(2000/5/1掲載)
| 年月日 |
曜日 |
日記本文 |
| 1963.6.9 |
Sunday |
日曜日だ。久し振りに雨の降らない日曜日だ。朝から洗濯をやった。それが今し方終わって時刻は一時に近い。
酒を飲んだ後はどうも腹具合が良くない。昨日今日と下痢が続いている。しかし大したことはない。午後からは何をするかまだ決めていない。気が向けば映画でも見に行こう。読書もいい。里見さんのところでピアノをしばらく弾いてくるのも気が晴れよう。久し振りに雨の降らない日曜日ーこんな表現を使うのも青空らしい青空の見えぬ日曜日だからだーはてさて何をやったものだろう。
ところで日記を付けてみる気になったのは今まで書いたようなことを書き付けるためではなかった。この日記が失いかけている僕の内面生活の反映という一面を取り戻したいという考えから筆を執ったのだ。むしろ意識的に僕の心の奥底は覆いをかけられ、これまで物置のすみっこに放置されていた。そのよって来るところのものを掘り下げることそのもののうちにこそ、内面生活の機微が語られることになろう。
何よりも僕が自分の内面生活を表白するのを恐れた理由は、現在の自分の生き方の中に大きな虚偽を見出しながら、努めてそれと妥協して生きていこうとしていると感じている、その心理的な動きの中に見出されねばならない。虚偽的に生きていると感じること。そのこと自体が私に虚偽的な生き方を強要してきたのだ。たとえばこの日記の中には私の最も深いところにあるものの描写は努めて避けられ、単なる日常茶飯的な事件の記述しか見出されなくなる。
ところで今の私には虚偽的に生きていると感じることからの回復こそが、内面生活の重要な部分を占めてきたように感じられる。我々にとって虚偽であるところのものとは一体何なのであろう。これまで漠然と虚偽であると感じていたものが、果たして本当にそうであろうか。単なる一方的な評価、内面的な価値観のみからの判断、それらが私をして虚偽と感じさせていたものではなかったろうか。これまでの私には自分は少しも楽しまないのに他人を喜ばせるためにたわいもないことを言って笑わせたりすることは、まさしく虚偽そのものでしかなかった。
自分がやりたいことが他にあるのに、おつき合いで麻雀をやるなどということはそれこそ妥協であり偽りであった。他人のいい加減さをのさばらせて徹底的に叩きもせず、にこやかに握手で終わる大人びた態度は虚偽であった。社会主義的社会を是としながら、資本主義政府の役人として大過なくやっていこうとする態度はまやかしであった。情欲に苛まされながらも美しいことのみ口にするのは偽りのように思われた。
こうしたもろもろの偽りを今となっては健全に肯定できる気がする。これは決して妥協ではない。なぜなら人間は内的生活のみならず外的生活においても生きているものなのだからである。我々の価値基準は往々にして、自己中心的になりがちで、自らの内的生活にとって最も重要なものが最高の価値と目される。このこと自体が悪いのでも間違っているのでもない。しかし、我々が社会に出て、生活している限りにおいて、我々はそうした価値のみでは律し得ない世界にも住まねばならないのである。この外的生活圏においては、その中での最高の価値が独自に存在し、人間という媒体を通して、この世界での価値と内的生活圏における価値とが、調和させられる契機を持つのである。それゆえ媒体たる我々において、一方の価値のみですべてを判断した場合は、往々にして他の価値に抵触することになり、そこに摩擦が生じ、いわゆる疎外現象が起こり、疎外感に悩まされることになるのである。媒体において複数の価値体系がうまく調和された場合、そこには一個の安定した人格が見出されることになろう。
