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| 年月日 | 曜日 | 日記本文 |
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| 1963.1.17 | Thursday | 早いもので・・・と私は何の気なしに書き始めたのであるが、我々が月日の流れを考える時このことばは常にまっさきに浮かんでくることばではある。我々は何年生きようと時の流れを正確に感覚で捉えることはできぬものらしい。いつもいつもある程度意外だ、予想外だ、といったような感じをもつということは人間にとって抜け出しがたい宿命なのかもしれない。一瞬でも長くこの世に生き長らえたいと切望する生命にとって一瞬一瞬が、虎の子の預金の中から惜しみ惜しみ出費しているようなものである。我々の生命が燃え尽きてしまうものあれば一日長く生きることは自らの限りある燃料をそれだけ余分に燃焼したように感じられる。こうした自分の生命に対する惜春の情ともいうべきものが我々をして常に月日の流れの速さを嘆かせるのである。
話はついつい横道にそれたようだけど冒頭の早いものでの後は次のように書くつもりだったのである。 早いもので、前の日記帳が切れてから二ヶ月近い月日が流れてしまった、と。 最後の日付は正確にはNov.23,1962とある。したがって12月まる一月と1963年に入って今日までの16日間それに11月の5日間を加えて計一月と20日ばかり日記をつけなかったことになる。この間何度か早く日記を買ってこようと思いながら適当なものを探し出せずついつい今日までになってしまったのだ。この間の主な出来事で日記にとどめておくべきと思うものはおいおい思い出したついでにでも書きとどめることにしよう。日記が自分の身近かにないということは非常に寂しいことである。何か落ちつかぬ。心は欲求不満にさいなまれる。したがって今日こうして日記を買ってきたら何となくおおらかな楽しい気分さえする。自分の居間にゆったりと落ち着いた感じがする。話し相手を迎えたような気がする。 今年は色んな意味で僕にとって大切な年である。そういった意味で色んな事を真剣に考えていかなければならない年でもある。折にふれて真剣な思索をこの日記のうえに展開していきたいものである。 昨年の12月は、M合唱団の定期演奏会が12月15日厚生年金小ホールで行われるため、その練習練習に明け暮れた一月であった。定期演奏会が終わると、12月23日に東京を発ち、24日に島原に帰った。例によって島田オジさんと碁をやる。その頃、ハヤカワの『思考と行動における言語』を面白く読んだ。12月末、植木一好さん一家の来訪をうく。幹大はすこぶる元気で、しかも仕付が良い。正月には古瀬叔母さんが暮れから泊まりがけでいらしていていろいろとお仕事なんかをやって下さった。毎日テレビはお正月番組で、良くみたものである。 1月4日も暮れかかった頃K.KさんとK.Aさんがやってきた。それでK.Kさんの宅にいって上がりこんで話し合った。一級酒を三人で(実質的には僕とK.Kさんと)酌み交わして良く飲んだ。12時頃K.Aさんは帰った。後に残った二人は午前五時まで語り明かそうと意気軒昂であった。しかし忘れがたい夜であった。彼女は僕をずうっと以前から愛していたと告白した。 5日は誕生日だったけれど幸いにして取れた特急券はみすみす捨て難く島原を発つ日となった。 上京してからは一週間ばかりがパタパタとたったような気がした。 その間、M合唱団関係の話が沢山ある。 まず、その記念文集のため、400字詰め原稿用紙に30枚の愛の詩集を書き上げた。12日は新年会。大正園ホテル。女の子は和服できているものが多かった。この日渡された文集への手紙形式の返事を8枚ほど書いた。 1月15日の成人の日にはこの日成人式を挙げたM.Wさんにおめでとうの電話をかけた。 スキーのこと、冬休みのこと、成人式のこと、色んなことを話した。 