(1970/8/25完成)
| まえがき | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
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(1999/5/24連載完結)
さすがにフルコースを終わるとわれわれ三人は満腹した。お腹を空かせるために日比谷公園を散歩しようということになって、外へ出た。公園には、夕涼みのアベックが溢れている。日本人もずいぶん大胆になったものだ。人目もはばからずベンチの上で、キスしている。
噴水の近くのほどよいベンチを見つけて、我々は腰を下ろした。左右に真理子と春美を座らせるとまさしく両手に花である。男だけの連れ合い連中には、そうとううらやましい情景に違いない。
「春美さん、あと一つだけ教えて貰いたいことがあるんですが、あなたはなぜ、田村家を辞めたのですか」
「私、辞めたのではなくて、辞めさせられたのです」
「どうして辞めさせられたのですか」
「別に大した理由もなく、ある日、菜美子さんに呼ばれて急に辞めてくれといわれたのです」
「そのとき、お姉さんのことは何か言いませんでしたか」
「あのー、菜美子さんがおっしゃるには、自分としては、別に辞めて貰う理由はないけれど、姉が辞めて欲しいというのでと言葉を濁しておられました」
「あなたは、すぐ辞めるといったのですか」
「いいえ、私は別に辞めさせられる理由がないので、辞めたくないといったんです」
「すると、菜美子さんが20万円もの結婚資金を上げるから辞めて欲しいと言ったわけですか」
わたしがこう言うと、春美ははっとしてわたしを見た。わたしは、彼女に、彼女の手紙を母親から全部見せて貰ったとは言っていない。
「いや、実は、あなたのお母さんが、あなたが辞めるときに結婚資金として20万円貰ったそうだと言って喜んでおられたものですから、そうじゃないかと思って聞いたのです」
春美はなぜかほっとしたように肩の力を抜くと、
「菜美子さんが、結婚資金として20万円上げると言われたものですから、それなら辞めてもいいと思い、私辞めることにしたのです」
「でも、先ほどあなたは、菜美子さんは、自分には別に辞めて貰う理由はないが、姉が辞めて欲しいというので、辞めてくれないかとあなたに言ったというふうに言いましたね。その菜美子さんが、どうして急に結婚資金として20万円上げると言い出したのですか。なんだか少し合点がいかないんですが。それに、あなたは、その日姉の善子さんに会わずに家を出たと言うことですが、どうして、お姉さんの帰るのを待って直接、辞めさせられる理由を訊かなかったのですか」
「私、20万円がほしかったものですから・・・」
春美は、うなだれている。わたしは、彼女に気の毒だとは思ったものの、とうとう最後の止めを刺すことになってしまったのだ。
「春美さん、ぼくは、何もあなたを困らせるためにこんなことを言うのではないんですよ。ぼくは、事実が知りたいんです。ぼくは、あんな不祥事に巻き込まれてしまった。考えれば考えるほどおかしい事件だ。謎がいっぱいある。つついていけば、いくだけおかしいところが出てくる。ぼくは、事件のありのままの姿を知りたいだけだ。ぼくが、菜美子さんのベッドの上で意識を失ってから翌朝発見されるまでの間にいったいあそこで何が起こったのか。それとも、何も起こらなかったのか。そこが知りたいだけなんです。真実を知って、自分なりに納得したい。それがぼくの今の生き甲斐なのです。だから、春美さん、ぼくに協力して欲しい。ぼくが今から訊ねることに正直に答えて欲しい」
春美は、うなだれながらも、うなずいている。
「春美さん、あなたが貰った20万円は、菜美子さんからではなく、誰か他の人から貰ったんじゃありませんか。それに、あなたが辞めさせられた理由は他にあるんじゃありませんか」
突然、春美は、両手で顔を覆うと、泣きじゃくり始めた。
「春美さん、他の人から貰ったのですね」
春美は、泣きじゃくりながらも、わたしの質問を肯定するかのように、頭を二三度縦に振った。
「実は」わたしは話し始めた。「さっき食事の途中で席を立ったとき、わたしは「レディス・ウィクリー」のカメラマンをしている安田直之に電話しに行ったんですよ。真理子も覚えているだろう。ぼくと吉野菜美子の結婚をスクープし、われわれを軽井沢まで尾行して特ダネ写真を撮った人物だ。ぼくが、宮山淳と名乗ると彼も驚いていた。少なくとも彼は、ぼくになにがしかの借りがあるはずだ。そんなわけで、彼はぼくの質問に協力的に答えてくれた。ぼくは、まず、田村家のお手伝いさんの山下春美さんを知っているかと訊いた。彼は、知っていると答えた。ぼくはそこで、吉野菜美子とわたしのスクープが可能だったのは、そのお手伝いさんからなにがしかのネタを仕入れたからじゃないかと訊ねた。彼はその通りだと答えた。そのネタは、菜美子さんが誰かと恋をしているというような類のものだったのだろうとわたしは言った。彼は、お手伝いさんに北村という人からよく電話がある。その北村と名乗る人物が菜美子の恋人らしいという情報を貰ったと答えた。ぼくがそこで、上野駅からわれわれを尾行できたのも、お手伝いさんからの情報があったためなのかと訊いた。そうだと安田は言った。そこで最後にわたしは安田に訊ねた。その情報を買うために、お手伝いさんにいくら払った、と。彼は言った。20万円払ったと。春美さん、あなたが菜美子さんから貰ったという結婚資金20万円が、その金なのでしょう」
春美は、半べそをかきながら、わたしの質問にうなずいた。
「あなたは、わたしと吉野菜美子が、電話しているのを盗み聞きし、それを安田に連絡してやったのですね。そして、それを菜美子さんに気づかれたのが、辞めさせられて本当の理由なのでしょう?」
春美は、涙に濡れた顔で放心したように前を見ていたが、もう悪びれずに、こっくりと可愛くうなずいた。
北村という男に吉野菜美子が恋しているらしいというネタを仕入れた後、安田直之は、菜美子の身辺を洗っていたのだ。そのとき折悪しくパレス・ホテルのロビーで菜美子と会っているわたしが安田の網に引っかかったのだ。ひょっとすると、菜美子がそのホテルのロビーで誰かと会うという情報も春美が安田に教えてやったのかも知れない。そこまで春美に確認する気にもなれないが。春美は、まだ放心したように噴水の色が、ライトに照らされ、七色に変化する様を黙って見つめている。
翌朝、わたしは、いよいよ田村家に乗り込む真理子を送って田村家の近くまで車を飛ばした。田村家の200メートルほど手前で、妹を車から降ろし、別れ際に、肩をたたきながら、
「頑張って欲しいがあんまり無理するなよ。俺の方からは、連絡できないと思うから、真理子の方からなんとか連絡してくれ。とにかく、くれぐれも慎重にな」
「お兄さんこそ元気で頑張ってね。洗濯や、お部屋の掃除も忘れないでね。私がついててやらないと、このやもめさん、すぐうじをわかせちゃうんだから」
例によって、妹らしい毒舌を浴びせると、両手に九州から出てきたときのスーツケースをぶら下げてスタスタと遠ざかって行った。
わたしはとりあえず東中野のマンションに引き返したが、入り口で男の客が待っていた。わたしと同年輩の精悍な顔つきの男だ。
「いや、昨晩は、電話で失礼しました。「レディス・ウイークリー」の安田です。昨夜の電話の件で少々気になることがあって、やって来ました」
わたしは、安田を自分の部屋に通した。安田は、
「宮山さんとは、初対面のような気がしませんなぁ。もっとも、お宅の方では、私を見るのは初めてでしょうが」
週刊誌の記者らしく、若干ずうずうしい口のききかたをする。しかし、それほど、悪い印象を与えない。仕事柄日に焼けていて真っ黒である。
「ところで、どんな用件なんですか」
わたしは、いささか冷ややかに訊ねた。
「いや、今度の事件では、ずいぶんご迷惑をかけたことと思います。今更お詫びでもないんですが、実は、お宅から昨晩電話を貰ったとき、お宅が今度の事件を何か調べているらしいとぴんと来ましてね。とすると、私にも何かお手伝いできることがあるのではないか、そう思ってやって来たわけでして」
「もちろん、面白い記事になれば、また特ダネにしようというわけでしょう」
「いや、これは手厳しい。それは私も、商売ですから、首を突っ込む以上、記事にできるものがあれば記事にしますが、・・・しかし、約束してもいいんですが、私は決してお宅の迷惑になるような記事は書かないつもりです。これだけは誓います。宮山さん、私も男です。約束を破ったら腹を切ります」
「ぼくは、あなたに腹を切って貰っても仕方がないが、まあ、心中の生き残りの片割れで、目下無職の浪人者。これ以上、落ちぶれることもないでしょうから、あなたがそうまで言うのであれば、一緒にやりましょう」
「そいつは、ありがたい。ところで、早速ですが、お宅は、北村という男とは別人なんですね」
安田は単刀直入に突っ込んできた。なかなか頭の回転もいいらしい。わたしも今度の事件の鍵は北村と名乗る人物にあると思っている。
「ぼくは、北村という人物ではありません。電話口で、北村と名乗ったことはありません。それに、ぼくの方から吉野家に直接電話したことはありません。電話するときは、いつも、彼女の事務所に掛けていましたから」
「すると、お宅は北村という人物に心当たりはないんですね」
「まったくありません」
「そうですか。じつは、昨夜、お宅から電話があるまで、てっきり北村という人物と、お宅とが同一人物と思っていました。お宅の記者会見の記事にすっかり騙されていた。お宅は確か、記者会見のとき吉野菜美子とは以前から恋愛関係にあり、結婚できぬのを悲観して、心中する気になったのだと言ったでしょう。あれは嘘なのですか」
「まるっきりでたらめです。あなたが今すぐ記事にしないというのであれば、真相を全部話してあげてもいい」
「約束します。さっきも言ったとおりです。しかし、発表して良くなったときには、私に書かせてくれませんか。もちろん、謝礼は十分差し上げますから。浪人暮らしでは、なにかと大変でしょうから。イヤーこれは面白くなってきたぞ」
安田は、腕まくりをし、メモ帳と鉛筆を両手に構え、わたしの方を眼光鋭く睨み付けた。
私が話を進めて行くに連れて、安田の眼は爛々と輝き、ますます熱を帯びてきた。
