日記の部屋1963(4)/Diary1963(4)

(2000/4/16開設:since April 16,2000)
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(2000/4/24掲載)1963(04)
年月日 曜日 日記本文
1963.3.20 Wednesday ◆島原
◆11日に戸崎と一緒に東京を発った。南紀を一回りして広島に出、戸崎のところに二日お世話になり、17日の夜遅く島原に着いた。
 南紀はなかなか美しいところだった。勝浦の港の素晴らしい眺めも、潮岬の深く青い海も、瀞八丁の春にはめずらしい白銀の世界も、眼の底に焼き付いて離れがたい美しさだった。
 広島では戸崎にずいぶんとお世話になった。吉岡や高砂らとも会った。広島もいい町だ。もっとも娼婦があふれているような街並みもありはしたけれど。
 島原に帰って今日で四日目。18日は午後からK.Kさんのところで話し合った。ちょうど高校入試の発表日で妹のMちゃんは高校に合格していた。Albumをたくさん見た。
 夜は島田おじさんと碁打ち。3子で4連勝して2子になった。
 19日は忠叔父さんが見えられ、5000円卒業祝いを貰った。島田おじさんと碁打ちの約束をしていたのを勝手に祖母が断りに行ったために所在ないのでK.Kさんを誘って晴雲寺に行った。彼岸の入りの墓参りである。その後、森岳城、島商、島一小、島高、島一中などを一緒に歩いた。途中で宮崎のおばさんに会った。以前うちの隣にいらして、二人兄妹を僕らは相当にかわいがってやったものだ。可愛い女の子が一緒だった。
「エリコちゃんでしょう」
というとはずかしそうにほほえんでいる。
「もう6年になるんですよ」
早いものだ。
「本当によく勉強なさっていらっしゃいましたね」
とおばさんはよく僕のことを覚えていらっしゃる。
「ちょっといらっしゃらないと思えばすぐ机に向かって、詩を書いたり勉強したり」
 人々の心の中に住んでいる幼い日の僕に巡り会うことくらい懐かしいことはない、嬉しいことはない。
「そうでしたか」と他人事のように聞きながら僕の心は何とも言えない懐かしさで一杯なのだ。
 夜周治叔父さんの宅へ行った。碁を打ったら2子置かせてで3連勝した。「しっかりと頑張るように」と励まして貰った。
 今日は午前中から母について八十川に行き、毛糸のセーターを一つ頼んできた。途中で川下月子さんに会ったので、母と長話が始まった。「都一」でうどんを食べて帰ってみると、案の定島田おじさんと里見先生が見えられて碁会が始まっている。里見先生には2子置いて3連勝、島田おじさんには1勝2敗。
 夕食後K.AさんとK.Kさんが訪ねてきた。三人で長浜の方をぐるりと歩いた。星空の下でいろいろと歌をうたった。きっとこの夜のことを、三人で歌を歌い合った猛島神社境内のことを、懐かしく思い出すことだろう。
 明日は島田おじさんと里見先生のところに碁打ちに行き、K.Kさんのところで、お別れパーティのようなものをする。 

◆旅行中のことを断片的に。
◆広島駅から急行で博多まで。車中小郡まで女の子と一緒。彼女、広島女子短大を受験しての帰り。セーラー服を着てまだいかにも高校生らしい。栄養士になるんだと言う。短大に行くというと一般の人は漠然と目的なしに行くみたいに思っているが自分にははっきりした目標がある。四年制の大学に行って先生になりたかったんだけど家の都合で短大にした。山口と二つ受けるけれど落ちたら就職する。でも勉強は捨てない。日本女子大の通信教育でも受ける。別れしな、「頑張ってね」と僕は激励の言葉を贈った。

