日記の部屋1963(5)/Diary1963(5)

(2000/4/16開設:since April 16,2000)
 (1963/4/16)今朝、起きがけに急に昔の日記が読みたくなった。寝室の隣の書庫へ行き、薄暗い中で本棚の一角にたむろする日記帳の中から無作為に一冊抜き取ってきた。それが、1963年の正月17日からの日記だった。大学4年生、もうすぐ大学を卒業して社会人として新しい一歩を踏み出そうとする頃のものである。37年も前の日記であるが、読んでみるとなかなか面白い。思わず引き込まれてしまった。40年近く経つと大抵のものは時効であろう。これを公開しても差し支えることはもうそれほどあるまい。そこで、自分の半生の回顧と整理を兼ね、この部屋に掲載していくことにした。もし、読んで、登場する人物や言及されたエピソードなどに思い当たる人は下記に是非メールを下さい。
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年月日 曜日 日記本文
1963.5.18 Saturday 鈴木力衛宅での第一夜。
午前1時17分。(19日)
 3月27日以来の空白を今夜一挙にここで埋めてしまうのは不可能だ。その日駒込の小松方に仮寓していたわが身が凡そ2月後の今夜、鈴木力衛宅での第一夜に、眠られぬままに日記を付け始めるまでの顛末をかいつまんで話すにしても相当の時間を要しよう。
 あの魔女の洞窟と我々下宿人が呼んだ灰色の下宿を引き払ったのが4月5日。それ以来昨夜まで重馬叔父さんの家に居候させてもらっていた。
 3月31日になって突然4月5日までに下宿を出てくれとの魔女の宣告。やっきとなっての下宿探し。半沢さんやいろんな人にお世話になった。
 結局中山さんのご尽力で鈴木力衛宅に入れてもらえることになった。それが4月の4日のこと。4月の3日夜遅くわざわざ僕の下宿を訪ねてくれた義兄の並々ならぬ援助の賜であった。
 ところでここで忘れてならぬのは鈴木妙子さんのご協力である。義兄は先に下宿をしておられた妙子さん宅を訪ね、その令弟であられる鈴木力衛氏の承諾を妙子夫人から得てきたのだった。力衛氏は4月下旬もしくは5月上旬にフランスへ発たれる。それ故5月中旬頃部屋を空けてあげられると思う。そんな話が4月4日ギリギリにまとまったのだ。僕はそのことを報告に叔父の家に行った。その時は、5月中旬まで半沢さんの紹介による浦和あたりで1月すごそうと思っていたのだ。ところが何という親切だろう。叔父は自分の家に5月中旬まで仮寓して構わぬと言ってくれたのだった。
 その言葉に甘えて一月半近くものうのうと居候を決め込んだわけだったのだ。やっと部屋が空いたという報せを15日に受けて、今日土曜日引っ越してきたというわけだ。それも秋山君の友情溢れる協力できわめて好都合に快適に出来た。彼は駒込からここまで一時間以上長距離をものともせずにコロナを駆って僕の荷物を運んでくれた。これが我が下宿問題についてのかいつまんだ話である。
 鈴木力衛宅での第一夜。
 僕はこれらの多くの人々に深く感謝しなければならない。
  中山さん、重馬叔父さん、和子叔母さん、麻紀子ちゃん、鈴木夫人、半沢さん、鈴木家の人々、秋山君。
 心から感謝のことばを述べながら第一夜の眠りにつこう。1:42a.m.
