むようなときに自殺しなければならない理 由なんて考えられないわ。安岡に対して、深い恨みでも持っていたのなら別だけど・・・」
「ちょっと待ってくれ。怜子が安岡をほんとうに恨んでいたとするだろう。たとえば、三村との仲を気付かれて、叔父に密告 されたというような理由で。そこで安岡が最も窮地に陥るような状況を選んで自殺をくわだてたとする。彼女の夫も北海道に行って留守だし、彼女の愛人も病院 に入院しており、アリバイもある。そこで好雄を誘惑しておいてそのベッドの中で自殺をくわだてる。とにかくああいう状況で自殺すれば、嫌疑は必然的に安岡 にかかることになる。たとえ、有罪にならなくても、安岡は精神的にとことん苦しめられる。遺書は何も残さなかったのは、そういう狙いがあったからだ。一 見、あてつけがましくないようでいて、その実もっともあてつけがましい自殺とはいえないかな。大学出のインテリ女性好みの・・・」
「そうねえ・・」
妻は小首を傾げている。
「でも、怜子という人がそれほど安岡を憎んでいたかどうか、疑問じゃない」
「一方は田舎から上京したばかりの粗野な青年。一方は、裕福な家庭で、わがままいっぱい育った一人娘。結婚後日の浅いそ ういう女性のところへ、四年間ものこのこ出入りして、食事前にひょいと現われては、夕食のごちそうになって帰り、汚れた下着をボストンバッグ一杯詰め込ん できては洗濯を頼んだりする。義理の甥で、夫からやってあげるように云われているので、断わるわけにもいかない。それにしょっちゅう出入りするので、三村 との仲も、うすうす感づかれ、どうも夫に密告されたらしいとなる。どう考えても、安岡と怜子とでは肌合いが合いそうにない。そこへもってきて、安岡がずう ずうしくも、変な色目を使うようになる。安岡の証言の中にもあったように、叔父が叔母に冷たいのを同情してひそかに慕うようになったなんて云っているだろ う。あの日もきっと、叔父の留守をさいわい、無遠慮に上がり込んだのではないかな。
「いや、ちょっと待てよ。あまりに安岡好雄を素朴な田舎での青年と思い込み、証言を真に受けすぎていたのかも知れない ぞ。ひょっとしたら、二人の関係はあの日が最初ではなくて、それまでもあったという風に考えられないだろうか。三村との情事をねたに、安岡が怜子に、自分 の方から肉体関係を迫った。いや、あの日が最初でもいい。ちょうど電話がかかって来たところに居合わせて、三村助教授が来ないのなら、その変わりを自分が という風に安岡好雄のほうから怜子を誘ったいうふうに考えられないこともない。怜子も、夫に密告すると脅されると、従わざるをえない。
「そこで、怜子は安岡を窮地におとしこめるような一計を案ずる。さっきも云ったように、神島譲と三村雄三のアリバイが完 璧な夜を選んで自殺する。自殺とは少々オーバーな感じだが、ほんとうは虫酸が走るほど嫌いだったのよ、わたしは脅されてしぶしぶ従っただけなのよ。こう、 安岡に思い知らせるために、わが身を犠牲にした、というふうには考えられないかな。お嬢さん育ちの一途さで、カッとなったら何をしでかすかわからない。い つだったか、お嬢さん学校で有名な女子大の学生寮で、100円紛失した件の嫌疑をかけられたのを苦にして、寮の屋上から飛び降り自殺したお嬢さんがいる。 ある有名なプロ野球選手の奥さんが、夫にとって一番大切な試合の始まる直前に自殺したこともある」
「そうねえ、自殺だったとしたら、まあそういうふにでも考えないと辻褄が合わないわねえ・・・でも、女性のあてつけがま しさというのは、そういうのと少し違うんじゃないかしら。彼女が安岡をどんなに憎んでいたとしても、安岡さんというのは、彼女にとってみれば、ひと握りで 握りつぶせるような存在でしょう。そんなものにわざわざ命をかけるなんて思えないわ。たとえば、夫に愛人ができたとか恋人に裏切られたようなときに、夫な り恋人なりの、自分の力ではどうしようもない権威をぶちこわすために、あえて自殺とい手段を選ぶってことは考えられないでもないけれど・・・」
「なるほど夫に愛人か。もし神島譲に愛人がいたとすると、あてつけがましさは二倍に使えるってわけか。ひょっとすると、 怜子が三村と深い仲になったのも夫の浮気が原因だったってことも考えられるな。もっとも、神島に愛人がいたかどうか、まだつかんでいないけれど」
 私は顎をさすった。
 いつまで話しても結論は出そうになかった。
 ところで、今夜も、夜遅くまで仕事というわけにはいかなかった。

