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二重の環 (2007.6.3掲載開始) |
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| このミステリー「二重の環」も、最近掲載した(2007.5.13~5.27)「浮気の報酬」同様その存在もまったく忘れていたのだが、たまたまゴール デン・ウ イークに同じ書斎の本棚で同時に発見したものである。おそらく同時期(1974年)に書いたものであろう。四百字詰め原稿用紙で500枚の長編である。少 しずつ掲載していきますので、ご愛読をお願いします。 |
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| 目次 1 2(以下続く) 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 |
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| 1 (2007.6.3掲載) |
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来宮由美が死んだ!? 夕刊は、「今朝、若き女子銀行員絞殺される!」と社会面で三段抜きで扱っている。犯人はまだ捕まっていない。死亡推定時刻は、今朝の八時頃らしい。発見 者は、マンションの管理人の西村寿ということになっている。 私は夕刊を読みながら、自分の腕がわなわなと震えているのに気づいていた。おそらく、顔も真っ青になっていたことだろう。 こんな様子を、課の他の連中に気づかれてはまずい。私はそう思って、読みかけた夕刊をそそくさとたたむと、応接用のテーブルの上に戻し、自分のデスクに 戻った。 しかし、落ち着けなかった。庶務係の安井邦子が、夕刊を持って来たとき、私は引かれるようにして、会社では滅多に見たこともない夕刊を、課長を差し置い て見に行ったのだ。デスクには戻ったものの、私は一刻も早く、誰もいないところで、夕刊を隅の隅まで読みたかった。そうしなければ、不安でいても立っても いられなかった。 私は課長に、気分が悪いので早退したいと願い出た。時刻は午後四時十五分を差していた。 「いったいどうしたんだい。さっきまで元気そうだったじゃないか」 課長は、私の顔をいぶかしそうに見ながら言った。私はとっさに適当な言葉を思いつかず、口をモゴモゴさせた。そんな私をジロリと上目遣いに見ると、 「まあ、今日は別に急ぎの用もないからいいだろう」 右手で軽く机を叩きながら課長は言った。その眼は、あらぬ方角に向けられたまま、冷たく固定している。 私は、心の中でチッと舌打ちした。たかが四十五分早退するだけでこれだ。もっとも、朝も三十分近く遅刻したのだから大きなことは言えないか。 私は、黒のダスターコートを引っ掛けると、大急ぎで、丸忠商事会社の玄関を出た。玄関を出るたびに、こんな会社なんてクソ食らえだと私は思う。この会社 に入って、六年になるが、二、三年このかた、そう思わない日は一度もない。 外に出ると、もう日は暮れかかっており、頬に当たる風は冷たかった。会社の前の通りには、しょぼくれたプラタナスが、ひょろひょろと二、三本突っ立って おり、ほとんど葉の落ちた小枝を、スモッグに薄汚れた灰色の空に、寒々と突き出していた。本当に冴えない風景だ。東京には、本当の空もなければ、本当の緑 もない。 私は、コートの襟を立てるとポケットに両手を突っ込み、肩を丸めて歩き出した。 二十メートルほど行ったところで私は立ち止まった。いつもの習慣で、私の足は、ひとりでに地下鉄の虎ノ門駅へ向かって歩き始めていたのである。 <いったい俺はどこへ行けばいいのだろう。このまま自分のアパートへ帰ったものか?それとも?> 私は、自分で自分の行き先を決めかねた。プラタナスの側にしばらく立ち止まって思案したもののいい知恵も浮かんでこなかった。とにかく、夕刊を読んでか ら、どこへ行き、何をするかを決めることにしよう。私は、足早に再び歩き始めた。 退社時刻より幾分早いせいか、街路の人通りはあまり多くなかった。とはいえ、私は、人目が恐かった。皆の視線が自分の上に注がれているような気がしてな らなかった。