KHにも電話した。新年会でなかなか和服がお似合いでしたよ、というとはじめて和服であんな人前に出たのではずかしかったわ、といいながらもうれしそうだった。楽しい電話だった。 さて16日には赤門で鈴木さんに会ってタイプライターのブラシとシリコンクロスを渡した。彼女は大きなマスクをかけていた。前日富士から生徒をひきつれて上京した高校の先生のお姉さんにつき合わされて西武デパートに日本の歴史か何かの展覧会を見にいったせいだそうである。 今日までに色んな人に端書を出した。 池上啓子さん、両親、A.Mさん、植木一好さん。 A.Mさんにはこんな風に書いた。 お返事うれしく拝見しました。とうとう雄弁者にされてしまったようですが、これユウベンシャと読むんでしょうか。それとも侮蔑的にユウベンモノと読むんでしょうか。大いに気にかかります。あなたの文章の重厚さには全く圧倒されてしまいました。それで、お返しに能文者という称号を奉りましょうか。あなたのことを思い出そうとするとまず最初に浮かんでくるのはキラキラとアヤシク輝く大きな瞳です。あなたの経験談を聞かせてもらってあの美しい瞳が伊達や酔狂で大きく見開かれているのではなく見るべきものを見るためのものであることが良くわかりました(こう書くとこれまではどう考えていたのかと反問されそうですがこれが能文者でないつらさ。御容赦あれ)。本当に貴重な御教示有り難うございました。確かに社会対個人、組織対個人という問題は我々が一生をかけて取り組まねばならぬ大問題のようです。この社会の中で自らの価値を見失うことなく如何にして自我を完成していくかいつか機会があれば議論したい課題です。ICUのprofの秘書をなさっているそうですね。あなたなら名の字のつく秘書になる素質十分と思います。頑張って下さいね。僕の方は我が生涯最後の試験準備に大童。お暇がありましたら、孤軍奮闘中の我が陣地に慰問文でも送って戴けませんか。乱文乱筆(細字)多謝。向寒の時節ながらお元気でお暮らし下さい。 これだけのことを葉書に書いたのである。乱文乱筆(細字)多謝もうべなるかなであろう。
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| 1963.1.20 | Sunday | 10:30a.m.ラジオがMozartをやっている。静かな日曜の朝である。今朝は5時少しすぎに起きた。萩原朔太郎詩集を少し読んだ。中でも「雲雀の巣」「春宵」「見知らぬ犬」「愛憐」は好きになった。萩原の詩は、あやしいまでにデリケートな感覚のふるえがある。つめたいまでにつきはなし客体化された人間の神経がのぞいている。彼の詩にあたたかみを求めようとしてもだめである。彼の詩に心をふるわせることはできる。彼と同じ思いになやむことはできる。しかし彼と同じ思いをいだきうるというまさにそこに彼と我とはついに孤独者として歩まねばならぬ宿命がある。我々は友としてなぐさめあうことができないのだ。我々は世の常の健康な人々のように人間と人間との間に自らを忘れ捨てさることはできないのだ。そうするにしてはあまりに貴重な神経を与えられているのであるから。
1.55p.m.偶然とはいつ巡りあっても面白いものだ。今朝私は萩原詩集を読んだ。ところがついさっき買ってきた毎日新聞(これを買ったのも一つの偶然だ。朝日があればそれを買ったはずだ。)に三好達治が私の好きな詩集として萩原朔太郎の純情詩集について語っている。その文中に引用されている「静物」にしても今朝読んだばかりのものである。彼が一番愛読したという同詩集の中の愛憐詩集の十編ばかりを今朝読んだばかりだというのにこんな文に出会うとはまた人生楽しからずやではないか。
◆碧海(純一)先生の法哲学の講義は僕にとって一つの衝撃であった。新しい目を開いてくれるものであった。
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| 1963.1.23 | Wednesday | 5.15a.m.