◆話は福岡に飛ぶ。
日航のロビー。僕が新聞を読みながらソファーにもたれていると大体真四角におかれたソファーのちょうど真向かいに二人の美しい女性が座る。新聞を読んでいても気にかかるからちらちらと視線を走らせる。向こうの方も新聞を読んでいたのを投げ出して話し始め、こちらを見るとはなしに見ている。僕も新聞を投げ出して真正面からジッと見つめてやる。二人の視線があわて気味に僕の視線を横切っていく。真正面にショートスカートでソファーに深々と座っているのだから、これ以上の美しい眺めはない。脚の組み方が少々崩れると・・・いや本当にわざと気を引くためにやっているかと思われるぐらいに・・・
 一方はダスターを着てきりり引き締まった感じの女の子で髪を後ろにまとめているので額が全部現れている。くちびるの形がとてもチャーミングで顔かたちがすごく整ってい、美しい。もう一人の女の子は赤いオーバーを着て髪にはパーマをかけて両側に垂らしている。ほんのチョッピリだけど有馬稲子に似た感じがする。口がちょっと大きすぎる感じがしないでもないけれどなかなか愛嬌があって美しい。結構な見物である。あまりに真正面に座り合い、しかも悠々と見合ったりしたものだから、両方ともなんとなく可笑しくなって笑い出してしまった。
「福岡の方ですか」
と5メートルぐらい離れた彼女たちに話しかける。
「いいえ、八幡です」
「実は南紀の方を回って今博多に着いたところなんですが、旅行中色々と美しい景色を眺めてきたんですけど、博多ではとんだところで美しい景色を拝見させてもらいました。さっきから十分楽しませていただきました」
といい気なことを言ったものだ。彼女たちを相当のしたたか者と感じていたからに他ならない。ところがである。年齢を聞いてみて驚いた。急行列車の中で出会ったあのセーラー服の女の子と同じ歳なんだそうである。西南大学の女子短大を受けて合格し、東京で昨日まで遊んできたんだという。正に驚きであった。
 話してみるとたしかにまだ幼ッぽい。高校生みたいな感じがする。ところが外見たるやもう押しも押されもしない女なのだ。身長はダスターの方が160センチメートル、赤オーバーの方が159センチメートル。長身である。スタイルもすごくいい。確かに魅力的で、瞳がパチンと合ったはなんとも言えぬときめきを覚えさせる目つきをしている。まだ18歳とすれば、先ほどからショートスカートで男性の真正面に座り一見意味ありげとも思わせたそぶりも幼なさがしからしめたものだったのであろう。
 従姉妹同士なんだそうな。小学校から大学まで全部同じという。
「それじゃお化粧を始めた日も同じでしょう?」
というと二人がにっこりうなずく。愛らしい。
「それでどう、お化粧を初めてやった日の感じって?」
しばらく言いにくそうにしていて、ダスターの女の子が
「恥ずかしかった」
と恥ずかしそうに言う。可愛らしい。オジサンと待ち合わせているのだそうだ。
「大学は」と聞かれて「東大」と答えると「まぁおそろしい」と二人が口を揃える。「オジも同じ大学を出ている」「何をなさっているんですか」「電通の部長」「お名前は」「田中」
 これで赤いオーバーの女の子の名前は田中ということがわかった。その前にオジサンと同姓か確かめておいたのだ。
 その二人の美しい女性との楽しい話しが弾んできたところに部長殿が現れて、せっかくのmeetingがだめになった。
 部長の奴をジロジロ見つめてやったものだから、部長殿二人の美しい姪に「奴は誰だ」と訊いているらしい。「ちょっと知り合いになった人」とでも答えているのか。二人は部長さんの連れの人より僕により多くの関心を示している。部長殿に付いてロビーを出ようとしながら、深々と僕の方に頭を下げて美しい二人のハイティーンは僕の前から消えていったのであった。

