
目次
1.ポーランドへ=1 2 3 4
2.アンナ=5 6
3.キジ猫=7
4.いたずらな子供たち 8
5.ボイテック一家 9
6.日本大使館10 11
7.タクシー12(工事中)
「ママ、こんな所に子犬が寝ているわよ」
「マア、どうしたんでしょうね、今時こんなところで寝てるなんて」
「なんだかチビクロに似てるみたい」
「こんな所にチビクロがいるわけがないでしょ。さあ、ミコちゃん、早く行きましょ、遅くなるわよ」
どこかで聞いた声です。いえ、まぎれもないミコちゃんと奥さんの声です。僕は嬉しくなって、立ち上がろうとしましたが、肢に力が少しも入らないのです。ミコちゃんと奥さんはずんずん行ってしまいます。僕はあわてて、
「ワン」
と吠えようとしました。でもどうしたのでしょう。声が出ないのです。たちまち、ミコちゃんと奥さんの足音は遠のいて行ってしまいました。
「パパ、樅の木の下に犬が寝てるよ」
「ひろし、触ったりしちゃ駄目だよ。触るとかみつかれるぞ」
今度はひろしくんとパパの声です。どうして僕がひろしくんを噛んだりするでしょう。
「でも、チビクロみたいだよ」
「こんなところにチビクロがいるはずがないだろう。さあ、ひろし、早くしないとママたちに遅れてしまうぞ」
ご主人やひろしくんは僕の事を忘れれてしまったのでしょうか。
「僕はチビクロですよ。ワンワン」
僕はそう吠えようとしました。しかし、やっぱり声は出てこないのです。起き上がろうとしても、肢にはちっとも力が入りません。僕が必死になって起き上がろうとしているうちに、ひろしくんとご主人はそのままどんどん行ってしまうではありませんか。
―待って下さい、待って………
声にならない声を張り上げているうちに僕の両目から涙があふれて来ました。僕は皆んなに見離されてしまったようです。ほんとうの一人ぼっちになってしまったのです。
こんなに遠いポ―ランドまで苦労して追いかけて来たのに、皆んな、チビクロがこんな所にいるはずがないと決め込んでしまって、どんどん通り過ぎてしまうのです。
涙が止めどもなく溢れて来ます。みるみる涙で水たまりが出来、いつの間にか涙の川が出来ました。涙の川は、ずっと遠くまで流れて行き 端の方は霞みの中に消えています。その霞みの中からキラキラ光るものが見えて来ました。良く見るとそれは小さな星で出来た船でした。船はゆっくりと僕の方へ近付いて来るのです。船の中には、ピカピカと光る服を来たきれいな女の人が乗っています。僕はこの女の人に見離されたらもうおしまいだと思い、一生懸命しっぽを振りました。とうとう僕に気付いたのでしょう。その人はにっこり笑いました。そして、僕の前で船を止めると降りて来て、僕をやさしく抱き上げてくれました。
「まあ、かわいそうに、こんなに怪我をして」
女の人は、柔かい手で背中をさすってくれました。たちまち傷の痛みが和らぎました。僕は抱かれたまま星の船に乗せられました。星の船は滑るような速さで進んで行きます。女の人の胸に抱かれているとほんのりお乳の匂いがします。懐かしい匂いです。僕はすっかりいい気持ちになっていつの間にかぐっすり眠り込んでしまいました。
もうあれからどのくらいたったのでしょう。とてもいい気持ちです。まだ女の人に抱かれているのでしょうか。僕はそっと右目を片方だけ開けて回りを見回しました。
そこは女の人の胸ではありませんでした。僕は柔かい布の上に寝ているのでした。どうも木の箱の中に入れられているようです。さっきの女の人がいれてくれたのでしょうか。首を回して上を見上げると、僕を見降ろしている二つの小さな青い目と出くわしました。その目が僕の目に会うとニッコリ笑いかけて来ました。
「マ―トカ、早く来て犬が目をさましたよ」