私は、ダスターコートの襟を立て、その中に顔を埋め、追われる者のように虎ノ門の駅まで急いだ。そこまで男の足でなら五分とかからない。 駅の入り口で私は夕刊を買った。 百円玉を週刊誌の山の上に放り投げ、新聞差しから、数種類もの夕刊を適当に抜き取ると、私は、足早に立ち去ろうとした。 と、背後から 「もしもし、お客さん」 女の声が呼び止めた。 私は、ハッとして一瞬立ちすくみ、息を詰めて、後ろを振り返った。 「お客さん、お釣りをお忘れですよ」 頬かぶりをした五十がらみの売り子が、太い骨筋ばった手のひらに、十円玉を二つ三つのせて私の方に差し出していた。 「これは、どうも」 私は、精一杯作り笑いを浮かべながら、差し出された手のひらの上から十円玉を拾い上げると、無造作にコートのポケットに放り込み、フウッと肩の息を抜い た。 ところで、どこで夕刊を読んだものだろう。あたりを見回すと、もう、ネオンサインが輝き始めていた。その中には、行きつけの喫茶店のネオンサインも混 じっていた。 <喫茶店にしようか> とチラと思ったものの、 <でも、会社から五分と離れていない喫茶店は安全だろうか> と思いなおし、私は、とりあえず地下鉄に乗ることにした。 虎ノ門の駅は、プラットホームの拡充工事も終わり、その部分だけが、ピカピカと輝いていた。私は、いつもと逆方向の浅草行きに乗った。ラッシュアワーに はまだ間があり、車両にはかなり空席があった。 それでも、私は、席に坐らなかった。何となく不安で、席に坐る気になれなかったのだ。私は、運転席の近くのガラス窓にもたれかかり、新聞紙で顔を隠しな がら、夕刊に目を通した。 どの新聞の記事も大体似たり寄ったりだった。おそらく、夕刊の締め切り時刻ギリギリに飛び込んで来たニュースだったのだろう。新聞社ごとのニュアンスの 差があまり出ていない。記事の内容は、大要次のようなことであった。 ーー今朝、若い女子銀行員絞殺される 今朝十時頃、渋谷区代々木3-2-××マンション「明神」の三○一号室で、富士信用銀行半蔵門支店勤務の来宮由美さん(二七)が死んでいるのを、同マン ションの管理人西村寿さん(五三)が発見し、S署に通報して来た。西村さんの話では、今朝十時頃、来宮さんの勤務先からの電話で、来宮さんが無断欠勤して おり、来宮さんの自室に電話しても誰も出ないので様子を見て来た欲しいと頼まれた。そこで同室に赴き、ドアを叩いてみたが返事がないので不審に思い、隣室 の主婦に立ち会って貰ったうえで、合鍵で部屋に入ってみたところ、ベッドの上で死んでいる来宮さんを発見したというもの。 S署の調べによると、来宮さんの死因は窒息によるもので、首には、両手で絞めた痕があるため、殺人事件と断定し、同署に捜査本部を設け捜査を始めた。 来宮さんは、通勤服姿で殺されており、死亡推定時刻は午前八時前後であることや、前夜、来宮さんのところに男客があったという関係者の話から、捜査本部 では、その男客が、今朝、来宮さんを殺害した上で逃亡したものとみて、その男の行方を探している。 室内には、かなり物色した跡があり、来宮さんが、貯金通帳類をしまっていたと見られるタンスの最上段の引き出しは、空になっているところから、殺害した 犯人が持ち去ったものと見て、犯行の動機は痴情関係のもつれと、物盗りとがからんでいるとの見方をしている。 捜査本部は、来宮さんの前日の行動を調べているが、来宮さんは、勤務先を定刻に退社しており、その後の足取りはまだつかんでいない。 来宮さんは、山梨県甲府市の出身で、同市の県立N高校を卒業後直ちに上京して、富士信用銀行に入行し、預貯金部勤務九年のベテラン。勤務ぶりも真面目で 同僚の評判も良く、直属の上司である黒沢厚志さん(三一)も「彼女が殺されるなんて夢にも思いませんでした」と語っている。 どの新聞にも、マンション「明神」の写真と来宮由美の写真が出ている。 由美の写真は、彼女のアルバムから転写したのだろう。写りも良くないし、私の知っている由美にはあまり似ていない。髪型がそっくりなので、由美らしく見 えるが、実物の由美のほうが、もうちょっと美人だった。 しかし、新聞の写真に文句を言っても始まるまい。たかが二センチ×五センチ程度の新聞写真では、これが由美の写真と強弁されれば、逆に一応信じざるを得 ない程度の信用しか置けなくても仕方がないというものだ。 トップへ |