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(1998/11/4掲載)
8

翌朝、わたしはストレイン電機社長の山岡啓蔵宅を訪ね、山岡夫人に面会を求めた。行く前に電話で約束をとりつけて 行ったので、すぐに会うことができた。
 東証一部に上場している会社の社長の屋敷ともなるとなかなか立派なものである。通された応接室の黒い皮張りのソファに ゆったり腰を下ろすと、奇麗にみがかれた大きなガラス戸を通して、手入れの行き届いた日本庭園が見えた。池には、大きな緋鯉が数匹、悠然と泳いでいる。わ たしは、神島譲の妻、怜子のことについて、もうすこしつっこんだことを知りたいと思ってやってきたのである。それには、山岡啓蔵に会うより、夫人のほうが 向いていると思ったのだ。女は女同士ということで、父親には云えないようなことも、母親には話すものだからである。
 山岡夫人は、小柄のしゃきしゃきした感じの女性だった。萌葱の地に藍の竜胆を配した綸子の和服が、よく似合っており歳 より若く見える。
 開口一番、山岡夫人は、
「わたしは最初っから、怜子の結婚には反対だったんでざあますのよ」
と云った。
「こうなることは、目に見えてましたものね」
 そう云いながら、ピンと伸ばした背筋を、さらにピンと伸ばして、わたしの顔をまともに見つめた。その視線には、抑え切 れぬ憤怒がこめられているようだった。
 山岡夫人の話しをかいつまんで云うとこういうことだった。
 娘の怜子は、神島譲という男に、強奪されるような形で結婚させられた。怜子が年頃になると、山岡夫妻にとっては、一人 娘である怜子に変な虫がつくのが一番の悩みの種だった。だから、最初は、怜子が女子大へ行くのさえ反対した。というのも、ゆくゆくは、怜子に養子を迎え て、社業を継がせたいと思っていたからである。

