遺 書は風に散った | 情事のたしなみ|遺書をしたためる間に|ジョギングシューズ|浮気の報酬|二重の環|


ミステリーの部屋


Mystery
(1998/9/21開設)
(Opened on September 21,1998)



浮気の報酬

(1974年4月作:2007年5月 13日掲載開始5月27日掲載完了)

 
 今年(2007年)のゴールデンウィークに、本棚から、1974年に書いたこのミステリーを発見した。ちょうど四百字詰め原稿用紙100枚の中編だか ら、懸賞小説として応募 するつもりで書いたのだろう。すっかり忘れていた。読み返してみたが、本欄に収納するに値すると思うので、暇を見てはワープロを叩こうと思う(手書きの原 稿の写しなのだ)。

ご愛読を乞 う。

目次  (index)
1  2  3  4  5  6  7  8 9 10 11  12 13 14 15 16

 

1
  (20070513掲載)

 初めて浮気をする男というものは不安なものだ。だから大抵の場合浮気が発覚したときのために、妻に対する言い訳を用意しておく。その言い訳ときたら、判 を押したように、ぼくもいけなかったがお前の方にもいけないところがあったのだ式の責任転嫁型に相場が決まっている。ところで浮気が発覚してしまえば、そ んな子供騙しの言い訳などが役に立ったためしなどこれまで一度もないに違いないのだ。

 「浮気したのは確かに悪かった。でも、元はと言えばお前にこれこれしかじかのいけないところがあったからだ」と言われて「そう、そうだったの、よくわ かったわ」と、おとなしく引き下がるような妻がこの世に存在するわけがない。だから、男の考える言い訳というものは、妻に対する言い訳というより、むし ろ、自分の良心の呵責を逃れるための苦しい自己弁明に過ぎない。

 村瀬修が初めて浮気をしたときもそうだった。

 原因は妻にある。妻の淑子が子供の世話にかまけておれの面倒をあまり見なくなったからいけないんだ。普通の亭主並みに世話を焼いてくれさえすれば、おれ は浮気することもなかったんだと、日頃の彼らしくもない幼稚な言い訳を考えたりしたのである。

 しかし、幸いにしてと言おうか淑子に発覚することのなく、広津美樹との浮気はもう半年近く続いていた。

 とにかく村瀬は浮気が発覚しないように並々ならぬ注意を払っていた。たとえば、広津美樹とは週に一回、しかも土曜日の午後一時半から五時までしか会わな かった。土曜日は会社が半ドンだったのでその時を利用したのである。妻には碁会所に寄ってくるということにしておいた。村瀬の碁の腕前は素人四段はあっ た。妻は碁の話は皆目わからない。だから「今日の成績はどうでしたの」というくらいしか、話題にならない。

 普段の日はこれまでのようにきちんと帰宅した。夜遅くなったり外泊したりすれば、それだけ妻に気づかれるおそれがあった。

 ところが、美樹はそれでは不満だった。

 土曜日一日だけなんて私には耐えられない。ときには日曜日にも会って欲しい、と言い出した。そこで村瀬は日曜日に外出する口実を作るためゴルフを始める ことにした。

 まず、初心者向きの安いゴルフクラブを買って帰り入門書を読み始めた。コースに出るには練習所通いが必要だという口実で日曜日になると月に三度は練習所 に出かけた。二、三回通って練習所のやり口を覚えると、そこを早々に引き上げ広津美樹と会うことにした。ゴルフクラブを買ってから、美樹のマンションに行 くまで二ヶ月近くかけたのも用心のためである。一度マンションに行ってしまうと美樹はなかなか村瀬を帰そうとしなかった。そのため、朝の十時に出て、帰宅 するのが、夕方の七時過ぎるようなこともあった。

 「つい、練習に身が入ってね」とか「帰りにちょっと碁会所を覗いたら好敵手が来ていてね」とか言って淑子をごまかしにかかったが、彼女もうすうす何事か を感じているらしく、家の中には邪険な空気が漂い始めていた。

 しかし、村瀬は楽観していた。なるようになったところで、決して自分の都合の悪いようにはならないという気があったのである。たとえ美樹とのことが露見 して妻と別れるようなことになったとしても、自分には美樹がいるではないか。幸い美樹は独身だし、おれが結婚してくれと言えば喜んで承知するだろう。二人 いる子供のことが気になりはしたが、妻が引き取ると言うならそれでもいいし、手放すというのなら、自分の方で引き取ってもいい。美樹なら母親の役を十分 やってくれるに違いない。

 ところが、妻が別れると言い出す前に、美樹の方から「私いつまでもこんなことじゃ嫌よ」と言い出したのだ。「別れるか、ちゃんと結婚してくれるか、二つ に一つよ」

 これには実のところ村瀬は弱ってしまった。彼にしても、結婚して六年にもなり、二人の子供までもうけた家庭というものを、いざ自分の手で壊す立場におか れてみるとそえほど容易に思い切りがつくものではないことがわかったのである。

 たしかに淑子には欠点がないわけではない。彼に向かって「あなたは少し神経質過ぎるわよ。もっと男らしくおおらかになりなさいよ」などと無神経に言って はばからないし、彼の枕元を足音を響かせながら歩き回る。そんな一見些細な無神経さが村瀬の鼻についてしょうがなくなってきている。でも、それで離婚まで しなければならぬほどの欠点かというとそうとも言い切れない。

 考えてみると、妻にもいいところがないではない。たとえば村瀬の大して高くもない給料に対しても、結婚以来愚痴一つこぼしたことがない。その上、四つの 二つになる子供たちの母親としてもまず申し分がない母親である。毎日汚れ物の洗濯をしてやりこぎれいなさっぱりした身なりをさせ、明るく元気な子に育て上 げている。確かに子供たちの世話に手を取られて、新婚当座のようには村瀬のことを構わなくなってはいるが、それでもズボンやハンカチにはちゃんとアイロン をかけてくれるし、料理にも色々工夫を凝らして何かと目先の変わったものを食卓に並べてくれる。客観的に見れば、淑子はむしろ良妻の範疇に入るであろう。 村瀬の方から離婚してくれと言い出す理由は何もなかった。

 と言って美樹との逢い引きを止めるのも村瀬には堪え難いことだった。二つに一つとは言うけれど、そんなに生真面目に考えることもあるまい。この際できる だけずるく立ち回ることにしよう。とにかく今まで通りの状態をずるずると続けていくことだ。美樹がまた何か言い出したら「離婚するため色々準備をしている ところなんだ。何かと面倒臭いことがあってね」とでも言って、矛先をそらすことだ。万一、妻に露見しそうになったら、そのときは、潔く、美樹と手を切って 普通の夫に戻ることにしよう。その方が賢明というものだ。村瀬はそう思った。

 しかし、それはやはり甘すぎたのだ。情勢は村瀬の全く思いも寄らぬ方へと動き始めた。
 
2
  (20070513掲載)

 村瀬の勤務している住金商事の庶務課の連中に言わせれば村瀬という男は根っからの面倒臭がり屋で、自分から進んで物事をやろうという気などさらさらな く、仕事の能力もないくせに、自分の能力に対して不相応な自負心を持った尊大な男ということになるだろう。

 確かにこの評言は、現在の村瀬の評言としてはかなりの程度正鵠を射ていた。しかし、彼が元々そういうタイプの男だったわけではない。村瀬がこういう男に なったのにはわけがある。

 村瀬は十年前東都大学の法科を卒業すると同時に住金商事に入社した。入社後三年間は総務部の総務課で商社マンとしての基礎的な知識を身につけた。次に配 属されたのが営業部の化学プラント課だった。そこでは、彼はもっぱら肥料用プラントの輸出関係の仕事を担当した。

 化学プラント課の課長の赤沢嘉雄は住金商事の中でも中堅随一のやり手で知られていた。やり手だけにあくも強く、若い連中から「鬼の赤沢」と恐れられてい た。それは若手の職員を徹底的にしごくためでもあった。村瀬はその課に丸四年いたが、その間定刻に退社した日は一日もなかった。しかも週の半分以上は、帰 宅も午前零時を過ぎていた。淑子との三泊四日の新婚旅行以外には休暇もほとんど取れなかった。

 そのころの村瀬は自分の能力と若さに絶対の自信を持っていた。若さにまかせて彼はがむしゃらに仕事をやったのである。

 そうした村瀬の仕事ぶりに赤沢課長は大いに満足していた。

 「うちの若い者の中には優秀なのがいてねぇ」
 赤沢課長は社内でも顔が広く、あちこちの課に出没しては村瀬の仕事ぶりを宣伝して回ったほどである。村瀬もまた、赤沢課長に見込まれたということで、前 にも増して仕事に精魂を傾けたのである。

 しかし、その結果が過労だった。連日の徹夜に近い無理がたたって肉体も神経もくたくたに疲れていったのだ。若いのだし、一晩ぐっすり眠れば、疲れぐらい すぐに吹っ飛ぶだろうと考えて日曜日には休養に努めてみたものの、その程度の休養ですぐに回復するような性質の疲労ではなかった。こうして、いままでやす やすと出来たはずの仕事が時間を倍もかけ、三倍もかけても出来なくなっていった。こんなはずじゃないと焦れば焦るほど仕事ははかどらなかった。

 それでも彼は頑張り続けた赤沢課長の期待に背きたくないという一心で、疲れた体に鞭打ち複雑な対外折衝を一手に引き受けて頑張ったのだ。その努力が実っ て肥料プラントの中共向けの輸出契約に成功したとき村瀬はどんあに感激したことだろう。

 その直後、課長は営業二部超に栄転した。歓送会の席で、赤沢新部長は村瀬の肩をたたきながら、

「村瀬、よう頑張ってくれたな。今度来る水野課長には、君は良くできる男だから目をかけてくれるように引き継いでおいたよ。いままで以上に張り切ってやっ てくれ」と激励した。

 しかし、結局この言葉が、村瀬にとっては、大きな負担になった。本来ならば、村瀬はしばらく休暇を取りたいほどの心境だった。赤沢がそのままいてくれた ら、そんな無理も言えたかも知れない。しかし、着任直後の新しい課長に向かってしばらく休養したいとも言い出しかねた。そのうえ前課長の期待に背きたくな いう思いと新課長に一日も早く自分の力量を認めてもらいたい思いとに駆られて、村瀬は悲壮な頑張りを続けたのだ。しかし、それは無謀だった。村瀬の神経の 疲労は限度を超えていた。彼はある日突然、人と話をすることにさえ苦痛を感じ始めた。昨日会った人の名前さえ全く思い出せなくなった。一日中いらいらし、 ちょっとしたことにもぐったりと疲れ、夜もほとんど熟睡できなくなっていた。

 村瀬にはそんな自分が不甲斐なかった。昔のおれはどうした。仕事をばりばりやっていた頃のおれはどこへ行ってしまったのだ。しかし、そう思えば思うほ ど、それは心理的な焦りとなって神経を苛立たせ、ますます村瀬の疲労を蓄積させることになった。いつの間にか村瀬は人の目を避け自分の殻に閉じこもった生 活を送る無能で消極的な男に成り変わっていたのである。

 水野課長は村瀬のそうした変貌ぶりを、自分に対する不信感の現れととった。前課長にはあれほどの忠勤を励んだ男が、新課長のおれには掌を返したような態 度をとっている。よおし、そっちがそのつもりなら今に見ておれ。水野課長の胸の中には村瀬に対する憎しみさえ生まれていた。

 そして間もなく村瀬は現在の所属課である庶務課に転属させられたのである。そこで彼は日永一日他人の超過勤務手当の計算を電卓相手にやる仕事をあてがわ れた。しかし、そんな単純は仕事でさえ彼には大儀だった。彼は片手で頭を押さえながら電卓のキーを叩いた。簡単な電卓の操作さえ入社ホヤホヤの女子職員に 何度も教わらなければうまくできなかった。やる気を急になくしてエリートコースから脱落した男、それが他ならぬ村瀬に対する会社内での評価として定着して いった。

 そんな村瀬の前に突然姿を現したのが、広津美樹だった。

 彼女を新宿駅の雑踏の中で見つけたとき、村瀬の心は本当に久しぶりに華やいだ。彼女をたまさか思い出すたびに、村瀬は一種の懐かしさとともに一種のほろ 苦さを味あわされるのだ。

 広津美樹。おれが初めて愛し、初めて口づけを交わした女。美貌と才気に溢れた気位の高い女。おれがまだ若さと自信に満ちていた頃の恋人。しかも、ある日 突然理由も告げずにおれの前から姿を消した不実な(?)女。

 おれはあの時、彼女からどうしてあれほどあっさりふられたのだろう。ーーこれは今もって村瀬の胸にわだかまっている疑問だった。

 その広津美樹が、彼のすぐ目の前を歩いていたのである。

 話しかけようかどうかと村瀬は迷った。彼女の前に今の自分の惨めな姿を曝したくないという気持ちと彼女と話し合うことによって、自分もまたあの頃の輝か しい青春を取り戻すことができるかも知れないという期待とが、心の中で交錯した。そして結局村瀬は後者に賭けたのだ。とにかく、今の境涯から抜け出すため には藁にでも取りすがりたい気持ちだった。