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| 2 (2007.6.3掲載) |
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私が来宮由美という女性と知り合ったのは、つい二ヶ月ほど前のことだった。 あの日、私は、ひどく疲れていた。疲れると仕事どころではなく、私は、椅子にぐったりともたれかかり、ビルの七階にある職場の窓からぼんやりと外を眺め ていた。 スモッグでどんよりと黒ずんだ空の下に、様々ないびつな形をした灰色のビルがどこまでも続いていた。 何てへんてこな格好のビルを、所狭しと建てやがるんだ。潤いも、ゆとりもない、がさつなだけの風景。 と、突然、その一つ一つのビルの中で、くそ真面目な顔をしながら黙々と働いているおびただしい人間の姿が私の脳裏に浮かび上がってきた。その情景は、私 の頭の中で、緑の滴るように美しいジャングルで生き獲られた多くの獣が動物園のコンクリートの檻の中で、一日中調教師のムチに操られながら、無気力で単調 な芸を繰り返しているイメージと重なり合い、私の神経を一層イライラと疲れさせた。 <この俺も、くそ真面目な顔をした一匹の猿回しの猿に過ぎないのだ> ところが、我が課の調教師殿は、ぼんやりと窓の外を眺めている私の存在が気に入らぬと見えて、ゆっくりとくゆらしていたタバコの火を灰皿で手荒くもみ消 すと、今しも、私に向かって声をかけようとしていた。 私は、その気配をめざとく感じ取り、課長から頼まれた資料作りにあわてて取りかかろうとした。でも、その日は一瞬タイミングが遅れてしまった。いつもな ら、そんなヘマはしなのだが… 「江藤君」 怒気を含んだ永山課長の声が、事務室の中に響き渡った。 「私が頼んだ資料は、もう出来たのかね」 「いいえ、まだです」 私は、あたふたと立ち上がり、顔を伏せながら答えた。 「もう午後三時半だよ。明日の会議に使う大切な資料だ。ぼんやり窓の外を眺めている暇があったら、今日中に私が眼を通せるように早くまとめてくれなきゃ、 だめじゃないか。君は、全く仕事が遅くていかんなあ」 <大切な資料か> 私は心の中で、吐き捨てるように言った。 私の勤めている丸忠商事では、月に一回の幹部会に、前月の出張旅費の使用状況を報告することになっている。その集計表を作るのが、庶務係の私の役目だっ た。二、三ヶ月前から課長の思いつきで、出張旅費と販売実績の相関関係の分析をつけて出すことになった。全国を八つのブロックに分けて、各ブロックごとに 出張旅費と売上高を集計し、その相互関係の比率を出して、無駄な出張を極力少なくしようというのが課長の狙いなのだそうだ。幹部会では、大して重要視され てもいないらしい資料の作成のために、私は、あっちこっちの課を飛び回って資料を集め、卓上電子計算機のキーを叩いて、面倒な数表作りをさせられているわ けだった。 こんなつまらない仕事に、私は向いていないのだ。私が商事会社に入ったのは、営業畑でバリバリと仕事をしたいと思ったからだ。あわよくば私は、海外に赴 任して、まだ見ぬ外国で、スリルと冒険に満ちた生活を楽しみたかった。 六年前、希望に胸を膨らませて入社した私が、最初に配属されたのは、総務部の庶務課というところだった。入社以来今日まで、その同じ職場で、出張旅費の 計算や切符の手配に追い回され、他人のパスポートのために奔走することはあっても、自分用のパスポートとは、まったく縁のない仕事を、毎日毎日あくせくと やってきたのである。大の男に、出張旅費の計算や集計を日永一日やらせておいて、生き甲斐を感ぜよというのは無理というものだった。こんな仕事をやらせて おいて、能力があるもないもないものだ。 私は、二、三年前からそう思い始めた。そう思うと、余計仕事がつまらなくなった。つまらないと思いながら仕事をやっているとむやみとくたびれて来るの だった。 そんなわけで、あの日も私は、仕事をやる前から精神的に参っていた。こんなつまらない仕事をするくらいなら、今すぐでも永山課長の横っ面に辞表を叩き付 けて会社を辞めてもいいとさえ思った。いや、そうできたらどんなに素晴らしいことだろうと夢想していただけに過ぎない。いつもそう思うだけで辞表を叩き付 ける勇気など、私にはなかった。