1963.3.27 Wednesday ◆私の日記は常に東京ー島原間を往復する運命を担ってきた。また島原と東京以外で記される運命を担わされなかった、と言ってもよい。しかし、こうして必ず一つの日記帳は島原東京間の記憶をもっているのであるが、この次から記される日記は果たしてそれと同じ経験を持ちうることになるだろうか。
 3月26日の午前7時26分に東京に着いた。25日の朝9時15分に博多駅を発ってから22時間余りの旅行だった。24日朝8時20分発の大牟田行きの汽船で家族全員に見送ってもらって美しいわが故郷を後にした。ほんとうに船窓からの島原は素晴らしい眺めだった。終生と言っては言い過ぎかも知れないにしても、忘れがたい景色だった。あの青い波。九十九島の緑の松の木立。森岳城の櫓がいつまでも白く光って見えた。慈愛に満ちてやさしく島原を見下ろしている眉山、それが次第次第に背後にある普賢岳の大きさの前に目立たなくなると女性的な得も言われぬ滑らかなスロープで島原半島は画されて見える。
 と、船は相当の沖合に出たとみえて折からの強風に波しぶきが船窓を洗い、室内にまで入り込んで来て、ゆっくり景色を楽しむどころではなくなってしまった。同行のK.Kさんもあまり気分がよくないらしい。船室の真ん中のの椅子に席を移す。うつらうつらして、目が覚めてみると大牟田に着いているのだった。

◆”いよいよ”という言葉をこれほどの感慨を込めて記したことはこれまでついぞなかったような気がする。明日が卒業式なのだ。いよいよ我が学生時代も明日かぎりで終わるのだ。今日卒業記念アルバムを買ってきて一枚一枚めくってみた。あふれるばかりの懐かしさが僕の胸の中を去来するのをどうしようもなかった。
 思い出よ。僕にとってそれは消えていってはならないものだ。いつまでもいつまでも僕の心の中に生きておいておくれ。学窓を巣立ち波高い世の中を泳ぎわたるのに疲れたそのつかの間の憩いの時のためにも、僕は学生時代の思い出を大切にしたいと思う。

  すべては時のしもべにして
この時の采配の下に統べられ 
今日の悲運は明日は忘れられ 
今日のわが身は明日は省みられず
明日のわが身は
思うも愚か
時は死をも従えるものならば

 ああ、時というこの逆戻りすることの出来ない大きな流れに押し流されながら今日はここまで来てしまった。明日は卒業式だ。
 またある日思うことだろう。おお就職してからもう2週間になるのかと。
 そしてまたある日おやおやいつの間にやら就職以来30年もの長い月日が経ってしまっているようだ、と。
 時よ、僕にはお前に挑戦する気力も冒険心もない。いや僕は挑戦するほど愚かではないのだ。我々が意識的に従おうと従うまいとお前にとってそれは無意味なのだ。この世で唯一人絶対的な権力を握っているお前に挑む方が間違っている。お前の権力の前でキリキリ舞いをさせられている僕らがそれをいかなる修飾語で飾ってみても無駄なことだ。従う。従わぬ。しもべになる。ならぬ、と、それを言ってみても仕方のないことだ。いつか我々は死の床にこの時の手によって運ばれていく運命にある。そのことだけを知って、この時という冷淡な支配者のやり口にできるだけ通暁するのが一番だ。
 3月28日という日は、もう4年も前から僕にとって卒業式の日であると予測できたはずだ。そして30年たったある日は、僕は通産省を辞める日になるであろうことは今予測できることだ。そして60年もたたぬうちにこの僕はこの世から消えて行くであろうことも。
 そうだ。かかるものとして人生をとらえることを学ぼう。一日一日を悔いなからしめんために人生の短さを理解しておこう。こうして学生時代ががむしゃらにこの僕からむしり取られていく時、今こそこの時の冷酷さを十分理解しておくべきだ。その時が来てしまってからは、まさしく遅すぎるのだ。我々が生命を与えられたこのわずかな時間を限りなく豊かなものにしたいと望めばこそ、この僕はある時期が失われていくことに大きな悲しみを覚えずにはいられない。それでもまた反面、この短い人生をうまく区分して有効に利用するためにはあまりに一時期が長すぎるのも考えものかもしれない。この二つの望みを同時に充たすためには、とにかく一瞬一瞬を出来るかぎり有効に、豊かに使うより方法はなさそうである。
 学生時代は明日で終わる。それはかぎりなく寂しい。しかしまた新しい人生が開ける。それはかぎりなく嬉しい。さあ、この短い人生をより豊かに生きてゆこう。

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