私はまず最初あのような記者会見をした訳を話した。わたしがもしあのとき、本当のことを話したとして、信じてもらえただろうか。わたしはいずれにしても、みごとに罠にはめられていたのである。罠が見事であればあるだけ、わたしがじたばたすればするほど、罠の爪は、ますますわたしの体に、深く食い込んでくるだろう。たとえ、わたしが罠にはめられたんだと絶叫してみても、それはまるで罠にはまった獲物が最後の力を振り絞って一声高く悲しく仲間の獣に向かって吠えるとの何等変わらなかっただろう。およそ、日本人なら誰一人知らぬ者とていない有名な女優と心中しておきながら、知らぬ存ぜぬと言えば言うだけ、わたしの立場はそれだけ惨めになり、下手をすれば、全国民を敵に回しかねないばかりか、自殺幇助罪といういらぬ嫌疑さえ掛けられかねなかった。わたしは、あのとき、どうして吉野菜美子が自殺しなければならないかについて、世人を納得せしめるいかなる回答も持ち合わせていなかった。わたしは従容として、自分の運命を受け入れ、一度は敵の軍門に下ることにより、わたしを陥れた者に対していつかは止めの一撃を加えるべく、雌伏したのだ。
第一、あの際、おろおろと予期せぬ運命にもて遊ばれる愚者の役回りを演ずることをわたしのプライドが許さなかった。腐っても鯛。わたしはそう覚悟を決めたからこそ、決然として、吉野菜美子の心中行の相手役を演じ、ありもしない菜美子との結婚話をでっち上げ、逆に世人を愚弄することによって、せめてもの慰めにしたのだ。わたしの演技は完璧だった。おそらく、誰一人それを疑わなかったはずだ。わたしの鮮やかな転身ぶりに驚いた者がいたとすると、わたしが、完全に死ぬものと予測して例の遺書を書いた者、あるいはあの遺書を書かせた者、ただ一人だけである。たとえ、その一人が死んだ吉野菜美子だったとしても、おそらく彼女は、あの世で驚いたに違いあるまい。
わたしは菜美子との関係の一部始終、あの軽井沢行きの一切合切を物語った。わたしが軽井沢で妹の真理子に頼んで付近の聞き込みを行ったこと。そのとき明らかになった事実。田村善子にお悔やみに行ったこと、真理子が集めてくれた菜美子の生前のゴシップの相手。昨日、山下春美を探し出して、いろいろと聞き出したこと。妹の真理子を、佐藤麻利子と変名させて、田村家のお手伝いとして忍び込ませたこと。などなどについて、わたしは、事細かに物語った。
安田の興味は、わたしの話が、進むに連れて、一段と募ってきた。ある時は、腕を組み、ある時は、顎をさすり、一心に耳を傾けていた。わたしは、話し終えた。
「宮山さん、じつに面白い。しかしよくそこまで調べましたね。私にも是非手伝わせて下さい。私にできることがあったら何でもしますから、遠慮なく、命じて下さい。お宅は、さすが貿易産業省のエリート官僚だっただけに頭がいい。私は手足になって働きますから何なりと言いつけて下さい」
安田は、いささか興奮しながら、わたしの手を握りしめてきた。
「ぼくは、北村という人物を捜し出すのが先決だと思う。安田さん、それでは北村という人物を探り当ててくれませんか」
「よし、やりましょう。宮山さんにおかけした迷惑を償うためにも、一生懸命やります。情報を入手しだい連絡しますから、私にも、お宅がつかんだデータがあったらすぐ教えてくれませんか。私にも事件の外貌がおぼろげながら分かってきたようです」
そう言うと安田は、威勢良く表へ飛び出していった。わたしの部屋の窓から道路を見下ろしていると、マンションから走り出てきた安田が、停めてあった鮮やかな黄色のホンダ1300クーペに飛び乗って、爆音高く新宿方面へ走り去った。
真理子が、田村家に入り込んでから三日目の夕刻、わたしの部屋の電話のベルがけたたましく鳴り響いた。
「お兄さん?私、真理子」
息を詰めたような小さな声で話している。きっと人に聞かれるおそれがあるのだろう。
「お兄さん、今さっき、電話があったのよ電話が」
真理子は少々あわてているらしい。
「いったい、誰からなんだ」
「それが、北村っていうのよ」
「えっ、北村?」
「そうよ」
「善子さんに取り次いだら、ちょっと部屋をはずすように言われてね、電話の内容は聞けなかったんだけど、菜美子さんは今から出かけるらしいの。今、お部屋でお化粧しているところなのよ。早くお兄さんに連絡すれば、車で後をつけられるのじゃないかと思って、危険承知で連絡しているの。あっ、足音がするわ。それでは、これで」
真理子の電話は切れた。とうとう北村という人物が、われわれの広げた網にかかってきたのだ。しかし、完全に網に入れるために一刻も無駄にできない。安田の援助も欲しいがダイヤルを回す時間も惜しい。わたしは、背広だけ小脇に抱えて、脱兎のごとく表に飛び出した。この際背広を持っていった方が、行き先次第では、便利である。
このときに備えて、整備怠りない愛車のブルーバードスリーSクーペは、快調なエンジンのうなりをあげる。とにかく、わたしが着くまでに善子が出発してさえいなければ、何とかなる。
田村家のガレージが見通せるところでわたしは車を停めた。あまり近寄っては気づかれるおそれがある。ガレージの扉は下りている。はたして、もう出発した後なのか。車の灯りを全部消して、じっと待機する。野獣が獲物を狙ってじっと身を潜めているような感じだ。身震いがしてくる。
街灯に白く浮かび上がっていたガレージの扉が真っ黒い口を開けた。その後ろからダークグリーン色のコロナマーク・ハードトップの精悍な車体が滑り出してきた。間に合ったのだ。
フロアシフトをサードに入れる。さあ追跡だ。愛車はなめらかに滑り出した。コロナをブルーバードが追う。日本の自動車業界さながらの角逐だ。
コロナは、渋谷のインターチェンジから、首都高速道路四号線に乗り入れた。これなら追跡しやすい。かなりのスピードで飛ばしている。運転もなかなかうまい。たちまち六本木だ。巨大な高速道路が、幾重にも上空を交差している。
やがて、半蔵門のトンネルを過ぎ、車は、神田橋のランプで出口に向かった。いったい、どこへ行くつもりなのだろう。
それにしても、北村とは、いかなる人物であろう。妹の直子とも、相当親しかったということを、山下春美の証言からも十分伺える。直子が死んだ後、姉の善子のところまで電話を掛け、彼女をして今またこうして車を走らせている人物とはいったいどのような人物なのか。尾行がうまく行けば今夜のうちに、その人物のヴェールを剥がすことができるのだ。
コロナは、神田橋のランプを降りると、内堀通りを皇居前の方へ向かいだした。しかし、すごい交通ラッシュで、車は、二三メートルごとに、ストップせざるを得ない。コロナとの間に、いつの間にか四五台別の車が入り込んでいる。
「こいつは危ない」
思った瞬間、信号が黄色に変わり、すぐ前の車が急ブレーキをかけて止まった。コロナのテールランプがすうっと遠ざかっていく。
「しまった!」
だが、もう遅い。たちまちコロナの姿はイナゴの群のような自動車の大群の中に消えてしまった。
このあたりで、人と会う場所としては、パレスサイドホテルぐらいしかない。車を見失った以上、あそこに行ってみよう。わたしは、そう思い、パレスサイドホテルの前で車を止めた。
ドア・ボーイが車のドアを開けてくれた。
「ボーイさん、今ここに若いきれいな女性が、降りなかったかい」
「沢山いらっしゃるので覚えておりません」
「すごく、きれいな人だよ」
「きれいな人は沢山降りられました」
これでは話にならない。そうだ、こんなドアボーイを相手にしていても始まらない。彼女は、きっと駐車場に乗り入れたはずだ。しこで一台ずつ車を調べれば、彼女の車があるかどうかぐらいはすぐに分かることだ。わたしは、ハンドルを精一杯左に回してタイヤをきしらせながら駐車場に乗り付けた。しかし、そこには、田村善子のものらしいダークグリーンのコロナは見当たらなかった。結局巻かれてしまったというわけだ。いったいどこへ行ってしまったのだろう。しかし、こうして悠長にしているわけにもいかない。わたしはホテルのロビーから田村家に電話をかけた。出かけるとき、田村善子がどんな服装をして出たかを確かめるためだ。
「もし、もし、田村さんのお宅ですか。お手伝いさんの佐藤麻利子さんはおりますか」
「私、佐藤ですが・・」
「おれだ、淳だ。誰も他に人はそこにいないんだろうね」
「ええ、誰もいないわ。ところでうまく行ったの?」
「いや、それが、うまくまかれてしまったんだ。ところで、彼女はでかけるとき、どんな服装で出かけたんだ」
「それが驚いちゃった。すっかり変装しちゃって、本人と見分けがつかないぐらいなの。それに大きな帽子を被って、黒っぽい色メガネをかけているいるのよ。あれでは、たとえ彼女を知っている人が見かけても簡単には見分けがつかないわね。やっぱり俳優は、たとえ成り立てでもうまく化けるものね」
「話は違うけれど彼女は、この頃忙しいのかい」
「ええ、昼間はほとんど『ハムレット』の舞台稽古で一日潰れてるようよ。昼間はだから、私一人きり。夜もあまり早くはないわね」
「食事は、ちゃんと作ってやってるの」
「朝食は、もちろん作っているけど、昼と夜は、食べて帰ることが多いから」
「あまり、口うるさく食事のことで言われたりしないかい」
「そうね、思ったより、好き嫌いはないみたいよ。もちろん、春美さんに教えてもらった線でやっているせいもあるんでしょうがネ」
「なかなか、お手伝いさんも堂に入ってきたようだね。追い出されたらおれが使ってやるから、せいぜい苦労をしてきてくれよ」
「その代わりお兄さん、ちゃんと高給を払ってくれなきゃいやよ。ただ働きなんてまっぴらせすからね」
「あんまり長話になっては何だから、今夜のところはこれで電話を切るよ。元気で頑張ってくれ。もう少しの辛抱だから」
どうも今夜は、これ以上の追跡は無理のようだ。そう考えて、わたしはパレスサイドホテルを引き上げた。善子は、わたしの尾行に気づいたのだろうか。それとも、ただ偶然に、わたしをうまくまく結果になっただけなのだろうか。とにかく、今夜のことは、安田に連絡しておくことにしよう。
北村という謎の人物が、われわれの引いた網にかかるところにいたということだけが、せめてもの収穫だ。
わたしは、ホテルを出る前に、安田に電話した。うまいぐあいに彼のアパートに戻っていた。北村という人物が現れたというと、安田は色めきだった。
「本当か。こいつは面白くなったな」
電話口から弾んだ息が聞き取れた。善子を、パレスサイドホテルのあたりで見失ったことを話すと、
「そいつは惜しかったなぁ。今度は是非俺にも連絡して下さいよ。協同作戦で行こうじゃないですか」
闘志満々の様子だ。
「ところで」と安田が言った。「『週刊ジュルナル』の最近号は読みましたか。小さい記事だけど、面白いよ」
「どんな記事だい」
「まあ、読んでからの楽しみにしようよ。タイトルは、初代と二代目の見分け方って言うんだ」
