日記の部屋1963(1)/Diary1963(1)

(2000/4/16開設:since April 16,2000)
 今朝、起きがけに急に昔の日記が読みたくなった。寝室の隣の書庫へ行き、薄暗い中で本棚の一角にたむろする日記帳の中から無作為に一冊抜き取ってきた。それが、1963年の正月17日からの日記だった。大学4年生、もうすぐ大学を卒業して社会人として新しい一歩を踏み出そうとする頃のものである。37年も前の日記であるが、読んでみるとなかなか面白い。思わず引き込まれてしまった。40年近く経つと大抵のものは時効であろう。これを公開しても差し支えることはもうそれほどあるまい。そこで、自分の半生の回顧と整理を兼ね、この部屋に掲載していくことにした。もし、読んで、登場する人物や言及されたエピソードなどに思い当たる人は下記に是非メールを下さい。

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(1963/4/16掲載)
年月日 曜日 日記本文
1963.1.17 Thursday  早いもので・・・と私は何の気なしに書き始めたのであるが、我々が月日の流れを考える時このことばは常にまっさきに浮かんでくることばではある。我々は何年生きようと時の流れを正確に感覚で捉えることはできぬものらしい。いつもいつもある程度意外だ、予想外だ、といったような感じをもつということは人間にとって抜け出しがたい宿命なのかもしれない。一瞬でも長くこの世に生き長らえたいと切望する生命にとって一瞬一瞬が、虎の子の預金の中から惜しみ惜しみ出費しているようなものである。我々の生命が燃え尽きてしまうものあれば一日長く生きることは自らの限りある燃料をそれだけ余分に燃焼したように感じられる。こうした自分の生命に対する惜春の情ともいうべきものが我々をして常に月日の流れの速さを嘆かせるのである。
 話はついつい横道にそれたようだけど冒頭の早いものでの後は次のように書くつもりだったのである。
 早いもので、前の日記帳が切れてから二ヶ月近い月日が流れてしまった、と。
 最後の日付は正確にはNov.23,1962とある。したがって12月まる一月と1963年に入って今日までの16日間それに11月の5日間を加えて計一月と20日ばかり日記をつけなかったことになる。この間何度か早く日記を買ってこようと思いながら適当なものを探し出せずついつい今日までになってしまったのだ。この間の主な出来事で日記にとどめておくべきと思うものはおいおい思い出したついでにでも書きとどめることにしよう。日記が自分の身近かにないということは非常に寂しいことである。何か落ちつかぬ。心は欲求不満にさいなまれる。したがって今日こうして日記を買ってきたら何となくおおらかな楽しい気分さえする。自分の居間にゆったりと落ち着いた感じがする。話し相手を迎えたような気がする。
 今年は色んな意味で僕にとって大切な年である。そういった意味で色んな事を真剣に考えていかなければならない年でもある。折にふれて真剣な思索をこの日記のうえに展開していきたいものである。
 昨年の12月は、M合唱団の定期演奏会が12月15日厚生年金小ホールで行われるため、その練習練習に明け暮れた一月であった。定期演奏会が終わると、12月23日に東京を発ち、24日に島原に帰った。例によって島田オジさんと碁をやる。その頃、ハヤカワの『思考と行動における言語』を面白く読んだ。12月末、植木一好さん一家の来訪をうく。幹大はすこぶる元気で、しかも仕付が良い。正月には古瀬叔母さんが暮れから泊まりがけでいらしていていろいろとお仕事なんかをやって下さった。毎日テレビはお正月番組で、良くみたものである。
 1月4日も暮れかかった頃K.KさんとK.Aさんがやってきた。それでK.Kさんの宅にいって上がりこんで話し合った。一級酒を三人で(実質的には僕とK.Kさんと)酌み交わして良く飲んだ。12時頃K.Aさんは帰った。後に残った二人は午前五時まで語り明かそうと意気軒昂であった。しかし忘れがたい夜であった。彼女は僕をずうっと以前から愛していたと告白した。
 5日は誕生日だったけれど幸いにして取れた特急券はみすみす捨て難く島原を発つ日となった。
 上京してからは一週間ばかりがパタパタとたったような気がした。
 その間、M合唱団関係の話が沢山ある。
 まず、その記念文集のため、400字詰め原稿用紙に30枚の愛の詩集を書き上げた。12日は新年会。大正園ホテル。女の子は和服できているものが多かった。この日渡された文集への手紙形式の返事を8枚ほど書いた。
 1月15日の成人の日にはこの日成人式を挙げたM.Wさんにおめでとうの電話をかけた。
 スキーのこと、冬休みのこと、成人式のこと、色んなことを話した。
 KHにも電話した。新年会でなかなか和服がお似合いでしたよ、というとはじめて和服であんな人前に出たのではずかしかったわ、といいながらもうれしそうだった。楽しい電話だった。
 さて16日には赤門で鈴木さんに会ってタイプライターのブラシとシリコンクロスを渡した。彼女は大きなマスクをかけていた。前日富士から生徒をひきつれて上京した高校の先生のお姉さんにつき合わされて西武デパートに日本の歴史か何かの展覧会を見にいったせいだそうである。
 