昨日の朝起き出しながら本箱の本が眼に入ったので凡そ何冊あるだろうかと数えてみた。少なくとも400冊はありそうである。平均200円としても約8万円分の本があることになる。大方は大学に入ってから買ったのであるから一年のうちに約2万円ずつ本を買ったことになる。 その消費金額の多寡はしばらくおくとしても、買ったままで本棚に飾りっぱなしのが大分あるというのは情けないことだと思う。とくに専門の法科に関する本の中に読了されたものが少ない。新書とか文庫本には読了したらAKのマークを入れることにしている。チラホラ以上にこのマークのない本があるのはどうしたことか。本だけはやはりもっと読まねばならないと思う。たとえ現今のごとき値上がりが続き一冊一冊の値段は高いにしても本によってそれ以上のものが得られることはおおよそ確かである。もちろん中にはくだらない本もあるにはあるが。 3月に入ったら大いに本を読もうと思っている。書店の本棚には食い気を誘われている本が沢山ある。それらはもちろん買って読むつもりである。しかし、まず自分の本棚の中にも読んでおくべき多くの本が手をつけられぬままになっている事態の解決から乗り出すべきであると思う。本は装飾品としても確かにその人の知的成熟を示すものでもあろう。しかしそれは第一義的なものではない。又それが何次的にもしろ意義を実質的に持ちうるためには、その本が読まれていなければならぬ。我々が本屋のオヤジの知的成熟をあまり高く評価しないのは彼のうしろに並べられている本が彼の知的成熟のアクセサリーにもなっていないからである。 私が学生であるということから私の本箱の本は私の知的成熟のアクセサリーとして見る人にはより多くの効果をもつであろう。しかし他人を偽れても自分を偽ることはできぬものなのだ。私の本棚の中から処女性を抛棄せしめよ。そして豊かなる愛の結晶を創り出そう。 |
| 1963.1.24 | Thursday | 6.40p.m.
◆M.Wさんからお便りを戴いた。15日は彼女の成人の日だったのでお電話でお祝いを申し上げた。その時、二十才の抱負は?と質問した。それに対する返事のようなお便りでもある。若さに満ち満ちたお便りだ。ピチピチとしたいかにも明るく、未来にあふれるばかりの希望(のぞみ)をかけた一人の乙女の姿が浮かんでくるようなお便りだ。「何しろ力一杯努力して自分に誠実に毎日を送っていきたいと思ってます」と彼女は抱負を語る。自分自身を見つめながら一日一日と向上していこうという積極的な生き方には僕も大いに賛成だ。こういうことを常日頃意識しているといないとではgoalに入るまでに大きな差ができてしまうものだ。 その後に去年の暮れに行ったスキーの話が続いている。とってもすばらしい雪景色、本当に楽しかった。と書きながらも「私ってこんな所がいけないのかもしれませんが、あのスキーの講習会はすごくすごく楽しかったけれど、あの思い出と一度自分もスキーをはいた事がするという経験の喜びを大切にしまっておいてもうそれほど行きたいと思いません」と自分自身の気持ちを不思議がってもいる。 最後に試験のことにふれ僕に「最後の学生時代の試験を会心の出来で終わらせますように」「正直のところ居間までなまけてきた私ですがこれからは見習ってがんばろうと思っています」見習うというところは少々余分な気がする。照れくさい。でも彼女の思いやりには頭が下がる。「お疲れの頭の気分転換に読んで下さいませ」と。最後にMと署名がある。とっても美しい字だ。ほんとうにうれしいお便りだ。この疲れた頭にとって。彼女は2月18日から26日まで試験だというから僕の方でも2月の22日頃にお手紙をさしあげることにしよう。 11.30PM