 村瀬が広津美樹と知り合ったのは、東都大学のフラミンゴという混声合唱団だった。そのとき村瀬が東都大学法科の二年生、彼女が東洋女子大家政科の一年生 だった。

 彼女は大柄でその頃から成熟した美貌の持ち主だった。歌もうまくなかなかの社交家でフラミンゴの中では特に男性連に人気があった。

 十年ぶりに見る彼女は、一段と磨きのかかった美貌をあたりにまき散らすかのように胸を張って新宿駅の雑踏の中を歩いていた。長い付け睫毛をつけ、マスカ ラを塗り、形のいい唇には燃えるような深紅の口紅を塗っていた。白一色のパンタロンスーツに身をまとい、大きな眼できっと正面を見据えたまま、彼女はハイ ヒールの音をカッカッと響かせるようにして歩いていた。

 村瀬は彼女の辺りを払うような態度に気後れしながらも、十年前の彼らの関係を思い描き、できるだけ平然さを装おうと大きく息を吸い込んでから声をかけ た。

 「広津さん、広津美樹さんじゃありませんか」
 雑踏の中で突然自分の名前を呼ばれた広津美樹は、あわてて村瀬の方を振り返った。しばらく彼女は村瀬の顔をいぶかしむような顔つきで見つめていた。村瀬 は、もしかしたら彼女が自分のことを思い出してくれないのではないかという不安に囚われ、その場にへたへたと座り込んでしまいたいほどの気落ちした感情を 味わった。

 と、彼女の瞳に明るみが差し、彼がそこに立っているのがほとんど信じられないというふうに眼を見開き、大げさな身振りを交えながら

「村瀬さん?村瀬さんなの」
彼女は叫んだ。村瀬は息を飲み込みながら頷いた。

「随分お変わりになりましたのね。あまり痩せていらっしゃるので他の方かと思いましたわ。それにあの頃はお眼鏡もかけていらっしゃらなかったんじゃありま せん?」

 村瀬はきまり悪そうにニッと笑い、
「あなたは少しも変わりませんね。いや、ますまうす美しくなりましたね」
そういいながら村瀬は、自分の声があまりに弱々しいのに驚き慌てて下腹に力を入れなければならなかった。

「まあ、お上手をおっしゃって」
そういうと彼女は体をくすらせながら笑った。笑うと美樹の厚い唇がすこし反り返り、どことなく肉感的な色気が漂った。それは昔も今も変わらなかったが、十 年の歳月が色っぽさを男を意識したものに変えているようでもあった。村瀬は美樹の屈託のない笑顔を見ると、何となくホッとし、彼女に話しかけて良かったと 思った。

3
  (20070513掲載)

 その足で二人は新宿駅近くの喫茶店へ行った。

 村瀬が改まって「本当に久しぶりですね」と言うと、美樹は親しみを込めた笑顔で「本当に」と相槌を打った。「あれからもう十年になるのですね」

 そう言いながら美樹は、遠くを見るような目付きをした。あたかもこれまで歩んできた十年間の歳月を一望の下に見通しているような目付きだった。そのとき 村瀬は、自分の全く知らない過去を持った一人の女と全く偶然のことから話し合っていることの奇遇を改めて感じた。昔と変わらないその美貌の下にどんな十年 が隠されているのであろう。

 村瀬が美樹の近況を尋ねると
「ああそうそう、村瀬さんはフラミンゴにいらした野崎淑子さんと結婚なさったんですってね。いつかそんなお話をうかがって陰ながらお祝いをしていたのです よ。淑子さんお幸せでしょうね、村瀬さんみたいないい方と結ばれて。私の方は全くダメ。人生の敗残者ってとこね。二年前に夫とも離婚しましたの。お決まり の性格不一致という理由で。それ以来女独りで苦労しながら何とか生きていますわ。ええ、今は料理学校の先生をやっていますの。家政科出のお免状がひょんな ところで役立ったというわけですわ。私自身はお料理は大してうまくないんですのよ。私みたいな先生に教わる生徒さんは気の毒みたいなものですわね」

 そういう美樹の表情にはどこか寂しいものがあった。しかし、彼女のそんなところに自信を喪失していた村瀬は逆に引きつけられた。もし、彼女が人生街道を 大手を振って歩いており、人生の悩みなどとは無縁の存在だったとしたら、村瀬は彼女と二度と会う気など起こさなかったに違いない。何と言っても彼女は十年 前彼の前から忽然と姿を消した女である。もし、彼女が幸福に溢れ意気揚々としているようなら村瀬は十年目にして自分があのとき彼女から振られたということ を思い知らされることになったろう。しかし、彼女はそうではなかった。新宿駅で見かけたときの印象と異なり、どこか弱々しく偶然に出会った村瀬に救いを求 めているような感じさえあった。

 当たり障りのない雑談を交わしながら、時おり二人の視線はぶつかり合った。村瀬がそのまま見続けてみると、彼女の方でも視線を逸らそうとせず、じっと見 返すのだった。その瞬間話が途切れた。しかし二人とも意に介さなかった。彼女の静止している瞳の中に村瀬は妖しいひらめきを見た。彼に初めて口づけを許し た夜のあの濡れた生々しい女の眼がそこにあった。村瀬の心は燃え上がった。

 大きく開いたスーツの襟元から彼女の波打つ胸元がのぞいたいた。ーーおれの手の中で十年前やわらかく弾んでいたあの胸。おれは口づけしながら右手であの 胸をまさぐった。あのとき彼女は両目を閉じたままじっとなすがままにしていた。

「今から君のところに寄ってもいいいかい」
 突然、自分でも信じられないくらい唐突に村瀬は尋ねた。
 彼女は彼の視線をまともに受け止めたまま、
「今夜はだめよ、これからお仕事があるの。でも今度きっとね」
 彼女の大きく開いた襟元が息苦しそうに揺れていた。

4
  (20070513掲載)

 約束の土曜日の午後、村瀬は赤坂にある彼女のマンションに行った。思ったより古ぼけた四階建ての小さなマンションだった。美樹の部屋は三階の廊下の突き 当たりにあり、六畳に洋間にキッチンだけのこじんまりしたものだった。

 部屋に入るなり村瀬は美樹の手を取った。彼女は少しも逆わらずに自分の体を投げ出してきた。仰向いた彼女の唇に村瀬は荒々しく自分の唇を押し付けた。そ のとき彼の脳裏に浮かんだ妻の面影を払いのけるかのように…

 初めて美樹と口づけしたとき、彼らは唇を閉ざしたままお互いの唇をじっと押し付け合っていただけだった。それでも村瀬の胸は高鳴ったものだった。あれか ら十年、お互いに異性とのセックスを知り尽くした男と女になって、二人は荒々しく唇をむさぼり合い激しく燃え上がった。そしてそのまま、洋間の大半を占領 しているベッドの上に倒れ込んでいった。

 子供を産んだことのない美樹の身体はみずみずしくしなやかだった。乳房はまだ形が崩れていなかった。行為の間、彼女はひっきりなしに嗚咽をもらした。淑 子との経験しかない村瀬には驚異だった。女がこれほど激しく燃え上がるということを村瀬は初めて知った。普段の慎みをたたえた顔つきからは想像も及ばない 女がそこにはいた。こんなに激しい男女の営みを教えたのは彼女の別れた夫だったのだろうか。村瀬はその男に嫉妬したが、彼女は前夫がどういう男であり、彼 女がどうして別れたのかさえ何も知らなかった。

 村瀬がことあるたびに離婚の理由を尋ねても美樹は「お決まりの性格の不一致よ」と軽くいなすだけでそれ以上何も答えようとしなかった。

「今更別れた夫との離婚の理由を聞いたって仕方がないでしょ」
 確かにそうだった。村瀬の置かれている立場で、離婚の理由を根掘り葉掘り聞かなければならない理由など少しもなかった。

 こうして週一回土曜日に彼女と赤坂のマンションで会う生活が始まった。村瀬は自分の疲れきった神経がその週一回の逢い引きのときにのみすっかり癒されう るように感じた。村瀬が自分というものを完全に忘れることができるのはそのときだけだった。こうして村瀬は美樹との情事に溺れていった。

5
  (20070513掲載)

   ある日村瀬は、美樹とベッドに寝転び彼女の背中を右手で愛撫しながら耳元にささやきかけた。
  「美樹、どうしてぼくから急に離れていったんだい」

  これはそれまでも何度か尋ねながら、未だにはっきりした答えを引き出せずにいる村瀬の大きな疑問だった。彼がこの質問をするたびに美樹は
 「淑子さんがあなたに夢中だったからよ。淑子さんたらフラミンゴの誰彼の区別なしに、村瀬さんが好きだって言い触らしていたのよ。私と淑子さ んは案外仲が良かったので、淑子さんは私に何でも話してくれたわ。あなたからよく電話がかかってきたこと。あなたとデートしたこと。それはそれは幸せそう に話していらしたわ。だから、私の方で身を引くことにしたのよ。あなただって淑子さんが好きだったんでしょう。後で結婚なさったのだから」と答えるのだっ た。
 
 しかし、村瀬はこの答えには何となく釈然としないものを感じていた。
 
 確かに彼は淑子が嫌いではなかった。何度かデートしたこともあった。しかし、好きといっても、美樹に対する感情とは別の全く別の種類の感情 であった。美樹と二人でいるときに感じる旋律するような感情をあの頃の淑子に対して感じたことはなかった。
 
 淑子は村瀬が大学四年のときにフラミンゴに入ってきた。痩せぎすの小柄な女の子で、すんだ美しい眼と飛び抜けて正確なソプラノでたちまちフ ラミンゴの人気者になった。新入会員の歓迎パーティでたまたま隣り合わせに座ったことから、村瀬は彼女の電話番号を聞き出し、それ以来集に一回、欠かさず 電話をかけるようになった。電話口での淑子は実に生き生きとして楽しいおしゃべりの相手だった。しかし、村瀬にとっては、淑子はあくまで楽しいおしゃべり の相手にしか過ぎなかった。だからデートにしてもたまさか彼女に誘われて音楽会に行く程度で、彼女の手を握ったこともなかった。ただ、淑子が自分に熱を上 げているのを知らない訳ではなかったので、彼の方でも悪気もなく随分と思わせぶりはことを言ったりしたのは事実である。週一回淑子に電話する一方で、村瀬 は美樹と毎週のようにデートしていた。お互いにフラミンゴの役員をしていた関係で、半ば公用の打ち合わせという名目で大学の近くの喫茶店で落ち合うような こともよくやった。しかし、大学四年の秋、美樹は突然理由も告げず、村瀬の前から姿を消したのである。
 
 村瀬はそれ以来極端な女性不信に陥り、女の子と話す気にもデートする気にもならなかった。そんな訳で淑子に対する電話も全くお留守になっ た。淑子からその後も何度か手紙を貰ったりしたものの返事を出す気にならないでいるうちにいつか音信も絶えてしまったのである。

  村瀬が淑子に電話をしたのは大学卒業後二年もたった頃だった。何となく寂しくて久しぶりに彼女の声が聞きたくなったのである。

  電話口から返ってきたのは以前と少しも変わらぬおしゃべりで陽気な淑子の弾んだ声だった。その電話がきっかけで村瀬は淑子と再びつき合うよ うになったのである。
 
 二年半ぶりに会った淑子はどこかしっとりとした風情を身につけていた。一度は村瀬に振られたという心理的な重圧感が彼女の心に幸せというも のに対する謙虚さを醸成させているかのようだった。

  村瀬はもはやいかなる女性に対しても、美樹に対して感じた、あの戦慄するような感情を覚えることはないと考えていた。しかし、村瀬は清楚で 思いやりのなる淑子に次第に引かれていった。確かにそれはまた別の種類の心のゆらめきであった。そして、つき合いだしてから二年目に、忙しい仕事の合間を 縫うようにして二人は結婚したのである。
 
 美樹の話によれば、淑子は村瀬が思っていた以上に、あの頃から村瀬に熱を上げていたらしいのだが、そうだからと言って美樹が突然村瀬の前か ら姿を消さなければならない理屈にはならない。あの頃村瀬の眼中には美樹しかなかったことは、美樹自身が一番良く知っていることではなかったか。

 「美樹、どうしてぼくから急に離れて行ったんだい、理由も言わないで」
  村瀬は美樹の耳元にもう一度尋ねかけた。
 「あなた、本当に知りたいの」
  美樹はまともに彼の方に向き直った。
 「そのため、誰かが傷づくようなことになってもいいの」
 「誰かが傷づくって一体誰が傷づくんだ」
 「さあ、それは言えないわ。でも、本当のことを話せば誰かが傷づくことは確かなのよ。だから私は誰にも話したくないの。自分の胸の中だけにい つまでもしまっておきたいの」
 「そんな思わせぶりな言い方をして話さないなんて狡いぞ。さあ、どんなことになってもいいから話してくれよ、頼むから」
  村瀬は美樹を抱き寄せ、首筋にキスの雨を降らせ、半ば冗談めかしながらも、強い決意を匂わせるような言い方をした。
 「ほんとうに?」
 美樹は村瀬を両手で押し戻し、もう一度彼の意志を確かめでもするように彼の眼を見つめた。
 「ほんとうに聞きたいの?」