1963.5.28 Tuesday  鈴木さんのところに来てから今日でちょうど10日目。とても良くしてくださるので、大変気持ちが良い。ここからは井の頭公園まで歩いて10分しかかからない。家の前を玉川上水が流れている。空気が新鮮だし、起きがけに窓の外を見やれば木々のグリーンが目にも鮮やかだ。東京に来て以来、これほど幸福な環境を味わったことがない。部屋は6畳だし、今日西側の窓枠も新しいのと取り替えて下さった。その桟を日曜日は半日がかりで里見さんと塗ったものだ。里見さん夫婦は、この5月25日でちょうど新婚一ヶ月でまだ湯気がたっているような新婚サンだ。奥さんは高校の先生。「ダンナ」さんは東京放送の放送記者。奥さんはダンナさんを「ダンナ」とお呼びになる。高校では音楽を教えているとかで日曜日はピアノを囲んで妹さんらと歌を一緒に歌った。そのうちピアノでも教えてもらいたいものだ。
 鈴木さんのところは2人兄妹。カズマサ君と「るね」ちゃん。高一と中二。二人でよく大声を出して兄妹喧嘩をする。活発だ。るねちゃんはお下げの長い、可愛らしい子で、お人形さんの洋服造りが好きなそうな。カズマサ君は電気機械をいじくるのが大好きらしくステレオも自分で組み立てたそうだ。僕といつか一緒に映画でも見に行こうということになっている。
 ところで僕はこのところモリエールづいている。力衛氏は人も知るモリエールの権威。岩波文庫のモリエールの作品は「女房学校」が辰野氏との共訳であるのを除けばすべて氏の訳業である。そんなわけでまだ手のついていない文庫本がわんさと転がっている。それを借り出して一日一冊の割合で読破しつつある。
  25日 女房学校
  26日 タルチュフ
  27日 ドン・ジュアン
  28日 町人貴族
という次第である。
 明日は「守銭奴」の予定だ。
 その他にも色々と手をつけているがその本のどれもがまだ誰も読んでいないようなものばかり、どれだけ読んでも追い付かないほどにまだ本がぎっしり並べてある。毎日一冊読んだとしても読破し尽くすのはなかなか骨のようだ。ともあれ一冊読まぬことには先へ一歩も進めないとあれば努めてかかさず読む以外に手はあるまい。
「どうぞどうぞ読んで下さい、どんな本でも」
オバさんは親切にこう言って下さる。この言に甘えて読ませてもらうことにしよう。
 さて、伊沢とは21日に会った。26日は英語会のコンパ。それに行く途中Herbst先生と偶然にもお目に掛かった。コンパでは鎌田や赤木に会った。日曜日にはK.Sさんから手紙が来たので、電話した。call signはHerbst先生から聞いていたのだが、K.S嬢は大変驚いていた。忙しいんだそうである。
 今日は阿出川さんに電話した。例によって話は楽しく弾んだ。彼女は東大の方を辞めて今自分のうちで家庭教師などをやっているんだそうだ。大山嬢にも移転の旨を報せた。今日はまたもや雨。五月に入って晴れた日は4,5日しかない。
1963.6.8 Saturday  日記を付けるのがどうも間遠になってきたようだ。5月28日から今日まで10日余り空白がある。28日の日記によればその頃モリエールに精を出している。そして予定通り29日に守銭奴を読み終わったことが、僕の「能率手帳」に記されている。これで岩波文庫の訳書のなかで「スカパンの悪だくみ」以外のモリエールものを読み終わったことになる。
 6月に入ってからはSFもの「13のショック」(マスティン、早川書房)とジイドの「偽金つくり」(上)を読み終えた。その他手をつけているものが色々あるが、いずれも大部のものだけにその成果は容易に上がりそうにない。
 父の手紙が今月の一日頃に来ている。母が眼の手術のためにとうとう長崎医大付属病院に入院したという。telegraphで一日に母宛に打った。『シュジュツノセイコウヲイノル』その後音信がないので経過については知りようがないが、父と母に宛てて一通ずつ3日6日と手紙を出した。
 麻雀の腕はこのところ少々進歩を示している。6月4日には関野、清水、小野のメンバーでやって+54,翌5日には小野、佐伯、渡辺のメンバーで+43,7日は+2(関野、秋山、小野)。それほど易々とは沈まなくなった。だけどまだまだ西川、庄野級とは格段の差がある。
 6月2日に最後の引っ越しを行った。鈴木藤蔵方に二ヶ月間預け放しでだった机その他を金500円也で運び込んだのだ。伊沢と高島が手伝いに来てくれた。6日には鈴木宅にお礼に行った。金600円也は月給前の薄給役人にはつらかったけれど、果物籠を持っていった。けれどもこれまでのご親切を思えばこんなお礼でことが済むものではない。<<恩恵はそれに報い得る限りにおいて、快適である>>(偽金つくり(p.239)参照)とは良く言ったもの。今は報い得ないものを将来にわたって報いて行かねばと思う。
 ところ昨夜は僕ら38年入省者一同の大コンパであった。大いに愉快であった。まさしく豪快なコンパというにふさわしい。酒を18本近く飲んだ。一人当たり、6合弱というのだから、酔いつぶれる者が出ても不思議ではない。酒をひっくり返す奴や、吐く者がいて、どうも上品どころの話ではなかった。
 僕が幹事役をやった手前、彼らの狼藉を最小限に食い止めるのに相当手を焼いた。場所は、<とみた旅館>で、ずいぶん迷惑をおかけしたようで申し訳ない。僕の顔で相当料金を負けてくれ、料理も金500円也の会費以上のものを出してくれた。それよりも何よりも彼らの狼藉に対して嫌な顔一つ見せなかったオバさんの態度には敬服させられた。実に気持ちの良いオバさんで、半沢さんも「出来者だね」とおしゃっていた。
 僕が幹事を引き受けて少々強引に日取りも決め、いわゆるお偉方の日程に日を合わせたわけではなかったが、たまたま幸運に恵まれて、川原秘書課長及び半沢課長補佐が来て下さった。おかげでぐっとコンパの重みが増した。幹事役としては喜ばずにはおれなかった。今日みんなから<幹事さんご苦労さんでした>と言われて、何となく嬉しくなってくるのを隠せなかった。しかし、190円の赤字。
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