わたしは、最初に見つけた本屋に飛び込み、『週刊ジュルナル』を買うと、はやる気持ちを抑えながら、東中野のマンションに引き返した。
初代と二代目の見分け方という記事は、芸能ゴシップ欄に載った小さな記事である。そのページを開くといきなり、二枚の写真が並べて載せてある。「あなたは、どちらが初代の吉野菜美子で、どちらが二代目かわかりますか?」というタイトルの解説が写真のしたについている。
『二代目吉野菜美子さんは、妹さんの喪が明けるまでは、雑誌やテレビに出ることを一切断り続けており、現在は、演出家の浅山圭三氏や市河吉之助さんらに口説き落とされてやむを得ず出演することに決めた『ハムレット』のオフェーリア役一本に打ち込み、このところ舞台稽古に余念がない。本誌記者は彼女を稽古場に訪ね、写真は嫌ですと言う彼女を口説いて生前、初代吉野菜美子さんの当たり役だった『オージュリエッタ』のジュリエットの衣装を付けて貰って撮影することに成功した。できるだけ初代に似せて欲しいとう編集部の注文に応えて彼女が苦心のメークアップをした結果がご覧の通り。あなたは、どちらが初代で、どちらが二代目か、分かりますか。一枚の写真を二重焼きにしたんだろうって?とんでもない。右が二代目左が初代。どうしたら見分けられるかですって。二代目答えて曰わく。「妹(初代)ほどには鼻が高くありません」ですっと。自ら低姿勢を売り物にするあたり、どうしてどうして、なかなか大したもの。ベテラン顔負けではある。』
考えてみると、初代と二代目が瓜二つと言うことは、天下の美女、日本一の美女と言われ、その美貌を誇った妹の直子同様姉の善子が美しいと言うことに他ならない。しかも、姉の善子は、直子のマネージャーとして芸能界のことは裏も表も知り尽くしている。人間関係という点では、むしろマネージャーの方が仕事柄より範囲が広いと言うことがいえるかも知れない。とすると直子同様の美貌の持ち主である善子がどうして放って置かれよう。おそらくは、大スターという肩書きを持つ妹の直子よりも、もっと気楽に、その美貌を慕って言い寄ってくる男性連とつきあうこともできたはずだ。事実、ずぶの素人であるはずの善子が、一躍、日生劇場の大舞台の主役として抜擢されたという事実の背後には有力な演出家や男優連の強いバック・アップがあったのであり、そのことは取りも直さず、直子の生前から善子が芸能界に堅固で広範囲にわたる人間関係を築き上げていたことを物語っている。
わたしは、これまで直子の男性関係にのみ関心を注ぎすぎてきたようだが、姉の善子も、妹の生前からすでに相当の男性関係があったのではあるまいか。そして、北村という男は、直子にも善子にも容易に近づきうる立場にあり、二人の女性の間を、これまでもうまく泳ぎ回っていたドン・ファンなのではあるまいか。われわれにとっては、北村という男が、突然姉の善子に電話をかけてきたという風に奇異に見えたのではあったが、妹の生前からすでに北村と名乗る男と、姉の善子との間に何らかの関係があったとすれば、それは別に奇異なことでも何でもなかったのかも知れない。安田がこの記事が面白いと言ったのは、そのことを言いたかったのだろう。姉の善子も、妹の直子に負けず劣らず男なら誰しもふるいつきたくなるような美貌の持ち主であり、歳も、すでに二十六になっており、おそらくは、男性関係も絶無ではない生身の人間なのであると。
わたしは、吉野菜美子と結ばれた夜のことを思い出していた。わたしは別に自分自身が道心堅固な男などと言うつもりは更々ないが、国家公務員という立場上、女性関係については特に用心深く振る舞っていた。そんなわたしですら、彼女の美貌の前には、牙を抜かれた虎よりもおとなしく這い蹲ってしまったのだ。姉の善子が、その美貌を武器に、周りの男性の籠絡を策したとすれば、すでに死んでしまった妹の後釜に収まることぐらい朝飯前のことだったのかも知れないのである。
善子の車を追跡してから三日ほど経ったが、その間あまり事態の進展はなかった。敵は、我々の存在に気づきだしたのかも知れない。そして、このまま永久に潜伏してしまおうというのかも知れぬ。真理子の情報ではその後北村という人物からの電話もないらしい。わたしは、安田と相談して相手側を刺激する策を弄することにした。
相手方を刺激するにしても、相手がもっとも痛痒を感じるところがどこであるかさえはっきりしていないが、ただ、もし、あの心中事件に何らかの隠された部分があったとすれば、関係者にとってはあの夜のアリバイは、非常に大きな意味を持っているわけである。
そこで、われわれは、『レディス・ウイークリー』が、「吉野菜美子心中行の夜、関係者はどこで何をしていたか」という特集をやるというニセの企画をでっち上げ、関係者に対して、電話やインタビューで直接取材することにした。
記事の内容は、わたしと菜美子が軽井沢駅に着いてから菜美子の死亡推定時間の午前二時までの間を、生存者の宮山淳氏の回想で再構成し、その各々の時間に、菜美子の心中行などこれっぽっちもご存じない関係縁者のお歴々が、いったい何をしていたかを適当に織り交ぜながら物語るという体裁を取ると言うことで口裏を合わせておいた。
田村善子のところには、安田が会いに行った。わたしは、顔を知られているおそれがあるので、もっぱら電話で済ませうる人物のみを担当した。
田村善子のところから帰って来た安田の話では、善子はあの夜八時頃まで自宅にいたが、所在ないのでドライブに出た、と言ったそうである。
「どこへ行ったのですか」
安田が訊ねると
「箱根まで行ったの」
「それを証明するものが何かありますか」
「私は、高速道路の領収書を、車のグローブ・ボックスに放り込んで置く癖があるの。だから、あの中を調べればひょっとするとまだあの夜の領収書が残っているかも知れないわ」
「それを見せて貰えませんか」
安田が食いつくと、善子は、麻利子を呼びつけ、
「これフォルクス・ワーゲンの鍵だから、ちょっと行って、グローブ・ボックスの中に高速道路の領収書みたいのがあったら、かき集めてきて下さらない」
麻利子が集めてきた十数枚の領収書の中に、確かに渋谷、御殿場間を往復したことを証明する、あの夜の日付の入った高速道路の領収書があったという。箱根では、「箱根観光ホテル」のロビーでしばらくくつろいでから、帰ってきたという。そこで安田は、
「ところで、あなたは、北村っていう男性をご存じないですか」
善子を刺激するとすれば、いずれにしても、この名前が一番効くだろう。わたしは、そう思い安田が出かける前に、ちょっと北村という名前で、善子の美しいほっぺたに、最初の軽いジャブを見舞って欲しいと頼んでおいたのだ。安田の話では、北村とい名前を聞いたとたん、善子の目がキラリと光ったように見えたそうだ。しかし、
「いいえ、そういう方は存じません」
そう答えるときには、善子はもう平然としていたという。
「いや、じつは、私の同僚に、あなたの妹さんと宮山淳という官僚とのデートのスクープをやったのがおりましてね。あの記事があなたの妹さんの心中行の間接的な原因となった点では、私もジャーナリストの端くれとして、あなたにお詫びをしなければならないのですが、その同僚が言うには、当時、お宅にいたお手伝いさんから、北村という男と、菜美子さんが仲がいいらしいというネタを手に入れ、宮山淳なる人物に行き当たったらしいのです。しかし、私には、どうも北村イクオール宮山なる等式が腑に落ちないものですから、あなたが、その男をご存じじゃかいかと思いまして」
「さあ、私には、あまり心当たりがありませんわ」
善子は、あくまでシラを切り通したそうである。
「これが、彼女のところから貰って来たレシートの山だ」
ポケットから安田がわたしの前に小さな紙切れを十数枚掴みだした。そのほとんどが、七八月の日付の入った高速道路のレシートだ。そのうち一番新しい日付のものが、あの事件のあった夜のものだった。
われわれは、相手が動き出すのを待った。すくなくとも、北村という人物の存在を知り、北村という人物と宮山淳とが同一人物ではないのではないかと疑っている人物がいるとすれば、相手は何らかの形で善後策をとることだろう。そこを一気に突くのだ。われわれは、田村善子を四六時中監視する体制をとった。
われわれの予想に反して、敵は、意外と早く動き出した。またしても、真理子の情報である。「誰と話していたかはっきりしないけれど、今夜八時にパレスサイドホテルでと言うところだけは、はっきり聞いたわ」
とにかく、あと十日後に「ハムレット」の公演を控えた、その忙しい最中に人と会うからには、よほど重要な用件なのだろう。
わたしと安田とは、二手に分かれた。わたしは、田村家のガレージを見張り、一方安田は、パレスサイドホテルに直行し、たとえわたしが途中でまかれても、善子がパレスサイドホテルに姿を現す限りは、キャッチできる体制をとった。
わたしは、いつものところに車を停め、ガレージの開くのを待った。七時半、ガレージの扉が真っ黒い口を開き、コロナマーク・がゆっくりと滑り出てきた。順路は、この前と全く同じだ。首都高速四号線は、皇居を左巻きにして、千鳥が淵を抜け、日本橋方面に延びている。神田橋のランプを降り、パレスサイドホテルの方へコロナは進んでいく。今夜の尾行はきわめて順調だ。ほとんど渋滞もない。この調子ではうまくいきそうだ。
善子の車は、パレスサイドホテルの駐車場につけた。わたしも同じようなことをやっていたのでは、彼女の姿を見失いかねない。わたしは、ホテルの脇に車を強引に停めると、駐車場まで走った。彼女の車は、幸いそこにあった。守衛から、車の整理券を貰っているのは、善子に間違いない。しかし、その姿は、真理子から聞いた話の印象とは若干違う。わたしはもっと極端に変装しているのではないかと思っていたのだが、今夜の彼女は、地味な服装はしているけれど、彼女と見分けがつかないほどではない。ゆっくりと落ち着いた足取りで、ロビーの方へ歩いていく。それほど人影がないのであまり接近しては、気付かれかねない。
彼女はロビーのところで、一瞬立ち止まって誰かを捜している様子だったが、目指す相手が見つかったものと見えてつかつかと歩き出した。
ロビーに置かれた黒革のソファーに悠然と坐っている男に、善子は斜め後ろから話しかけた。男は立ち上がり振り返って挨拶をしている。
いったいどんなやつだろう。少々危険だが思い切って近づいてみる。
黒メガネをかけている。かなり大柄だ。しかしあの顔つきは!
藤井浩二だ。
テレビなどで見たことのある顔つきからして推してまず間違いない。北村と名乗る男は藤井浩二だったのか!