 今日までに色んな人に端書を出した。
 池上啓子さん、両親、A.Mさん、植木一好さん。
 A.Mさんにはこんな風に書いた。
 お返事うれしく拝見しました。とうとう雄弁者にされてしまったようですが、これユウベンシャと読むんでしょうか。それとも侮蔑的にユウベンモノと読むんでしょうか。大いに気にかかります。あなたの文章の重厚さには全く圧倒されてしまいました。それで、お返しに能文者という称号を奉りましょうか。あなたのことを思い出そうとするとまず最初に浮かんでくるのはキラキラとアヤシク輝く大きな瞳です。あなたの経験談を聞かせてもらってあの美しい瞳が伊達や酔狂で大きく見開かれているのではなく見るべきものを見るためのものであることが良くわかりました(こう書くとこれまではどう考えていたのかと反問されそうですがこれが能文者でないつらさ。御容赦あれ)。本当に貴重な御教示有り難うございました。確かに社会対個人、組織対個人という問題は我々が一生をかけて取り組まねばならぬ大問題のようです。この社会の中で自らの価値を見失うことなく如何にして自我を完成していくかいつか機会があれば議論したい課題です。ICUのprofの秘書をなさっているそうですね。あなたなら名の字のつく秘書になる素質十分と思います。頑張って下さいね。僕の方は我が生涯最後の試験準備に大童。お暇がありましたら、孤軍奮闘中の我が陣地に慰問文でも送って戴けませんか。乱文乱筆(細字)多謝。向寒の時節ながらお元気でお暮らし下さい。

 これだけのことを葉書に書いたのである。乱文乱筆(細字)多謝もうべなるかなであろう。
 

1963.1.20 Sunday 10:30a.m.ラジオがMozartをやっている。静かな日曜の朝である。今朝は5時少しすぎに起きた。萩原朔太郎詩集を少し読んだ。中でも「雲雀の巣」「春宵」「見知らぬ犬」「愛憐」は好きになった。萩原の詩は、あやしいまでにデリケートな感覚のふるえがある。つめたいまでにつきはなし客体化された人間の神経がのぞいている。彼の詩にあたたかみを求めようとしてもだめである。彼の詩に心をふるわせることはできる。彼と同じ思いになやむことはできる。しかし彼と同じ思いをいだきうるというまさにそこに彼と我とはついに孤独者として歩まねばならぬ宿命がある。我々は友としてなぐさめあうことができないのだ。我々は世の常の健康な人々のように人間と人間との間に自らを忘れ捨てさることはできないのだ。そうするにしてはあまりに貴重な神経を与えられているのであるから。

1.55p.m.偶然とはいつ巡りあっても面白いものだ。今朝私は萩原詩集を読んだ。ところがついさっき買ってきた毎日新聞(これを買ったのも一つの偶然だ。朝日があればそれを買ったはずだ。)に三好達治が私の好きな詩集として萩原朔太郎の純情詩集について語っている。その文中に引用されている「静物」にしても今朝読んだばかりのものである。彼が一番愛読したという同詩集の中の愛憐詩集の十編ばかりを今朝読んだばかりだというのにこんな文に出会うとはまた人生楽しからずやではないか。
(◆2.09p.m.ところがである。偶然はたしかに最後まで偶然であったらしい。買ってきたのは毎日であったが、折り込んであった日曜特集は朝日であったのだ。しかも、そこに三好の文は載っていたのだ。)

 ◆碧海(純一)先生の法哲学の講義は僕にとって一つの衝撃であった。新しい目を開いてくれるものであった。
 僕は先生のあげられる参考文献をできるだけ読んでみた。そしていろんな意味で得ることが多かったと思っている。碧海先生の講義やその著『法哲学概論』の中で述べられることが、先人の色んな業績の上に積み重ねられたものであるということがよくわかった。まさしく学問は突然にある優れた大哲学者の頭にきらめき、そこで自己完結的に体系化され、そこで進歩を停止するものではないのである。科学において我々はthe truthを探求する。しかし我々には絶対的にそれがthe truthといいうる時は永久に来ないのである。ただ科学的なtheoryが二つある場合どちらがより優れているかをいいうるにすぎない。あるtheoryが出される。それはもはやそのtheoryを出した人の私有物ではなくなる。それは学界にとって共有物となる。ここにおいてそのtheoryは多くのtestを受け、そのtestに耐えうるものであれば、学界で広くopinionとして通用する。しかし、また新たなtheoryが出される。それはthe old one に比べはるかに良く事実に合致する。ここでthe new one が学界においてthe latest,the best tested scientific opinionとして通用し始める。
碧海先生の説が多くの人々の業績の上になりたっているということは、かかる意味でbetterなtheoryを求める学界の仕事の一翼を担っているということができるのである。そしてより優れたtheoryがまた碧海先生の説をうち破って行くであろう。本当にここにこそ進歩があるのである。theoryがもはや私有物でなくなり、広く学界という社会の共有物となり、間主観的にfalsifiabilityとかvertifiabilityとかの基準によってtestされよりすぐれたtheoryを生みだしていくprosessほど、学問の発達にとって望ましいことはないであろう。
 いろんな考え方の可能性ということに改めて目を開かれたことも貴重であった。そしてより優れた考え方というものがどれほど望ましいものであるかも経験を通して思い知らされた。たとえばHayakawaの"Languuage in Thought and Action"の中になるtwo-valued orientationの部分を見れば、我々が二値的な考え方しかできないなればどういう不幸なことになるかの実例を容易に見いだすだろう。また、『現代論理学入門』を見れば、我々がアリストテレス的な名辞論理学にとらわれているかぎり、ことばというもののうらにすぐさま実体を考えて、法の本質とは何か、有はどうして有り、無はどうして無いかと形而上学的な無意味な思索のとりことなり、現実の正しい把握に達し得ないことを知るだろう。我々はまた間違った考え方をもたらす多くの実例を知っている。たとえば戦時中、敵国の捕虜となるよりは死ぬ方がましという考え方。天皇を絶対視する考え方。etc.枚挙にいとまがないほどである。そうしたとらわれた考え方がいかに社会のprogressを遅らせ the Open SocietyのEnemyであるか、Kark ケopperの著を見ればあきらかである。