 ストレイン電機は、山岡夫人の実父が創業し、一代で今日の繁栄の基礎を築いた。夫の山岡啓蔵は、父が創業したと き、丁稚奉公同然の形で雇い入れられたが、持ち前の根気と度胸の良さでみるみる頭角を現わし、父にもすっかり気に入られ、山岡家の養子になり、一人娘のわ たしと結婚した。十年前、父が脳溢血で亡くなったあと、二代目社長の座について、ストレイン社を取り仕切っている。だから、怜子の夫には、社長の椅子を継 ぐのにふさわしい人物をということで、社内からあれこれと物色していた。
「それが結局伝統というものざあますものね」
 ところが、娘が大学四年生になって間もないある日、突然、神島譲と結婚すると云い出した。あと一年辛抱すれば、娘も女 子大を卒業し、変な虫がつく心配もなくなると思っていた矢先だった。
 神島譲とは女子大のダンス・パーティで知り合って、親に隠れて交際を続けていたものらしい。もちろん山岡夫妻は猛反対 した。そのころには、社内で、跡継ぎにふさわしい人物の目星もつきかけていたのだ。ところが、怜子が
「もう、赤ちゃんができてるの」
と言い出すに及んで、山岡夫妻も、折れざるをえなくなった。
 かくなるうえは、お腹が目立つようにならないうちにということで、大急ぎで結婚式を挙げさせた。ところが、妊娠四月過 ぎて行った新婚旅行の無理がたたって、怜子は旅行先で流産してしまった。それが、夫婦間にも微妙な心理的なしこりを残すことになったらしい。というのは、 この流産で怜子が妊娠に対して恐怖心を抱くようになり、寝室を共にするのを嫌がったからだ。山岡夫妻としても、孫の顔を一日も早く見たいと思ったものの、 あまり強いことも云えなくなった。
 そんなことがあっても、その後仲直りし、結婚後三年間ぐらいはうまくいっていたようだ。ところが二年ほど前から、ま た、あまりしっくりいかなくなったようで、ときたま実家に帰ってきても、娘の顔色が冴えないようになってきた。ああいう形で結婚した手前、娘はあまり弱気 なそぶりを見せまいとはしていたけれど、その実、かなり参っていたようだ。
 怜子が、三村さんという人とああいうふしだらをやったのも、結局、夫婦仲がうまくいっていなかったからではないかと思 う。それに、はっきりしたことは、娘は云わなかったけれど、神島譲は、自分の研究室で開発した薬品の試飲までやらせたことがあったらしい。
「何の薬か知らないけれど、借りにも自分の妻にですよ。わたしたちにとって、たった一人の娘にですよ」
山岡夫人は語気を強めた。
「ご存じかも知れませんが、神島譲というお人は、他人に対する思いやりと申しますか、、温かみと申しますか、とにかく人 間的な感情に欠けたところのあるお人です。わたしたちも、随分あの人のために尽くしました。何といっても、可愛い一人娘のお婿さんですからね。ところが、 ほんのいっぺんだって、感謝されたことがないんでざあますの。ありがとうのあの字一つ云ってもらったことがないんでざあますの。まるであの人は、人間的な 感情のない機械のようなお人です。自分の名声と立身出世とをガリガリとかき集める大きな熊手を持ったロボットみたいなお人です。何か特別の用でもない限 り、自分のほうから一度だって、わたしどもの家に遊びに来たこともございませんの。
「怜子が自殺ですって?とんでもない。あの娘が自殺するわけががざいません。あの子は、気の強い娘ですからね。夫が浮気 をすれば、自分も仕返しに浮気をする。自殺するなら、相手を殺した上で、自殺する。そういうふうにわたしはあの子を育てたつもりですよ。
「怜子は、神島譲に殺されたんですよ。わたしはいつか怜子は、あの人に殺されるんじゃないかと思っていました。だってそ うじゃありませんか。あのお人にとっちゃ、怜子は、単なる金づるに過ぎなかったんだと思いますよ。怜子と結婚したころは、大変な貧乏のしようでしたから ね。怜子が云ってましたけれど、神島さんの下宿に行ってみて驚いた。とにかく本以外には何もなかった。押入の中にせんべい布団が二枚だけで、あとは全部本 だけ、それもちゃんとした本箱ではなくて、段ボールの箱に詰め込んであったと。
「怜子と結婚して、家もできた財産もできた。もう別にいてもらう必要もなくなった。そこであの人のことですから、怜子死 んで貰うことにしたってわけでしょう。離婚すれば、財産は自分の物にはなりませんからね。ああいうお人ですから、今度はまた別の目的を漁るために、別の女 の人をきっとものにしますわよ。まあ見ててごらんなさい。きっとそうしますから。
「検事さん、神島譲が怜子を巧妙な手段で死に陥れたに決まっていますから、なんとか、そのトリックを暴いて、怜子の霊を 弔ってやって下さいませんか。是非ともお願いしますわ。このまま、神島譲がのうのうとのさばっていたんじゃ、怜子の霊は、死ぬに死にきれず、いつまでも下 界を彷徨い歩くことになりかねませんからねえ。
「安岡さん?ああ、あの坊やみたいな人?目白台の屋敷で二、三度会ったことがありますわ。でも、あの人に人を殺す度胸が あるもんですか。あの子はいい子ですよ。神島譲の親類にしてはもったいないくらいに。
「わたしたちの跡継ぎですって?いまさらどこの馬の骨だかわからない人を養子にする気にはならないわね。わたしたちの財 産は、死んだら全部老人向けの施設へでも寄付することにしようと思ってますわ。あの神島譲だけには、ビタ一文残したくございませんからね」
 山岡夫人はそう云うと、くちびるをピタリと閉ざし、もう一度わたしの顔をまじまじと見つめた。話しているうちに瞳の中 の憎しみの炎は一段と激しく燃え上がって来たかのようだった。
 わたしは、山岡夫人に厚く礼を云って山岡家を辞した。玄関先でしゃがみこんで靴の紐を結びながら何気なく傍らの大きな 姿見に目をやると、着物の袖でふと目頭を抑えた夫人の仕草が目に写った。わたしはあわてて目をそらした。別れの挨拶をするときには、もう何事もなかったよ うに、山岡夫人は、その強いまなざしでわたしを見つめていた。
 わたしは、その足で安岡が留置されているM署に足を運んだ。安岡に確かめておきたいことがあった。

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9

「君が、叔母さんと結ばれた夜、叔母さんは自殺をほのめかすようなことを何か云わなかったのかい」
「別に何も云いませんでした」
「叔母さんの様子から、自殺しそうなけぶりを感じなかったのかな」
「少しも感じませんせした」
「ところで君は前に、叔母さんとは、君との道ならぬ関係を苦にして自殺したのではないかと証言しているね。全然そういう けぶりも見えなかったのに、叔母さんが自殺したというふうに考えたのは理屈に合わんじゃないか。どうして自殺と決め付けたのか。その理由を聞かしてくれな いか」
「別に理由ってほどのことは何もないんです。そうとでも考えないと辻褄が合わないので、自殺じゃないかって思っただけで す。わたしが叔母に薬を呑ませるわけがありませんし、叔母がベッドから起き出していって呑んだ水の中に、誰かが毒薬を仕掛けていたと考えるのはあまりに不 自然ですし・・・」
「叔母さんが、ベッドに戻ってきたのを君は覚えているかい。その時の叔母さんには何か変わったところはなかったかね」
「ほんのかすかに覚えています。叔母がわたしの隣にもぐりこんできて、わたしを抱きしめたり、身体をこすりつけてきたり するのでちょっと目を覚ましたのです。しかし、あの晩は、なれないお酒を飲んで、とにかく眠たかったものですからそのまま眠り込んでしまいました。叔母に 変わったところがあったかどうか、わたしには何とも云えません」
「君は、W大の四年だったね」
「ええ、この三月に卒業だったのです。でも・・・」
「でも?」
「こんなことになってしまったので、わたしの一生はもうめちゃめちゃです。せっかく決まっていた就職先もだめになってし まいましたし・・・・もうどこもわたしのことを雇ってはくれないでしょう・・・何も悪いことをしていないのに、そう思うと・・・」
 そういうと安岡は、両手で顔を覆って泣きだした。白く細い、女性のように繊細な感じのする指の間から、涙がこぼれ落ち た。
 もし、安岡が、彼の主張するとおり無実だったとしたら、彼を留置している我々の責任はどうなるのだ。あたかも彼が犯人 かのように、顔入りの写真まで掲載した新聞社や週刊誌の責任はどうなるのだ。・・・