善子と藤井が並んで歩き始めた。ロビーを横切ると絨毯を敷き詰めた階段を登りはじめた。あわてる様子もなくゆっくりと登ってゆく。わたしは後をつけた。それにしても、安田はどこへ行ったのだろう。
二人は、二階から三階、三階から四階、ゆっくり登っていく。いったいどうしてエレベーターを使わないのだろう。
とうとう八階まで来てしまった。
二人は、やっと登るのを止めて廊下を歩き始めた。最初の角を落ち着き払って曲がって行ったあまりあわてて追いすがると気付かれるおそれがある。遅すぎても見逃すことになる。その兼ね合いが難しい。
わたしは頃合いを見計らって、廊下の角から首を出した。
と、二人の影はどこにも見当たらない。廊下には、人っ子一人いない。
しまった。見逃してしまったのか。
しかし、考えてみると、いくら大急ぎで走ったとしても、一番向こうの階段に出るだけの時間的ゆとりはなかったはずだ。とすれば、いずれにしても、廊下の曲がり角からあまり遠くない部屋に二人は姿を消したことになる。
わたしはあたりに人影がないことを確認しておいて、まず、801号室のドアにそっと耳を押し当てて中の様子をうかがった。何も聞こえない。ドアの隙間から覗こうとしたけれど、隙間らしい隙間はない。これではどうしようもない。と思ったときだ。
背中にズシリと重たい手応えのあるものを突きつけられたのだ。あわてて振り返ろうとすると
「後ろを見るな。見ると撃つぞ。さあ、そのまま、前に進め」
低い押し殺したような男の声が背後から命じた。背中に押しつけているのはピストルに違いない。あいにく人影はない。まさか、ホテルの廊下で、ピストルをぶっ放すような無茶はやるまいが、とにかくこれではどうしようもない。言われるままにするだけだ。
「あんたは誰だ」
わたしは歩きながら、訊いた。
「ご存じのはずだ」
「おれをどうしようというのだ」
「やっぱりお前だったのだな、宮山さん。お前は、おれたちのことにあまり深く首を突っ込みすぎたようだ。この八階から飛び降り自殺をしていただこう。さあ、人の来ないうちに急げ」
こうなれば、誰か来てくれるのを待つよりない。安田のやつは何をしているのだ。
と思ったとたん、廊下の一番端にひょいと人影が現れた。階段を息せき切ってあがって来、廊下の様子をあわてて確かめているような様子だ。
あの姿格好は?安田だ。安田もわれわれの存在に気付いたらしく走るように近づいてくる。
「助かった」
と思った瞬間、わたしはいきなり後頭部に火の出るような一撃を喰らい、よろよろとその場に崩れ落ちた。意識が薄れていく。廊下をあわただしく行き来するような足音・・・・
わたしは十分後に意識を回復した。八階のロビーのソファの上だ。安田が心配そうにわたしの顔をのぞき込んでいる。
「大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫らしい」
と答えたものの、頭がズキズキする。
「ところで、賊はどうした?」
「残念だが、逃がしてしまった。このことを、警察に連絡するかい?」
「いや、止した方がいいだろう。”心中事件の生き残り、パレスサイドホテルで暴漢に襲われ意識不明”というのでは様にならないだろう。警察に呼ばれて、ヘタな証言をさせられるよりは、まだ、黙っていたほうがいい。一挙に片を付ける日を待とう。ところで、今夜、八階に泊まっている連中の名前を何とか調べられないものかな」
「暴漢に襲われたことを表沙汰にしない限り、ホテルでは、お客の名簿を見せてはくれないだろう。ところでどうして暴漢に襲われたんだ」
わたしは手短にことの次第を話した。田村善子が、藤井浩二らしい男と、階段を登っていったこと。わたしは八階までつけていったが、八階の廊下の曲がり角を曲がったとたん二人の姿が消えたこと。一番手前の八〇一号室の部屋の様子を窺っていると突然後ろからピストルらしきものを突きつけられたこと。賊はわたしにわれわれのことに首を深く突っ込みすぎたといい、わたしを自殺と見せかけて、八階から飛び降りさせようとしていたこと。そのとき、安田の姿が見えたので、賊は、わたしを背後からピストルで打ちのめして逃走したこと。順を追ってわたしが話し終えると、今度は逆に安田に向かって、訊ねた。
「ところで、安田さん、あなたは何故、下のロビーにいなかったのかい」
「それが」
安田は、七時には、このパレスサイドホテルにやってきて、出入り口の見張りをしていたのだ。ところが七時半頃、ホテルのボーイが、「安田さんはおりませんか」と訊いて回っている。「私が安田だが」と名乗り出ると、「ただいまお電話で、帝国ホテルのロビーにすぐ来て欲しい」というご伝言だという。安田は、てっきり、わたしからの伝言だと思い、帝国ホテルのロビーに駆けつけたのだ。ところが八時になっても誰も現れないので、急いでパレスサイドホテルに引っ返し、一階から八階までの各階の様子を走り回るようにして調べていたところ、私が、八階の廊下を黒メガネの男に付き添われるようにして歩いていたのに出くわした。
なんか変だと思い安田は大急ぎでわたしに近づこうとすると、いきなり、黒メガネの男は、ピストルの銃身らしきものでわたしの後頭部を殴りつけ、反対の方向へあわてて逃げ出した。安田は、必死になって追跡したが、まんまと逃げられてしまった。とにかく、廊下にばったり倒れたわたしのことも気になったので、八階の廊下に引き返し、気絶していたわたしを、このロビーまで連れて来、懸命に介抱したのだという。
とすると、安田が、ホテルの出入り口を見張っているところを、誰かに見られたに違いない。
その誰かを仮にAとしておこう。Aは、ホテルのフロントに電話を入れて、ニセの伝言を安田に伝えさせる。邪魔な安田を追っ払うためだ。そのAは、今夜、田村善子が、このホテルに来て、誰かと会うことを知っている者だ。しかも、彼女が誰かと会うことに関心をもって、安田以外の人物が現れるに違いないということを知っている者だ。
もし、北村が、藤井浩二であり、Aという人物と同一人だったとしたら、こういう推測が成り立つであろう。
藤井は、予定より早くホテルに現れ、誰かが、彼と田村善子のデートを監視していないかを見張っていた。そこへ安田が現れる。もし、藤井が北村であれば、善子から、安田なる人物が、田村家に押し掛け、宮山は、北村ではないのではないかと言ったことをすでに聞きしっているはずだ。そこで藤井は、安田を現場から遠ざけるために、ニセの伝言をし、安田を帝国ホテルのロビーへ出向かせ、自分は悠々とロビーのソファーに寝そべって善子の来るのを待った。そこへ、善子がやってくる。藤井と善子は、ゆっくりと階段を登り始める。最初から、誰かがつけてくることを予測して、わざとゆっくりと登っていったのだ。しかも、八階まで登ったのは、つけてきた人物に飛び降りさせるに十分な高さが必要だったのだろう。八階の角を曲がると、おそらく急いで最初の部屋か、ひょっとすると廊下の曲がり角にある化粧室の中に姿を隠したのだ。そこへ、ワナとも知らず、つけていったわたしが現れ、部屋の様子をうかがいだした。反対側の部屋か、あるいは化粧室に隠れていた藤井は、わたしのスキをみて背後から忍び寄り、ピストルを突きつけたのだ。
善子と藤井は、最初から計画的にわたしをおびき出したに違いない。まんまとわたしを、ワナにかけ、わたしを亡き者にすることが、二人の目的だったのだ。安田の現れるのが一瞬遅れたら、わたしは、敵の術中に陥り、今頃は、固いコンクリートの上にたたき付けられて、「心中の生き残りの元エリート官僚、世をはかなんで自殺か?」という、もっともらしい理由付きで、新聞の三面を久しぶりに賑わすことになっていたのかも知れない。
賊が不用意に漏らした「やっぱりお前だったのか、宮山さん」という言葉は、いよいよ相手にわたしの正体が露呈したということでもあり、おそらくわたしをあの場で完全に亡き者にすることが可能であると考えて言ったのでもあろう。なぜなら、その賊一味にとって、わたしをその場で即刻亡き者にできなければ、わたしという存在が彼らにとって、殺さなければならないほどシリアスな存在であり、彼らの事柄に深く首を突っ込みすぎていることをわざわざわたしに教えるようなものだからだ。いったい、彼らがそれほどにまで深刻に考えなければならない事柄とは何だろう。しかも、今夜の事件の成り行きを振り返って見るに、善子と藤井浩二、あるいは、善子とAなる賊とは、完全にグルであると言えるだろう。ということは、善子にとっても、わたしという存在が、むしろ存在しないに越したことはない存在という理屈になるのだ。
しかも、今夜のことが最初から仕組まれたワナだったとしたら、むしろ妹の真理子は、利用されたということになる。善子は、わざと、「パレスサイドホテルに八時」という情報を真理子を通して、われわれに与え、われわれをおびき寄せることにしたのだ。真理子がわれわれの手先と言うことは、バレてしまったのだろうか。数日前、善子の車をわたしが追跡したことをおそらく善子は気付いたのだろう。善子が、自分の車がつけられることを、わたしが彼女の家の周りを見張っていたためだと考えるか、それとも、お手伝いから情報が漏れたためだと考えるか、それは、断定のしようがない。しかし、少なくとも、今夜もまた、タイミング良くつけられたということになれば、おそらく、お手伝いの真理子が疑われることになる公算が大きい。とすれば、真理子の身にも危険が及ぶおそれがある。
しかし、わたしが生きている限り、真理子だけをどうこうすることはないだろう。標的はあくまでわたしのはずであり、順序としても、まず標的を倒すことが先であり、標的を倒せば、同じ屋根の下にいる手先など、その後で、どうでも、料理できるはずだ。それに、標的を討つのに、まだまだ利用価値のある手先を先に葬っては、手蔓をなくすことにもなりかねない。少なくとも、田村善子は、今までのところ、われわれに何らの証拠を握られていない。ヘタにお手伝いの真理子に危害を加えることは、逆に自ら怪しいということを表明し、自ら墓穴を掘るようなものだからである。
わたしと安田は、パレスサイドホテルの駐車場に降りていった。しかし、もう善子の車はなかった。わたしが、意識を失っている間に、姿をくらましてしまったのだ。
わたしは安田と今後の段取りを話し合って別れた。とりあえず、安田は、善子の周辺に目を配ることとし、わたしは、今夜われわれの前に登場した、藤井浩二の周辺を洗ってみることにしたのだ。
真理子の身辺も気になり、何とか今夜のうちに連絡を取りたいと思ったが、こちらから電話するわけにもいかず、その夜は結局そのままになった。翌朝、真理子の方から電話があった。意外と元気そうである。昨夜のことを話してやると、
「お兄さん、もうこんなこと止めた方がいいんじゃない。真相が分かったって、一文の得になるものじゃないし、とにかく、命あっての物種よ」
真理子らしくない弱音を吐いた。
「それでは、真理子は、もうお手伝いは辞めたいというのだな」
「そんなことを言ってるんじゃないわ。お兄さんの身体が心配だから言っているのよ。私の方は平気よ」
「実は、俺も、真理子のことが気になって、昨夜はあまりよく眠れなかったぐらいなんだ。少なくとも、善子は、真理子がわれわれに情報を漏らしているんじゃかいかと疑ってはいるはずだから。真理子、ほんとうに無理をすることはないから、今すぐにでも飛び出してきていいんだよ」
「分かったわ、お兄さん。危険なようだったら、いつでも飛び出して行くわ。お兄さんこそあまり危険な真似はなさらないでね」