それは威勢のいいポ―ランド語でした。
「そうお、良かったわね、ボイテック。どれどれ」
僕を見降ろす青い目が二つ増えました。その顔には見覚えがあります。さっき僕を抱き上げてくれた女の人そっくりです。ぷ―んと匂ってくるお乳の匂いもさっきと同じです。 僕は嬉しくなって立ち上がり、しっぽを振りました。
「おやまあ、すっかり元気になったみたいだね。さっき樅の木の下で見付けた時はすっかりのびていたのに。お腹が空いているんでしょ。さあ、これをお食べ」
女の人は小さな皿の上に肉の切れ端を乗せて、僕の前に置いてくれました。僕は遠慮なくご馳走になりました。
「マ―トカ、この犬、うちで飼うことにするの?」
ボイテックと呼ばれれる子が尋ねました。
「そうね、怪我しているみたいだから傷が直るまでうちに置いて上げましょうね。でもさっき鑑札を見たら、ポ―ランドのじゃなくて日本のをつけていたわ。きっとこのあたりに新しく引越して来た日本人の飼い犬じぁないかしら。飼い主はきっと心配しているでしょうから早く飼い主をさがしだして返して上げなければいけないわ。早速明日にでも心当たりに聞いて見ましょうね」
「そう、返しちゃうのか。残念だな。せっかくいい犬が見付かったのに。この犬、一体何という名前なんだろうね、マ―トカ。うちに置いて上げる間だけでも、名前がないと不便だから、僕、この犬に名前をつけてあげたいな。マ―トカ、いいでしょ」
「それはいいわよ。可愛い名前をつけて上げたら」
「じゃ、僕、ヤンという名にする」
「ヤン? 可愛くていい名じゃない」
「じゃ、これから、君のことをヤンと呼ぶよ、チビ犬くん。僕はボイテックっていうんだ。よろしく」
ボイテックは僕に向かって話しはじめました。
「僕、男の子だよ。間違わないでね。時々僕のこと女の子と間違える人がいるんだけど、僕、とってもいやなんだ」
そういわれて見るとボイテックは色白の上に金髪がふさふさと肩まで垂れており、女の子みたいな感じもします。
「僕、もう五つになるんだ。毎日すぐ近くの幼稚園に行っているんだよ。ヤン、ちょっとこっちへ来てごらん。ほら、このちっちゃなベッドでスヤスヤ眠っているのが僕の弟のヤ―チェックだよ。この間産まれたばかりなんだ。まだ何にもいえないんだ。時々ニコニコって笑うけれどね。可愛いでしょ。それからあそこでお料理してるのが僕のお母さん、マ―トカって呼ぶんだよ。さっき、マ―トカがヤンのことを、ぼくんちの前の樅の木の下で見付けて、ここに連れて来てくれたんだよ。覚えてるかい。マ―トカはねえ、お料理がとても上手いんだよ。今アヒルのロ―ストを作っているんだよ。いいにおいでしょ。後でヤンにも、僕の分を少し分けて上げるからね。おいしくって、ほっぺたがおっこちそうになるよ。
「もうしばらくしたらタトゥ―シュが帰って来るよ。つまり僕のお父さんだけどね。タトゥ―シュは、サッカ―がとてもうまいんだ。球を蹴飛すと、まるでロケットみたいだよ。僕だって時々ブ―ンってやるけどね。でもタトゥ―シュみたいにはいかないな。サッカ―ってね、案外難しいんだよ。日本でもサッカ―やる?ヤンはやったことある。あるんなら、僕と今度一緒にやろうね」
ボイテックはおしゃべりと見えて次から次へといろんな事を話かけて来ます。僕はボイテックの話を聞きながら、ご主人一家は本当に僕の側を通り過ぎて行ったのだろうか。あの涙の川や星の船は一体どこへ行ってしまったんだろう、僕を抱き上げてくれた人がマ―トカだったのなら、さっき着ていたピカピカのドレスをマ―トカはいつ着替えのだろうなどと頭の中でいろいろ考えていました。
――リ―ン、リ―ン
突然玄関の呼び鈴がなりました。
「あっ、タトゥ―シュだ」