 わたしは、そのとき、わたしの心証が固まり始めたのを感じていた。しかし、わたしは、自分の心のなかとはうらは らに、つい激しい言葉を安岡に浴びせかけていた。もし、彼が、この言葉にへこたれず、自分の無実を主張するようなら、わたしは、彼を釈放してもよいとさえ 思っていた。しかし、それがわたしの失敗だった。

「おい、男のくせにメソメソするな。証拠は全部あがっているんだぞ。君は叔母さんを殺したんだ。殺しておいて、証 拠品は、現場から全部持ち出して湮滅してしまったんだ。そのチャンスも時間的余裕も十分あった。現に君は一旦家の外に出ている。誰に聞いても怜子という女 性は自殺するようなタイプの女性ではなかったと云っている。とすると彼女が死んだのは他殺以外にありえないじゃないか。その現場にいたのは、誰なんだ。君 一人じゃないか。君がいくら無実を主張しても、これだけ情況証拠がそろえば、われわれは、君を十分死刑台に送り込むことだって出来るんだ。この際、就職ご ときが何だ。一人の人間の尊い命が奪われているんだぞ。さあ、メソメソしないで、ほんとうのことを話したらどうだ。えっ!」
 わたしが激しくたたみかける様を、安岡は、呆然とした面持ちで見ていた。わたしが、言葉を切ると、安岡は机の上にうつ 伏せになって泣きじゃくった。肩が激しく震えていた。わたしは、少し言い過ぎたかと思ったが、下手に出て、慰めるのも職掌がら体裁が悪かった。
「今度来るまで、良く考えておけ」
 そう強く言い捨てて、わたしは取り調べ室の椅子を蹴った。
 
 