真理子は逆にわたしのことを心配してくれる。真理子の話では、善子は昨夜十時過ぎに帰ってきたが別に変わった様子はなかったという。そんなことだから今のところ別に身に危険を感ずるようなこともないから安心して欲しい。今後は、できるだけ注意して行動するから、ご心配なく。お役に立つことがあったら何なりと言って頂戴とあくまで健気なことを言う。わたしはそれならば、しっかり頼んだよと電話を切った。
その日から、わたしは、文京区の音羽にある藤井浩二の家に張り込んだ。張り込みというのはなかなか骨の折れる仕事だ。しかも、四六時中一人で張り込むとなるとどうしても完璧を期し難い。飯を食ったり、トイレに行ったりするときは、どうしても張り込みを中断せざるをえない。しかも、同じところに長時間車を停めていると、近所の目が次第にうるさくなってくる。藤井浩二は出かけるとき、いつも近くの地下鉄を利用するようなので、車で張っていてもらちがあかないのだ。最初のときは、地下鉄の入り口近くに、車を放置して跡をつけたが、結局、藤井が勤務先の大学の建物の中に消えて行ったところで尾行を放棄せざるを得なかった。放置した車は駐車違反でレッカー車に持ち去られ、出頭した近くの警察署で油は絞られるやで、さんざんな目にあった。
こんなことなら、効率を上げるためにも、当事者のうち善子だけに絞って監視していたほうが利口というものだ。そう思って、藤井浩二の張り込みは四日で止めてしまい、善子の張り込みは、芸能人の追跡ならお手のものの安田に頼むことにした。その間、わたしは、これまでの材料をネタにして、わたしなりの推理を組み立てるのに没頭した。
まず、わたしが考えたのは、善子ないしは藤井浩二がわたしを殺そうとしたからには、少なくとも、彼等は、それまでに殺し以上の犯行をすでにやっているに違いないということだ。そうして、その殺人の対象は、あの軽井沢の別荘で、心中死体として発見された吉野菜美子にほぼ間違いない。
姉の善子は、妹の菜美子の人気に嫉妬していたに違いない。お手伝いの山下春美が証言したように「菜美子と私とは、同じくらい奇麗なのに、菜美子は日本一の美女といわれ、私はそのマネージャーに過ぎない」という言葉や、生前、セリフ回しの練習までやっていたというではないか。その嫉妬が、いつか殺意にまで高じたとしても不思議はない。しかも、自分こそが、田村家の嫡出子であるとの気持ちもあったのだろう。非嫡出子の菜美子が、日本一の美女だ、大スターだともてはやされるのが、善子にとって、面白くなかったことは十分納得が行く。
そんな時にたまたま、週刊誌に、わたしと吉野菜美子とのスクープ記事が載った。善子はその記事を利用して、一計を案出したのに相違ない。少なくとも週刊誌に載ったすぐ後だけに、わたしと吉野菜美子が、同じベッドで、仲良く睡眠薬を飲んで死んでおり、傍らからもっともらしい遺書らしきものが発見されれば、世人は、間違いなく心中という具合に考えようというものだ。そうやって妹を殺しておいて、かねてから憧れていた妹のスターの座を奪ったのではないか。
ひょっとすると、妹を殺す前から、芸能界に詳しい善子は、芸能界の人達と何らかの関係を作っておき、妹の後釜にうまく滑り込めるような算段を講じていたとさえ考えられよう。
しかし、わたしと軽井沢に行ったのが妹の菜美子であり、しかも、あのように簡単に肌身を許したうえ、わたしに睡眠薬入りのワインを飲ませたのも妹の菜美子であったとすれば、どうして菜美子は、善子の思い通りにあれほどうまく操り人形同然に動いたのだろう。それがわたしにとって、依然謎だ。
わたしがそこまで考えたとき、部屋の電話が鳴った。安田からの電話だ。安田の声が弾んでいる。
「宮山さん、ついにシッポをつかみましたよ!」
安田は、昨夜、「ハムレット」の稽古を終えて有楽町の稽古場を出てきた善子をつけた。善子は、例のコロナマーク・に乗って第三京浜高速道路を飛ばし、横浜の近くのモテルに乗り付けたという。そこで、安田は、そのモテルの駐車場に停車しているすべての車のプレートナンバーの写真を撮り、善子の身辺にいる男性連の車のナンバーと一つ一つ丁寧に照合してみたところ、その中から、市河吉之助の車のナンバーが出てきたのだという。
「宮山さん、こいつを大々的に報道して、敵の反応をうかがいますかね?」
安田は、いまにも記事にしたいような口振りだ。
「待ってくれ」
わたしは制した。
「安田さん、悪いけれど、徹底的な証拠を掴むまで待って欲しい。今後も善子の後を尾行して、できるだけ沢山証拠を集めて欲しい。できれば、善子と吉之助の顔写真が撮れればそれに越したことはないな。徹底的な証拠が十分揃ったところで、大々的な報道をやるんだ。二人が二人の仲をもはや隠し立てできないところまで持っていくのだ。もし、善子と吉之助との仲が天下白日の下に暴き出されてとき、いったい何が起こるか、それを見るのだ。もし、善子が菜美子を、誰かと協力して、亡き者にしたのであれば、その誰かは黙っていまい。その誰かが藤井浩二であったとしても、組んで人殺しまでやったからには、何かが起こるはずだ。その日まで、申し訳ないが、確実な証拠を十分集めておいて欲しいんだ。安田さん、あなたが今すぐ書きたい気持ちも分かるが、おれの頼みを聞いてくれ」
「分かった。最初に約束してように、あなたに不利になると言うのであれば書かないことにしよう」
安田はすぐに折れて、
「それでは、今夜も張り込むことにするか。ところで「ハムレット」の初日は、明後日に迫ったけれど、予定通り見に行くだろうな」
安田が念を押してきた。わたしと安田は、すでに初日の舞台を見に行く約束をしていたのだ。
「もちろんだとも。それに、主演の男優と女優が、あなたが言うような深い仲だと言うことになれば、舞台の興味はいやが上にも増すってものだし、いったい、どんな客が初日に現れるかも興味深いしね」
「ハムレット」の初日に入りは大入り満員だった。舞台もその入りに決して恥ずかしくないほどの出来映えだった。
日生劇場には、初日とあって各界の名士が多数顔を見せていた。その中に藤井浩二の顔もあった。真理子も特別招待席に坐っていた。きっと善子が招待してくれたのだ。しかし、わたしたちは、素知らぬフリをしていた。二人が知り合いだということが、他の人にバレてはまずい。
とにかく、善子の演技は圧倒的だった。オフェーリヤが、ハムレットに裏切られたと思い発狂していくあたりの演技は真に迫り、恋する乙女の哀れさが見る人の心を強く打った。本当にこれが、初舞台の女優とはとうてい思えなかった。
翌日の新聞は、こぞって、彼女の演技を絶賛していた。「吉野菜美子、演技派へ脱皮?」という皮肉なタイトルをつけていた新聞もあった。これは、妹の吉野菜美子が、もう一つ演技力では物足りないと言われていたことを、同じ吉野菜美子という芸名を名乗ることにした姉の吉野菜美子がそのすぐれた演技力でもって定説(?)を覆えしたというふうに若干皮肉ったものだった。
”演技力”という言葉が、わたしの頭の中で響渡った。そうだ、そうなのだ。わたしは、小躍りした。この前推理したとき、推理出来なかった謎がやっと解けたのだ。
わたしと、軽井沢に行ったのは、最初から姉の善子だったのではあるまいか。
そう考えると全てが急にはっきりしてきた。
妹とウリ二つなのを利用して、善子は、妹の菜美子に変装して、わたしと軽井沢行きの急行に乗り込んだのだ。わたしは、妹と姉とを見分けられるほどには田村姉妹のことを知っていない。あの当時は、吉野菜美子とウリ二つの姉がいるということさえ知らなかった。だからこそ善子は得意の演技力でいかにも妹の吉野菜美子らしく振るまい、自分の存在をあまり隠そうとしなかったのだ。いや、逆に見せびらかすようでさえあった。タクシーにも乗らず、街の中を歩き回ったり、夕食のため、軽井沢の一番賑やかな繁華街をブラついたのも、吉野菜美子が、軽井沢に来たことを、周りの人に印象づけるためだったのだ。わたしに電話をかけてきたのも姉の善子だったのだろう。
善子は、わたしを安心させるために、わたしにあんなにも簡単に肌身を許したのだ。すっかり油断してしまったわたしに、睡眠薬入りのワインを飲ませることぐらい赤子の手を捻るほどにたやすいことだったろう。わたしは、まったく有頂天になっており、相手を疑うような気持ちは、ほんのこれっぽっちもなかったのだから。妹の菜美子は、その前から監禁されていたのか、あるいは、時間をずらして別荘に来ることになっていたかのいずれかだったに違いない。監禁されていたとすれば、誰かが、彼女を東京から、軽井沢まで運んだのだ。いずれにしても、別荘に着いてから、例の遺書を脅迫して認めさせ、睡眠薬を飲ませて菜美子を殺し、菜美子の死体とわたしを並べてベッドに寝かせ、心中と見せかけたのだ。
こう考えると、今までの謎が一挙にするすると解けていった。
そして、この推理の最後の決め手が、あの夜、わたしが見た、あの女の下腹部にあった小さなアザである。もし、あのアザが、善子の下腹部にあれば、わたしの推理の正当性が証明されるというものだ。
いよいよ最後の止めを刺すときがきたようだ。
わたしは、薬局に行って睡眠薬を買って帰り、真理子を渋谷の喫茶店に呼びだした。少なくとも、ハムレットの公演中は、真理子の行動を善子に監視される気遣いはない。
真理子は、案外元気そうにしていた。
「真理子、最後の一踏ん張りをやってくれ。真理子を、田村家に潜り込ませていたのも、このことをやって貰いたかったからなんだ。ここに睡眠薬がある。これを今夜三錠だけ、善子に飲ませて欲しい。飲ませ過ぎると面倒になる。公演の後で疲れているだろうから三錠で十分効くはずだ。善子が眠ったら、二階の道路から見える部屋の灯りを三度点滅させておれに知らせてくれ。すぐ行くから裏の勝手口のドアを開けておれを中に入れて欲しいんだ。今夜うまく行きそうになかったら、明日でも明後日でもいい。もし、うまく行かなかったら、灯りを二度だけ点滅させてくれ。気付かれそうだったら、灯りの点滅をしなくてもいい。わかったね。とにかく、怪しまれないようにやってくれ」
わたしはその夜、例によって、田村家の近くに自動車を止めて張り込みをした。善子は、十時半過ぎに帰ってきた。いつ、真理子からの合図があるか、わたしは目を凝らして、二階の灯りを見ていた。
きっかり十一時半、二階の灯りが三度点滅した。うまく行ったらしい。わたしは大急ぎで、田村家の勝手口に駆けつけた。真理子が内側から鍵を開けてくれた。
「うまく行ったのかい」
わたしは、声をひそめ訊いた。
「ええ、念のために、彼女を二三度揺すってみたけれど、ぐっすり眠っているらしいの。きっと大丈夫よ」
真理子の案内してくれた善子の部屋は、いかにも女優の部屋らしく、広々として、色彩に溢れていた。もっとも、部屋に灯っている灯りと言えば、ベッド脇のスタンドの薄赤色のランプだけだったが。
わたしは、善子を見下ろした。赤いランプの光の中に浮かび上がっている善子は、さすがに美しかった。ちょうど二月ほど前、おそらく、わたしはこの女を抱いたのだ。今夜と同じような赤ランプの下で。そうだ、今こそ、この女が、あの夜のあの女であったかどうかをはっきりさせるのだ。
善子は、ピンク色の豪華なネグリジェを着ていた。あの夜もピンクだった。わたしはベッドに近づき、彼女を二三度揺すってみた。それでも、寝息が乱れる気配がない。大丈夫だ。わたしは、善子のネグリジェを静かにまくり上げた。真理子も固唾をのんでのぞき込んでいる。
善子の美しい肌が赤いランプに映えて艶めいて見える。ああ、この肌だ。わたしは右の下腹部のあたりのネグリジェの端をそっと持ち上げた。
あった!