1963.1.23 Wednesday 5.15a.m.
 昨日の朝起き出しながら本箱の本が眼に入ったので凡そ何冊あるだろうかと数えてみた。少なくとも400冊はありそうである。平均200円としても約8万円分の本があることになる。大方は大学に入ってから買ったのであるから一年のうちに約2万円ずつ本を買ったことになる。
 その消費金額の多寡はしばらくおくとしても、買ったままで本棚に飾りっぱなしのが大分あるというのは情けないことだと思う。とくに専門の法科に関する本の中に読了されたものが少ない。新書とか文庫本には読了したらAKのマークを入れることにしている。チラホラ以上にこのマークのない本があるのはどうしたことか。本だけはやはりもっと読まねばならないと思う。たとえ現今のごとき値上がりが続き一冊一冊の値段は高いにしても本によってそれ以上のものが得られることはおおよそ確かである。もちろん中にはくだらない本もあるにはあるが。
 3月に入ったら大いに本を読もうと思っている。書店の本棚には食い気を誘われている本が沢山ある。それらはもちろん買って読むつもりである。しかし、まず自分の本棚の中にも読んでおくべき多くの本が手をつけられぬままになっている事態の解決から乗り出すべきであると思う。本は装飾品としても確かにその人の知的成熟を示すものでもあろう。しかしそれは第一義的なものではない。又それが何次的にもしろ意義を実質的に持ちうるためには、その本が読まれていなければならぬ。我々が本屋のオヤジの知的成熟をあまり高く評価しないのは彼のうしろに並べられている本が彼の知的成熟のアクセサリーにもなっていないからである。
 私が学生であるということから私の本箱の本は私の知的成熟のアクセサリーとして見る人にはより多くの効果をもつであろう。しかし他人を偽れても自分を偽ることはできぬものなのだ。私の本棚の中から処女性を抛棄せしめよ。そして豊かなる愛の結晶を創り出そう。
1963.1.24 Thursday 6.40p.m.
◆M.Wさんからお便りを戴いた。15日は彼女の成人の日だったのでお電話でお祝いを申し上げた。その時、二十才の抱負は?と質問した。それに対する返事のようなお便りでもある。若さに満ち満ちたお便りだ。ピチピチとしたいかにも明るく、未来にあふれるばかりの希望(のぞみ)をかけた一人の乙女の姿が浮かんでくるようなお便りだ。「何しろ力一杯努力して自分に誠実に毎日を送っていきたいと思ってます」と彼女は抱負を語る。自分自身を見つめながら一日一日と向上していこうという積極的な生き方には僕も大いに賛成だ。こういうことを常日頃意識しているといないとではgoalに入るまでに大きな差ができてしまうものだ。
 その後に去年の暮れに行ったスキーの話が続いている。とってもすばらしい雪景色、本当に楽しかった。と書きながらも「私ってこんな所がいけないのかもしれませんが、あのスキーの講習会はすごくすごく楽しかったけれど、あの思い出と一度自分もスキーをはいた事がするという経験の喜びを大切にしまっておいてもうそれほど行きたいと思いません」と自分自身の気持ちを不思議がってもいる。
 最後に試験のことにふれ僕に「最後の学生時代の試験を会心の出来で終わらせますように」「正直のところ居間までなまけてきた私ですがこれからは見習ってがんばろうと思っています」見習うというところは少々余分な気がする。照れくさい。でも彼女の思いやりには頭が下がる。「お疲れの頭の気分転換に読んで下さいませ」と。最後にMと署名がある。とっても美しい字だ。ほんとうにうれしいお便りだ。この疲れた頭にとって。彼女は2月18日から26日まで試験だというから僕の方でも2月の22日頃にお手紙をさしあげることにしよう。

11.30PM 
◆妥協しなければ生きていけないと認めることこそ最大の妥協である。
最大の妥協の罪を犯してしまったものにとって日頃頻々と起こる妥協など軽犯罪とも思えまい。

◆今日の湿度は6%だそうである。10%以下の湿度は砂漠並みだということである。これであ湿度という単位はあまりふうさわしくないものとなった。むしろ乾度といったほうがよい。今日は乾度94%であった。といえば火災予防を強調する方もしやすいというものだ。人間湿という語からだけで少々火の気と関係ない錯覚に陥りかねないから。

◆僕には少々ゲテ物食いの傾向があって他人の食しかねるようなものをかえって好むようなところがある。複雑怪奇な味をもってよしとする性向がある。たとえば味つけをやるばあいなにからなにまで調味料と名がつくもので混ぜ込んでしまう。このあたりはゲテ物趣味というより旺盛な探求心のあらわれといって賞賛すべき点だと思うのだが、そんな風にして味つけして、これまで不味いと思ったことがない。いつも美味かったところで単味の白菜の塩漬けなども大の好物ときているのだから、まあ好き嫌い無しといった方がゲテ物食いというより正確で、もっと正確にいえば単なる食いしん坊にすぎないらしいのである。