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10

 わたしは、本庁にもどるタクシーの中で、ちょっと三村助教授に会って確かめておきたいことを思いついた。そこで タクシーを止めて、道路端の電話ボックスからT大へ電話した。すぐいらっしゃれば三十分ほどお会いできますということだった。わたしは、車を本郷に向けて 飛ばした。
 三村助教授とは、T大の正門前のエメラルドとう喫茶店で落ち合った。わたしが指定された場所で待っていると、痩せて長 身の眼鏡をかけた男がわたしの前に腰を下ろした。長い髪が、顔の前にパラリとたれるのを右手でかきあげながら、その男は、
「三村です」
と名のった。こころもち顔色が冴えなかった。
 わたしは、いささか無躾な話で恐縮だが、と断わって、いきなり本題に入った。
「あなたと怜子さんが性的交渉を持たれたときには、何か避妊用具は使われましたか」
「えっ」
三村助教授は、顔を上げ、眼鏡の奥の細い目をしばたいた。最初に無躾な話であると断わったものの、これほど無躾な話とは 思わなかったらしい。三村は顔を赤らめると
「別にわたしの方は何も」
「使わなかったのですか」
「ええ、彼女の方で使ってくれといいませんでしたし」
「それで妊娠したらどうするつもりだったんですか」
「今は男性が使わなくても女性用の避妊法がいくらでもありますし、おそらく経口避妊薬でも使っているのだろうと思って、 別に気にもしませんでした」
「ところで、お宅の研究所では、今何を研究しているのですか」
「そうですね、いろいろありますが、DNAによる遺伝伝達の解明や生命体の合成が主な研究テーマですね」
「避妊用の香水とか事後避妊薬といったようなものは研究しておられませんか」
「ええ、ぼくのところではやっておりません。神島君のところで少し手がけているようなことを聞いたことがありますが」
「あなたは、怜子さんの死因は、自殺と思いますか、それとも他殺と思いますか」
「ぼくには、まったくわかりません」
「ところで、あの日は、怜子さんとデートをする約束をしておられたんですね」
「ええ、五時に、神楽坂で会う約束でした。ところが、交通事故を起こしてしまったのでだめになりました」
「あなたは、怜子さんに会えなくなった旨の連絡はしたんですか」
「ええ、待ちぼうけをくわすわけにはいきませんので、病院の看護婦に頼んで自宅へ連絡してもらいました。妹も看護に駆け つけてくれましたが、まさか妹に頼むわけにもいきませんし。相手は、同僚の人妻なんですから」
「あなたは、この件で相当ショックを受けたでしょうね」
「ええ、まさに大ショックをね。週刊誌にはあることないこと書き立てられましたしね。神島君との関係は、もちろん絶交状 態ですが、同僚の妻に手を出したということで、殿村教授門下では、肩身の狭い思いをしていますよ。そのうち、地方の大学へ追い出されることになるでしょう な。もっとも身から出たサビで、苦情の持って行きどころもありませんがね。神島の奴は、ぼくというライバルが消えたんで、奥さんがああいうかたちで亡く なったのを、案外喜んでいるかもしれませんな。今にして思うと、どうして怜子という女性と、あれほど深い仲になったのか、自分でもよくわからないんです よ。気の迷いとでもいうのでしょうか。それとも、かの令名高き神島助教授の御令室を意のままにすることで、姑息な優越感を味わいたかったのかもしれません な。いやそれにしても、あの頃、神島の奴、ぼくを毎回忘れずよくパーティに招待してくれたものだ。まったく」
 三村は、これだけ自嘲的に言うと、何がおかしいのか、独りで、顔をのけぞらせながら、
「ハハハハ・・」
と笑った。その笑い声は、うつろで生気がなかった。
一人の人間の死は、いろんなところで、様々な波紋をまき起こしている。わたし自身も、その波紋の中にまき込まれている一 人なのかもしれなかった。
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11

その夜、家に帰ると、妻が赤飯をたいて待っていた。
「どうしたんだい」
わたしが理由が思い浮かばず尋ねると、妻は、うしろを向いて、恥ずかしそうにクスクス笑っている。
「今日は何かの記念日だったっけ」
わたしが小首をかしげる様を横目で盗み見ながら
「できたのよ」
「えっ?」
「もう三月らしいの」
そうだったのか。五年目にしてやっと赤ちゃんに恵まれたというわけである。
「でかしたぞ」
わたしは、妻を強く抱きしめた。妻は、しあわせそうに、わたしの肩に頭をもたせかけてきた。
 わたしたちが、産まれてくる赤ん坊のために、二人だけのささやかな祝をしていると電話のベルがけたたましく鳴りだし た。電話口に出るとM署からの連絡だった。
「安岡好雄が自殺しました」
電話の声が言った。
わたしは、脳天をいきなりこん棒で殴られたような衝撃を覚えた。
「あなた、どうかなさったの?」
頭を押さえてその場にうずくまったわたしの背後から、妻が心配そうに声をかけた。
「安岡が自殺したんだ。俺が安岡を殺したんだ」
わたしは、うめくような声で言った。
安岡は、着ていた自分のズボンを裂いて、それで首をつって死んだのである。小さな紙切れに
<私は無実です>
とだけ書き残して。
わたしの胸に、この短い言葉が突き刺さった。
翌朝、家を出るとき、
「起訴することに決めたよ」
わたしは、ポツンと一言、妻に言った。
「えっ、起訴するって、一体誰を?」
妻は半信半疑のおももちで、わたしの顔をのぞきこんだ。
「神島譲だよ。死んだ安岡好雄のためにも、徹底的に戦ってやる」
「あなた、何か成算あるの?神島譲には、鉄壁のアリバイがあるし、無茶な戦いを仕掛ければ、傷つくのはあなたの方よ」
妻は心配そうにわたしの後ろからくっついてきた。
「成算はないかも知れない。しかし、俺は戦うんだ」
わたしは自分自身に言いきかせるようにきっぱりと言った。わたしがそう言うと、妻はそれ以上何も言わなかった。わたしが 頑固なのを妻は良く知っている。それ以上言っても無駄だと思ったのだろう。
 わたしは、それから一週間後、神島譲を起訴した。その一週間の間に、わたしの推理の最後の詰めをやったのだ。
 そして、結論を先に言うと、わたしは第一審では勝ったのだ。すでにT大生物学の主任教授に内定し、退官する殿村教授の 末娘と結婚する日取りまで決めて、いまや昇天旭日の勢いにあった神島譲に、この世に正義というものがあることを思い知らせてやったのだ。
 