私は、退社時刻後も、一人居残り、課長に頼まれた資料を、なんとか仕上げてから会社を出たのである。 会社を出たのは、もう九時に近かった。私は冷たい万年床の待っている自分のアパートに、そのまま帰る気にはとてもなれなかった。どこかで憂さ晴らしをし たかった。この夢も希望もない生活を一時的にせよまったく忘れてしまいたかった。 私の憂さ晴らしといえば、それまで映画に相場が決まっていた。それも一本百五十円の洋画を新宿の名画座で見る程度だった。しかし、あの日は映画を見る気 はしなかった。それに映画を見るにしては時刻が遅すぎた。 どこへ行ったものだろう。私は考え込んだ。バーやキャバレーを思い浮かべたものの、何となく心もとなかった。というのは、私はそれまでついぞ一人でそう いう所へ出入りしたことがなかったのだ。私は、酒が格別好きな方でもなかった。ところがあの夜ばかりは、酒が無性に飲みたかった。日頃の羽目を外して、グ テングテンになるまで、痛飲したい思いだった。 考えてみると、私はそれまで酔いつぶれた経験がなかった。会社の連中に無理に誘われて飲み屋に行ったり、会社の忘年会などで飲むにしても、いつもほんの おつき合い程度しか飲まなかった。皆が愉快そうにわいわい騒ぎ回るのを、傍らからポツンと見ていることが多かった。私は、決して皆と打ち解けなかった。酒 を飲むと大の男までがベタベタと癒着してしまうような人間関係が私はどうしても好きになれなかった。 そういう意味では、私は、いわば、生真面目人間だった。真面目一方で、堅物で、人付き合いの悪い男だった。そうした真面目過ぎる私の性分が、日頃のつま らぬことにもくよくよし、パッと外へ発散し切れない原因ともなり、その鬱積が、私の疲労の原因にもなっていたのかも知れなかった。 こんな私に、女友達ができるはずがなかった。私は二八にもなって、まだ独身だった。お見合いをしたことさえ一度もなかった。たった一度だけ、田舎の方で お見合いの話があったが、私は断った。お見合いをする勇気すらなかったのだ。現実の生活に押しつぶされかかっているような男に、いったいどんな女性が魅力 を感じてくれるというのだろう。 その夜、私は、地下鉄の虎ノ門から銀座線に乗り、赤坂見附で丸の内線に乗り換え、新宿駅で降りた。 私の借りているアパートは、地下鉄の南阿佐ヶ谷の近くだったが、通勤の通り道にある新宿にさえ、ほとんど途中下車さえしないようになっていた。会社に入 りたての頃は、月に少なくとも三、四回は、新宿で映画を観たり、ブチックに立ち寄ってちょっとハイカラなネクタイを買って帰ったりしたものだが、いつの間 にか、真っ直ぐアパートに帰り、テレビを見、ステレオを聴いたりしながら、ぼんやりと夜を過ごすのが日課みたいになってしまっていたのである。 久しぶりに新宿に降り、その慌ただしい人の流れに巻き込まれてみると、私は、何となく心の和むのを覚えた。危うく突き飛ばされそうになりながら、地下鉄 の階段を上って地上に出ると、駅前の感じがすっかり変わってしまっている。新宿という街は、いつも活気に溢れていて、しばらくご無沙汰するとすっかりその 容貌を変えてしまうのだ。新しいビルが建ち、店もそれぞれ装いを一新している。久しぶりのせいか、色とりどりのネオンサインのきらめきが、ひときわ鮮やか に感じられた。 私は、酒を飲むつもりで降りてはみたものの、別段当てがあるではなかった。そこで、人の流れに合わせながら伊勢丹デパートの方へ、新宿の目抜き通りをブ ラブラと歩き始めた。ものの五分も歩いたところで、グランド・コンペというネオンサインが、私の目に留まった。いつぞや会社の新入社員歓迎会の二次会で、 そこへ行っ たことのあることを思い出した。この頃はやりのマンモス・バーというやつで、男のバーテンがいるだけで、料金も格安である。ここなら私の薄い財布も何とか 大丈夫だろう。私はそう思って、<グランド・コンペ>の階段を下りて行った。 赤い絨毯の敷き詰められた階段を下り切ると、中は、なかなかの賑わいだった。いくつもある丸い大きなカウンターが、それぞれに若い客で埋まっていた。私 は、その中でも一番客の少なそうなカウンターを選んでその隅っこに腰を下ろした。 バーテンが、私の前にすぐやって来て、熱いおしぼりを手渡しながら、 「お客さん、何になさいますか」 青白い小さな顔をしたバーテンで、髪をピッチリ七、三に分けていた。