  そのとき村瀬は、彼女のやや青ざめた顔つきを見て後ろ髪を引かれるような気持ちに襲われた。しかし、今更後に引けるものかという気持ちも あった。それよりも何よりも口の方で勝手に「ほんとうに聞きたいんだ」と強く突っ撥ねるような言い方をしていたのである。
 「あなた、あの事件のこと覚えている?N湖で、樋口好之さんが溺死した事件」
 「よく覚えているとも、昨日のことみたいに」
 村瀬は勢い込んで答えた。
 
 6
  (20070513掲載)

  樋口好之、無口でハンサムな男。いつもニヒルな薄笑いを口元に浮かべ、彼は一人フラミンゴの仲間から離れたところにいた。しかし、彼のテ ノールは抜群だった。ほとんど初見の曲ですらやすやすとこなした。合唱曲のテナーのソロはいつも樋口が歌った。誰もそれに不平を言わなかった。それほど彼 は群を抜いていた。

  あの事件の起きた夏はフラミンゴを結成して四年目にあたり会員も八十名近くに膨れ上がっていた。創立以来フラミンゴの育成のために苦楽を共 にしてきた村瀬らの四年生の執行部にとっても、最後の夏休みだったので長野県の北部にあるN湖へ合宿に行った。N湖には大学の寮があった。合宿には男性が 30名、女性が35名参加した。
 
 こうした合宿ではとかく男女関係が問題になりやすい。そうした危惧もあって、執行部は毎日きちんとしたスケジュールを作り、生活が乱れない ように色々と気を配った。そうした配慮もあって、二週間にわたる合宿も大した波乱もないまま後二日で解散という日になて、あの事件は起きたのだ。
 
 スケジュールでは朝七時半全員起床、八時から九時まで秋の大学祭で発表するバッハのヨハネ受難曲の練習をやることになっていた。朝食は練習 後九時半までにとることにし、炊事当番の六人だけは練習に参加しないでもいいことにしていた。ところが、練習時間になっても、炊事当番でもない樋口の姿が 現れないのである。テナーの大黒柱だけに練習に支障があった。皆で手分けして探したが結局見つからなかった。あいつのことだからまた急にお冠でも曲げて湖 の周りを散歩でもしているのだろう。ということになって、皆も途中で探すのを諦めて樋口抜きで練習を始めたのである。
 
 朝食後の、十時半に練習を再開するまでのわずかな時間が自由時間だった。この時間を利用して、めいめい散歩したり、洗濯をしたりするのであ る。
 
 十時二十分頃だった。合唱団の役員室に割り当てられた二階の奥の部屋で村瀬らがゴロ寝していると、その日が炊事当番の野崎淑子がショート・ パンツ姿で飛び込んできた。

 ーー寮から丘一つ向こうの岸辺を散歩していたら、樋口さんのものらしいバスタオルとサンダルを見つけた。だけど、近くには樋口さんの姿は見当 たらなかった、というのである。

  村瀬はそのとき何か不吉なものを感じ、他の連中と一緒に現場に飛んで行った。現場は寮から百メートル近く離れた、林に囲まれた静かな入り江 で、深みが岸近くまで迫っており岩が多いので、ここでは泳がないようにと皆に注意しておいたところだった。

  淑子に案内されて行ってみると、確かに樋口のものとおぼしきバスタオルとサンダルが小さな岩の上に置いてあった。樋口と同室の男がバスタオ ルは樋口のものに間違いないと言った。あたりを探しまわったが樋口の姿はどこにもなかった。ひょっとしたら、中之島まで泳いでいったのかも知れない、と誰 かが言い出すと、他の一人が、樋口はそんなに泳ぎはうまくないぜ、せいぜい二百メートルも泳げば、たちまち沈没ってとこだぜと混ぜ返した。
 
 N湖の中央に中之島という周囲3キロメートルに満たない無人島があり、湖の守護神が祭られていた。島まで二キロメートルほどしかないのでフ ラミンゴの男性陣の中には泳いで渡れる者が五、六人いた。女性でも挑戦した者もいたが、まだ誰も成功した者はいなかった。途中に相当流れの速いところが あってよほど水泳に熟練していなければなかなかそこを泳ぎきれないのである。遠泳の苦手な村瀬は寮のボートで二、三度渡ったことがあったが、中之島は文字 通り白砂青松の小島で、対岸からは守護神を祭った神社の赤い鳥居がひときわ鮮やかに見えた。
 
 樋口の姿が見当たらないとすれば中之島へ行ったことも考えられた。そこで村瀬らは、中之島組と沿岸組に分かれ、樋口の捜索に乗り出すことに した。村瀬は中之島組の指揮を執ることになった。寮の裏手にある波止場に行ってみると三艘あるはずのボートが二艘しか見当たらなかった。樋口はボートで湖 のあちこちを漕ぎ回っているのだろうか。

  村瀬の一行は二艘のボートに分乗して中之島へ向かった。が、島には樋口の姿はなかった。そこで村瀬は湖上にボートを漕ぎ出し失踪したもう一 艘のボートを探しまわった。一時間も探しまわったあげく寮から三キロメートルも離れた浅瀬に座礁しているボートを発見した。ところがボートにも樋口の姿は なかった。座礁したとき破損したのかボートは少し浸水していた。だが、航行できないほどでもなかったので、ロープで引っ張りながら寮の方へ引き返し始め た。
 
 そこから、約一キロメートル離れた外国人村の前を通り過ぎかかると、色とりどりの水着をまとった外国人らが、手を振り、大声を上げて、何事 か捜索隊の一行へ合図を送ってきた。彼らがボートを近づけると、どうやら日本人の溺死体を発見したと大声で叫んでいるらしいのである。
 
 日本人の溺死体といことで村瀬らはお互いに顔を見合わせ岸めがけて必死にオールを漕いだ。彼らの危惧は不幸にも的中した。派手なストライプ の入った水着を着た樋口の変わり果てた姿が砂の上に敷かれたタオルの上に横たえてあった。人工呼吸など色々手当したがだめだったと、背が高く、ブロンドの 胸毛をいっぱい生やした男が気の毒そうに片言の日本語で説明した。
 
 通報を受けて飛んできた地元の警察の検死の結果、樋口は死後五時間ほど経過していた。死因は溺死だった。肺の中からN湖特有の動物性プラン クトンが多数発見され、そのことが確認された。外傷はなく、水泳中疲労から水を飲み、溺死したものと推定された。
 
 フラミンゴの団員は全員、地元の警察に足止めされ事情聴取を受けた。樋口がその朝早く部屋を抜け出て行ったということは、同室だった水田が 証言した。五時頃だったと思う。樋口がこっそり起き出して行くのに気づいた。彼は変わり者で通っており、それまでも朝早く一人で抜け出したり、夜遅くこっ そり帰ってきたりするので、全く気に留めなかったち水田は答えた。秘技値の他にその朝早く誰かが抜け出した者がいたかどうかは、画商団員の証言からは判然 としなかった。
 
 朝の五時から七時半までの間、樋口は独りN湖で泳いでいたのだろうか。そして突然疲労から手足が硬直し水に呑まれて死んだのだとうか。警察 の執拗な尋問が続いたが、結局犯罪に結びつくような確証の上がらぬまま、樋口の死は事故死として一応の終止符が打たれることになった。
 
 一夏の楽しかるべき思い出は、一転して悲しい思い出となった。合宿中不祥事を起こしたということで、村瀬らフラミンゴの執行部は辞表を出 し、大学祭への参加も辞退した。

  大学祭へ参加するという目標を失い、創立以来合唱団の中心になって頑張ってきた思考部が総退陣すると、設立後の日も浅く、それほど基盤も強 固でなかったフラミンゴは、いつともなく自然消滅していった。そして、その時期を境として広津美樹は村瀬の前から姿を消し、ようとして消息がわからなく なったのである。

 「美樹、君がぼくの前から姿を消したことと、樋口が溺死した事件と、どんな関係があるんだ」
  村瀬は、自分の胸の中に、大きな疑問が頭をもたげてくるのを感じながら美樹に尋ねた。
 「あの事件は、あたしには最初から起こるべくして起きた事件としか思えなかったわ」
  美樹は村瀬の反応を伺うような顔つきで言った。
 「あなたには、樋口という男の正体がわかっていたの。あの男はとんでもないドンファンだったのよ。あの男の歯牙にかかった女性はフラミンゴに もおそらく四、五人はいたはずよ。あなたにはこんなことほんとは死ぬまで言いたくなかったけれど、私もその中の一人だったのよ。そして…」
 「そして?」
 「そして淑子さんも」

  そう言うと美樹はベッドに顔を押し付け、呻くように泣き始めた。
 「これで私があなたの前から姿を消したわけがわかったでしょ。それに私は見てはならないものを見てしまったのよ。淑子さんがあの朝九時過ぎ、 皆が食事をしている最中に、一人で抜け出すと樋口さんの部屋からバスタオルを持ち出して、N湖の方へ小走りに走って行くところを私、見てしまったのよ」
 
 そこまで言うと美樹は一段と泣き声を高めた。
  村瀬は彼女から聞いた事実のあまりの意外さに圧倒され、彼女を慰めるのも忘れ、のたうち回る全裸の身体を呆然と見つめていた。



 7
(20070515 掲載)
 
  あれ以来「そして淑子さんも」という言葉が村瀬の上に重くのしかかっていた。それに、樋口のバスタオルを持ち出したらしい淑子の行動が合点 がいかなかった。何のために彼女はそんなことをしたのだろう。彼女が持ち出したタオルは、例の入り江の岸辺にあったものと同じものだったのだろうか。同じ だったとすれば、淑子は何のために樋口のタオルとサンダルをあんなところに置きに行ったのだろう。淑子は炊事当番という立場を利用して全員が食卓について いる間に、本当にこっそりタオルとサンダルを運んだのだろうか。そうすることによって、一体何を狙っていたのだろう。
 
 待てよ、樋口のタオルがあそこにあったために、おれたちは単純に、彼はあそこから泳ぎ出したという風に思い込まされていた。ところが、あのタオルが、事 件が発生した後で淑子によってあの場所に置かれたものだとすると、樋口があそこから泳ぎ出したという事実はまったく存在しないことになってしまうのだ。と いうことになれば、淑子には、樋口があそこから泳ぎ出したと思い込ませなければならない何か深い理由があったということにならないだろうか。
 
 その深い理由とは一体何だろう。樋口の事故死について淑子は誰も知らない事実を知っているのだろうか。

  村瀬はそのとき、今まで単純に事故死と思っていたあの事件の背後に何か大きな暗黒部が隠されているのを感じた。しかし、今になってどうやっ てその暗黒部を探り出すことができるだろう。あれから、もう十年の歳月が過ぎ去っているのである。
 
 村瀬は、淑子に直接問いただす気にもなれなかった。淑子にそんなことやった覚えはないと一言で片付けられればそれまでのことである。

  それよりも美樹の「そして淑子さんも」という言葉が彼の淑子に対する気持ちをますます遠ざけ、彼は淑子と言葉を交わすことにさえ、嫌悪を感 ずるようになっていたのである。

  夫の自分に対する態度の中にひんやりとしたよそよそしさを感じ始めたらしい淑子は、悲しげに口を閉ざし「行っていらっしゃい」とか「あなた 御飯ですよ」といった程度の決まりきった言葉しか口にしなくなった。

  そんな冷却状況が二週間近く続いたある日、淑子は突然村瀬の前に座り込むと、
 
「こんな風にして生活を続けて行くの、もう私には耐えられませんわ。何か気に食わないことがあるのでしたらはっきりおっしゃって下さい。もう息が詰まりそ うで、我慢できませんわ」
 
 そう言うと淑子は、涙の溢れた眼で村瀬の顔を哀願するように見つめた。
 
「自分の胸に手を当てて考えれば思い当たるととがあるだろう」
 彼は冷たく突っ放した。

 「いいえ、私には何にも思い当たるようなことはありませんわ」
 
 彼女は夫の眼をまともに見返しながらきっぱりと言い切った。それが彼の癪に障った。おれは知っているんだぞ、何もかも。

 「へーそうかい、何にもねぇ。あんなことをしておいて、随分威勢だけはいいんだね」

 「本当に何にも思い当たることはないんですもの。そんなに遠回しな言い方をなさらないではっきり言って下さい。私が自分でも気づかずに何かい けないことをしているのでしたら、お詫びしますわ」

 「これはお詫びすればすむような問題ではないんだよ。十年前フラミンゴの連中とN湖に合宿に行ったことを覚えているだろう。あのとき樋口好之 という男が溺死した。そのことに関連があると言えばお前にも心当たりすることがあるだろう」
 
 村瀬がこう言ったとき、妻の顔にさっと青白い緊張感が流れた。それを見て村瀬はそれ見たことかと思った。やっぱり美樹の言った通りだったのだ。淑子は何 か知っているのだ。「そして淑子さんも」と言った美樹の言葉は真実なのかもしれない。村瀬は、顔色が変わったのを見て、淑子が折れてくることを期待してい た。しかし、淑子は青ざめながらも