1963.1.25 Friday ◆家から送金あり。10,000円。感謝して受ける。島原は雪が積もっている、と伝えてきた。この正月は暖かすぎて正月らしくにない、と島田のオジさんなんかこぼしておられたぐらいだったのに、全国的に襲ってきた寒波は南国島原も容赦しなかったらしい。平均6度C前後はどこも寒いらしく東京も今朝はマイナス5.4度Cで最高の寒さだったそうだ。
 手紙は細々と家族のようすを伝えてきている。みんな元気のようだ。下宿のことで、島原出身で四谷でT旅館をやっているTTさんはなかなか世話好き故よかったら頼んでみるがとのことだ。早速返事に安月給取りにふさわしい下宿を探していただけるのならお頼み願いたいと書いた。手取り1万7千円の月給取りには高い下宿を紹介して貰っては困るのである。そこのところが何となく微妙だ。TTさんの息子さんには弘子姉さんの友達だった長池さんが行っている。だから下宿のことだけではなしに訪ねていってみるのも面白かろうと思う。さしずめ女傑であろうTT女史に一面識もっておくのも悪くはないと思う。
1963.1.26 Saturday ◆詩を作る。これは僕にとって最大の喜びの一つである。
スポーツのように、音楽のように、ダンスのように、映画のように、僕はそれに熱中することができる。全てを忘れて一句一句創りあげていく喜びにひたりきることができる。出来上がった詩が他人の目にはどう見えようと、僕にとってそれは喜びと苦しみの結晶以外の何ものでもない。色んな思い出が短い語句の中に込められている。詩を読むとそうした思い出が語りかけてくる。その語句をさぐり当てるまでの苦しみとさぐり当てたときの喜びがつい昨日のことのように実感をともなって呼び戻される。先頃ノートを買って「詩集」と銘打った。そこにはまだ10編ほどの詩しか集められていないけれど、いつかはそれを一杯にしよう。自分の詩集をもつうれしさ。それは何ものにも替えられぬ喜びとなろう。すでに集まった10編を読むことにしてもすでに大変楽しいことだ。それに我が才腕をふるって一つ一つにさし絵までつけているからよけい楽しい。今は試験の準備中でなかなか詩を作るような暇はないが、試験が終わり次第、めちゃめちゃに作ってやろうとは現在の願望である。(9.11AM)
1963.1.29 Tuesday ◆昨夜(といっても27日の)島原一中の同窓会が新宿のみよし寿司屋であった。出席したのは以下の10人である。Nishim,Shob,Nakag,Ishik,Takag,Matum,Moroi,Mitsun,Kinost,阿部。
 やはり同郷のよしみとはいいものでそれも小中学校で同じクラスでお互いを知り尽くしていたような者ばかりが集まるのだから気がおけないといえばこれにまさるものはないであろう。学生は僕とNakagと二人切りで後の8人はみな社会人である。Nishimは江ノ島海浜ホテルのcook、Shobはオリオン電気、Ishikは都庁、Takagは建築業、Matumはバタ屋、Moroiは陶器屋、Mitsunさんは音楽の先生、Kinostさんはすでに結婚して共稼ぎ中である。MuneちゃんやSakbaも来るかも知れぬという期待をもっていたのだが、何か事情があるらしく来なかった。中学時代の思い出話に花が咲いた。背の高さを比べてみると僕が一番大きい。そこでNakagがこんな思い出話をする。
「君のお母さんがNakagさんはよく伸びましたねえ、うちのはほんとうに小さくて」といったんだそうである。ところでその頃から彼は3〜4�Bしか伸びていない。僕が大幅にleadしてしまっている。中三の頃Nishim・Takag・Matumは僕のクラスでチビ三羽烏で僕が相当イジめた連中なのだけど、結構大きくなって、高木はなかなかシブい喉をきかせてくれた。
 Ishikのいうことには、中三の頃体育が終わって職員室に行こうという時、僕がズボンを前後にはいていたのだそうである。そう言われてみればそんなことをしでかした気もしないではないが、それにしてもその頃はとんだゴウケツだったものだ。
 中三の時は僕の前にMitsunさんが坐っていた。そこでMitsunさんが「阿部さんにはずいぶん助けられた」というのである。先生から指名されてわからずに立っていると僕がうしろから教えてくれたんだそうである。
 ところで、酒が入ってから歌でも歌おうと誰かが言い出したらShobとNakagが反対する。Nakagの言うことやよしである。僕も当然反対者の中に入れてしまっているのである。
「僕も阿部君も昔からオンチだしね」という。Ishikが「阿部君のオンチはひどかった」と相槌を打つ。ところで歌いだしてしばらくしてShobが「いや、阿部君ナ歌ンうもなったね」と感心する。「ちゃんと歌になちょるもん」。Mitsun,さんが「誉められよっとかけなされよっとかわからんね」とニヤニヤしてこっちを見る。Nakagもオドロイタ風で「ほんとうにうまくなったなあ」という。僕は何もいわずに一人でニヤニヤして聞いていた。
 てなわけで、我が音楽的才能を彼らに再認識させた次第であるが、こんな僕が緑会合唱団の一memberとして舞台にまで立ったといったらさぞ驚くことだろう。それ以上にきっと合唱団の連中がこの夜の彼らの話を聞いたら驚くことだろう。それほど僕のオンチはひどかったのか、と。しかしながらである。中三の時にもMitsunさんと重唱したこともあるぐらいなのだから、僕のオンチが力量とは関係なしに島一中では、かなり伝説化していたことも事実なのである。それにしても楽しい一夜であった。
1963.2.1 Friday 3.54AM◆1月29日にKHにtel。15日以来だからちょど2週間ブリ。彼女男性観がかわったとかいう。色々なことがあったんだそうだ。口癖のように<ナヤミがあるのよ>というけれど一向に教えてくれぬ。でも楽しそうに色んなことを話してくれる。適当に相手が話してくれないtelぐらいつまらないものはない。その意味でも彼女とのtelは楽しい。楽しさにあまえていつだったか1時間近くも話し込んで彼女のお父さんにどなられたことがある。その時はすっかり驚いてお詫びの手紙を早速認めた。
 その中で彼女のお父さんのお許しがあるまでお電話はしないとか書いた。それで相当長い間、彼女にお電話しなかった。1月15日の�揩ヘそのことがあってから初めてのものだった。しかもいい具合に15日のも29日のも彼女のお父さんが電話口に出ない。それに細心の注意を払って電話が長くなりすぎないようにうまくやっている。これからも適当に�揩ェ楽しめることだろう。
 彼女は僕が電話口で「コンバンハ」といっただけで誰の声か区別できる。そしてその次に飛び出してくる声は大概の場合、わずかではあれ、陽気ではしゃぐような感じに染まっている。この頃は間をずいぶんおいて�揩キるだけに歓迎されかたもいいように思われる。
 僕らは真面目な話をよくする。結婚の話なんかも話題にのぼる。いつだったか僕のことをお兄さんみたいな感じがするといってくれた。そのときはうれしかった。でも彼女はなかなかとおかたくて、デートしようといっても応じようとしない。一度は時と場所まで定め、後2時間で会えると思っていた時、突然の事件が起こって、ついにはかなくもチャンスが失われたことがある。でも試験が終わったら今度こそは大丈夫って気がする。