◆今日の湿度は6%だそうである。10%以下の湿度は砂漠並みだということである。これであ湿度という単位はあまりふうさわしくないものとなった。むしろ乾度といったほうがよい。今日は乾度94%であった。といえば火災予防を強調する方もしやすいというものだ。人間湿という語からだけで少々火の気と関係ない錯覚に陥りかねないから。 ◆僕には少々ゲテ物食いの傾向があって他人の食しかねるようなものをかえって好むようなところがある。複雑怪奇な味をもってよしとする性向がある。たとえば味つけをやるばあいなにからなにまで調味料と名がつくもので混ぜ込んでしまう。このあたりはゲテ物趣味というより旺盛な探求心のあらわれといって賞賛すべき点だと思うのだが、そんな風にして味つけして、これまで不味いと思ったことがない。いつも美味かったところで単味の白菜の塩漬けなども大の好物ときているのだから、まあ好き嫌い無しといった方がゲテ物食いというより正確で、もっと正確にいえば単なる食いしん坊にすぎないらしいのである。 |
| 1963.1.25 | Friday | ◆家から送金あり。10,000円。感謝して受ける。島原は雪が積もっている、と伝えてきた。この正月は暖かすぎて正月らしくにない、と島田のオジさんなんかこぼしておられたぐらいだったのに、全国的に襲ってきた寒波は南国島原も容赦しなかったらしい。平均6度C前後はどこも寒いらしく東京も今朝はマイナス5.4度Cで最高の寒さだったそうだ。
手紙は細々と家族のようすを伝えてきている。みんな元気のようだ。下宿のことで、島原出身で四谷でT旅館をやっているTTさんはなかなか世話好き故よかったら頼んでみるがとのことだ。早速返事に安月給取りにふさわしい下宿を探していただけるのならお頼み願いたいと書いた。手取り1万7千円の月給取りには高い下宿を紹介して貰っては困るのである。そこのところが何となく微妙だ。TTさんの息子さんには弘子姉さんの友達だった長池さんが行っている。だから下宿のことだけではなしに訪ねていってみるのも面白かろうと思う。さしずめ女傑であろうTT女史に一面識もっておくのも悪くはないと思う。 |
| 1963.1.26 | Saturday | ◆詩を作る。これは僕にとって最大の喜びの一つである。
スポーツのように、音楽のように、ダンスのように、映画のように、僕はそれに熱中することができる。全てを忘れて一句一句創りあげていく喜びにひたりきることができる。出来上がった詩が他人の目にはどう見えようと、僕にとってそれは喜びと苦しみの結晶以外の何ものでもない。色んな思い出が短い語句の中に込められている。詩を読むとそうした思い出が語りかけてくる。その語句をさぐり当てるまでの苦しみとさぐり当てたときの喜びがつい昨日のことのように実感をともなって呼び戻される。先頃ノートを買って「詩集」と銘打った。そこにはまだ10編ほどの詩しか集められていないけれど、いつかはそれを一杯にしよう。自分の詩集をもつうれしさ。それは何ものにも替えられぬ喜びとなろう。すでに集まった10編を読むことにしてもすでに大変楽しいことだ。それに我が才腕をふるって一つ一つにさし絵までつけているからよけい楽しい。今は試験の準備中でなかなか詩を作るような暇はないが、試験が終わり次第、めちゃめちゃに作ってやろうとは現在の願望である。(9.11AM) |
| 1963.1.29 | Tuesday | ◆昨夜(といっても27日の)島原一中の同窓会が新宿のみよし寿司屋であった。出席したのは以下の10人である。Nishim,Shob,Nakag,Ishik,Takag,Matum,Moroi,Mitsun,Kinost,阿部。
やはり同郷のよしみとはいいものでそれも小中学校で同じクラスでお互いを知り尽くしていたような者ばかりが集まるのだから気がおけないといえばこれにまさるものはないであろう。学生は僕とNakagと二人切りで後の8人はみな社会人である。Nishimは江ノ島海浜ホテルのcook、Shobはオリオン電気、Ishikは都庁、Takagは建築業、Matumはバタ屋、Moroiは陶器屋、Mitsunさんは音楽の先生、Kinostさんはすでに結婚して共稼ぎ中である。MuneちゃんやSakbaも来るかも知れぬという期待をもっていたのだが、何か事情があるらしく来なかった。中学時代の思い出話に花が咲いた。背の高さを比べてみると僕が一番大きい。そこでNakagがこんな思い出話をする。 