 「何のことをおっしゃりたいのか、私には全然わかりませんわ」
 淑子は、 一歩も引こうとはしなかった。

 「そうかい。それならいいよ。おれもその言葉を聞いて安心したよ。お前には少しも反省するようなことはないと言うのだな。なかなか立派だよ、 お前は」

  村瀬は、たっぷり皮肉を込めた言葉を淑子の顔面に投げつけた。その言葉に淑子は突然顔を曇らせて

 「ひどいわ。ひどいわ。あなたは何か誤解していらっしゃるのよ。私には、あなたにそんな風に言われなければならないようなことをやった覚えな んかこれっぽちもないのに」

  そう言うと淑子は畳の上に身を投げ出し、全身を震わせて泣き始めた。

  これがお前のしたことの報いというものだ。村瀬は冷たい眼で泣き伏している妻の姿を見下ろしていた。今に決定的な証拠を突きつけてやるか ら、今のうちにせいぜい否定しておくがよい。村瀬は残酷な思いに取り付かれでもしたかのように、妻をその場に残したまま、荒々しい足音を立てて書斎へ引き 蘢ってしまった

8
(20070516 掲載)


 書斎であれこれ考えているうちに村瀬の頭にひとつの考えがひらめいた。
 ーーあの座礁していたボートがあの事件に関係していたのではあるまいか。樋口は朝早く一人でボートに乗った。何かのはずみでボートから転落す る。たいして泳ぎのうまくない樋口は必死に岸に泳ぎ着こうとするが途中で力つき溺れた…
 
 しかし、この考えではなぜ淑子がタオルを岩の上に置かなければならなかったのか、説明がつかない。
 
 待てよ、樋口が美樹のいう通りドンファンだったとして、団員のうちの誰かと朝早いデートをもくろんだという風には考えられないだろうか。仮にその相手の 女性をXとしておこう。樋口はXと共に湖上にボートで漕ぎ出す。樋口はボートの上でXを口説く。しかし、Xはなかなか樋口の言いなりにならない。そこで樋 口は実力でXに迫る。狭いボートの上である。ものの弾みで樋口は湖に落ちる。あるいは樋口の油断を見すましてXが彼を突き落としたのかもしれない。Xは ボートに取りすがろうとする樋口を突き放す。樋口は必死に泳ぐが岸にたどり着けずに溺れてしまう。Xは波止場に帰ろうとするが、オールの扱いに慣れていな いので水流に流され岸近い岩礁に乗り上げる。そこから必死に岸に這い上がり、寮に何食わぬ顔をして戻ると、皆と一緒になって、歌の練習をやったり炊事当番 をやったりする。ところが、自分がボートに乗った事実が明るみになったら困るので、岩の上にタオルとサンダルを置き、樋口は一人で泳ぎに行き、そのまま水 死したように装う。Xにしてみれば、朝早く樋口と一緒だったということはどうしても知られたくない。デートした事実がばれるだけでなく、殺人の容疑さえ降 り掛かる恐れがある。
 
 樋口が水中に落ちたのは過失なのか、それとも故意に落とされたかは、わからない。しかし、ボートの上から助けようとすれば助けられないことはないだろ う。おそらく、Xという女性は、樋口を見殺しにしたのに違いないのだ。
 
 そのXという女性が、自分の妻の座に座っているのかも知れないのである。
 
 村瀬はある日、美樹のマンションに行った際に美樹に自分の推理のあらましを話してきかせ、その反応を見た。
 
 村瀬が美樹の答えを待っていると、美樹は突然彼に背を向けて窓際まで歩いて行き、窓の外を眺めながら静かな口調で話し始めた。
 
「その話はもう止めましょうよ。十年前に片のついたことじゃなくて。いまさらああでもないこうでもないと憶測してみたところで何にもならないわ。何にもな らないどころか、せっかく丸く収まっているものに、わざわざ波風を立てて引っ掻き回すようなものじゃなくて。私ね、この前少し感情的になっててあんなこと を言ってしまったけれど、あの話はするんじゃなかったって後悔しているのよ。世の中には真相がわからないままうまく行っていることが沢山あるんだし、この ことだって今さら真相を探ろうなんて余計なことはしないで、このまま放っておくのが、一番賢いんじゃないかしら」
 
「そうはいかないよ。君には関係ないことかも知れないけれど、おれには大有りさ。おれの身にもなってくれよ。六年間も生活を共にしてきた女が殺人犯かも知 れないんだぜ。彼女が人殺しだったとしたら、もう一秒だって一緒に暮らしていくのはご免だね。君だってそうだろう。君の夫が、殺人犯ということがわかった らどうする。同じ屋根の下に住む気になんかならないだろう。おれはどうしても真相を突き止めるつもりだ。単純は事故死だったのか、それとも樋口は誰かに殺 されたのか」
 
「でも、十年前のことを今から調べようとしたって何にもわかりっこんないわ。あの時わからなかってことが、今になってわかるはずがないじゃないの」
 
「そんなことはないさ。もし淑子が何かしたのであれば、淑子は何もかも知っているはずだ。淑子は高校時代から毎日日記を付けている。その中に書いてある可 能性がある」

 「さあ、そうかしら。たとえ淑子さんが犯人だったとしても、人を殺したなんてことを自分の日記に書いたりするかしら」

 「それはわからないさ。それにたとえ直接そう書いてなくても、その前後の日記を読めば、あの時どういうことが起こったか類推ぐらいできるだろ う」
 
「その日記だけど、あなたは見ることができるの」
 
「うん、淑子が結婚するとき持ってきた手文庫の中にあるらしいことはわかっているんだ。ただその鍵だけど、彼女がいつも財布の中に入れて持ち歩いているの で、このところチャンスをうかがっているんだ。この前も、もう少し淑子が長く風呂に入っていたら、うまく行くところだったのに…」
 
「まあ随分ご執心のようね。そんなにやりたければやってみたらいいわ。なかなかうまくは行かないでしょうけど」
 
「ところで君はあれ以上のことは、何にも知らないのかい」
 
「あら今度は私から事情聴取ってわけ。それじゃ本当のことを教えてあげましょうか。この前言ったことはみんな嘘。全部口から出任せよ。あなたを少しから かってみたかったのよ。あなたったら、何でもすぐ真面目にとって大騒ぎするんだから、私可笑しくって」
 
「えっ、あれが嘘だって。そんなことを今さら言ったって遅いさ。君は泣きながら話したじゃないか。あの涙もみんな演技だったって言うつもりかい」
 
「そうよ。女なんて泣こうと思えばいつだって涙ぐらいこぼせるものよ」
 
「それじゃ、君がおれから離れて行った理由がなくなるじゃないか。そんな話で誤摩化されるようなおれじゃないさ」
 
「本当はね、私あなたより樋口さんのほうが好きだったのよ。樋口さんが溺死したショックで、私生きる気もなくしたくらいなの。だから、あなたのつきあう気 にもなれなかったの。これが真相よ。淑子さんなんて、あの事件に何の関係もないの。あなたが、一方ではこうして私とつきあいながら、淑子さんを愛している らしいのを見て、私妬いていたのよ。結局私は浮気の相手に過ぎないという気がして。それであんなことをつい口走ってしまったの。淑子さんが樋口さんと関係 があったなんて、あれも全部嘘よ。ご免なさいね。さあ、いつまでもこんな話をしないで、今夜は一緒に食事でも行きましょうよ」

  美樹はこう言って話を打ち切った。村瀬はその日は、美樹を抱く気にもなれず、外で食事を摂って別れた。(続く)

9
(20070517 掲載)

 
  それから一週間というもの、村瀬は悶々たる日を送った。美樹が泣きじゃくりながら言った言葉とそれを頭から否定した言葉とのどちらを信じた ら良いものか決めかねていたのである。しかし、もし妻に何ら非難すべきところがないというのが真相だったとしたら、罪もない妻を問いつめ、口もきかないよ うな態度をとり続けていくのは、あまりにも残酷というものだった。淑子は、眼に見えて生気を失い、憔悴の度を加えて行くように見えた。

 村瀬は、ある朝出社の際、元気なく後ろから「行っていらっしゃい」という妻に、前を向いたままの姿勢で「この前はおれが悪かった。謝るよ。だから機嫌を 直してくれ」と言った。
 
 そう言うと妻が口元を押さえ方を小さく震わせ始めたのが感じられた。しかし、村瀬は、振り向きもせず、そのまま玄関を出て行った。
 
 その日の夕刻、村瀬が帰宅すると、妻の顔が生き生きと輝いているのが感じられた。
 
 「あのね」と珍しく妻のほうから話しかけてきた。「今日、買い物に行ったら懐かしい人に会ったのよ」
 
「懐かしい人って?」
 
「あなたも覚えていらっしゃるでしょ、フラミンゴにいらした広津美樹さん。あの方に偶然お目にかかったのよ、駅前のスーパーで。あの方あまりお変わりに なっていないわ、相変わらずおきれいで。今料理学校の先生をしていらっしゃるですって。私があなたと結婚したことを知っていらっしてお祝いを言っていただ いたの。私懐かしいので遊びにいらっしゃらないってお誘いしたの。そうしたら、この次の日曜日にでもお邪魔させていただこうかしらとおっしゃるの。あな た、いいでしょ」
 
「へぇー、広津美樹さんねぇ」
 
 村瀬はそう言いながら日曜日に我が家に来ると言う彼女の真意をはかりかねて、しばらくぼんやりしていた。
 
「あなた、構わないでしょ」
 妻にそう言われて、ハッとして我に返り、
 「もちろん構わないさ。お前も気分転換になっていいだろう」
 村瀬はあわててそう付け加えた。
 
 これは全く偶然の邂逅だろうか。それとも、美樹の作為がからんでいるのだろうか。村瀬にはわかりかねた。

  彼は翌日美樹に電話をかけた。ウィークデーには電話しないで欲しいと言われていたのだが、そんなことには構っておれなかった。料理学校の先 生ならば夜の十時には帰宅してることだろうと、自宅近くの公衆電話から電話したものの、いくら待っても誰も出なかった。
 
 その翌日昼近くに電話するとさんざん待たされたあげくやっと呼び鈴が止んだ。「もしもし」村瀬が勢い込んで話しかけると、電話はそこでぷつりと切れた。 電話番号を間違えたのかと思い確かめてみたが、美樹の番号に間違いなかった。
 
 そんなわけで土曜日の午後になってやっと美樹にことの真相を確かめることになった。
 「あら、全くの偶然に会ったのよ。淑子さんがあんまり何遍も遊びにいらっしゃいとおっしゃるものだから、私断り切れなかったの。あなたは、十 年ぶりに会ったような顔をしていらっしゃればいいのよ」
 
「おれは俳優じゃないからそんな器用なまねはできないよ。淑子に気づかれたらどうする」

「それじゃちょいとだけ顔を出してすぐ引っ込めばいいじゃないの。今日帰ったら、明日片付けなければならない仕事があるとでも言っておけば、口実もできる わ」

  女というものはちょっとした悪知恵をすぐ思いつく。村瀬は結局美樹の指示に従って行動するつもりになった。
 
 翌日美樹は約束通り午後になって村瀬の家に姿を現した。美樹の演技は全く見事だった。舌を巻くぐらい悠々と十年ぶりに村瀬に会ったような挨拶をし「村瀬 さんも淑子さんみたいないい方と一緒になられてお幸せですわね」とにっこり笑いかけてきた。
 
 村瀬は毒気を抜かれる思いで「ええ、まあ」といささかとんちんかんな返事をした。

  彼は打ち合わせ通り早々に書斎に引き蘢った。美樹は二時間ばかり淑子と話し込んで帰って行った。
 
 その後も美樹は彼の留守中も含めて二、三度村瀬の家に訪ねてきた。村瀬は彼女の真意を計りかねた。彼は自宅では美樹と顔を合わせないように努めた。だか ら、二人がどんな話をしているのか少しも知らなかった。
 
 ところがある日村瀬は淑子にとんでもないことを言ってしまったのだ。その日の昼間美樹が訪ねてきたということで、美樹のことが話題になっていた。
 
「美樹さんは、死んだ樋口君が好きだったらしいね」
 
 彼がそう言うと淑子は村瀬のほうに向き直った。
 
「そのことを誰にお聞きになったの」

 何かぞっとするような冷たいものを感じ、村瀬は思わず妻の顔を見た。目尻がつり上がっていた。
 
「誰って、お前は知らなかったかも知れないが、おれたちの間では評判だったんだよ」
 
「そんなはずはないわ。美樹さんはあなたに夢中だったのよ。樋口さんを好きだったはずははいわ」
 
淑子はきっぱり言った。

 「一体誰からそんな話をお聞きになったのよ」
 
妻の口調は厳しかった。村瀬には、どうして妻がこんなことにこれほどこだわるのか訳がわからなかった。
 
「水田という男がいたのを覚えているだろう。あいつがそう言ったのを覚えていたんだ」
 
「嘘よ。水田さんがそんなことを言うはずがないわ。わかったわ。あなたが誰から聞いたか、わかったわ」
 
 淑子は叫ぶようにそう言うと、その場に泣き伏した。
 
「そうだったのね。二人して私を騙していたのね。これでわかったわ。これで…」
 
 痛々しいほどの絶望感が彼女の後ろ姿には感じられた。淑子に美樹との浮気が露顕してしまったのだろうか。露顕したとして、いったいどうして露顕したのだ ろう。美樹が樋口を好きだったらしいとか村瀬は言わなかったのである。
 