ボイテックが玄関に走って行きました。僕もその後を追いかけて行きました。玄関の所で、大きな四角いメガネをかけて四角い顔をした男の人がボイテックを抱き上げて盛んにキスしています。
「タトゥ―シユ、ちょっと見て。これが今日うちに来た、日本の犬のヤンだよ」
「日本の犬だって?」
タトゥ―シュは、ボイテックを下に降ろすと足下にいる僕を四角いメガネの奥から丸い目をしてみつめました。そのとき玄関に現れたマ―トカが、これまでのいきさつをタトゥ―シュに話しました。
「フ―ム、それは珍客だね。どれどれ」
タトゥ―シュは大声で言いながら、僕を抱き上げ、首の鑑札をしげしげと見詰めました。その間を利用して僕もタトゥ―シュの顔をすぐ近くからしげしげと観察しました。下から見たときは髪がフサフサしているように見えましたが、頭の頂上の所の髪はかなり薄くなっています。その代わり、頬から顎にかけて焦茶色の髭がもじゃもじゃと生えています。
「ナ―ルホド。これは日本の犬だ。鑑札に東京と書いてある。」
タトゥ―シュが喋るともじゃもじゃの髭の間に赤い唇が透けて見えます。タトゥ―シュは僕の顔を覗きこみながら
「どうやって、ポ―ランドへ来たんだね、おチビくん」
タトゥ―シュはまるで人間に話しかけるように僕に話掛けてきました。
「飛行機でやってきたんです。ウ―ワンワン」
僕はまともに答えました。だってこんなに親身に話掛けてくれる人はあまりいないからです。
「そうかい、飛行機でね。」
タトゥ―シュはうなづきました。僕は一瞬あっけにとられました。
なぜって?
タトゥ―シュには、僕の言った事が分かったらしいのです。でも今のは偶然なのかも知れません。僕は念の為
「飛行機の倉庫にこっそり忍びこんできたのです。」
とつけ加えました。
「なるほど、倉庫に隠れて、密航して来たと言うわけだね」
タトゥ―シュは何でもないようにうなづいているではありませんか。人間で犬語がこれほど分る人に会った事はまだありません。僕はびっくりして目玉をぐるぐる回しながら、
「タトゥ―シユさんは犬の言葉が分るのですか?」
とたずねましした。
「おや、そういわれてみればそうだね。君の言っている事がよく分るな。これはおかしい。」
タトゥ―シユは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、僕の顔を覗きこみました。
「お前がポ―ランド語を話しているわけでもないみたいだし………キャ―ッ」
いきなりタトゥ―シュが両手を放したので、僕は空中に放りだされ、床板の上につんのめるような形で落っこちました。僕が危うく立ち直った時には、タトゥ―シュは台所に戻っていたマ―トカの肩を両手でつかまえて前後に揺すっていました。
「ハ、ハンナ、ち、ちょっと、僕は今もう、その、いや、実に、驚いた。」
「まあ、一体何を言ってらっしやるの、私にはさっぱり分らないわ」
「落着いて、落着いて」
「落着いて欲しいのは、あなたの方よ。一体どうしたの。」
「ぼ、僕には、犬の言葉が分るらしいんだ。このおチビさんが言った事が今わかったんだ」
「まさか?そんなこと嘘でしょ。ありえない事よ」
「エッ、タトゥ―シュ、犬の言葉が分るの。いいなあ、それでヤンは何と言ったの」
「いや、このヤンが言うには、飛行機に忍び込んでポ―ランドへやって来たというんだよ。ネ、そうだろう、ヤン」
タトゥ―シュは僕の方を振り返ってまるで人間の子供に尋ねるみたいに尋ねました。僕は嬉しくなって、
「ワン」
と吠え、尻尾を威勢よく振りました。
「それ御覧。ヤンがワンと言って尻尾を振っている」
「どんな犬でも、ワンと言って尻尾ぐらい振りますわ」
「君は実に疑り深い質なんだな」
「まあ、あなた、疑り深い質だなんて、失礼ね。だって世の中には、ありえる事とありえない事があるのよ」