あの夜、わたしが抱いた女の下腹部にあったのと全く同じアザが、善子の下腹部にピンク色に浮かび上がっていた。
一ヵ月にわたる「ハムレット」の公演も、終わりに近くなっていた。その後も安田は、精力的に、善子と吉之助の密会の模様を集めてきた。その中には、モーテルを出たすぐ後で、車に乗る直前、二人がキスしている望遠写真もあった。
公演が終わる一週間前に、わたしは、安田に、善子と吉之助のスクープ記事を「レディスウイークリー」に掲載させることにした。
「市河吉之助、吉野菜美子と近く婚約か?二人の密会現場を本社は完全スクープ!」という記事は、近来にない出色のものだった。とにかく、一ヵ月間にわたり、吉之助と善子が密会しているすべての場所と時刻を、写真入りで、正確な解説ととともに読者の前に一挙に提供したのだから、その反響は大きかった。「レディスウイークリー」に完全に出し抜かれた他社は、その埋め合わせに、吉之助と善子に対して執拗な取材合戦を繰り広げることになった。
最初は、「結婚なんて、考えておりません。まだ、妹の喪も、完全には明けておりませんし」
と言葉を濁していた善子も、猛烈な取材攻撃にたまりかね、
「結婚を考えていないわけではない」
と表明せざるをえなくなった。とにかく、いまさら、吉之助との仲を否定するには、安田の記事があまりに完璧だった。
一方、吉之助も、執拗なインタビューに辟易してか、とうとう「菜美子さんの妹さんの喪が明けたら、婚約を発表することになりましょう」という言質をある社の記者に与えてしまった。
こうなると記者やファンの関心は、二人がいつ婚約を発表するかに移ってしまった。そして、とうとう吉之助と善子は、共同発表という形で、「ハムレット」の公演が終わった日の翌日、婚約発表のための共同記者会見を、パレスサイドホテルで午前11時に行うということを正式に表明した。
わたしは、こうした一連の動きを見ながら、わたしの狙い通りに事が運んでいくのでほくそえんでいた。いよいよ、待っていた日がやってきたのだ。
わたしは、記者会見の行われる日の前日、パレスサイドホテルに泊り込むことにして、かねて用意していた小道具を携え、勇躍乗り込んでいった。部屋は801号室、その前で、暴漢にピストルを突きつけられ、後頭部をしたたかに打ちのめされたことのある、思い出深い部屋をわざわざ選んだのだ。
そして、安田をその部屋に呼び、翌日のことで細かな打ち合わせをした。打ち合わせが終わると、安田は
「それでは、成功を祈るよ」
出口で右手を上げるとそそくさと姿を消した。
安田が出ていった後で、わたしは受話器を取り上げ、田村家のダイヤルを回した。
「田村でございます」
「ああ、真理子か、おれだ。善子さんはいるかい?」
「ええ、でもお兄さん、田村さんに直接何のご用?」
「まあ、いいから、真理子、善子さんにつないでくれ。それから、真理子、明日は、善子さんが婚約発表に出かけたら、すぐ、パレスサイドホテルの婚約発表記者会見の部屋まで来てくれ。受け付けに記者バッチを用意しておくので中に入れて貰えるはずだ。面白いショーがあるよ。ところで、善子さんには、おれの名前を言わずに、何か重要な要件で話したい人がいるとだけ伝えてくれ。おれの名前を聞いて、電話に出ないと言われても困るから」
わたしは、しばらく、善子が電話口に出るのを待った。
「もしもし吉野菜美子でございます」
善子の声がした。やっぱりこの声だ。わたしにいつぞや電話してきた声も。わたしにはそう思えた。
「菜美子さんですか。明日、十時にパレスサイドホテルの801号室に来ていただけませんか。いいですか。十時に一分遅れても、あなたの右の下腹部にアザがあるということが新聞記事になってしまいますよ。吉野菜美子が軽井沢で心中した夜、彼女を抱いたと称する男が、同じアザを同じ右の下腹部に見たと証言しているのですから、新聞にでも出たら当然面白いことになるでしょう。警察も黙っているわけにはいかなくなりますよね。その男は物わかりのいい男で、無事に収まったものに今さら波風をたててもなんだから、金で話しがつくものなら、それでもいいって言っているんですよ。善子さん、明朝十時に、間違いなく来てくれますね」
わたしは念を押した。
「ええ」
善子は、小さく、力なく答えた。
その次ぎにわたしは、市河吉之助に電話をした。わたしは、自己紹介して、要件を言った。
「あなたの奥さんになる人のことで、是非、お耳に入れておきたいことがあるので、明朝十時十五分前に、パレスサイドホテルの801号室まで来てほしい」
わたしが、念のために前夜からホテルに泊り込んだのは、東中野のマンションにいたのでは、的に襲われるかも知れないと思ったからだ。善子のアザの秘密を知っていると漏らしたからには、敵は、わたしを亡き者にしようとあらゆる手段を弄するおそれがあった。
十時きっかり、801号室のドアにノックがあった。ドアを開けると、青ざめた顔をした、善子が立っていた。
「さあ、遠慮しないで中へどうぞ。婚約発表をあと一時間後に控えた娘さんにしては、えらく元気がないようですね」
わたしはそう言いながら、善子にわたしの正面にある椅子を勧めた。善子は、素直に椅子に腰を下ろした。
「善子さん、二人でお目にかかるのは、久しぶりですね。わたしも先ほど指折り折って数えたのですが、軽井沢で会って以来、今日でちょうど、75日になるんですよ。人の噂も75日というけれど、75日前新聞を賑わした、吉野菜美子とエリート官僚宮山淳の心中事件も今ではすっかり影が薄くなり、近ごろは、吉野菜美子と市河吉之助の結婚で持ち切りですね。去るものは日々に疎しというけれど、当の吉野菜美子が入れ替わったと言うことも、今ではあまり話題にもならない。人の世は案外薄情なものですね」
わたしは口を切った。
「あなたは、いったい、何が欲しいのです。お金ですか。お金なら・・・」
善子は、ハンドバッグの口金に指をかけた。
「いや、待って下さい。そんな話しをしてもらうために、わざわざ婚約発表の当日にこんなところに来て貰ったわけじゃない。わたしは、あなたに教えてもらいたいことがあって、実は来ていただいたのだ。あなたは、ほんとうに頭のいい人だ。わたしは、75日間かかって、やっと、あなたが考え出したトリックに思い当たった。わたしの考えが当たっているかどうか、教えて欲しい。善子さん、わたしがあの日、上野駅で会ったのは、最初からあなただったのですね。あなたは死んでいない。あなたの右の下腹部にある小さなアザが何より証拠だ。わたしはつい先日、あなたのお宅におじゃまして、そのアザを見せて貰った。あなたは妹の吉野菜美子に変装して、わたしを軽井沢まで誘き出し、その美しい身体でわたしを誘惑してすっかり安心させ、やすやすと睡眠薬入りのワインを飲ませて、眠らせたのだ。そうしておいて、別に殺しておいた妹の菜美子さんをわたしと同じベッドに寝かせ心中を装ったのだ。妹を殺しておいて、しゃあしゃあと吉野菜美子の芸名まで奪い取り、妹に成り済ましてぬくぬくと生きているのだ。でも、わたしを油断させるために、自分の肌身を許したのが千慮の一失だった。当然、妹の菜美子さんとあの夜一緒に死んでしまうはずだったわたしが生き返ったのが大きな計算違いだった」
そこまでわたしの話しを聞くと、善子の態度がガラリと変わった。
それまでのおずおずと打ちしおれた様子が影を潜めむしろ顔には不敵な笑みが浮かんだ。
「そうよ、可愛い人。あなたは、あの時もうぶで可愛かったけれど、今朝も、まるで子供のように純真で可愛いわね」
そう、言いざま、ハンドバッグからすばやくピストルを取り出すと、わたしの顔面にピタリと照準を合わせた。
「これが目に入って、確かにあなたが言う通り、私は死んでないわ。上野駅から軽井沢まで一緒したのも、私よ。私がちょっとエサを蒔くとあなたは、小犬みたいに尻尾を振りながら私の後を追って来たわ。私の前ではあなたは、まるでサル回しのサルみたいに従順でおとなしかった。でも、おサルさんに、あまりにいいものを与えすぎたのが失敗の元だったとも言えるわね。おサルさんには、高級なりんごよりは、安いピーナッツがお似合いだったようね。あなたが私のアザを見さえしなければ、こうして、命を縮めることにはならなかったでしょうに。あなたは、75日間生き延びただけ、もって瞑すべしだわ。今日は間違いなく死んで貰うわ。でないと私の命が危なくなりますからね。ちゃんと遺書も書いていただくわ。理由は何がいいかしら。「わたしは地位も名誉も失い生きる望みをなくしました」なんてのはどう。いらぬお節介はしなくても元お役人さんのこおtだから、もっともらしい文章を書くのはお手のものでしたわね。さあ、そこの引き出しに、ホテルの備え付けのレターペーパーがあるはずよ」
こうしてわたしはとうとう遺書を書かされるはめになってしまった。わたしは言われるままに、机の引き出しから便箋を取り出すと、ペンを握り締めた。そんなわたしを見ながら、善子は勝ち誇ったように、言った。
「ところで、素人探偵さん。他人の秘密にはあまり首を突っ込まないことね。結局それが命取りになるのよ。あなたの推理は見事だったわ。よく、そこまで推理したわね。素人にしては上出来よ。でもあなたの推理には、大きな落し穴があるわ。冥土へのお土産にほんとうのことを話して上げましょうか」
そういうと善子は、あでやかに笑った。ピストルを突きつけられていても、女の美しい笑顔には男たるもの誰しも心引かれるもののようだ。ましてやベッドを共にした仲なれば、なおさらのことだ。
善子はことばを続けた。
「確かにあなたに会ったのも、あなたとベッドを共にしたのも、私よ。しかし、素人探偵さん、私をよく見て。私は、姉の善子に見えて、それとも、妹の直子に見えて?」