 村瀬には、何と言ってその場を取り繕っていいのかまったくわからなかった。今が浮気が発覚したときとして、日頃村瀬が考えていた幼稚な言い訳など、もの の役に立つとは、つゆ、思えなかった。

10
(20070519 掲載)

 
    翌日会社へ出勤する途中村瀬は美樹に電話した。電話口から「どなた」といういかにも眠そうな美樹の声が返ってきた。村瀬はすぐ会いたいと言った。会社は 午前中休むつもりだった。美樹は昨夜遅かったので勘弁してと言ったが、彼の執拗さに辟易してそれでは今部屋が汚れているから近所の喫茶店で会いましょうと いうことになった。
 
「君が樋口を好きだったらしいと言ったら突然妻が顔色を変えていったい誰からその話を聞いたのかと食ってかかってきたんだ。どうも、君との浮気のことも感 づいたらしい。どうしたらいいかと思ってね」
 
 村瀬は包み隠さずすべてをぶちまけた。美樹は最初眠そうな顔で話を聞いていたが都庁から話に身が入ってくるのが感じられた。彼が話し終わると「そう」と 一言言った切り、美樹はそのまま黙り込んだ。しばらくして、静かな口調で美樹が話し始めた。

 「あなたは私と淑子さんのどっちが本当に好きなの。淑子さんが好きなら私はもうこれっきり二度とお会いしたくないわ。私が好きならはっきり淑 子さんと別れるって言って。もう、こんな生活に耐えられないの」
 
 今度は村瀬のほうが黙り込む番だった。いったい何と答えたものだろう。村瀬は迷った。
 
 面と向かって座っている美樹に、君より淑子のほうが好きだとも言い兼ねた。それに村瀬にとっては美樹のみずみずしい肉体は妻にはない魅力だった。この美 樹を自分の一言で永久に失わなければならないとしたら、そんな言葉を言わなければならない理由があるだろうか。

 「おれが好きなのはもちろん君だよ。君だって初めから知っているじゃないか」

  村瀬はこの言葉を自分の男性本能が言わしめたものだと思った。美樹はその言葉を聞いてもにこりともせずしばらくじっと彼の顔を見つめていた が、
 
「それじゃ私のために淑子さんを殺せて」
 
「えっ?淑子を殺す。そうしてそんな必要があるんだ」

 「淑子さんを殺さなければ、私が彼女に殺されることになるからよ」
 
「なぜだ。おれにはまったく理屈がわからない」

 「よくって、私の言うことをよく聞いて。あなたはいつだったか淑子さんが樋口を殺したんじゃないかって言ったことがあったでしょ。その通り だったのよ。彼女はあの朝、樋口から一緒にボートに乗ろうと誘われていた。彼女も樋口に無理矢理誘われてダンスに行き、帰り道でいきなり口づけをされて貞 操を奪われたのよ。デートを断ればそのことをフラミンゴの連中にばらすと脅されて彼女はあの朝出かけたのよ。彼女は私が樋口に犯されたことも知っていた。 樋口は自分がものにした女性の名前を得意そうに相手の女性に話すくせがあったのよ。

 彼女はあの朝彼に誘われたことを私にだけは教えてくれた。一緒にボートに乗り、彼の隙を見て湖の真ん中で突き落とすつもりだ。溺死したときに怪しまれな いように彼には水着で来るように言ってある。だから彼のタオルとサンダルを例の岸辺置いて欲しい。私にそう頼んで彼女は出て行ったのよ。後はあなたが推理 した通りよ。彼女は私たちのためにむしろ樋口を殺してくれたのよ。そうでなければもっと沢山の被害者が出たでしょうからね。だからタオルとサンダルを例の 岸辺に置いたのは実は私なのよ。彼女はうまく行ったら村瀬さんを自分に譲って欲しい。美樹さんは本当は樋口さんが好きだったということにして村瀬さんから 離れて行って欲しい。そう私に頼んだのよ。私は承知したわ。私たちの計画はうまくいった。だから、約束通り私は理由も告げずにあなたの前から姿を消した。

 つい、先だって淑子さんと会ったとき、彼女は真っ先に私に尋ねたわ。「あなたはまだ村瀬のことを愛しているの」って。だから私は答えたの。「ええ、愛し ているわ。でも、あれ以来、本当に一度も彼には会ったことがないの」って。彼女は言ったわ。「それでは主人は、あなたが樋口さんが好きだったので自分の前 から姿を消したという風には、まだあなたから聞いたことはないのね」私は声を大きくして「もちろんよ。だって本当に一度も会っていないですもの」と答えた の。

 これでおわかり、お馬鹿さん。彼女は、私があなたを好きだったってことを誰よりも良く知っていたのよ。あなたの前から私が姿を消したのは樋口が好きだっ たからなんて理屈を、直接私から聞かない限り、あなたが絶対に信じないってことを彼女は一番良く知っていたのよ。

 私は本当のことを全部話したわ。淑子さんにしてみれば、殺人を犯してまで手に入れたあなたを、いつの間にか私に横取りされていたばかりか、絶対口外しな いって約束していた彼女の秘密を私があなたに話したらしいってことが、あなたの言葉からはっきりとわかったのよ。お互いに秘密を口外したらどんなことをさ れても文句は言わないという約束だった。だから、私が約束を破ったことがはっきりした以上、私は彼女に殺されても文句言えないのよ。でも、あなたを手に入 れた以上、私はもう死にたくないわ。だから、あなたが私を守って欲しいの。私が淑子さんから殺される前に彼女を殺して欲しいのよ」
 
 美樹の眼は狂気に取り憑かれたようにギラギラ光っていた。村瀬は話のあまりの意外さにまったく呆気にとられ、どこか現実から離れたところで誰かの話を聞 いているような幻覚にとらわれていた。
 
 
11
(20070519 掲載)


  殺人なんてことはこれまでの村瀬の生活からまったく隔絶した次元のことだった。それがなんと自分の妻が殺人犯だったばかりか、美樹は美樹で 平然と淑子を殺してくれと言うのである。村瀬の疲れ切った神経はもう限界点に達し、的確な判断などまったくできなくなっていた。
 
 あれ以来、村瀬と淑子との関係はまったく冷えきっていた。淑子のほうでも一言も口をきかなかった。村瀬はどうした妻のの一徹さが無気味だった。それが人 を殺すような激しさと繋がっているのではないかと思うと妻のそばへ寄るのさえ恐いときがあった。
 
 村瀬は美樹に「とうていおれには人殺しなんかできないよ。いっそのこと僕が家出して来るからここに置いてくれ」と頼んでもみた。しかし、美樹は「だめ よ。淑子さんは執念深いからすぐ私たちの居所を突き止めるわ。それに、もしあなたにやる気がないのなら、私たち、もう別れましょうよ」と言うのだった。

  殺人の時効は十五年だから警察に届けたらと村瀬が言うと、今さら十年前の事件が殺人事件だったなど持ち出しても、誰が本気で取り上げてくれ るものですかと美樹は軽く一蹴した。
 
 村瀬が煮え切らずにいるとある日美樹は今夜ぜひ会いたいと会社にまで電話をかけてきた。その夜美樹のマンションに行くと彼女は「いい考えがあるの」と一 枚の紙切れを彼に手渡した。それは言わば殺人計画書だった。
 
 美樹の計画によると、まず村瀬が二日間の休暇を取ることになっていた。淑子には大阪支店へ出張と偽って美樹ともども熱海のFホテルに泊まる。フロントで サインするときには美樹とは書かず妻淑子としておく。そうしておいて、村瀬がこっそり新幹線で東京に舞い戻り原宿にある自宅に忍び込む。自宅なのだから鍵 はあるし、忍び込むのはわけはない。淑子に気づかれたところで、仕事が一日で片付いたとでも言えば妻も納得しよう。そこで淑子の油断を見すまして絞殺す る。物取りと見せかけるため、部屋を荒らし、現金を盗む。帰りはタクシーを乗り継いで熱海に戻る。その間美樹は村瀬のアリバイ工作のため、テープに吹き込 んだ村瀬の声でモーニング・コールを頼んだり、ビールを注文したりする。仲居がビールを運んで来たときは、風呂の中からテープに吹き込んだ村瀬の鼻歌とお 湯をかぶる音を流しておく。

 熱海に戻った村瀬は非常階段から忍び込み、モーニングコールには村瀬が出る。七時半にはフロントにそろって顔を出しチェックアウトする。熱海から箱根ま でタクシーを奮発し、一日箱根で過ごして、その日の夕方自宅へ帰る。おそらく、その前に淑子の死体は発見されているだろう。四つと二つになる子供たちが空 腹で泣き叫べば隣近所の人たちが駆けつけて来て、死体を発見し、大騒ぎになるだろう。夫に連絡しようにも、その夫は会社から休暇を取って行方不明というこ とで警察陣が待ち構える中にご帰還ということになる。そのときの演技如何にこの計画の成否はかかっている。妻の不慮の死も知らず浮気旅行から帰った夫、そ れが村瀬の演ずべき役柄なのだ。
 
 村瀬は実のところこの計画に乗り気はしなかった。特に妻を絞殺するところが気に入らなかった。そんなことがこのおれにどうしてやれるだろう。たとえ殺す にしてももっと当たり障りのない方法はないだろうか。たとえば…
 
「たとえば? たとえばいったいどんな方法があるのよ」
 
 きつい目付きをした美樹が村瀬の優柔不断さをたしなめるように言った。すぐにいい考えも思いつかず村瀬が首をひねっていると美樹は彼の後ろに回りいきな り腕を回して村瀬の首を絞めた。
 
「な、何をするんだ…」
 
 ものを言おうにも、それ以上言葉にならなかった。必死に彼女の腕を振りほどこうとしたが、後ろから腕は喉に食い込み、村瀬は気が遠くなりそうだった。美 樹はこのおれを本当に殺す気なのか…と思ったとたん、美樹が腕の力を抜いた。
 
「ほら、ご覧なさい。女の私にだって絞め殺せそうじゃないの。人を殺したような女とこれから先びくびくしながら一緒に暮らすことを思えば、これくらいの危 険を冒さなくちゃ」
 
 美樹は昂然と言い放った。村瀬はしばらくぜいぜいと喘いだ。
 
 「さああなた決心なさいよ。ねぇ、あなた」
 
 そう言うと美樹は村瀬の肩に腕を回し彼の耳朶を噛んだ。くちびるで、彼のほほに、ひたいに、そしてくちびるにキスした。村瀬のシャツのボタンを外し、胸 にくちびるを押し付けた。ズボンを下ろし、下着を脱がせベッドに押し倒すと、濡れたくちびるで、彼の全身を愛撫し始めた。股間に頭を埋め、やわらかく時に は激しく執拗に愛撫を繰り返した。彼は我慢できなくなりかけていた。と、いつの間にか素っ裸になった美樹が、馬乗りになり、村瀬の身体を自分の熱く濡れた 身体でやさしく包み込んだ。これは彼女の好きな体位だった。
 
 彼女は村瀬の上に覆いかぶさりながら「ねぇ、あなた、素敵?わたしとこんなことやるの好き?」と聞いた。彼が頷くと「好きとちゃんと言って」と甘え、彼 のまぶたにキスした。村瀬は「好き」と言った。「嬉しいわ」彼女は激しく下半身を揺すった。「ねぇ、わたしのためにいいでしょ」彼女は泣き声で言い髪を振 り乱した。村瀬はもう果てそうになっていた。彼女は狂ったように彼の顔と言わず、胸と言わずくちびるを押し付け、腰をくねらせ彼を優しく締め付けた。「ね え、あなた、わたしのためにやるって言って、やるって、ねぇ、ねぇ、ねぇ…」
 
  村瀬にはもう耐えられなかった。「やるよ、やるよ」叫びながら、馬乗りになっている美樹をいきなりベッドに組み敷き、彼女の大きく開かれた 濡れて赤く熱い体内に、村瀬は自分の激情を迸らせた。

12
(20070520掲載)


 
 翌週、水木と村瀬は休暇をとった。淑子には筋書き通り大阪支店へ出張ということにした。美樹とは午前八時四十分に東京駅で落合い九時のこだまに乗った。 小道具のテープレコーダーは、カセット式のものを新たに買った。自宅にも同じ方式のものがあったが出張に行くのに持ち出す訳にはいかなかった。
 
 美樹は薄いピンクの地に花柄の入った綸子の和服を着ていた。背丈があるだけに和服もよく似合った。

  Fホテルには十時半前に着いた。フロントで宿泊者名簿には村瀬修、同淑子と書いた。早速部屋に引き蘢って録音を始めた。色んなケースを想定 してカセット毎に別のものを吹き込んだ。
 
 夕食は部屋に運ばせた。仲居に夫婦気取りの浮気のカップルと思い込ませるために、仲居の前で「ねぇ、あなた」と美樹に言わせ、ふざけ合った。
 
 熱海発東京行きの最終のこだまに間に合うように村瀬が目立たぬようにこっそりFホテルを出たのが、十時二十分過ぎだった。東京駅から山手線で原宿に出 て、自宅まで歩いた。自宅に着いたのは午前零時四十分だった。あたりはひっそりと寝静まっており、村瀬の家の灯りも消えていた。夜空に黒々と浮かび上がっ ている自分の家には近寄りがたい威圧感があった。化学プラント課にいた頃はいつもこの時間に帰宅したのだ。そのときには少しも気にならなかったが、心のつ ながりが切れてしまえば、灯りの消えた自分のいえというものも、こんなに寒々と感ずるものなのだろうか。いつもは彼の帰宅を待っている門灯も消えていた。
 