「じゃ、試して見よう。僕が何かヤンに聞いてみて、ヤンが何と答えたかを当てて見せれば、君だって信じるに違いない」
「どうして当たったか分るのよ」
マ―トカはなおも食い下がりますが、タトゥ―シュはマ―トカの言葉を無視して、僕の目を覗き込むと、
「おチビさん、君の本当の名前はなんだね」
と尋ねました。
「チビクロと言います」
「今、この犬は、自分の名前はチビクロっていいますって答えたんだ」
「私には、ただワンワワンと言ったようにしか聞きとれなかったわ」
「僕にも、ワンワワンとしか聞きとれなかった」
ボイテックも小首をかしげました。
「じゃ、僕がこの犬の本当の名前を呼んで見ることにしょう」
タトゥ―シュはそういって、大きな声で僕の名前を呼びました。
「チビクロ!」
「ワンワンワン」
僕はこの時とばかり大声で返事をし、後ろ足で立ち上がってピョンピョン跳ね、さっきより三倍も激しく尻尾を振りました。
マ―トカの顔付きが少し変って来ました。
「フ―ン」 といった面持ちです。
「じゃ、あなた、飼主はどうしたのか聞いてみて」
僕は奥さんの言うことが分るので 、
「ポ―ランドまで追ってきたんですが、空港ではぐれてしまいました。」
と答えました。
「空港ではぐれてしまったらしい」
タトゥ―シュがポ―ランド語で言い直しました。
「じゃ、チビクロ、飼いぬしの名前は?」
「ご主人と奥さんとミコちゃんとひろしくん」
僕は答えました。
「ゴシュジンとオクサンとミコチャンとヒロシクンという四人家族らしい」
「あなた、でたらめを言ってるんじゃないでしょうね」
マ―トカはきっとタトゥ―シュの顔を睨みつけました。
「と、とんでもない。この犬がそういうんだよ」
タトゥ―シュは口と目玉を丸くしながら答えました。
「わかったわ。あなたにはこの犬の言葉が分るらしいわねえ」
とうとうマ―トカもタトゥ―シュの意外な才能を認めたようです。
「でも、どうして今になって急に犬の言葉が分るようになったのかしら?」
「うん、僕にもよく分らないけど、両親から聞いたところだと、僕は生まれた時から五才くらいまで、いつも数匹の犬と一緒に育てられたらしいんだよ。だから潜在的に、人間の言葉と同時に犬の言葉も覚えていたんじゃないかな。今まで眠っていた才能が、今日このチビクロに会って突然花開いたとも考えられる」
「でも、そんなことってありうるのかしら………」
「現に、僕がこうして………」
タトゥ―シュとマ―トカは、僕の事はそっちのけにして、どうして突然犬語が分るようになったかについて難しい議論を始めました。しかし、そんな事は僕にとってはどうでもいいことです。とにかく犬語が分る人に巡り会えたという事は、百万の援軍を得たようなものです。僕は嬉しくて小躍りしたい気持ちを押えながら延々と続く議論を我慢して聞いていましたが、とうとえうしびれを切らして
「ワンワン、タトゥ―シュ。僕はご主人と奥さんとミコちゃんとひろしくんに一刻も早く会いたいんです。何とかしていただけませんか」
僕は、マ―トカと鼻がくっつかんばかりに顔をくっつけて議論しているタトゥ―シュのズボンの裾を引張って一生懸命に頼みました。
「そ、そうだ。つまらない議論をしてかんじんのチビクロの事を忘れていた」
タトゥ―シュは、もう一度僕を抱き上げると
「分かったよ、チビクロ。明日早速、日本大使館と言うところへ連れて言って上げよう。そうすれば、明日のうちにでもゴシュジンやオクサンやミコチャンやヒロシクンに会えるかも知れないよ」
この言葉で、僕の前途はいっぺんにパッと明るくなりました。
その夜は、ボイテックのベッドの側で眠りましたが、うまくいくと明日にでもご主人一家に会えると思うと嬉しくてなかなか寝つけない程でした。