「君のお母さんがNakagさんはよく伸びましたねえ、うちのはほんとうに小さくて」といったんだそうである。ところでその頃から彼は3〜4�Bしか伸びていない。僕が大幅にleadしてしまっている。中三の頃Nishim・Takag・Matumは僕のクラスでチビ三羽烏で僕が相当イジめた連中なのだけど、結構大きくなって、高木はなかなかシブい喉をきかせてくれた。 Ishikのいうことには、中三の頃体育が終わって職員室に行こうという時、僕がズボンを前後にはいていたのだそうである。そう言われてみればそんなことをしでかした気もしないではないが、それにしてもその頃はとんだゴウケツだったものだ。 中三の時は僕の前にMitsunさんが坐っていた。そこでMitsunさんが「阿部さんにはずいぶん助けられた」というのである。先生から指名されてわからずに立っていると僕がうしろから教えてくれたんだそうである。 ところで、酒が入ってから歌でも歌おうと誰かが言い出したらShobとNakagが反対する。Nakagの言うことやよしである。僕も当然反対者の中に入れてしまっているのである。 「僕も阿部君も昔からオンチだしね」という。Ishikが「阿部君のオンチはひどかった」と相槌を打つ。ところで歌いだしてしばらくしてShobが「いや、阿部君ナ歌ンうもなったね」と感心する。「ちゃんと歌になちょるもん」。Mitsun,さんが「誉められよっとかけなされよっとかわからんね」とニヤニヤしてこっちを見る。Nakagもオドロイタ風で「ほんとうにうまくなったなあ」という。僕は何もいわずに一人でニヤニヤして聞いていた。 てなわけで、我が音楽的才能を彼らに再認識させた次第であるが、こんな僕が緑会合唱団の一memberとして舞台にまで立ったといったらさぞ驚くことだろう。それ以上にきっと合唱団の連中がこの夜の彼らの話を聞いたら驚くことだろう。それほど僕のオンチはひどかったのか、と。しかしながらである。中三の時にもMitsunさんと重唱したこともあるぐらいなのだから、僕のオンチが力量とは関係なしに島一中では、かなり伝説化していたことも事実なのである。それにしても楽しい一夜であった。 |
| 1963.2.1 | Friday | 3.54AM◆1月29日にKHにtel。15日以来だからちょど2週間ブリ。彼女男性観がかわったとかいう。色々なことがあったんだそうだ。口癖のように<ナヤミがあるのよ>というけれど一向に教えてくれぬ。でも楽しそうに色んなことを話してくれる。適当に相手が話してくれないtelぐらいつまらないものはない。その意味でも彼女とのtelは楽しい。楽しさにあまえていつだったか1時間近くも話し込んで彼女のお父さんにどなられたことがある。その時はすっかり驚いてお詫びの手紙を早速認めた。
その中で彼女のお父さんのお許しがあるまでお電話はしないとか書いた。それで相当長い間、彼女にお電話しなかった。1月15日の�揩ヘそのことがあってから初めてのものだった。しかもいい具合に15日のも29日のも彼女のお父さんが電話口に出ない。それに細心の注意を払って電話が長くなりすぎないようにうまくやっている。これからも適当に�揩ェ楽しめることだろう。 彼女は僕が電話口で「コンバンハ」といっただけで誰の声か区別できる。そしてその次に飛び出してくる声は大概の場合、わずかではあれ、陽気ではしゃぐような感じに染まっている。この頃は間をずいぶんおいて�揩キるだけに歓迎されかたもいいように思われる。 僕らは真面目な話をよくする。結婚の話なんかも話題にのぼる。いつだったか僕のことをお兄さんみたいな感じがするといってくれた。そのときはうれしかった。でも彼女はなかなかとおかたくて、デートしようといっても応じようとしない。一度は時と場所まで定め、後2時間で会えると思っていた時、突然の事件が起こって、ついにはかなくもチャンスが失われたことがある。でも試験が終わったら今度こそは大丈夫って気がする。 4.20AM◆2月1日となった。後残すところ授業があるのは、二日だけである。