 彼は手探りでドアの鍵穴を探し、そっとキーを差し込んだ。カチッと音がしてやっとのことで鍵がはずれた。信じられないほどの大きな音だった。淑子が眼を 覚まさなかっただろうか。村瀬はその場にうずくまって物音をうかがった。大丈夫のようだった。ノブを少しずつ右へ回し、そとドアを引いた。ギギギ。ドアは 音をたてた。普段からこんなに大きな音をたてているのだろうか。家の中は真っ暗闇だった。村瀬は玄関のたたきで夜目に慣れるまでしばらくじっとしていた。 それから靴をぬぎ、床に上がった。
 
 玄関はダイニングキッチンにつながっており、突き当たりが村瀬夫婦の寝室だった。二人の子供はいつも隣の四畳半に寝かせている。ダイニングキッチンに入 り込み、テーブルの側の椅子に座った途端、椅子がギギと動いた。
 「だぁーれ、奈美ちゃん?」
 
 淑子の声がした。村瀬はいきなり頭から冷や水をかぶせられた思いでその場に立ちつくした。彼女は長女の奈美が起き出してきたと思っているらしい。奈美は ときおり「おしっこ」と言って夜中に起き出して来ることあった。今、妻が起き出して来て、夫が灯りもつけずに暗闇の中に立ちつくしているのを見つけたら いったい何と言うだろう。村瀬はそう思うと全身から冷や汗が吹き出すのを感じた。だが、妻はそのまま寝込んでしまったらしい。
 
 村瀬は一旦引き返すことに決めた。あの程度の物音で淑子が眼を覚ますとすると寝室のドアを開けないうちに気づかれるに決まっていた。村瀬は玄関の外から もう一度用心してドアをロックし、ゆっくり呼吸を整えてから、呼び鈴を押した。
 
 しばらくすると灯りがつき「どなたですか」という淑子の声がした。「おれだ、パパだ」村瀬は叫んだ。
 「いったいどうしたのよ、今時分」
 眠そうな声で淑子は言った。
 「仕事が一日で片付いたんで大阪発の最終便で帰って来たんだ。明日は我が家でゆっくりくつろぎたいと思ってね」
 「そうお」
 大して感興の湧かない声で淑子は言った。
 「あなたのお布団は敷いてないないわよ。自分で敷いてね」
 
 そう言うと淑子はすたすたと寝室に引きこもり背中を向けて布団に潜り込んだ。彼女の後ろからついて行った村瀬は彼女の布団に入り、後ろから抱き寄せるそ ぶりで腕を回し、身をよじって逃れようとする美樹の首をいきなりぐいと締め付けた。淑子はウッとむせ返り、村瀬の腕を振りほどこうと必死になって暴れた。 片手で彼の髪をつかみ力いっぱい引っ張った。足で彼を蹴飛ばそうとした。しかし、村瀬の腕は淑子の首に食い込み、彼が力を入れるたびに淑子の抵抗は弱まっ た。淑子の身体は痙攣したかと思うと力がすうっと抜けていき、ぐったりとその場に横たわった。
 
 気がつくと村瀬は全身びっしょり汗をかいていた。妻の身体を寝室の入り口まで引きずり出し、うつ伏せにして投げ出した。固く握った手の指の間に村瀬の髪 の毛が、五、六本挟まっていた。彼は証拠を残さぬため、その手から髪の毛を抜き取った。寝室にあるタンスの中から衣類を引っ張り出して、あたりに散らか し、妻の死体の上に毛布をかぶせた。タンスの上段の引き出しから、現金を抜き取り、通帳類は半分に破ってあたりに放り投げた。
 
 ふと小さな物音がした。ギョッとして振り返ると美奈が寝室の入り口に立っていた。

 「パパ、何してるの?」
 「パパは、今から寝ようとしているんだよ。奈美ちゃんはいい子だから早くおネンネしなさいね」
 「ママはどうしたの?」
 「うん、ママはお腹イタイイタイだから、いまパパが治して上げようと思って、お薬を探しているんだよ」
 
 村瀬は、不信そうに淑子を覗き込もうとする奈美を抱え上げ、子供部屋に連れて行き、ベッドの側にしばらく一緒に付いてやり、奈美が寝込んだのを見届けて から部屋を出た。
 
 犯人が外部から忍び込んだように見せかけるため、他の部屋も荒らし回り、風呂場の鍵を外し、ガラス戸を開け放した。それから家中の灯りを消し、玄関に鍵 をして、外へ出た。
 
 自宅から三十分近く歩いたところからタクシーを拾った。自宅の近くでタクシーを拾うと足がつくと思い用心したのである。タクシーは、渋谷、品川、横浜、 大船、小田原で乗り換えた。Fホテルの二百メートル手前でタクシーを降り、ホテルまで歩いた。ロビーにはまだ灯りがともり、ボーイが船を漕いでいた。村瀬 は昼間確かめていたので、危険を避けて裏手に回り小さな立ち木の間を抜けて日本庭園に出、非常階段を伝わって部屋まで行った。ドアをノックすると、ネグリ ジェ姿の美樹が待ち構えていたように中からドアを開けてくれた。
 
「うまく行ったの」
 「うん」

 村瀬はうなずいた。その途端疲れがどっと襲ってきた。張りつめていた神経が一遍に緩んでしまった。村瀬はベッドに倒れ込み肩で息をついた。一 人の男が妻の首を絞めている姿がはるか遠くに見えた。一切の音が消えていた。ゆっくりと男の腕が妻の首に食い込んだ。妻の喘ぐ口から音のしない悲鳴が暗闇 をつんざいた。
 
「パパ、何をしてるの?」
 はっきり女の子の声がした。
 「やめてくれ!」
 これが自分の声なのだろうか。掠れて、どす黒く汚れていると村瀬は思った。
 
「どうしたのよ、あなた」
 
 後ろから女の手が村瀬の身体を揺すっていた。振り返った途端に目が合った。ギラギラと白く冷たい眼だった。村瀬のすべてを飲み込むように、その眼が近づ いて来た。

 「よしてくれ!」
 
 村瀬はベッドに顔を押し付け自分でも信じられないほど激しく嗚咽した。慟哭する村瀬をうしろから美樹がやさしく執拗に愛撫し続けた。
 「とうとう、私のものになったのね。とうとう」と何度も何度もつぶやきながら。
 
13
(20070520掲載)

 
  翌日、片瀬は一日ホテルに閉じ篭っていた。箱根へなど行く気にもなれず、部屋の外へさえ一歩も出たくなかった。テレビのニュースに注意して いたが、妻の死体が発見されないのか、それらしい報道はなかった。それがまた村瀬の不安を募らせた。
 
 午後三時になった。美樹に促されて村瀬はホテルを出た。新幹線に乗っても、村瀬は落ち着けずおどおどと周りを見回した。まったく別世界に放り込まれた思 いだった。自動ドアが開くたびに彼の心は縮み上がった。心臓の音が外気に伝わり出そうだった。誰かの眼がいつも監視しているような気がして仕方がなかっ た。
 
 美樹は落ち着き払って座っていた。村瀬がキョロキョロすると彼の横っ腹を突いてたしなめた。
  こだまは、新橋駅を通り過ぎるとスピードを落とし始めた。彼らは東京駅で別れることにしていた。
 「さあ、あなたしっかりやってよ」
 
 美樹は村瀬を励ました。いつの間にか村瀬は美樹に操られる操り人形のように、彼女が何か言ってくれるのを心待ちにしていた。
 
 こだまは東京駅に滑り込んだ。
 
 二人は、他の客が全員降りるのを腰掛けたまま待っていた。最後の客が降りてしまうと、美樹が言った。

 「あなた、このハンカチで顔を拭いて。さっきからガタガタ震えてばかりいて少しだらしないわよ。いいこと。私たちは正当防衛したのよ。放っと けば私たちが殺されるかも知れなかったのよ。浮気がばれた以上、私たちは淑子さんに殺されるところだったのよ。それを忘れないで。あなたがしっかりしてく れなきゃ、私まで危ないのよ。さあ、あまりここでぐずぐずしていると他の人が変に思うわ。もう、降りましょう」

  美樹に促されて村瀬は力なく立ち上がった。二人が出口の方へ歩いて行くと自動ドアが開いて、四、五人の男が入って来た。いったい何事だろ う。忘れ物でもしたのだろうか。そう思って、男たちをやり過ごすため二人は道を開けようとした。と、先頭を歩いて来た五十年配の男が、村瀬の顔をじろりと 見、彼の前に立ちはだかった。
 「村瀬だね。村瀬修だね」
  村瀬は驚いて首を縦に振った。
 「連れの婦人は、広津美樹だね」
  村瀬は更に驚いてこっくり大きく頷いた。
 
「こういう者だが」と男は警察手帳を示し、「村瀬淑子殺害の容疑で逮捕する」男は静かに言った。二人の男が両側から村瀬の腕を押さえた。手錠が手首に食い 込んだ。
 
 美樹はあわてて逃げ出そうとした。しかし、後ろの出口にも二人の男が立ちはだかっていた。観念して立ち止まった美樹が振り返って村瀬の眼を見た。ギラギ ラした冷たい眼だった。赤く血走って怒りがみなぎっていた。

 ーーあなたが何かへまをやったのね。きっとそうよ。
 
 そのとき村瀬は心の中で、カラカラと音もなく静かに何ものかが崩れ始めていた。それは懐かしいふるさとの風景のようでもあり、村瀬修という男の前に開け ていたバラ色の未来図のようでもあった。
 
 14
 
  あまりにもあっけない幕切れだった。何と空しい努力をしたものだろう。東京から熱海までタクシーで乗り継ぎ、テープレコーダーでアリバイ工 作をした挙げ句、東京に着くか着かぬうちに逮捕されるなんて。
  それにしても、どうしてこうも早く逮捕されたのだろう。村瀬には合点が行かなかった。
  警視庁の取り調べ室では、いよいよ取り調べが始まろうとしていた。村瀬の前には四十年配の髭の濃い取調官が座っていた。
  おれは何の証拠も残さなかったはずだ。証拠を残さなかった以上、潔白を主張できるはずだ。と思った途端、ひょいと昨夜の光景が目の前に浮か んで来た。「パパ何してるの」と言っている奈美の姿だった。
  奈美が証言したのだろうか。「パパが来たの。ママがお腹イタイイタイって、パパお薬を探していたの」
  まさか。おれは無実を主張するぞ。こんなことでおれの一生をめちゃくちゃにされてたまるものか。
  そのとき、ふと、聞き慣れぬ物音が取調室に流れ始めた。
  ドアの鍵が開き、息を殺して忍び込んでいるような物音。ややあって呼び鈴の鳴る音。 「どなたですか」という女の声。「おれだ、パパだ」と いう男の声。「いったいどうしたのよ、今時分」
 「仕事が一日で片付いたんで大阪発の最終便で帰って来たんだ。明日は我が家でゆっくりくつろぎたいと思ってね」
 「そうお、あなたのお布団は敷いてないないわよ。自分で敷いてね」
  ムッとむせ返るような声。苦しそうな喘ぎ。諍い会う激しい音。次第にその音が静まって行った。
  もう村瀬は聞いておれなかった。室内に流れているのは昨夜の殺人現場の実況録音なのだ。いったい誰が録音したのだ。
 「パパ、何してるの?」
  大きくはっきりと奈美の声が室内に響き渡った。
 「やめてくれ!もうやめてくれ!」
  村瀬は机を叩きながら絶叫した。音が止んだ。また、元の静けさに戻った。
 「あんたはホステスもどきに血道を上げて、こんないい奥さんを殺すなんて、お前は惨い男だな、村瀬」
  そう言うと取調官は村瀬の前に数冊の手帳を置き、そのまま、部屋を出て行った。
  村瀬だけが部屋に残された。取調官が言ったホステスというのは、美樹のことを言っているのだろうか。彼女は料理学校の先生ではなかったのだ ろうか。そう思いながら村瀬が机の上に残された数冊の手帳を見るとそれは、淑子の日記だった。村瀬はあわてて前夜の日記を確かめた。
 ーーあの日から夫との冷戦がもう三週間も続いている。私にはもう耐えられそうもない。あれは私の思い過ごしだったのかもしれない。夫に限って という気が今もする。もし、私の思い過ごしだったとしたら、夫につらくあたった私は悪い女。夫は急に出張だと言って出かけた。いつも出張のときは一週間以 上も前からわかっているのに、今度は急だった。何となく不吉な胸騒ぎがする。私は念のため枕元にテープレコーダーを置いて寝ることにすr。万が一、私に何 か起こったら、このテープレコーダーで録音することにしよう。それにしても、一人で寝るのは何としてもつらい。たとえ、一日口をきかないでも夫が側にいて くれると心強い。夫が口をきかないのは私が口をきかないからだ。私は馬鹿な女で自分から夫の胸の中にt未婚で行けない質なのだ。いつもそうしたいと思いな がら、それができない。要するに意地っ張りなのだ。だからいつまでも冷戦状態に終止符を打てないでいるのだ。しかし、夫が出張から帰って来たら今度こそ私 の方から、変に疑ったりして悪かったと謝ろう。そうすれば、夫は許してくれるに違いない。夫はもともと気の小さいやさいい人なんだから。それにしても私は 少し贅沢過ぎる。自分の今持っている幸せを当然のことのように考えていやしないだろうか。元気ですくすく育っている可愛い二人の子供がいて、毎日愚痴ひと つ言わず会社へ出かけ、給料袋を封も切らずに渡してくれる夫がいる。私の体調も悪くない。確かに平凡すぎるほど平凡な家庭かも知れないけれど、私ときたら こんな生活に慣れてしまったために現在の幸せを忘れ、それ以上のことを望もうとしているのだ。この幸せは、夫や両親や色んな人たちの思いやりや配慮のお陰 であることも忘れて。今頃夫は大阪で何をしているのだろう。二人の子供も寝た。私もそろそろ寝ることにしよう。あなた、お休み。あなたが帰って来たら、私 はいい妻になるために精一杯努力しますからね。 午後十時五十分記す」
  村瀬の眼から涙が溢れ出た。彼は手の甲で涙を拭うと、妻と喧嘩した日の日記を手始めに、日付を遡りながら読み始めた。
  ×月×日 夫が「美樹さんは死んだ樋口君が好きだったらしいね」と突然口にした。美樹さんに一度も会ったことがないのにどうしてこんなこと を言うのだろう。これは陰で、美樹さんと会ったことのある証拠ではないだろうか。私はついカッとして夫に辛く当たった。夫は私の剣幕に驚いているような節 も見えた。私には夫が日曜日に出かけたり土曜日の帰りが遅いのと夫の言葉とを関連づけて考えないではいられないのだ。私は少し気が立ちすぎているのかもし れない。どうして急に夫が信じられなくなったのだろう。自分でもわからない。
 