4.20AM◆2月1日となった。後残すところ授業があるのは、二日だけである。その間に3時間しか授業はない。学生時代もこれでいよいよ最後という感じがする。小学一年の時からこれまで20年間もの間教室で先生から授業を受けてきた。その授業も後3時間でいよいよお終いかと考えると感慨深いものがある。人間は前にのみ進むものだから同じ事を二度とは繰り返しえない。学校に通うという経験も後一月もたてば過去のものとなる。二度と味わってみようとしてもできなくなってしまう。学生時代としていつかは振り返って懐かしむことになるだろう。その日々が一日一日と失われていく。学生時代の中に詰め込むことのできるものがそれだけ少なくなっていく。学生時代にあれもしたかった、これもしておくんだったと今になって思えば色んなことが切りもなく浮かんでくる。しかし、もうあれもこれもするには時間がなさすぎる。卒業までもうちょっきり二ヶ月しかない。しかも2月はほとんど試験のために費やされる。とはいえ、この試験にしてが我が生涯における最後のものなのだ。20年間学校生活を続け、その間試験とは切っても切れぬ日々を送ってきた。試験に関してはほんとうに数え切れないほどの思い出がある。苦しかったこともある。楽しかったこともある。よしんばいくら苦しいものにせよ、それは懐かしい思い出となりうる種類のものだった。しかし、その試験とも今度でお別れとなる。渡辺さんもいってくれたように是非とも有終の美を飾りたいものである。我が学生時代の思い出のため・・・

9.10PM◆あなたに初めて会った日に
こころに中に見つけた
まるく小さなぬくもりのかたまりを
いとけない幼子のように
そっと両の手の中につつんで
わたしは大事に育んできた
(あなたに初めて会った後で
わたしは心の中に
不思議なものを見つけだした。
まるで幼子のようにやわらかい
まるくて小さなぬくもりのかたまり)
○あなたの優しいまなざしは
私の心の中の
まるく小さなこのぬくもりを
母親の慈愛のように
すくすくと今日まで
こころ満ちるほどに育んできた
○あなたに今日お会いした時
私は知ったのだ
こころに満ちたこのぬくもりが
愛と呼ぶものだったってことを
あなたの愛のミルクを吸って
私の小さな心にには
入りきれなくなってしまった
◆この原案を試験が終わったらもうすこし磨きをかけよう。今は時間がない。
◆一度も不幸な目にあったことのない人は幸福に値しない(ウゴフォスコロ)
◆あなたのばら色の頬をみれば、切ない悩みを脳に秘めておられるとは思われないからです。エボリ公女ともあろうお方が、叶わぬ思いに溜息をつくということがあるでしょうか。望みのない恋をする者だけが、真実の恋を知るのです。(シラー『ドン・カルロス』第二幕第八場ドン・カルロスのセリフ)

1963.2.2 Saturday 10.06PM
◆次のような詩のアイデアが浮かんだ。
この道は暗いけれど一人で行こう
寂しさに寂しさにこごえるけれど(こごえるからだ)
それでも行こうただ一人で
清らかな清らかな夢を抱いて
ある日の幸せ求めながら

この道は暗いけれど一人で行こう
悲しみに悲しみに涙が出るが
ひたすら急ごうただ一人で
幸せの幸せの星を求めて

1963.2.3 Sunday 0.42AM
◆私自身自分に多くの欠陥限界があることを知っている。かならずしも明確な形ではないが漠然とした形でそれを知っている。しかし、物事を漠然とした形でしか知っていないということは一種の危険を伴うもののように思われる。実際から言ってそれは知っているとは名ばかりで知っているとは言えないような状態しか意味しない。知るとは少なくとも明確な形で言葉に語られうるようなもの、客観的な認識のlevelまで高められたものでなければならないと思う。漠然と知っているという言い方は漠然とそういう風に感じているというのと少しも変わらない。それは直観であっても認識ではない。そうした曖昧な知り方は、往々にして意味のない不安・おそれをもたらしやすい。漠然とした感じは直ちに漠然とした不安と結びつき、不当に精神をゆがめてしまう。自分自身に欠陥限界があるということを認めるのはいいが、それがどんな内容をもつものであるかを明確に認識し、それを自覚することがないならば、そうした欠陥限界に対しいかに振る舞うべきかいかに行動すべきかという積極的な方針は生まれてこない。欠陥限界をまるで絶対的なものとして受け取りそれは自分の力ではどうしようもないものー神の摂理のごとくにa prioriなものと考えるようになりかねない。
 まず欠陥限界がいかなるものであるかをつとめて客観的に追求し、認識すること。しかもそれが現在における欠陥限界であることを知らなければならない。すべてのおそれや不安や誤解はそうした欠陥限界をアプリオリなものとして考え宿業と見、自分の力ではそれはどうしようもないものだと考えるところから生ずる。我々は進歩しうるものであることを、進歩のprocessにある存在であることを忘れてならないのだ。