その間に3時間しか授業はない。学生時代もこれでいよいよ最後という感じがする。小学一年の時からこれまで20年間もの間教室で先生から授業を受けてきた。その授業も後3時間でいよいよお終いかと考えると感慨深いものがある。人間は前にのみ進むものだから同じ事を二度とは繰り返しえない。学校に通うという経験も後一月もたてば過去のものとなる。二度と味わってみようとしてもできなくなってしまう。学生時代としていつかは振り返って懐かしむことになるだろう。その日々が一日一日と失われていく。学生時代の中に詰め込むことのできるものがそれだけ少なくなっていく。学生時代にあれもしたかった、これもしておくんだったと今になって思えば色んなことが切りもなく浮かんでくる。しかし、もうあれもこれもするには時間がなさすぎる。卒業までもうちょっきり二ヶ月しかない。しかも2月はほとんど試験のために費やされる。とはいえ、この試験にしてが我が生涯における最後のものなのだ。20年間学校生活を続け、その間試験とは切っても切れぬ日々を送ってきた。試験に関してはほんとうに数え切れないほどの思い出がある。苦しかったこともある。楽しかったこともある。よしんばいくら苦しいものにせよ、それは懐かしい思い出となりうる種類のものだった。しかし、その試験とも今度でお別れとなる。渡辺さんもいってくれたように是非とも有終の美を飾りたいものである。我が学生時代の思い出のため・・・ 9.10PM◆あなたに初めて会った日に
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| 1963.2.2 | Saturday | 10.06PM
◆次のような詩のアイデアが浮かんだ。 この道は暗いけれど一人で行こう 寂しさに寂しさにこごえるけれど(こごえるからだ) それでも行こうただ一人で 清らかな清らかな夢を抱いて ある日の幸せ求めながら この道は暗いけれど一人で行こう
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| 1963.2.3 | Sunday | 0.42AM
◆私自身自分に多くの欠陥限界があることを知っている。かならずしも明確な形ではないが漠然とした形でそれを知っている。しかし、物事を漠然とした形でしか知っていないということは一種の危険を伴うもののように思われる。実際から言ってそれは知っているとは名ばかりで知っているとは言えないような状態しか意味しない。知るとは少なくとも明確な形で言葉に語られうるようなもの、客観的な認識のlevelまで高められたものでなければならないと思う。漠然と知っているという言い方は漠然とそういう風に感じているというのと少しも変わらない。それは直観であっても認識ではない。そうした曖昧な知り方は、往々にして意味のない不安・おそれをもたらしやすい。漠然とした感じは直ちに漠然とした不安と結びつき、不当に精神をゆがめてしまう。自分自身に欠陥限界があるということを認めるのはいいが、それがどんな内容をもつものであるかを明確に認識し、それを自覚することがないならば、そうした欠陥限界に対しいかに振る舞うべきかいかに行動すべきかという積極的な方針は生まれてこない。欠陥限界をまるで絶対的なものとして受け取りそれは自分の力ではどうしようもないものー神の摂理のごとくにa prioriなものと考えるようになりかねない。 まず欠陥限界がいかなるものであるかをつとめて客観的に追求し、認識すること。しかもそれが現在における欠陥限界であることを知らなければならない。すべてのおそれや不安や誤解はそうした欠陥限界をアプリオリなものとして考え宿業と見、自分の力ではそれはどうしようもないものだと考えるところから生ずる。我々は進歩しうるものであることを、進歩のprocessにある存在であることを忘れてならないのだ。 2.32AM
3.43PM
この道は暗いけれど一人で行こう
この道は暗いけれど一人で行こう
4.40AM
この道は暗いけれど一人で行こう
この道は暗いけれど一人で行こう