 ×月×日 美樹さんと本当に偶然会った。それも私の家のすぐそばの行きつけのスーパーで。近くに知っている人がいて遊びに来たということだっ た。夫にはあのことを話していないかと聞くから「当然よ」と答えた。彼女は料理学校の先生をしている由。それにしては少し生活が崩れたような感じがした。 何となく水商売の女性みたいなところがある。夫に一目会いたいというので、これくらいは許してやってもよいと思い、私の家に招待することにした。そのこと を夫に話したが、夫はあまり興味を示さなかったので、私は安心した。ちょっぴりしゃくだけど夫は大学時代彼女と恋仲だった。でもあれから十年たっている。 夫の気持ちも変わったに違いない。
 
 ×月×日 今夜も夫の帰りが遅い。夫に限って決して私を裏切るようなことはないと思うが少し不安だ。私は村瀬に初めて会ったときから好きに なった。このことを夫は知らないけれど嘘ではない。初恋の人と結ばれるなんて、私はなんて幸せだろうと今も思っている。でも夫の帰りが遅いと私がせっかく 丹誠込めて作ったお料理が冷えてまずくなってしまう。これが私にはつらい。お料理はやっぱりホカホカ温かいうちに食べて欲しい。
 
14
(20070520掲載)
 

  あまりにもあっけない幕切れだった。何と空しい努力をしたものだろう。東京から熱海までタクシーで乗り継ぎ、テープレコーダーでアリバイ工 作をした挙げ句、東京に着くか着かぬうちに逮捕されるなんて。
 
 それにしても、どうしてこうも早く逮捕されたのだろう。村瀬には合点が行かなかった。
 
 警視庁の取り調べ室では、いよいよ取り調べが始まろうとしていた。村瀬の前には四十年配の髭の濃い取調官が座っていた。

  おれは何の証拠も残さなかったはずだ。証拠を残さなかった以上、潔白を主張できるはずだ。と思った途端、ひょいと昨夜の光景が目の前に浮か んで来た。「パパ何してるの」と言っている奈美の姿だった。
 
 奈美が証言したのだろうか。「パパが来たの。ママがお腹イタイイタイって、パパお薬を探していたの」
 
 まさか。おれは無実を主張するぞ。こんなことでおれの一生をめちゃくちゃにされてたまるものか。

  そのとき、ふと、聞き慣れぬ物音が取調室に流れ始めた。
 
 ドアの鍵が開き、息を殺して忍び込んでいるような物音。ややあって呼び鈴の鳴る音。 「どなたですか」という女の声。「おれだ、パパだ」という男の声。 「いったいどうしたのよ、今時分」
 「仕事が一日で片付いたんで大阪発の最終便で帰って来たんだ。明日は我が家でゆっくりくつろぎたいと思ってね」
 「そうお、あなたのお布団は敷いてないないわよ。自分で敷いてね」
 
 ムッとむせ返るような声。苦しそうな喘ぎ。諍い会う激しい音。次第にその音が静まって行った。
 
 もう村瀬は聞いておれなかった。室内に流れているのは昨夜の殺人現場の実況録音なのだ。いったい誰が録音したのだ。
 
「パパ、何してるの?」
 
 大きくはっきりと奈美の声が室内に響き渡った。
 
「やめてくれ!もうやめてくれ!」
 
 村瀬は机を叩きながら絶叫した。音が止んだ。また、元の静けさに戻った。

 「あんたはホステスもどきに血道を上げて、こんないい奥さんを殺すなんて、お前は惨い男だな、村瀬」
 
 そう言うと取調官は村瀬の前に数冊の手帳を置き、そのまま、部屋を出て行った。

  村瀬だけが部屋に残された。取調官が言ったホステスというのは、美樹のことを言っているのだろうか。彼女は料理学校の先生ではなかったのだ ろうか。そう思いながら村瀬が机の上に残された数冊の手帳を見るとそれは、淑子の日記だった。村瀬はあわてて前夜の日記を確かめた。
 

ーーあの日から夫との冷戦がもう三週間も続いている。私にはもう耐えられそうもない。あれは私の思い過ごしだったのかもしれない。夫に限ってという気が今 もする。もし、私の思い過ごしだったとしたら、夫につらくあたった私は悪い女。

 夫は急に出張だと言って出かけた。いつも出張のときは一週間以上も前からわかっているのに、今度は急だった。何となく不吉な胸騒ぎがする。私は念のため 枕元にテープレコーダーを置いて寝ることにすr。万が一、私に何か起こったら、このテープレコーダーで録音することにしよう。それにしても、一人で寝るの は何としてもつらい。たとえ、一日口をきかないでも夫が側にいてくれると心強い。

 夫が口をきかないのは私が口をきかないからだ。私は馬鹿な女で自分から夫の胸の中に飛び込んで行けない質なのだ。いつもそうしたいと思いながら、それが できない。要するに意地っ張りなのだ。だからいつまでも冷戦状態に終止符を打てないでいるのだ。しかし、夫が出張から帰って来たら今度こそ私の方から、変 に疑ったりして悪かったと謝ろう。そうすれば、夫は許してくれるに違いない。夫はもともと気の小さいやさいい人なんだから。

 それにしても私は少し贅沢過ぎる。自分の今持っている幸せを当然のことのように考えていやしないだろうか。元気ですくすく育っている可愛い二人の子供が いて、毎日愚痴ひとつ言わず会社へ出かけ、給料袋を封も切らずに渡してくれる夫がいる。私の体調も悪くない。確かに平凡すぎるほど平凡な家庭かも知れない けれど、私ときたらこんな生活に慣れてしまったために現在の幸せを忘れ、それ以上のことを望もうとしているのだ。この幸せは、夫や両親や色んな人たちの思 いやりや配慮のお陰であることも忘れて。

 今頃夫は大阪で何をしているのだろう。二人の子供も寝た。私もそろそろ寝ることにしよう。あなた、お休み。あなたが帰って来たら、私はいい妻になるため に精一杯努力しますからね。 午後十時五十分記すーー
 
 村瀬の眼から涙が溢れ出た。彼は手の甲で涙を拭うと、妻と喧嘩した日の日記を手始めに、日付を遡りながら読み始めた。

  ×月×日 夫が「美樹さんは死んだ樋口君が好きだった らしいね」と突然口にした。美樹さんに一度も会ったことがないのにどうしてこんなことを言うのだろう。これは陰で、美樹さんと会ったことのある証拠ではな いだろうか。私はついカッとして夫に辛く当たった。夫は私の剣幕に驚いているような節も見えた。私には夫が日曜日に出かけたり土曜日の帰りが遅いのと夫の 言葉とを関連づけて考えないではいられないのだ。私は少し気が立ちすぎているのかもしれない。どうして急に夫が信じられなくなったのだろう。自分でもわか らない。
 
  ×月×日 美樹さんと本当に偶然会った。それも私の家 のすぐそばの行きつけのスーパーで。近くに知っている人がいて遊びに来たということだった。夫にはあのことを話していないかと聞くから「当然よ」と答え た。

 彼女は料理学校の先生をしている由。それにしては少し生活が崩れたような感じがした。何となく水商売の女性みたいなところがある。夫に一目会いたいとい うので、これくらいは許してやってもよいと思い、私の家に招待することにした。そのことを夫に話したが、夫はあまり興味を示さなかったので、私は安心し た。ちょっぴりしゃくだけど夫は大学時代彼女と恋仲だった。でもあれから十年たっている。夫の気持ちも変わったに違いない。
 
  ×月×日 今夜も夫の帰りが遅い。夫に限って決して私を裏切る ようなことはないと思うが少し不安だ。私は村瀬に初めて会ったときから好きになった。このことを夫は知らないけれど嘘ではない。初恋の人と結ばれるなん て、私はなんて幸せだろうと今も思っている。でも夫の帰りが遅いと私がせっかく丹誠込めて作ったお料理が冷えてまずくなってしまう。これが私にはつらい。 お料理はやっぱりホカホカ温かいうちに食べて欲しい。

 
15

(2007.5.27掲載)
15
 
  日記の中には、十年前のものもあった。村瀬は震える手で、あの事件について書かれた日記のページをめくった。
 
 ーー196×年8月26日 1時間前に長野県N湖の合宿から帰って来た。日記を付けるのは2週間ぶり。しかし今は頭が混乱していて何から書い ていいのかわからない。合宿はとても楽しかった。いや、最後にあんな事件さえ起きなければの話。村瀬さんと初めて同じ屋根の下で眠るということだけで私は 興奮してしまい、最初の夜はなかなか寝付けないほどだった。彼の部屋に皆で押し掛けてトランプをした。彼の手にちょっと触れた。私は電気に触ったように全 身がピリピリ痺れた。彼は全然気にした様子もなく、平気な顔をしていた。ちょっぴり寂しかった。
 
 でも樋口さんの事件が起きてせっかくの楽しい合宿が一転して悲しい思い出になってしまった。いや、単純に悲しいとも言い切れない。実に複雑な気持ち。 いったいこの気持ちどう整理したらいいのだろう。

  広津美樹さん。女性の団員からは少し嫉まれているけれどフラミンゴの男性陣に一番人気のある人。大げさに言えば私はあの人の運命を握ってい る。そのことがちょっぴり恐くもある。
 
 あの日私は美樹さんがこっそり部屋を抜け出して行くのに気づいた。他の人は皆高いびき、気づいたのは私だけだった。腕時計を見るとまだ5時前だった。 ひょっとしたら村瀬さんと朝早くデートする気なのかもしれない。そう思うともうじっとしておれなかった。素早くワンピースに着替えて彼女の跡を追った。彼 女は水着姿で小脇に小さな包みを抱えていた。彼女はそれまで一度も泳がなかったので、水着を持って来ていることさえ知らなかった。おまけに彼女は赤い水泳 帽をかぶっていた。いつものふさふさした長髪を水泳帽でよほどきつく締め付けたのか、彼女の頭が普段より随分小さく見えた。私が付けているとも知らず、彼 女は寮の裏手にある波止場の方へスタスタ歩いて行った。と波止場の近くの木陰に男の人が待っているのが見えた。私は村瀬さんかと思ってドキンとした。しか し村瀬さんではなかった。樋口好之さんだった。私はホッと胸をなぜ下ろした。彼はストライプの入ったはでな水着を着ていた。
 
 樋口という人は私の一番嫌いなタイプの人だ。何を考えているのか私には少しもわからない。何となく薄気味悪い。私の家に時々電話をかけて来てデートに誘 う。私はいつも断った。何度断っても飽きもせずまた電話をかけてくる。本当にしつっこい人だ。何でも、お家は家柄も良くて相当な資産家らしい。フラミンゴ の女の子の中にも彼とつき合っている人が何人かいるらしい。でも私はあんないけ好かない男とつき合うなんて真っ平だ。
 
 美樹さんは小脇に抱えていた小さな包みを草むらに隠すと二人で連れ添って寮のボートに乗り込んだ。ボートは中之島めがけて進んで行った。中之島で一緒に 泳ぐつもりなのだとう。私は彼女が樋口さんとこんなに親しいなんて全く知らなかったのでボートが小さくなっていくのをドキドキしながら見ていた。