もちろん媒体が常に主体となってこの価値体系を操作できるものではない。外的生活圏における価値観は往々にして我々にその選択を強要しかねない。それが個々人にとって耐えがたいものになるにつれて疎外感の拡大、フラストレーションの激化が見られることになろう。我々は複数の価値体系があるということによって、その虚偽意識を回復せしめることが出来ると同時にやはり複数の価値体系があるということを認めたが良いと言うことそのことの内にも、内的外的の価値の体系のある程度の調和を見出しうるのではあるまいか。
(13:40:00) |
| 1963.6.11 |
Tuesday |
通産省では給料が15日ごとに支給される。10日と25日と。昨日取りに行くところを麻雀に誘われて今日取りに行った。9115円の手取り。そのうち、3000円也を今日下宿料の半月分として払い、既にして手元には5000円余りしか残っていない。でも15日にボーナスが出るという。25日までは何とかやれそうである。昨日の分の続きをも含めて麻雀をやった。プラス25。
昨夜は西川に誘われて音楽会に行った。毎日音楽コンクールとかで数年前に一位を取った石田栞とかいう人を先生とするグループの発表会みたいなもので、先生自身も舞台に立たれた。玉石混淆と言っては少々玉の方もお粗末すぎるけれど、とにかくよくも舞台に立てたものだと思われるような人から、かなりうまい人まで色とりどり、西川の知人である大竹節子さんは先生の次ぐらいうまかった。終わってから西川、水上(三菱油化)、三原さん(日本女子大4年)とNewTokyoに行ってビールを少し飲んだ。
さて、今日給料を取りに行こうとしていて麻生と会った。父危篤の報せで彼が家に帰ったのは一週間も前のことである。昨夜帰ってきたという。お父さんはガンなのだそうだ。下に三人の弟がいて彼が長男、一番下はまだ中学生だという。お父さんの方は今夏持つかどうか危ぶまれる容態だが、本人はガンと言うことを知らないので話が食い違ってくる。でも突然亡くなられてもその後の事が心配要らぬように手はずを整えてきた。と彼は言っていた。本当に同情を禁じ得ない。我々はこういうとき慰めの言葉を知らないのだ。 |
| 1963.6.13 |
Thursday |
今日は久し振りに早く起きた。朝の気持ちはいいものだが、今日はまた雨が降っている。梅雨だからと思いこめば仕方がないもののようだが、こうも毎日降り込められたのではもう沢山だと怒鳴り出したくもなる。といって感情がいらいらしているというわけでもない。やはり朝というものは我々の頭脳を爽快にしてくれるものらしく、何となく鷹揚で、少々のことにはカッカして来なくなっているらしい。
◆この頃読んでいる本の一覧を下に挙げておく。
�@世界短編文学全集フランス19世紀 129頁
�A古典劇集(世界文学大系14)
�Bスタンダール(世界文学大系21) 98頁
�C世界文学百選4(モーム編)河出書房 47頁
�D新エロイーズ(ルソー) 94頁
スタンダールのは「パルムの僧院」の約三分の一。
いずれの本も本当に興味をそそるものばかり、読みだしたらその夜はその本にかかりっきりになってしまう。そんなわけで、こんな併存状態になってしまった。
◆僕の感覚には「新エロイーズ」の美しさがぴったりする。ジュリとの初めての接吻に酔いしれるサン・プルーの興奮が僕にはそのまま伝わってくるのだ。ああ、僕もまたジュリを愛さずにはおられない男の一人だ。ジュリ、わが恋人。
ああ、愛の差し出す贈り物が重荷になるのでしたら、一体感謝のできる心というものがございましょうか。(新エロイーズ�@p.108ジュリより) |
| 1963.6.16 |
Sunday |
◆昨日は良い日であった。いかに良い日であったか。それを証拠立てるまず第一のものは昨日が初のVonus日であったことである。金8000円也を頂戴した。わが財政難もこれで救われた感がある。財布の底には4000円ぽっちしか残っていなかったのであるから。