2.32AM
◆窓の外に雪が降っている。
今気付いたら屋根や木の枝にすでにうっすらと積もっている。
雪はほんとうに静かに降る。
空から降ってくるものを見るのは何日ブリだろう。
確か先月の4日、上京の日に自宅から駅まで傘をさしたりたたんだりして急いだような気がする。
そうだ。風が強い日でパラパラと降ったり止んだりしてた。その中を父や母や弟が荷物を持って見送りにきてくれた。
あの日は空がどんよりと曇っていてその頃としては珍しく寒い日だった。最後のさようならを言って父母たちが僕の視野から消えたときふと移した僕の視線には、濡れてしっとりと収まりかえった故郷の島原の景色が映った。
<さくら>の車窓から深夜の山陽路にかなり激しく雨が降っているのを、うつらうつらした頭でぼんやり眺めたことも覚えている。
でも名古屋あたりで眼が覚めると雨の気配はもうどこにもなかった。
地平線から上空の方へと赤紫橙黄黄緑緑青と七色に染め上がって美しい夜明けだった。
真っ赤な太陽がキラキラとまぶしく荘厳に浮かび上がっていく空は水色のきれいな色をしていた。
その日の富士山は雪を抱いて本当にすばらしかった。
その時以来である。
毎日雨も雪も降らない日が続いてきた。
僕にとっても20幾日ぶりの空から降ってくるものにお目に掛かったことになる。
各地では雪害がひどい(北陸・中国)ようだ。
北陸地方では3メートル以上も積もっているところがあるという。
各地で雪崩による死者が出ている。
交通のマヒであらゆる社会活動が閉ざされている。
食糧や燃料などの生活必需品のストックが欠乏しつつある。今日のニュースによれば、中国地方や京都あたりにも豪雪があったらしい。2メートルも1メートル50も積もったということだ。
少々考えられないようなことだ。
先月25日に自宅(うち)から葉書が来たがそれには島原も雪景色だと書いてあった。
そこでこれでは東京地方だけが雪が降らないのかなと思っていた矢先である。
とうとう雪が降り出した。
きっと明朝は見渡す限りの雪景色であろう。
しかしこの雪が豪雪にならないともかぎらない。
そうなっては雪景色を楽しむなぞとは言ってはおれなくなる。雪下ろししなければ家が潰れる。
雪かきしなければ学校へも行けなくなる。
学校へ行こうにも電車が止まって動かなくなるかも知れぬ。大東京さえもがそのやわらかな白い空からのお使いの手によって身動きもできなくなるまで握りしめられかねない。春になって雪がとけるまで2メートルも3メートルもある雪に閉じこめられてしまうことになったらどうだろう。
見渡す限りの白い雪景色。
人っ子一人いない静けさだけがひたひたと胸にしみ込んでこよう。
雪が降っている。静かである。
こんな夜にはなんとなく幻想的な思いが次々と浮かんでくる。しかし決して幻想的とばかり言ってあれないようなことが起こりかねない。
雪はなおも降っている。静かに・・・

3.43PM
先ほどの案を少し直したもの
◆この道は暗いけれど一人で行こう
寂しさに寂しさにこごえるけれど
それでも行こうただ一人で
幸せの幸せの星を見つめて
明日という日を信じながら

この道は暗いけれど一人で行こう
悲しみに悲しみに涙が出るが
ひたすら急ごうただ一人で
美しい美しい夢を抱いて
ある日の幸せ求めながら

この道は暗いけれど一人で行こう
厳しさに厳しさに阻まれようが
負けずに進もうただ一人で
清らかな清らかな朝の来るまで
生きる望みを忘れないで
◆まだまだ完成するまでには時間もかかろうが、試験準備中の貴重な時間を割いて作ったものだ。一層の愛着が湧く。そんなに悪い出来とも思わない。原案は食堂から10時頃帰ってくる途中、口ずさんでいたら出てきた文句の中にある。これを「寒い朝」みたいにはやらせたいものだ。

4.40AM
◆この道は暗いけれど一人で行こう
寂しさに心もこごえるけれど
それでも行こうただ一人で
清らかに輝く星を見つめて
明日という日を信じながら

この道は暗いけれど一人で行こう
悲しみに涙が止まらぬけれど
ひたすら急ごうただ一人で
希望にあふれた夢を忘れず
永遠の幸せ求めながら

この道は暗いけれど一人で行こう
厳しさに行く手を阻まれようと
負けずに進もうただ一人で
美しく晴れた朝の来るまで
生きる望みを失わないで
 

◆どうも気になってしかたがなくて、再度の改定を試みた。こんなわけで今夜は少しも試験準備ができぬ。詩に魅せられたるものの悲劇である。

7.50PM
◆雨戸ががらがら開く音がすると
雪!
女の子の叫び声が飛び込んできた。
雪!雪!
お母さん雪よ
雪だ雪だワァーイ
アタシ早く起きよう
廊下を走っていく足音が聞こえ
やがて子供たちが
元気に玄関から飛び出していく物音
ワァーイワァーイ雪だ。
幼子の愛らしい声
雪だるまを作ろうよ
男の子の元気な叫び
みんな雪が好きなんだな