  私は美樹さんは村瀬さんとだけつき合っているものとばかり思っていた。彼女が樋口さんと本当に親しいのなら村瀬さんは私が独占できる。そう 思うと私の胸は熱くなった。ボートは、島の陰に隠れて見えなくなった。
 
 いつ帰って来るかわからない二人を待っていても仕方がないので寮に戻って布団に潜り込んだ。当面のライバルである彼女の秘密を握ったということで私はな かなか寝付けなかった。それでも1時間ほど布団の中にいたのだろうか。時計を見ると6時半を回っていた。起床時間も近くなったので私は思い切りよく飛び起 きた。夜が遅いのと毎日こってりしぼられているせいでいつもは定刻の7時になっても布団が恋しいのだけれどあの朝は美樹さんたちのことが気になっていとの で少しも眠気を覚えなかった。
 
 私は早速湖が見渡せる丘の上に飛んで行った。湖を見渡すと寮のボートが中之島と外人村の中間あたりを漂っていた。いくら眼をこすって見ても、ボートの上 にも周りの水面にも人影は見えなかった。ボートは、水流に運ばれて、いつの間にか外人村より遠くへ流されていった。二人はいったいどうしたのだろう。と 思って中之島に眼をやると、水面にポツンと二つの点が見えた。その二つの点がゆっくりとこっちの岸へ進んできた。一方が黒で、一方が赤だった。赤の方が美 樹さんの水泳帽に違いなかった。
 
 大丈夫かしら。私は不安になった。と、突然奇妙なことが起こった。黒い点の後ろからついてきた赤い点がすうっと波間に隠れてしまったのである。次の瞬 間、黒い点が波間に引き込まれるようにして消えた。水面を空しく叩いていた両手も見えなくなった。しばらくして黒い点が水面に現れた。泳ぐ力を失ったらし く、必死に水面をたたく水しぶきが黒い点の回りに上がっている。そのすぐ後ろに浮かび上がった赤い点は、大きく息を吸い込むようなそぶりを見せるとまたも や水面から姿を消した。と、次の瞬間、黒い点も水中に吸い込まれるようにして姿を消した。白い泡だけが水面に残った。
 
 あまりのことに私は呆然としてその場に立ちすくんだ。明らかに赤い点は黒い点を水中に引きずり込んで溺死させようとしているのである。私は誰かに救いを 求めに走ろうかと思ったけれど足が言うことを聞かなかった。それにあそこまで1キロメートルもあった。ボートで行っても間に合いそうになかった。浮き沈み していた二つの点が残した白い泡の中から、最後に浮かび上がって来たのは赤い点だけだった。
 
 赤い点はゆっくり岸に近づいて来た。岸に近づくにつれてそれがまがいもなく美樹さんであることがわかった。岸にたどり着いた美樹さんは、砂の上にぐった りと身を投げ出していた。しばらくすると元気を回復したらしく、彼女は立ち上がり、ボートに乗る前に隠しておいた小さな包みのところへやって来た。そし て、包みの中から白いワンピースを取り出すとずばやく着替えた。赤い水泳帽を脱ぐと、彼女の髪は断髪に近いほどショートカットされていた。彼女はタオルで 何度も髪を拭くと包みの中からかつらを取り出してかぶった。彼女のカールのかかった長い髪はかつらだったのだ。
 
 彼女は濡れた水着と水泳帽を丸めると、大きな石にくくりつけて波止場の一番先から水中に投げ入れた。そして、湖面をわたる涼しい朝風に心地よげに髪を戯 れさせながら何事もなかったように寮の方へ歩き始めた。私は大急ぎで丘を駆け下り、彼女の前に飛び出した。
 
「見たわよ」
 
 私は思わず言ってしまっていた。
 
 彼女は悲しそうな眼で私を見た。普段の快活な彼女の面影はどこにもなかった。とどめの一撃を打ち込まれた美しい雌鹿のようにうるんだ力のない眼で私を見 ながら今にもその場に崩れ落ちそうな様子で立ち止まった。両の眼から涙が溢れ出した。彼女はその涙を拭こうともせずそのまま私の側を通り過ぎて行こうとし た。
 
「広津さん、このことは誰にもしゃべらないわ、私約束してよ」
 
 またしても思わず叫んでいた。涙の中から彼女は弱々しく微笑み、小さな声で「ありがとう」と言った。私は彼女を近くの林の中に伴い、慰めにかかった。彼 女は問わず語りにこれまでのいきさつを教えてくれた。
 
 彼女は樋口という男は好きではなかった。ところが再三再四彼女の下宿に電話をかけてきた。彼女が下宿の小母さんがうるさいからと何度電話しないで欲しい と頼んでも無駄だった。ある日樋口が「それじゃ一度だけでいいからデートをしてくれよ。そうしたらもう二度と電話なんかしないから」と言うので、いやいや ながらダンスパーティに一緒に行った。樋口の車で送られての帰り道、彼は人気の絶えた暗い道に車を止めるといきなり彼女の唇を奪った。必死に抵抗したが腕 力ではとうてい樋口に敵わなかった。それに唇を奪われると体から力が抜けて行き、頭の中にかすみがかかり始めた。理性では抵抗しようと試みても手足が言う ことを聞かなかった。朦朧とした意識の中で彼女は自分の体が樋口に弄ばれているのを知った。しかしどうしようもなかったと言うのだ。
 
 一度こういう関係ができてみると女の立場は不利だった。もしおれの言うことを聞かなければ、フラミンゴの連中にこのことをぶちまけるぞと言って樋口は彼 女を脅迫した。このことが村瀬さんに知られたらと思うと樋口の言うことを聞かないわけには行かなかった。とは言っても彼女にとっては、こういう関係をずる ずると続けて行くことは堪え難いことだった。
 
 N湖へ合宿に行くことが決まったとき彼女はチャンスだと思った。N湖の地形を詳しく調べて計画を練った。しかし、いざ実行となるとなかなか決心がつかな かった。しかし、樋口から前夜、体を激しく求められ、断るといつものように皆にバラしてしまうぞと脅かされたとき彼女は心を決めた。
 
「明日の朝早くならいいわ。誰かに見られたときの用心に水着姿で行らっして。一緒に中之島へ行ってならいいでしょ」
 彼女がそう言うと、樋口は一も二もなく承諾した。そこで朝早く中之島へ行き、これが最後だと思いながら彼の言いなりになった。もっとも彼を疲 れさせる目的もあった。
 
 中之島に着いたとき彼女はボートの綱がほどけるように仕掛けておいた。漁師町に育ったので、綱の扱いには慣れていた。
 
 皆が起き出す前に帰りましょと彼を促してボートを繋いだところに戻るとボートは思惑通りはるか遠くへ流されていた。彼女は「二人きりで中之島にいるのを 見られるのは死んでも嫌。二人で向こう岸まで泳ぎましょうよ。このくらいの距離ならなんとかなるわよ。私、泳ぎが得意だから、助けてあげるわよ」
 

渋る樋口を促して、泳ぎ始めた。彼女は漁師町育ちで小さいときから泳ぎが得意で、特に遠泳には自信があった。
 
 ちょうど半ばまで来たところで樋口がアップアップし始めた。突然右足のふくらはぎに痙攣が来たのだ。彼女はチャンスだと思い、浮き沈みしている樋口の後 ろからしがみつき、水の中に引きずり込んだ。不意を突かれた樋口は多量の水を飲み苦しげに暴れた。二度三度水の中に引きずり込むと、樋口は次第に浮力を失 い、水の中に沈んで行った。
 
 その後はあなたが見ていた通りよと彼女は言った。彼女の話ではフラミンゴの中には四、五人も樋口の犠牲になった女性がいて、つい先だって辞めて行った小 田切さんも樋口のために人工中絶までさせられたのだと言う。私は彼女の話を聞きながら樋口とのデートに応じなくて良かったと心の底から思った。
 
 思えば樋口は女性の敵だったのだ。美樹さんは犠牲になった全女性のために敵を討ってくれたようなものなのだ。樋口みたいは男を殺したために美樹さんが死 刑になるとしたら、こんな不公平なことはないと私は思った。

 「美樹さん、私が知っていることは死んでも誰にも言わないわ。樋口さんは当然の報いを受けたのよ。私いいことを思いついたわ。樋口さんが一人 で泳ぎに行って溺れたように見せかけるため、彼のバスタオルとサンダルを丘の向こうの水際にでも置いておくのよ。きっとうまく行くと思うわ」
 
 私はそう言って美樹さんを励ました。すると彼女は「野崎さんありがとう。一生恩に着るわ」と私の両手を握りしめた。
「私はこんな体だし、もう村瀬さんの前に出る資格はないわ。あなたは村瀬さんが好きなんでしょ。あなたはうまく隠しているつもりでも私には良くわかった わ。合宿が終わったら私はもう皆の前から姿を消すわ。だから、あなたは村瀬さんと一緒になって幸せになってね。もし、いつか村瀬に会って、あのとき、どう して姿を隠したのかって問いつめられでもしたら、私は本当は樋口さんが好きだったってことにするわね。私がこの約束を破って、村瀬さんをあなたから横取り にでもしようとしたら、あなたは今日のことを村瀬さんにでも、警察にでも話してくれて結構よ。さぁ、指切りして」
 
 私は彼女との約束に従って、皆が食事している間に、樋口さんの部屋に忍び込み、彼のバスタオルを盗み出すと寮のサンダルと一緒に例の入り江の岩の上に置 きに行った。私のこの細工のために結局樋口さんは一人で泳ぎに行って溺死したということになった。警察から私も美樹さんもいろいろ聞かれたけれど、何にも 知りませんと言っただけで無罪放免になった。しかし、私のしたことは本当にいいことなのだろうか。私も殺人の共犯ということにならないだろうか。そう考え ると私は不安でいたたまれなくなる。でも私は直接何にも手を下していないのだらか、それほど心配しなくてもいいのかも知れない。
 
 こんなことで、当面のライバルはいなくなったけれど、これを喜んでいいのかどうか、私は実に複雑な気持ちである。(午前一時三十分記)
 

 十月×日 広津美樹さんが休学したという噂を人伝に聞いた。その人の極秘情報によると彼女は妊娠中絶の手術を受けたのだそうだ。ところが手術 の結果が思わしくなくて、両用のためにしばらく田舎に帰るのだそうだ。きっと樋口さんとの間にできた子供だったのだろう。可愛そうな美樹さん。でももっと 可愛そうなのはこの私。合宿が終わってから、村瀬さんが一向に電話をかけてくれなくなったのだ。手紙を書いても音沙汰なしだし、フラミンゴの方も大学祭へ の参加を辞退したため解散同然の有様で、あれっきり彼には会うこともできないでいる。
 
 
 
 
 
 
 
 
16
(2007.5.27掲載)

 
  一時間ほどたってから、取調官が部屋に入ってみると、村瀬は日記帳の上にうつ伏せになって眠っていた。顔中に涙の乾いた跡がこびりついてい た。何を夢見ているのか、時おり笑ってでもいるかのように顔の筋肉を動かしていた。
 
「おい、村瀬」

 取調官が肩を叩いた。村瀬はキョトンと頭を上げると周りをぐるりと見回した。目の前に取調官が立っているのさえ気づかない様子で大きく見開い た眼であたりを見回し続けていた。

 「おい、村瀬」

 取調官はもう一度言った。その声にピクンと体を震わせると村瀬は取調官の顔に自分の顔をすり寄せるようにしてしゃべり始めた。
 
「淑子、もう朝なのかい。お前は先に起きていたんだね。僕はてっきりお前が死んじゃったのかと思って心配してたんだ。でもあれは夢だっただね。随分悪い 夢だった。でも夢で良かった。淑子、本当のことを言うと、僕は美樹よりお前が好きだったんだ。わかってくれるだろう、僕の気持ち。お前も僕のことが、ず うっと昔から好きだったんだね。それを聞いてとっても嬉しいよ」
 
 村瀬はそう言うと両手を取調官の方へ差し伸べてきた。取調官は薄気味悪く思いながらも村瀬の両手をとってやった。
 
 突然、村瀬の顔は幸せに輝き、両の眼から涙が流れ落ちた。
 
「淑子、喜んでくれ。やっと直ったよ。これまでお前にも誰にも言わず、一人で苦しんでいたんだけれど、本当を言うと僕はノイローゼだったんだよ。長いこ とノイローゼに悩んでいたんだよ。一日中、不安に取り憑かれ、気持ちがいらいらしていたばかりか、頭の中にいつももやもやした膜がかかっていたんだ。それ が今直ったんだよ。頭の中のもよもやが吹っ切れて、僕の頭は今秋の空のように澄み切っている。さあ、もうお前に迷惑をかけたりしないよ。いらいらして辛く 当たったりなんか、もうしなからね。これから仕事もばりばりやるぞ。お前もうんと幸せにしてあげるからな、淑子」

  村瀬はそう言いながら取調官の両手をきつく握り締めた。虚ろに見開かれて村瀬の瞳に、取調官の驚愕の表情が映っていた。
 
                          (完)
 
ご愛読ありがと うございました。
(2007.5.27)

遺 書は風に散った | 情事のたしなみ|遺書をしたためる間に|ジョギングシューズ|浮気の報酬|二重の環|


ホーム