証拠第二としては、わが下宿において麻雀会を開いたことを挙げねばならない。秋山が自動車を持ってきていたのでVonusを貰いに行くのも自動車を使う。前回の大コンパにおいて清酒引換券二枚を保存していたので、ビール及びサイダーおつまみ物等が間に合うことになった。自動車のトランクにこれら収穫物を満載して我らは通産省正門より出発した。途中はしかしながら土曜日の午後と来ては交通のラッシュがものすごく決して快適なdriveとは言い難いものであった。
3時少し前に鈴木宅に到着。ビールは冷蔵庫に、我ら秋山、高島、小野、渡辺、阿部らは我が6畳の一室へ。いよいよ麻雀が始まったのである。談笑し、痛飲し、麻雀を打ち、また談笑し、痛飲し、麻雀を打ち、10時近くまで本当に楽しい一時を過ごしたのであった。夕食に取った鰻も美味しかった。麻雀の結果は小野+31秋山+25阿部+11高島-19渡辺-45。さすがVonus日だけあって払いがよい。渡辺高島には少々気の毒ではあったがみんな上機嫌で帰路についた。秋山はビール一本ぐらいでは大丈夫と我々を吉祥寺まで運んでくれた。かくて昨日は良い日であったのである。
もちろん鈴木ご一家へご迷惑をかけたことは重々お詫び申さねばならぬものではあるが。 |
| 1963.6.30 |
Sunday |
ただいま、研修旅行から帰京いたし、ご報告申し上げます。
今度の旅行はすごく楽しかった。忘れられぬ様々の思い出に満ちたものとなった。June26の朝8時に第二アルプスで新宿を発ってからJune30の午後9時10分に品川駅に着くまでの四泊五日の旅はそれこそ話し出したら留まるところを知らぬほどの数々のエピソードで満ち満ちている。
旅行のrouteを大まかに話せば、新宿→諏訪→信濃大町→黒部渓谷→宇奈月→富山→美濃大町→名古屋→東京の順になる。それぞれの町が市が渓谷が、それぞれの思い出に彩られ、これから先いつの日にでもそれぞれに僕をして楽しませてもくれ、懐かしませてもくれ、尽きせぬ感慨の境地に誘い込むことだろう。
楽しかった。愉快だった。痛快だった。大冒険談あり。大ロマンスあり。大愉悦あり。あの素晴らしい黒部の大渓谷。日本ライン下りの痛快さ。富山での奇想天外の出来事などなど。思い出せば切りもない。知らず知らずのうちに微笑が湧いてくる。アノ事、コノ事。
みんないい奴だった。気のあったメンバーでの旅行ほど楽しいものはない。先の二泊は30人が同じ宿に泊まり、金、土の二夜はまったくの自由行動で中でも特に気のあった連中との楽しい同宿であった。一つ一つ話し出したらキリがないと先にも言った。本当にそうなのだ。今夜はもう11時15分だ。全部話せないとすれば、少し話してもつまらない。明日にでも話すことにしよう。もちろん明日は明日で話すことが多々あることだろうが。明日、我々22人の事務官の配属が決まり、これから1年半ないし2年間の職場が確定する。なんだか明日が就職第一日目のような気がしてならぬ。明日の午前10時半までには僕の運命も少々変わっていよう。 |
| 1963.7.1 |
Monday |
ひとまず賽は投げられたのだ。僕の社会人としての経歴が20年後30年後語られるとすれば、まずその最初に鉱山保安局管理課がくるはずだ。・・・を歴任し・・・となるところだ。22人の事務官の配属がそれぞれに今日決まった。今日はまったく暑い日ではあった。しかし、夜半11時半、涼風が吹き込むようになった。この涼しい風の中で22人それぞれの胸中に去来するものは何であろうか。予想通りの配属でうれしがっている奴もいれば、当てはずれで少々しょげている奴もいることだろう。