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12

ところで、わたしが神島譲の犯行と断定するに到った推理のあらましはこうである。

 わたしがまず考えたのは、怜子は、なにか薬を飲むつもりで、青酸カリを飲んだのではないかということである。
 強制的に飲まされた形跡がなかったことや、青酸カリはカプセル状のものに入っていたらしいという解剖の結果から考えて も、おそらくそれに間違いないものと思われた。ところで怜子は、性的交渉のあった直後に、わざわざベッドから抜け出してまでして、どうして、その薬を飲ま なければならなかったのだろう。それがまず第一の関門だった。最初は二日酔いの薬の線で考えたのだが、性行為ができる程度にしかアルコールが入っていな かったとすれば、どうもそれは合点がいかない。性行為が終わってから、わざわざ二日酔いの薬でもなかろうからだ。

 それでは何か持病の薬かというと、これも検屍の結果からみて否定せざるを得ない。彼女には、持病らしきものが何 一つ無く、きわめて健康体だったことが証明されている。

 それでは、二日酔いの薬でも持病の薬でもなかったとして、彼女が飲んだ薬は、いったいどういう種類の薬だろう。
 性行為の直後に、アルコールがかなり入っていたにもかかわらず、わざわざ起き出していって飲まなければならなかった薬 とは一体何だろう。そこまで推理を進めていき、結局彼女が飲んだ薬は、安岡との性行為に直接関係する薬だったに違いないとい う結論に達したわけである。性行為に関係ある飲み薬ということで、わたしは経口避妊薬を思い浮かべた。甥の安岡好雄との間に子供ができては絶対に困るので ある。

 ところで、当初わたしには、経口避妊薬は事前に飲むものだという知識しかなかった。しかも、経口避妊薬というも のは、行為の直前に飲んですぐ効果が現れるものではない。月経が始まった五日目から毎日一錠ずつ飲み続けなければならず、一日でも飲み忘れるとせっかくの 効果がご破算になってしまう、少々扱いにくい薬なのだ。それはわたしの妻が使ったとき、使用書を読んでよく知っている。だから、事前に飲む経口避妊薬の中 に青酸カリを仕掛け、性行為が終わり、しかも眠りついたところでうまく効くようにするようなことは、おそらく不可能なことである。たとえ、カプセルの形状 なり、厚さなりを、どんなにうまく工夫してみたところで、そんなにうまくいくものではない。そこでわたしの推理は暗礁に乗り上げていたというわけだ。

 ところが、わたしは神島譲の「生物学の未来」を読んで、事後避妊薬なるものが開発 されつつあることを知った。

 わたしは、これだ、と思った。

 怜子は、事後避妊薬を飲むつもりで、何のためらいもなく、青酸カリの入ったカプセルを飲んだのだ!

 神島は、自分の研究の成果を確かめたい、ということで、怜子に事後避妊薬の試用を頼み、彼らの行為の後、毎回用 いさせることにした。そして、そては、所期の効能を発揮した。秘密が、外部に漏れては困るということで、他人に口外することを禁じ、最初から容器も市販の 風邪薬のビンを利用し、カプセルの形状も市販のそれを利用したのである。彼女が薬の試用に協力させられていたのは、彼女の母親の「神島は、自分の研究室で 開発した薬品の試飲までさせたことがあるらしい」という話からも十分伺える。しかも、「妊娠に対して恐怖心を抱いていた」怜子には、こうした簡単な避妊法 に協力する下地はあったのである。

 神島譲は、計画的に当面のライバルである三村と怜子を接近させ、ひそかにチャンスをうかがっていたのであろう。 帝産探偵事務所からの報告で三村と怜子の仲が決定的であることを知ると、計画を実行することにしたのだ。怜子が浮気しているらしいということはひょっとす ると、事後避妊薬の数を、綿密に数えることにより、気づいたのかもしれない。自分との行為の数より、薬の減り方が多ければ、怜子がほかでそれを利用してい ることがわかるというわけだ。

 神島譲は、自分のアリバイを決定的にするために、札幌へ行く。おそらく、そのころ、事後避妊薬が切れるようにし ておいたのであろう。

 そうしておいて、真新しい薬のいっぱい入ったビンを書斎の机の引き出しに入れておく。ビンは、真新しいのでまだ 入口にセロファンのくずがいっぱい詰まっている。神島は細工をして特定の一個だけが、取り出しやすいようにしておく。書斎に忍び込んだ怜子は、盗んだ形跡 を残さないため、一番取り出しやすい最初の一個だけを取り出して、ハンドバッグに忍ばせる。