そういうと、善子は、私の目の前に右手で髪をかき上げた美しい横顔を挑むように突きつけた。
「正直に言うと、私は、姉の善子でなくて、妹の直子なのよ。お分かりになって、ヘボ探偵さん。私は、生まれたときから二号の娘だった。入籍はしたものの、嫡出子の姉には、小さいときからさんざんいじめられてたわ。私が有名になるにつれて、姉の嫉妬は病的になっっていった。「私とお前は、同じぐらいきれいなのに、お前だけが有名になって、私はお前のマネージャーに過ぎない。お前がのたれ死にもしないでこれまでやってこれたのは、いったい誰様のお陰なんだい」というようなイヤミを、ことあるごとに聞かされたわ。マネージャーにだって、別になってもらいたくて、なって貰ったんじゃなくて、押し掛け女房よろしく、勝手に居座ってしまったようなものよ。世間体は、仲の良い姉妹だったけれど、それこそ私と姉とは心の底から憎しみ合っていた。それに姉に死んで貰う必要があったのは、他でもない、市河吉之助さんと結婚したかったからよ。私は、吉之助さんを愛していた。死ぬほど愛していた。だから、どうしても結婚したかった。そのためには、嫡出子という身分がどうしても必要だったのよ。吉之助さんとは、「オージュリエッタ」に共演したときから愛し合うようになった。一週間も会わずにいると、いたたまれなくなるほど、二人とも愛し合っていた。私たちは、結婚しようとしたけれど、吉之助さんは歌舞伎界の名門の出でしょう。結局ああ言う社会では家柄とか血統とかが問題にされる。私が二号の娘ということが明るみに出れば、そんなことには、人一倍口うるさい吉之助のお母さんの染子さんが、全体反対を唱えることは目に見えていた。そこで、私はウリ二つの姉に死んで貰い、私がすり替わることを思いついたのよ。ちょうどいいタイミングで、私とあなたのありもしない記事が某女性週刊誌に掲載された。私はチャンス到来と思った。吉野菜美子が心中したと思いこませるためには、適当な相手役が必要だった。世間があり得ることだと思ってくれるような人で、死んで発見されても、身元が分かりやすい人。芸能界のことには無知同然で、私たち姉妹のことをあまりよく知らない人、それに社会的な肩書きも、女優の相手としてふさわしい人。エリート官僚のあなたは私の物色していた人物にピッタリだった。私が探していた人そのものだった。あなたが生き返ったのは確かに誤算だった。しかし、今日ここで自殺して貰えれば、すべて片が付くわ。少し生き延び過ぎて、ずいぶん冷や冷やさせてくれたけれど、考えてみれば、夏の暑い盛り、納涼のお化け映画より楽しませて貰えたわ。さあ、素人探偵さん。早く、遺書を書いてちょうだい。それにしても、こんなに深く首を突っ込まなければ、せっかく三途の川を渡りかけたところから引き返して来られたのに、三月にもならないうちに、またしても三途の川を渡るはめに陥らなくて済んだでしょうに。まったく可哀相ね」
善子は、またしても、艶やかに、いかにも嬉しそうに笑った。
「しかし」
わたしは、言った。
「わたしは、三途の川を渡らないですむことになるらしい。直子さん、あなたがそれほどまでして手に入れた吉之助君は、実は、先ほどからそのカーテンの後ろで、あなたの話の一部始終を聞いていたのですよ。あなたが殺人まで犯したということになれば、おそらくあなたとの結婚は取りやめるということになるんじゃないですか。しかも、直子さん、吉之助君は、あなたの後ろに立って、ピストルの銃口をあなたの心臓にピタリと合わせているのですよ」
わたしは、そういうと、心の底から、カラカラと笑った。
吉之助が、カーテンの陰から、ピストルをこちらに向けたまま現れた。
「アッハッハッハッハ」
現れると同時に、二人は顔を見合わせ、突然声を合わせて笑い出した。
「抜け目がないようでいて、やっぱり素人ってのは、抜けていますな。なあ、直子」
吉之助が口を切った。
「素人探偵さん、なかなか味をやりますね。さっきから実に面白く聞かせていただいた。でも、私と直子が最初から組んでいたことが見抜けないようでは、やっぱりアマチュア探偵の域を出ませんな。宮山さん、あんたから、昨夜電話をいただいた後、早速、直子と打ち合わせたうえで、今朝はやってきたというわけでしてな。実を言うと、善子さんとあんたに死んでいただこうというアイデアも、実は、私と直子との共同制作なんでしてね。ぼくらは、お互いに深く愛し合っていた。いかなる障害も乗り越えて、結婚するつもりだった。さっきも直子が言ったように、直子が非嫡出子とうのが、ぼくらの結婚にとって何よりも大きな障害だった。仕来りにうるさい私の母親は、とうてい直子とでは結婚を認めてくれるはずもなかった。まず、この問題を何とか解決しなければならなかった。それに私としては、田村家の莫大な財産も大きな魅力だった。歌舞伎界の名門とは言いながら、我が家の台所は火の車でしたからね。ということになれば、お姉さんの善子さんに死んでもらい、その後釜にうまく入り込むのが一番手っ取り早く、われわれにとっても、一番望ましいことだった。それで、万事がうまく収まりますからな。あなたまで巻き添えにしたのは、申し訳ないが、天下の人気女優が一人きりで自殺したとなると、いかにうまく自殺と見せかけたところで、他殺ではないかと、疑いをもたれかねないですからね。こう言っちゃぁあんたには失礼ですが、ちょっとした、サシミのツマぐらいにはなると思って、お誘いしたんですよ。いくら鯛のサシミでも、ツマがなければサシミにはなりませんからな」
吉之助は得意満面で、しゃべりまくった。「ハムレット」の舞台で「生きるか死ぬかそれが問題だ」といった時のセリフ回しさながらだった。
「それでは、直子さんがお姉さんを軽井沢に呼び寄せて殺したというわけですか」
「そうよ。姉は私のマネージャーですから、私が緊急の要件がある、是非来て欲しいと言えば、夜中でもすぐやって来なければなりませんからね。あの夜、あなたが睡眠薬を飲んで眠ったのを見届けてから姉に電話し、別荘まで車で駆けつけて貰ったというわけよ。別荘に着くと、のどが渇いたと言っている姉をうまく誤魔化して睡眠薬入りのワインを飲ませて、殺し、私のベッドの上にあなたと並べて寝かせ、心中を装ったというわけよ」
「その頃、私の方は、万が一ということを考えて、直子のアリバイ造りのために箱根に車を飛ばしていたというわけでしてな」
この二人には、人一人をうまく殺したということで、ボーリングでパーフェクト・ゲームをやったときのような楽しみを味わっているところがある。たいしたカップルだ。
「お姉さんの善子さんが乗ってきたフォルクスワーゲンを、帰りには善子さんになりすました、あなたが運転して帰ったというわけですね」
「そうよ。そのため、車を使わず、わざわざ、あなたと急行列車で軽井沢へ行ったんですもの」
「どおりで、その後、あなたがフォルクスワーゲンを使わなくなったと思った。フォルクスワーゲンは、お姉さんの車だったはずですからね。事実、フォルクスワーゲンのボックスには、あの夜のレシートまでしか入ってなかった」
「あら、意外と細かいところまで見ていたのね。危ない、危ない」
「そして、渋谷の自宅に着き次第上原芳夫氏に電話して、心中死体を発見させたという筋書きですか」
「そうよ、もっとも、もう少し遅く電話した方が、あなたが生き返ったりしなくて、面倒が省けたのに、ちょっとしくじったわ」
「それじゃ、お手伝いの山下春美を辞めさせた本当の理由は、お姉さんに変装したことを見破られないように前もって家を出て貰うためだったのですね」
「もちろんそうよ。たまたま辞めさせるのに都合のいいことが持ち上がったので、私の独断で、姉の留守中に辞めさせたわけよ。帰宅した姉は、私が独断で辞めさせたことに不平を言っていたわ。しかし、私にしてみれば、あの子は、案外鋭いところがあるので、辞めさせる必要があったのよ。私は、姉の素振りや口振り、化粧のしかたなど細かなことまで、相当前から研究し、真似る練習もこっそりやっていたけれど、四六時中、同じ家の中にいれば、いつカラクリが見破られかねないですからね」
「山下春美は、北村という人物が、あなたの恋人だというネタを雑誌記者に漏らした。そこで、心中事件を演出することによって北村イクオールわたしという等式を案出したわけですね」
「そうよ、わざわざあなたを軽井沢へ行く打ち合わせを春美が盗み聞きできるようにして上げてね」
「なるほど、あなたもなかなか芸が細かいですね。ところで、北村というあの人物はもちろん、市河吉之助さん、あなたなのですね」
「私の実名は北村寿夫をいうのですよ、宮山さん」
そう言うと吉之助は愉快そうに笑った。なんだそういうことだったのか、そいつは、うっかりしていた。
「もう一つだけ、冥土へのお土産に教えて欲しい。この801号室の前で、わたしを襲ったのは、吉之助さん、あなただったのか」
「もちろんそうだ。あの夜、あんたを呼び寄せて殺すつもりだった。私は直子と打ち合わせ、予定より、一時間も早くホテルにやってきて、入り口のところを見張っていた。そこへ、安田という雑誌記者がキョロキョロしながら入ってきた。私は、直子から聞いて安田という男を知っていたので、さっそく、ロビーの公衆電話を使ってニセの伝言を安田に伝えさせ、彼をひとまず、帝国ホテルに追いやったのだ」
「すると藤井浩二は、この事件には、何の関係もないのか」