ちっちゃな白い目で私を見つめているくせに、目が合うとパッと視線を逸らした。私 は、 バーテンを相手に話をする気にもなれなかった。そこでまったく打ち解けない口調で言った。 「ウイスキーの水割り」 私はバーに置いてある酒の種類をあまり知らなかった。カクテル類になるとほとんど知識がなかった。水割りにしたのも、一番無難なものを頼んだというだけ の ことで、それまでウイスキーを大してうまいと思って飲んだことさえなかった。 しかし、その夜は、別だった。 バーテンに勧められるままに取ったサラミ・ソーセージやポテト・チップを肴に、私は知らず知らずのうちに、三、四杯グラスを重ねていた。 「お客さん、ずいぶん行けますね」 バーテンが声をかけて来た。唇の端にほんの少し親しみのこもった笑いが感じられた。 「うん、なかなかうまいね」 私の口から、気軽に言葉が飛び出して行った。バーテンもその言葉に打ち解けたように 「お客さん、もう一杯つくましょうか」 手を差し出してきた。私は底に残っていたウイスキーをぐっと一息で飲み干し、もう一杯頼むよ、と言いながらバーテンにグラスを手渡した。 ひんやりと冷たく苦いウイスキーが、私の喉を通り過ぎて行くにつれ、私の胸のつかえは、不思議とほぐれて行った。いつしかあたりは、ウイスキーのような 琥珀色を帯び、緩やかにたゆたい始めていた。 「ご一緒させて貰っていいかしら?」 突然、背後から若い女の声がした。私は、別段驚きもしなかった。大きな象が首を後ろに回すように、悠然として振り返り、女の顔をまじまじと見つめるよう にしながら、私は、大様に言った。 「どうぞ」 自分ながら、そんなに落ち着き払っているのが、不思議なくらいだった。いつもの私ならどぎまぎして、おそらくしどろもどろになってしまったことだろう。 これが、酒の力というものなのだろうか。 女は、私の隣のスタンドに腰を下ろした。 「何か、おごってくださらない」 女はそう言うと、その大きな瞳を見開いて、私の目をじっと覗き込んだ。 美しかった。私には、女の視線が眩しいほどだった。私は、その女の大きな、それでいて何かに怯えているような鳶色の瞳に、すうっと吸い込まれてしまいた いような誘惑を覚えた。私が求めている何かがそこにはある。と私の直感はささやきかけていた。 「何でもお好きなものをどうぞ」 私は言った。その夜の私は、まるでもの馴れたプレイボーイのように、次々と、調子のいい言葉が口から飛び出して来るのが、不思議なくらいだった。 女は、シンガポールストリングスとかいうカクテルを頼んだ。カクテルが来ると、女はカクテルグラスを目の高さまで上げて言った。 「乾杯しましょう」 私はそれに応じてグラスを取り上げた。女はにっこり笑った。 「私は乾杯するのが大好きなの。それじゃ、私たちの巡り会いに乾杯」 カチッとグラスが鳴った。女は一気にその赤いチェリー色をしたカクテルを飲み干した。 初めから快調な出会いだった。話も結構弾んだ。女の子とこんなに気安く話した経験は、私にはほとんどなかった。話したことと言えば、このバーにはよく来 るのか来ないのかとか、近頃見たテレビ番組の中でどれが一番面白かったかとか、どんな種類の音楽が好きかとか、どれもこれもくだらないことばかりだった。 それでも結構楽しかった。結局ささいなくだらないことが、私のいらだった神経を一番慰めてくれるようだった。 私は、それとなく女を観察した。ふっくらと厚みのあるくちびるのルージュが、白肌にしみるようで、笑うとたまらないほど、魅惑的だった。それでいて、ど こか蔭があった。笑っていても、ふと時ならぬかげりが顔を斜めに横切るのが見て取れるほどだった。 私は、彼女と気安い会話を交わしながらも、心の中では、名前を聞き出すうまいきっかけを見つけようとしてじりじりしていた。しかし、そう思えば思うほど 意識過剰になるとみえて、話は全然関係のない方へ進んでしまうのだった。そこで私は、そうした空しい努力を諦め、酒の勢いに任せて、単刀直入に切り出すこ とにした。 「あなたに会いたくなったら、また、ここに来ればいいんですか。せっかく近づきになったのに、今夜限りで、永久にサヨナラなんて、ぼくは嫌ですよ」 私はそう言うと、大胆にも彼女の瞳を覗き込んだ。彼女は、私の視線をさりげなくかわしながら 「私も永久にサヨナラなんて嫌ですわ。