 三村との情事のときは、彼女のほうで避妊をしていたことは、三村の話の通りだったのだろう。その点からいえば怜 子は、なかなか情事のたしなみのいい女である。そしてその際、避妊法としては、一番簡単な事後避妊薬を用いたことだろう。情事が終わってから飲みさえすれ ばいいのであるから、何といっても簡便である。コンドームにしてもペッサリーにしても、せっかくの情事の情緒を殺ぐことおびただしい。わたしは妻のこと で、このことを痛感している。

 怜子が、ハンドバッグに忍び込ませていたカプセルは、三村に不測の事故があったために、結局安岡好雄との情事の 後で用いられることになった。

 これは、神島にとって計算違いだった。神島の最初の筋書きでは、おそらく、行きつけのモーテルで、三村との情事 の後に用いられることになっていたのであろう。というのは、モーテルでの情事の直後、怜子が死ぬことになれば、三村助教授にとっては、致命的なスキャンダ ルになることは火を見るより明らかなことだからである。うまくいけば、三村助教授には、殺人罪の嫌疑が掛けられ、有罪になるかもしれない。どちらに転んで も、三村が失脚する事は、間違いない。

 そうなれば、正教授の椅子が自動的に神島のところに転がり込んでくる。そのうえ、怜子が死んでくれれば殿村教授 の末娘と結婚するチャンスさえできるというわけだ。怜子の財産も自分のものになるし自分には鉄壁のアリバイがある。一石二鳥にも三鳥にも使えるというわけ である。

 ところが、思わぬところで筋書きが狂ってしまった。予想もしなかった甥の安岡が、妻の情事の相手役に登場してき たのである。しかも、舞台が、自宅になってしまった。

 安岡に嫌疑が掛かる前の神島譲の証言などを読むと、神島は、あの時点では、情事の相手がまだ三村助教授であると 信じていたフシがある。もったいぶった言い方で、帝産探偵事務所という名前を出したのも神島であるし、
「ひょっとするとその事務所で何か情報を握っているかもしれない」
という、思わせぶりな臭わせ方さえしている。そこで出てきたのが、怜子と三村が連れ立って、モーテル「エドワード」を出 てくるところの写真だった。

 ところでわれわれが、同探偵事務所の内偵を進めたところ、神島は事前にその写真を見て知っていたことが判明し た。「ひょっとするとその事務所で何か情報を握っているかもしれない」
という言葉とは裏腹に、自分にその写真を見せたことは内密にしておいて欲しいとまで、言っていたのである。内密にしても らうため、神島が相当の金を探偵事務所の担当者に握らせたことも判明している。

 思わせぶりに臭わせた三村には、完全なアリバイが有り、折角苦心して仕掛けた罠にかかったのが、甥の好雄である ことを知ったとたん、神島の安岡に対する態度が異常に硬化したのも、妻を寝取られたことに対する憎しみだけでなく、自分の仕組んだ筋書きをメチャメチャに されたことへの怒りの気持ちがあってのことだろう。

 だから、神島が、あの朝、安岡に電話したのは、彼自身のアリバイをはっきりさせるためにも自分の計画がうまく いったかどうかを確かめるためにも、どうしても必要だったというわけである。電話をかける口実をつくるために、わざわざ、レポートの一部を忘れたことに し、玄関を開ける鍵まで、門灯の脇においていたという風にも考えられよう。屋敷内を安岡に調べさせて、怜子がいないということがわかれば、それを契機に行 方不明の怜子をさがす筋書きだったのである。

 神島は、自分の家でまさか妻が死体となって発見されるとは予想もしていなかっただけに、好雄の電話を受けたとき は、少々あわてたに違いない。しかし、屋敷内には、証拠らしい証拠はなにも残していない。妻が死んだということは、風邪薬のビンの中に入れた、たった一つ の青酸カリ入りのカプセルを飲んだということであるし、他の薬は事後避妊薬ならぬ市販の風邪薬が詰めてあるだけである。

 その上自分は札幌にいたという完全無欠のアリバイがある。好雄は、011と札幌の局番を回して電話したと証言し てくれるに違いない。事後避妊薬のトリックに気づく者はまずあるまい。ということで札幌から空路帰京した神島譲は、捜査陣の前で、妻を不慮の事故で亡くし た夫の役を悠々と演じて見せたというわけである。

 ところで事後避妊薬だが、神島は、某製薬会社に対して極秘裏に、数億円のオーダーでパテントを売る話を持ちかけ ていたことが捜査の結果判明した。

 わたしは、当初事後避妊薬の実物はまだこの世に存在しないのではないかと思っていたのだが、やはり最近の生物 学ーバイオテクノロジーの進歩は大変なもののようだ。しかし、たとえ事後避妊薬が開発されていなくても、同様の犯行を行うことは不可能ではない。事後避妊 薬の原理さえ解明されていれば、これが今度開発された事後避妊薬であると偽って他の薬を飲ませ、女性に妊娠させないために、男性の方が避妊手術を受けてい ればいいわけである。神島ほどの生物学の権威がいえばまずどんな女でも信用する。女性の方では妊娠しないのは薬が効いたためと思うであろう。