「まあ、そう言うことだ。直子に是非お会いしたいという電話を入れさせ、藤井氏にホテルまでご足労願い、エレベーターは嫌いなのとか、直子に適当な理屈を付けさせ一階から八階もこの部屋までゆっくり歩いて貰ったってわけさ。藤井氏はいわゆるおとりだったのさ。われわれの計画がうまく行けば、それまでの話だし、もし、失敗しても、あんたがたの疑いの眼を藤井に向けさせることができる。それを狙ったというわけさ。一階のロビーに直子が入ってくると案の定、あんたが後ろからのこのこつけてきた。私は、あんたの後ろから付けていった。あの夜も、実は、この部屋を予約しておいたので、直子は藤井氏を、この部屋に導き入れる。あんたは、二人を見失ってあわてふためき、ずいぶんとキョロキョロしていたね。私は易々とあんたの背後から忍び寄りピストルを突きつけることができたというわけさ。安田が、引っ返して来るのが、もう少し遅かったら、あなたにはもう一月ばかり早く三途の川を渡って貰えたところだった。あの時、あんたをしたたかに殴りつけたピストルは、いま、直子が持っているやつさ。ところで、長話をしているうちに十時四十分になってしまった。早いとこ、宮山さんに遺書を書いていただこうではないか。ねえ、直子」
吉之助は、わたしの背後に回り、あのとき同様、ピストルをぐいとわたしの背中に押しつけてきた。
「うまく、やられたようですね」
わたしは、遺書を書くためにペンを取り上げた。
パレスサイドホテルの八階からは眼下に広がる美しい皇居の緑が眺められる。
私は遺書を書き始めた。自殺用の遺書というやつを。こんなに美しい景色を眺めながら、ようやく三十になったばかりの若さで自殺用の遺書を書くはめになろうなぞとは、私自身夢想だにしなかった。まったく人生には予想もしないことが多い。時刻は、いま午前十時四十分過ぎだ。予定の十一時まではまだたっぷり時間がある。
「父さん、お母さん先立つ不孝をお許し下さい・・」
どうもありふれていて面白くない。書き慣れぬ遺書をいかにも遺書らしく仕上げるとなるとなかなか骨の折れる仕事だ。しかし、十一時までにはなんとかなるだろう。
それに自殺用の遺書というやつは、完成してはじめて自殺の証拠となりうるのだ。だから自殺用の遺書を書いている間は、確実に生命だけは保証されている。
やっとできあがった。
「それでは、遺書に署名をしましょうか。おっと市河吉之助と書いてしまった。これではやっぱりまずいでしょうね」
「ふざけるんじゃないよ。さあ、早く、書き直せ。もう時間がないぞ」
吉之助はどなりつけた。少々いらいらしてきたと見える。
わたしは、落ち着いて、遺書を書き直し始めた。
実は、わたしは、昨日最新式の盗聴器を買って、この部屋の様子が逐一わかるようにあるところに仕掛けて置いたのだ。かねて用意の小道具とは、そのことなのだ。その盗聴器ならどんなヒソヒソ話しでも半径30メートル以内なら、完全に盗聴できるほどの性能がある。
「素人探偵君、いやに落ち着いているようだが、こんなもので、われわれをペテンにかけようとしても無駄だよ。これが今はやりの盗聴器ってやつだろう。先ほど君がちょっと部屋を外したときに、部屋の中を探し回って、テーブルの下に仕掛けられていたこの器械を滅茶滅茶に壊しておいたのだ」
そう言うと吉之助は、象から踏みつけられた鼠みたいになった黒っぽい精巧な器械の残骸をわたしの前のテーブルの上に放り投げた。
実は、わたしは、吉之助が約束通り十時十五分前にこの部屋に現われたとき、護衛用に何か持っていますか、と吉之助に尋ね、吉之助が自分の身体をさすってみせ、何も持っていない、と答えたので、
「おそらく、吉野菜美子は、護身用にピストルを持って現われるに違いないと思われる。あなたは、このピストルを持って、このカーテンの後に隠れていて、わたしが危うくなったら助けて欲しい」
といい、かねて用意していたピストルを吉之助に手渡したのである。それからわたしは、「ちょっと小用をたしてくる」とことわって、しばらく部屋を出たのだ。
わたしはその足で市河吉之助と吉野菜美子の婚約発表が11時から行われる予定になっている銀杏の間に行ったのだ。
そこには、すでに新聞や雑誌の記者ややテレビのレポーターが溢れていた。記者会見は11時のはずではないかという人もいるだろう。たしかに婚約発表の記者会見は十一時からだ。しかし、わたしは、その前に特別発表したいものがあるからと言って、記者の連中に十時に集まって貰うことにしたのだ。そのあたりは、記者が本業の安田がうまく取り計らってくれた。
銀杏の間に行くと安田が、真理子と並んで坐っており、ニコニコしながら、現われたわたしにOKのサインをよこした。
わたしは、市河吉之助と吉野菜美子のために用意されているヒナ段の上に立って、集まった記者連に挨拶した。
「どうも、一時間も早くお集まりいただきましてありがとうございました。わたくし、お見知りおきの方も少しはいらっしゃるかと思いますが、75日前、先代吉野菜美子心中事件の生き残りの片割れとして皆様の紙誌面の隅っこを汚させていただいた宮山淳でございます。十時から、皆様に是非ともお耳に入れたいトークショーがございますので、お集まりいただいたわけでございます。市河吉之助さんと吉野菜美子さんに関心のある方には絶対に聞きのがすことのできない、じつに面白いトークショーになることでしょう。じつはわたしも、そのショーの狂言回しをやることになっておりますので、ここで失礼いたします。主演は、申すまでもなく、市河吉之助と吉野菜美子のご両人。このステレオスピーカーから聞こえます真迫のドラマにしばし、御傾聴下さい」
わたしはそう言って
「何だ、何だ」
とざわついている記者連を後にこの部屋に引き上げてきたのである。その十分かそこらの間に、吉之助は、わたしが、テーブルの下に仕掛けておいた盗聴器を壊してしまったのだ。
わたしは、遺書を書き終わった。
「さあ、今度は間違えないように署名したまえ」
わたしは、おとなしく宮山淳と署名した。
「宮山君、いよいよ年貢の収めどきだ。その窓から飛び降り自殺して貰おうか」
「しかし、今わたしがこの窓から飛び降り自殺をすると、お二人のせっかくの婚約発表の記者会見がメチャメチャになりませんか」
「そう言われてみればもっともだ。あんたはなかなかいいところに気が付くね。それではわれわれは記者会見に行かなければならないので、それが終わるまで、ここで待っていていただくことにしよう。直子は、タオルで猿轡をはめてくれ。おれは、このカーテンでこいつを縛り上げるから」
わたしは身動きひとつできないほど丁寧に縛り上げられた。縛り上げると二人の婚約者は、わたしの目の前で熱烈なくちづけをこれ見よがしに交したうえで、鏡の前で居ずまいをただし、手と手を取り合って出て行った。ちょうど定刻の十一時には、記者会見の部屋にさっそうと、天下の美男美女のカップルが現われることになるだろう。
二人が部屋を出ていくか出ていかないうちに、安田と真理子が、ホテルのボーイと一緒に部屋の中に飛び込んできて、わたしの縄をほどいてくれた。
「狂言回しの役回りもなかなか大変だ」
わたしはつぶやいた。
「でも、本当に面白かったわ。お兄さんの素人探偵ぶり、記者連も、拍手喝采だったわ」
「ところで、盗聴器はよく聞こえたかい」
「ええ、それはもう、役者の顔が見えるみたいに」
「宮山さん、おめでとう。これでお宅もやっと宿願を達成したわけだ」
安田は大きな力強い手で、わたしの手を握り締めた。
「ありがとう、ほんとうにありがとう。これも二人の協力があったればこそだ」
わたしは、二人の手をしっかりと握った。
ところで、読者のために一言だけ付け加えておこう。わたしは、もともと盗聴器を、市河吉之助に渡したピストルのおもちゃの中に仕組んでおいたのだ。吉之助が壊したテーブルの下の盗聴器は、もちろんおとりだったというわけだ。敵がおとりを使うのであれば、こちらが使っても、フェアプレイの精神に反しはしないだろう。
吉之助は、最後までしっかりとあのピストルをわたしに突きつけていた。それはちょうどインタビュー用のマイクを突きつけられているようにわたしには思えたのだ。
わたしは真理子と安田と連れだって、さっそく銀杏の間に降りていき、一番後の席に坐り、記者会見の模様に耳を傾けた。
「新婚旅行には、どこへ行く予定ですか」
「ヨーロッパに一月ぐらい、行きたいと思っています。二人とも古いお城が好きなので、フランスのロワール河沿いの古城でも巡って来ようかと思っています」
「お子さんは、何人ぐらい欲しいと思いますか」
「そうですねえ、具体的なことはまだ考えておりませんけれど、吉之助はできるだけ沢山欲しいと言っておりますので・・・三人は・・・」
直子がいかにも初々しい生娘のほほえみを浮かべながら、声を弾ませて記者の質問に答えている。やっぱり、大した演技者だとわたしは思った。あんな女が「演技に限界を感じ」て、心中を図ろうとは!
あの夜、わたしに睡眠薬を飲ませる前に、菜美子が与えてくれたあの甘美な快楽のお礼に、わたしは、彼等二人に、この世で最後の美しい夢を見させてあげているのだ。それがせめてものお礼心というものであった。わたしは、婚約発表の記者会見が終わるまで、これから起こるショーに関係することには、ひとことも触れないでほしいと、最初の挨拶のとき、あらかじめ記者の連中にお願いしておいたのである。さすがに大人の記者連は、わたしのもくろみを理解し、リアルな世界では滅多に見られない悲喜劇を目の当たりにする喜びのみならず、自ら即興劇のプロジューサーとして、独り自分たちの置かれている立場に気付ていない出演者を、いかに巧みに最後の、大どんでん返しに導くかという演出の喜びをも味わっているのだ。
毒を塗った刃は、自らの心臓に帰るのだ。ハムレットの悲劇以上の悲劇を健気に熱演している二人に神が祝福を垂れ賜わんことを!
わたしは、真理子と安田を誘い、静かに席をたった。外に出るともう秋の青空が広がっていた。この事件に熱中して季節の移り変わりをすっかり忘れていた。
わたしは、久しぶりに深々と息を吸った。空気がじつにうまかった。
(完)