1963.2.4 Monday 2.10PM
◆今から最後の講義を受けに行く。
先生は坂本義和助教授。
空は美しく晴れわたっている。
日差しが明るい。
好日。

6.08PM
◆今学校から帰ってきたところだ。
ちょうど1時間ほど前、25番教室からゾロゾロと多くの学生が出ていった。口に出してこれで最後の授業が終わったといっている奴もいた。
口に出さない奴も心の中にそんなことを思っていた。
時間がたつということは仕方のないことで誰もが何かにつけ一つ一つ終止符を打って行かなければならないわけだけど、やはりなにがしかの寂しさは隠せない面々であった。学生服を着て先生から講義を聴くと言うことはこれで終わってしまった(もちろん僕には後一回ゼミが25日に残っているが)小学一年から我々の生活の最も基本的な基本的な部分を占めていたものが今日を限りになくなったのだ。このことは必然的に僕らから学生の身分を剥奪する。今日を限り2度と再び味わえぬ経験がまた一つ増えた。小学生を終えるときは小学生という経験を、高校を終えるときは高校生という時代を手の届かぬものにくるのは必定であった。しかしこれまではまだ僕らは学生というstatusから離れるというような意味のものではなかった。今度は違う。学生というstatusそのものを喪失するのだ。まさしく画期となるのだ。
 今日の坂本先生の講義は内容に富んでいい講義だった。そのvalumeに書く手が痛くなったけれど、それさえが最後の講義であるという緊張感から楽しいものとなっていた。教室にもなにかしらいつものときと違った一種のピンと張りつめた雰囲気が感じられた。講義が終わって先生への拍手を送ったとき、それはやげては大をなすであろうこの少壮の優れた学者の講義に対する賞賛の意味の他になにがしかの感慨を内に秘めた一人一人が自らの学生時代への訣別の踏ん切りをつけているといったような感じさえした。みんな何かを思っていた。感じていた。それはまた先生の顔にも反射されていた。<サヨナラ>という言葉は一言も交わさなかったけれど、先生は僕らにサヨナラを僕らが先生にサヨナラをコミュニケートしていたことは間違いなかった。25番の教室をみんないつものようにザワザワと出ていった。しかしやはりいつもと違った何ものかがそこにあった。失われゆくものへの郷愁とでも言わざるをえないようなものが。

◆朝日新聞を今日見ていたら懸賞小説が募集されている。朝日に連載用のもの。賞金が驚くなかれ1000万円である。
400字詰めで800〜1000枚。
一日分は1300字程度。
締め切りは12月31日。
現代・時代小説。自分の体験に基づくもの。賞金の方は税込みで手取りが800万円ぐらいにはなるらしい。
ああ、才能!
この一年の間にそこまで磨き上げられるだろうか。やってみることはやってみよう。
一つ小説史の中にも残りそうなすごいやつでも書きたいものだ、と思いはするが。
いやたとえこの応募で落とされても構わぬではないか。800枚の小説を書くチャンスなんてそうザラにあるものではない。これをきっかけに一つ習作のつもりで書いてみようではないか。
どんなものが出来上がるにしろ、現在の僕の才能よりは書き上げたときのそれの方が磨きがかかっていることは疑いない。僕には一つの案があって、それはかねがね考えているが新聞小説として適当かは少々疑問がある。1000万円もらったら会社なんか辞めてもよい。信託にでもあずけておけば一年に50万ぐらいの金は入ってくるから遊んで暮らせる。そうなればそれこそ好きなことができる。世界一周だ。勉強だ。

11.54PM
◆この道は暗いけれど一人で行こう
寂しさに心は凍えるけれど
ひたすら歩もうただ一人で
行く手を遮る森の彼方に
永遠(とわ)の幸せ求めながら

この道は暗いけれど一人で行こう
悲しみに涙はこぼれるけれど
泣かずに急ごうただ一人で
ささやかだけれど夢を抱いて
明日という日を信じながら

この道は暗いけれど一人で行こう
暗闇に行く手を閉ざされようと
それでも進もうただ一人で
明るく晴れた朝の来るまで
生き抜くファイトを失わないで

1963.2.7 Thursday 4.45AM
◆信じることのできない不幸を信仰はついに救うことはできないのだ。しかも現代人の多くの不幸は信じることができない点に根差している。一体自分自身が何のために生きているのか、と自分の心の奥底をのぞき込んでみてそこにうつろなぽっかりと深い穴があいているのを見いだす時、人間はその疑問をやめてしまう。そしてうつろな心を抱えながら日常的な快楽の渦の中に身を投げ込んでしまうのだ。その渦の流れが急速であればあるほど、彼らからあの不気味な疑問を忘れさせてしまう力がある。鳴門の渦に巻き込まれながらでは、我々は何のために生きているのかとは考えないものなのだ。彼らの心の中はどうしてうつろなものとして見出されなければならなかったのだろう。人間は幼児の時からいろいろの教育を通して人間として少しずつ成長していく。その過程においてその心の中のうつろさは通常のcultureでは埋められているものなのだ。ところが我が国のこの時代においては不幸にもculture全体が何を信じてよいかを見失ってしまっている。従って成長のprocessにおいて人々は心の中にその最も中心的な部分にうつろな穴を開けられたまま大人にされてしまうのだ。だから我々が意識的に人間は何のために生きているのかと疑問を持ち、何ものかの信じられるものの上にたって行動を開始しようというときに当たってその肝心のものが自分の心の中にないことに気付くのだ。そこに我々の不幸が始まる。しかも我々は心のその他の部分では相当に大人であって現代のさまざまの学問の洗礼を受けているから、容易に信ずるという非合理的な行動に身を委ねえないのだ。信ずることのできない不幸の人間が信じることが救われることだという教義の前で戸惑わざるを得ないのは当然である。かくして信じることのできない不幸を信仰はついに救うことはできないのだ。