我々の運命とはこうして人の手によりながらも神の御手そのものによって行われるのと同様、予測しがたい決定を突きつけられて大いに揺さぶられるものなのだ。僕は4月の最初の配属から鉱山保安局だった。通産省にこんな局があるなんてまったく知らずにはいったような迂闊さだから最初は驚いたけれど、今日の驚きも負けず劣らずのものがあったと言ってよい。人間の弱き性は得てして希望的観測でもって、翌日確実に下ろされる裁断にさえも甘い蜘蛛の糸をかけ白く覆い尽くしてしまいたがるものなのだ。確かに少々意外だった。でも次第に落ち着いて来るにつれて意外性も薄らぎつつある。将来のことまで、悲しいかな、そして嬉しいことには、見通す能力は人間には備わっていないのだ。今日の私の心の心理的雌伏がいついかなる日に雄飛しないとも限らないではないか。いやそんな空想的なことに心を慰めようとする必要がないほどに、私を取り囲む全てのことはうまく行っているではないか。一年先輩の小島さんが僕の隣にいていろいろと、いや万事にわたって指導してくれる。阿久津さんもいい人のようだ。八谷局長は内外にわたって評判の高い人と聞く。みんないい人のように見えた。ただ今日みたいな日には部屋がまるで蒸し風呂のように暑いのには閉口した。何ともならぬものだけにこれから先が思いやられる。全員について誰が何処に行ったかよく覚えていないが、我が良友連中の配属は大体次のようだ。
庄野・秋山(重工業)高島(特許)小野(軽工業)佐伯(企業一課)山下(官房総務)川原・窪川(中小企業)渡辺(工業技術院)西川(通商)三浦(石炭)牧野(鉱山)高沢(調査統計部)岡部(立地政策)横堀(繊維)麻生(官房企画)長田・・関野
これが2年先4年先と色々変わって行くのだ。僕の方はまずは鉱山保安局以外のところへ出ることになろう。そこでも意外感を味わうやも知れぬ。いずれにせよ、あらゆる経験を経験尊重派と表看板にかかげる以上は大事にせねばならぬ総勢57人の小さな局でみっちり鍛えてもらう。Startというものは僕にとっては幸せであるように思う。あまりにも忙しすぎる部課に最初から配属されて、雑用ばかりやらされたのでは、たまらないからだ。全てをがめつく咀嚼して僕の精神の栄養としなくてはならぬのだ。賽は投げられた以上投げ直し得ぬというのであれば、その貴重な得点をたとえ一点ではあれ、最大限に生かすことこそ僕という人間に課せられた責任なのだ。 |
| 1963.7.6 |
Saturday |
世界短編文学全集
5日 吹雪(プーシキン)
あいびき(ツルゲーネフ)
百姓マレイ(ドストエーフスキイ)
キリストの祭に召された少年(”)
4日 解剖学者ドン・ベナリウス(P・ボレル)
ジュール叔父さん(モーパッサン)
その他これまで読んだもの
知られざる傑作(バルザック)
チェンチ一族(スタンダール)
ミミ・パンソン(ミュッセ)
シャルル十一世の幻想(メリメ)
死霊の恋(ゴーチェ)
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| 1963.7.7 |
Sunday |
僕が特に気に入ったのは<あいびき>だ。何という美しい作品だろう。作品全体が、木々の若芽の中をかいくぐって風とともに揺れ動く、明るい陽光にまぶされたような輝きに満ちている。ツルゲーネフの自然描写の卓越した技量にはただただ驚嘆するのみだった。彼には自然の息吹そのものをとらえることができるようだ。
いや素晴らしいのは自然描写だけではない。そのやわらかい身体の滑らかな動きの一つ一つさえもが、産毛をわたるなま暖かい吐息とともに伝わってくるような百姓娘の描写力はどうだ! 僕の心が若々しい情熱に満ち満ちているかぎり<あいびき>は、愛さずにはいられない作品であり、この少女の愛しさは抱きしめずにいられないもののようだ。 |