◆どうも気になってしかたがなくて、再度の改定を試みた。こんなわけで今夜は少しも試験準備ができぬ。詩に魅せられたるものの悲劇である。 7.50PM
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| 1963.2.4 | Monday | 2.10PM
◆今から最後の講義を受けに行く。 先生は坂本義和助教授。 空は美しく晴れわたっている。 日差しが明るい。 好日。 6.08PM
◆朝日新聞を今日見ていたら懸賞小説が募集されている。朝日に連載用のもの。賞金が驚くなかれ1000万円である。
11.54PM
この道は暗いけれど一人で行こう
この道は暗いけれど一人で行こう
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| 1963.2.7 | Thursday | 4.45AM
◆信じることのできない不幸を信仰はついに救うことはできないのだ。しかも現代人の多くの不幸は信じることができない点に根差している。一体自分自身が何のために生きているのか、と自分の心の奥底をのぞき込んでみてそこにうつろなぽっかりと深い穴があいているのを見いだす時、人間はその疑問をやめてしまう。そしてうつろな心を抱えながら日常的な快楽の渦の中に身を投げ込んでしまうのだ。その渦の流れが急速であればあるほど、彼らからあの不気味な疑問を忘れさせてしまう力がある。鳴門の渦に巻き込まれながらでは、我々は何のために生きているのかとは考えないものなのだ。彼らの心の中はどうしてうつろなものとして見出されなければならなかったのだろう。人間は幼児の時からいろいろの教育を通して人間として少しずつ成長していく。その過程においてその心の中のうつろさは通常のcultureでは埋められているものなのだ。ところが我が国のこの時代においては不幸にもculture全体が何を信じてよいかを見失ってしまっている。従って成長のprocessにおいて人々は心の中にその最も中心的な部分にうつろな穴を開けられたまま大人にされてしまうのだ。だから我々が意識的に人間は何のために生きているのかと疑問を持ち、何ものかの信じられるものの上にたって行動を開始しようというときに当たってその肝心のものが自分の心の中にないことに気付くのだ。そこに我々の不幸が始まる。しかも我々は心のその他の部分では相当に大人であって現代のさまざまの学問の洗礼を受けているから、容易に信ずるという非合理的な行動に身を委ねえないのだ。信ずることのできない不幸の人間が信じることが救われることだという教義の前で戸惑わざるを得ないのは当然である。かくして信じることのできない不幸を信仰はついに救うことはできないのだ。 5.20AM
夏が来た
秋が来て秋風が吹いた
木枯らしが吹いて冬になった
春が再び巡ってきた
7.00AM
◆嬉しくって楽しくって
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| 1963.2.10 | Sunday | 5.30AM
◆愛の回廊 小さななま暖かいつむじ風が
あなたのくちびるは濡れている濡れている。
虚空に向かって開かれたくちびるの間から
あなたの白い肌は
あああなたの香りにあふれた
不思議な愛の歌を遠くに聴きながら 6.00AM
勉強しながらでも食べるように、そういった心遣いである。傍らにこうして色んな食糧の蓄えがあるということは大いに心強いことで、午前何時といった頃に食べるものもなく空きっ腹を抱えて、寒空に輝く星を見上げるぐらい侘びしいものはないのである。これだけ蓄えがあれば試験中は間に合う。大いに感謝するところである。だけどこのところ胃腸の調子がきわめて悪くて慣性胃腸カタルの気配濃厚である。せっかくの親切を無にし無いためにも暴食を避けていかなければならないと思う。(早速御礼の葉書を認めた)。
7.20AM
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