 そうして、事後避妊薬を飲むことを習慣化しておき、いつか、青酸カリを入れたカプセルをかわりに渡せばいいわけ である。たとえば、この薬は行為後五時間たってから飲むとでも教えておけば自分のアリバイを成立させる時間的ゆとりは十分ある。ただこの方法は、女性が複 数の男性と関係を持っている場合には若干用いにくい面もあるが、試供品ということで、薬を厳重管理し、自分以外の者との情事のときには絶対用いさせないよ うにしておきさえすれば、やってやれぬことはない。

 ところで、わたしは三村助教授に会いに行く時点では、彼に対する疑いも捨てきれずにいた。彼の専門も分子生物学 であり怜子と性的交渉を持っていた以上、彼にも怜子に青酸カリ入りの事後避妊薬を与えるチャンスは十分あったのだ。しかも、彼には怜子を殺すだけの動機が 推定できる。次期正教授争いがいよいよ日程に上り、殿村の末娘に接近する必要性が高くなってみると怜子にまつわりつかれては邪魔になるという状況も想定で きるからだ。しかし、三村助教授に会った際の彼の話しぶりからその疑いは晴れた。彼がもし犯人なら、どんな避妊をしていましたかと訊かれれば、コンドーム を使っていましたとでも言うはずである。怜子の方で経口避妊薬でも使っていたのじゃないかと思うというのは、犯人としてはいささか軽率な発言であろう。

 それに、わたしが「避妊用香水とか事後避妊薬といったような者は研究しておられませんか」と訊いたのに対し、 「ええ、僕のところではやっておりません。神島君のところで少し手がけているようなことを聞いたことがありますが」と答えている。これは、彼が事後避妊薬 のトリックに気づいていない何よりの証拠である。わざわざ「神島君のところで少し手がけている」らしいなどと付言することは、犯人としたら、不用意極まる 話だからである。彼が犯人ならこの世に事後避妊薬なるものが存在しないことにしておくに限るというものだ。

 以上のような推理から、わたしは、神島を起訴したのであるが、第一審の裁判所では、わたしの推論をほぼ全面的に 取り入れてくれたというわけである。

 残念でならないのは、この事件で安岡という有為の青年を殺してしまったことである。わたしが、最後に安岡に会っ たとき、わたしは、以上のような推論にほぼ達していた。もう一つはっきりした、安岡の無実の叫びを聞きたいと思ってやったことが、彼を死に追いやることに なってしまったのだ。何度悔やんでも悔やみきれない。

 しかし、たとえ第一審にしろ、わたしはこの困難な裁判に勝ったのだ。これが少しでも安岡の霊に対する慰めになっ てくれればとわたしは思っている。

 第一審の判決後、神島は、検察側のデッチ上げ裁判に対して徹底的に戦うと宣言し、ただちに高裁に控訴した。金に 飽かしてやってくる神島との戦いは、これから何年かかるかわからない。おそらくわたしと神島との戦いは最高裁まで続くことだろう。

 第一審の最中に生まれた赤ん坊はもう二つになった。わたしはその子に好雄という名前を付けた。
 わたしは安岡好雄の弔い合戦をしているつもりで、これからも頑張って行くつもりである。

(了)

 
 


第3回サンデー毎日新人賞[推 理小説部門]選後評

評 者
選 評
中 島河太郎氏
 秋井哲郎氏の「情事のたしなみ」には 好感が持てた。助教授夫人の変死の謎をめぐって、容疑者の甥やライバル助教授が登場するのは陳腐だが、生物学的考察に着目したのはおもしろいし、それに担 当検事の家庭までちょっぴり覗かせた工夫は買える。無難な作品だけに、迫力に欠けたのが惜しい。

佐 野 洋 氏
 『情事のたしなみ』は、たしかに、巧くまとまっているが、事件の性格、探偵役なども、ありきたりすぎる。思いつきをまとめ上げただけという印象で、新人 らしい覇気が感じられなかった。



(参考)

推 理部門候補作品
作 品名
筆 者
1
腐 蝕色彩(受賞作)
小 林 久三
2
懲 罰委員会
宿 毛川 健
3
孤 老の苑
里 生 香志
4
情事のたしなみ
秋井 哲郎
5
旅 立ち
深 谷 忠記


 

『小説サンデー毎日』1972年7月号より(116p~117P)



遺 書は風に散った | 情事のたしなみ|遺書をしたためる間に|ジョギングシューズ|浮気の報酬|二重の環|

(了)


 


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