5.20AM
◆あの子に初めて会った春の日
かぐわしい春の風のようだったあの子
お日様のポカポカした温もりの中で
すくすくと育ったバラの花のように
無邪気で明るくて
僕には天使に思われた

夏が来た
激しい暑さがいく日も続いた
あの子と初めて二人して海に行った
あの子は陽気にはしゃぎまわって
僕がお転婆さんとからかうと
なにおと水しぶきを跳ね返した

秋が来て秋風が吹いた
あの子の瞳の中に
時折憂いの影が走るようになった
楽しそうに笑っていても
その笑い声が
古い無声映画のように
ぎくしゃくして
ふっとためいきに変わるのだ
秋風って人を物思いにふけらせるものなのよ
とあの子は言うのだけれど

木枯らしが吹いて冬になった
僕は見た
あの子の瞼の陰から
水色の一滴の水の玉が
こっそり滑り落ちるのを
木枯らしが眼に痛いからよ
とあの子は言うのだけれど

春が再び巡ってきた
春風は香しく吹き始めた
あの子の瞳はまた昔のように美しく輝き
こぼれるばかりの笑みをたたえた
初々しい頬は朝日に映える
バラの花のようだ
ああ今となってはあの子の愁いの影も
頬を濡らした涙の跡も
僕らの恋の
懐かしい記念碑となった

7.00AM
◆他人を見損なっていた
という言葉ぐらい皮肉な言葉はない
それは取りも直さず
自分を見損なっていた
という告白に等しいから

◆嬉しくって楽しくって
心震えるこの宵
月の並木雨の小径
二人歩いた思い出が
懐かしくてちょっとセンチに
涙ぐみたいこの宵
僕のことを好きだって
あの子がそっとうち明けた
こんな宵は二度と来ない
忘れられないこの宵
声を合わせ歌いあかそう
僕らの恋の思い出に
ワンツースリー

1963.2.10 Sunday 5.30AM
◆愛の回廊

小さななま暖かいつむじ風が
くるくるとあなたの艶やかな黒髪の中を吹き抜け
ほつれ毛をしぶきのように巻き上げると
青白い夜光虫がまとわりついていてまぶしい。

あなたのくちびるは濡れている濡れている。
しっとりとおぼろ月の光に濡れている

虚空に向かって開かれたくちびるの間から
あなたの吐く息は春霞のようになま暖かい

あなたの白い肌は
ヌラヌラと
とぐろを解く蛇のように
滑らかにゆったりと
獲物を求めてはいずりまわる
重い重いその身体

あああなたの香りにあふれた
秘密の回廊を通るものは幸せだ
わき上がる愛の泉の水を飲んで
旅人とはしばしの憩いをとる

不思議な愛の歌を遠くに聴きながら

6.00AM
◆昨日、母から小包が速達便で届いた。さすがに嬉しいものだ。試験中だからと気をきかして送ってくれたのだ。着換えをするのももどかしく包装を解いた。びっしりと色んなものが詰まっている。
fancy chocolate,drops,peanuts,cheeze,butterball,Kawai's liver oil drops,candy,cherry beans etc.

勉強しながらでも食べるように、そういった心遣いである。傍らにこうして色んな食糧の蓄えがあるということは大いに心強いことで、午前何時といった頃に食べるものもなく空きっ腹を抱えて、寒空に輝く星を見上げるぐらい侘びしいものはないのである。これだけ蓄えがあれば試験中は間に合う。大いに感謝するところである。だけどこのところ胃腸の調子がきわめて悪くて慣性胃腸カタルの気配濃厚である。せっかくの親切を無にし無いためにも暴食を避けていかなければならないと思う。(早速御礼の葉書を認めた)。
◆今朝は五時からごそごそと起き出した。昨夜は7時には床についたのだから十分眠った。試験は昨日までに三つ済んだ。日本政治外交史(岡義武)、国際法二部(高野雄一)、法哲学(碧海純一)の三つである。試験が済むたびに机の上の教科書やプリント・ノートが減っていく。後に6つ(もしかしたら7つ)残っている。明日は財政学(第一部遠藤湘吉)がある。今から準備にかからなければならぬ。ようやく夜も白み始めた。何ごとにもfightが大切だ。明日も良い成績を目指して頑張っていこう。

7.20AM
◆7日にKHに電話した。例によって楽しかった。
彼女、結婚の相手にはすごーく頼もしくって、寛容な人がいいわ、という。そういった後でこんなことまだ誰にも話したことがないのよ。とあわてて付け加えた。
ーどっちみち私の相手はサラリーマンでしょうけどもね。本当に不安ね。結婚のこと考えると。
ー男の人ってロマンティックな人が多いわね。女の人よりずうっとロマンティックだわ。
ー私学校出てからお勤めやったほうがいいと思いますか。
ー昨年の暮れ、学校サボってアルバイトをやったの。その職場女の人が多いのよ。男の人なんて隅でこそこそやっちゃって本当に可哀相と思ったわ。
 僕の人生観。そんなものまで織り交ぜながら、彼女とは色んなことを話す。話はいつもスピーディに笑いに満ちて進められる。彼女も色々と話してくれるようになった。<掛け合い>が両方ともうまいのだ。ちょっと皮肉を織り交ぜる。話が行き来をする。先にかけたとき二、三語言葉を交わし合った後でさあ何でもお話になって、彼女が開き直る。阿部さんって話すのが好きなんでしょ。少々皮肉。でも開き直ったわりには彼女もおしゃべりではある。
 彼女の方でもこの電話を楽しんでいる様子だ。自分でも気付かぬ間におしゃべりになっていくって感じさえする。乙女らしい警戒心さえしばしば忘れて彼女は適当におしゃべりで適当に無邪気になり、僕を楽しませてくれる。

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