明後日の夜の八時にここへいらっしゃらない?お待ちしてますわ。よろしかったら、あなたのお名刺いただけないかし ら。都合が悪くなったら、連絡しますから」 私は、嬉しさに心も弾む思いだった。しかし、それを相手に気取られまいとしながら、やおら、定期入れの中から名刺を取り出した。彼女に手渡そうとしてよ く見ると、それは稲垣順二の名刺だった。稲垣は、私と大学が同窓の男で、丸忠商事の系列会社の丸忠鋼材というところに勤めている。つい先だって同窓会を やった時に、職場が営業の方へ変わったということで名刺を貰ったのだ。その名刺が定期入れの中から出て来たのだ。 定期入れの中を見ると、あいにく私の名刺は切れていた。庶務係という職掌柄、あまり外部の人と接触する機会もなかった。そんなわけで、常日頃、自分の名 刺を持ち歩く習慣が身に付いていない。これまでは名刺がなければないで済んで来たのである。 私は、今さら名刺の持ち合わせがないとも言い兼ねた。ままよとばかり、稲垣順二の名刺を女に手渡したのだ。 白い名刺、会社名、電話番号、これらが、私の存在の確かさを保証してくれるだろう。お互いにまったく未知の者同士の間では、その場限りの言葉や走り書き 程度では、相手を信頼させ、相手の信用を勝ち取ることはできないのだ。自分がここに、こうして存在している事実よりも、自分がここでこうして話す言葉より も、規格型の小さな白い紙切れ、楷書体の平板な活字、紋切り型の肩書きのほうが、より確実に、私の存在を相手に証明してくれるというわけだ。 「あら、稲垣さんとおっしゃるの、いいお名前ね」 女は、決まり文句のお世辞を言いながら、名刺をしげしげと眺めている。江藤という本名がバレたら、バレたときだ。そのときはそのときで何とかなるだろ う。私はそう思い、稲垣という他人になりすますことに何か言うに言われぬ新鮮な喜びを感じていた。 「ところであなたのお名前は?」 女は、いたずらっぽく私のほうを盗み見ると、グラスの水に指を浸し、カウンターの上に キノミヤ ユミ と書いた。 「キノミヤ ユミ?」 「ええ、キノミヤはお宮さんが来る。ユミは理由の由に、美しい」 「なかなか奇麗な名前ですね」 「まあ、ありがとう。奇麗な名前と褒められたのは初めてよ。素敵な名前と言われたことはあったけど」 来宮由美は唇の両端を意識的に引きつけるようにしながら、言った。 われわれはそこで、二人の邂逅を祝して、改めて乾杯した。 私は、そのままいつまでも来宮由美と一緒に話していたかった。腕時計をこっそり盗み見るともう十二時近かった。 「今、何時かしら」 そう言うと来宮由美は、私の腕時計を覗き込んできた。私の仕草に気づいたものらしい。 「あら、もう十二時。それじゃそろそろ引き上げないと?」 彼女に促されて、私はしぶしぶながら腰を上げた。 外へ出ると新宿の人通りもかなり少なくなっていた。来宮由美の住まいを聞くと、山手線の原宿駅の近くということだったので、国電の新宿駅まで送って行っ た。プラットフォームまで送ろうと言うと、改札口の所までで結構だと言って聞かなかった。私も無理を言わず、改札口で別れた。別れるとき、 「二日後、是非お会いしましょうね」 言いながら私は彼女の手を握り締めた。柔らかく、冷たい手が、悪びれずに私の手を握り返して来た。素敵な感触だった。全身にジンとするものが走った。彼 女 は、にっこり笑うと軽く頭を下げて人ごみの中に消えて行った。 私は、胸の中に温かいぬくもりを感じながら、しばらく彼女の消え去って行ったあたりを見つめていた。いつの間にか私の疲労感は影を潜めてしまっていた。 人ごみにもまれるようにして地下鉄に乗ることも少しも気にならなかった。酔って赤い顔をした男が、思わずこぼれ出る微笑みに、顔を崩し放しにしながら、 電 車の吊り革にぶら下がっている姿を想像してみては、私は、新たな笑いがこみ上げて来るのを禁じ得なかった。他の乗客にしてみれば、私のことが少々気の触れ た人間ぐらいには思えたことだろう。 私は心の中で「一杯のコーヒーから」の節で歌を歌った。 「一杯のお酒から夢の花咲くこともある」 しかし、一杯のお酒から、不幸が芽生えることがあるということもまた真実なのである。 トッ プへ |
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