日記の部屋1963(8)/Diary1963(8)

(2000/4/16開設:since April 16,2000)
 (1963/4/16記)今朝、起きがけに急に昔の日記が読みたくなった。寝室の隣の書庫へ行き、薄暗い中で本棚の一角にたむろする日記帳の中から無作為に一冊抜き取ってきた。それが、1963年の正月17日からの日記だった。大学4年生、もうすぐ大学を卒業して社会人として新しい一歩を踏み出そうとする頃のものである。37年も前の日記であるが、読んでみるとなかなか面白い。思わず引き込まれてしまった。40年近く経つと大抵のものは時効であろう。これを公開しても差し支えることはもうそれほどあるまい。そこで、自分の半生の回顧と整理を兼ね、この部屋に掲載していくことにした。もし、読んで、登場する人物や言及されたエピソードなどに思い当たる人は下記に是非メールを下さい。
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目次

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(2000/5/5掲載)
年月日 曜日 日記本文
1963.7.23 Tuesday ◆月曜日は、日記を書いてから叔父の家に遊びに行った。
その日はオールスター第一戦だったので試合終了までテレビで観戦し、その後で碁を打った。七回戦って3勝4敗。対戦成績は良くないが、○××○××○というぐあいにうまく勝ったので三連敗を免れ、4子のハンディを維持した。一晩泊めて貰って昨日は、11時頃叔父の家を出て、映画”南太平洋”を見てきた。ミュージカルものはそれぞれに楽しいが南太平洋よりはオクラホマの方がミュージカルとしては優れているように思われた。

◆六時半頃N.Sさんがやってきた。三鷹駅の北口まで迎えに出た。白のオーバーブラウスと、紺のフレヤースカートの軽装だ。彼女の顔は見るたびに違ったように見える。北口のベンチで座っていた彼女を見て、言葉をかけるのに少々戸惑ったぐらいだった。この下宿に変わってから初めての女性の客である。奥さんがカルピスとお菓子を持ってきて下さったので紹介した。いつものことだから本当に頭が下がる。友達がやってくると色々世話を焼いて下さる。こんなに親切な方は滅多にあるまいと思う。忘れてはならない。
 N.Sさんは部屋に入るなり見晴らしが良くていい部屋ねと言う。三方が開いていて風通しも良く、家がくっついていないから遠くまで見渡せる。6時半頃は日は暮れかかっていても景色はまだ色を失っていない。
 部屋の中に向き返ると本が沢山あるわねと言って本棚をあさりだした。結局6冊借りていった。その一覧表が僕の机の前の壁に鋲で止めてある。彼女が慣れない手つきでタイプを打って作ったものだ。慣れない手つきとはいったものの、彼女の秘書業はそれで事足りているらしい。色々と楽しく語らい、飲み食いしている間にたちまち2時間たってしまった。彼女を新宿まで送っていった。

◆僕は自分自身の成長を希っている23歳の若者だ。
 今日よりは明日、僕は何かの点でより多くのより優れたものを身につけていたいと願う。そのためにこそ僕は今日努力しなければならないと思う。確かに人生はたやすく生きようと思えばたやすく生きることができるもののように思われる。特に僕の境遇はそんな生き方を可能にしている。就職した以上、職場での仕事に打ち込んでいさえすれば月々の給料は貰える。それで何とか生活して行ける。その日その日の仕事に盲従し、それを大過なくやって行きさえすれば、僕の人生は極めて安定した軌道の上に乗せられた車みたいに、これまでの惰性の力でコットンコットンと規則正しい音を響かせながら、ターミナルまで行き着くことだろう。
 だけどそれだけでは僕にはつまらなく思われる。人生に何も波瀾万丈を求めるわけではない。しかし、単なる惰性的な生き方をし、車窓に移り変わる景色の変化をただパッシブに楽しむだけの人生を僕はあまり好まない。日々新たに自分自身の努力によって勝ち得たものを身につけながら一歩一歩歩んでいきたいと思う。僕の人生のコースは現在のところある程度見通しが利く。その意味から言えば。ジャングルの中を道を切り開きながら進まねばならぬほどの困難さはない。ある程度の道はある。しかし、その道を他の人々がやっているように安易に歩んでいくだけのことはしたくないと思うのだ。同じ道を歩むにしても、俳人芭蕉が歩むのと無知な百姓が歩むのでは大いに異なるのである。自分自身を一日一日、一歩一歩進歩せしめるという意欲を持ちながら僕は人生の道を歩んでいきたいとものと思う。

19:00:00
◆お昼過ぎ頃になると僕の下宿には西日が射し込んできて、今日みたいな夏らしく晴れわたった日には居づらくなる。そこで井の頭公園に涼みに行ってみた。木陰と湖とプールとそれに涼風。すっかり暑さを忘れてしまった。プールの側を抜けて中の小島に渡りベンチに腰を下ろしてそこから一番広く見渡せる湖を眺めていた。そのベンチには一人の男がスケッチに余念がなかった。とその男の方から話しかけてきた。

 聞けば長崎から夏休みを利用して絵の修行に上京してきた、中学校の先生らしい。何でもお嫁さんは島原高校の出身らしく、その関係で島原のことになかなか詳しい。僕が島原出身だということで二時間ばかりいろいろと語らった。
 名前は林田静夫、長崎の式見中学校の教諭、長崎大学美術科卒。卒業してから7年目ぐらいらしい。先生は辞めてもいいから絵一本で生活するのが彼の夢のようだ。だけどこんなことを絵の専門家でもない僕が言っていいかは疑問だけれど、彼には大した才能を認めることはできなかった。ほとんど才能がないと言った方がよさそうに見えた。なぜだか彼の語る言葉の節々に僕は哀れさを感じたのだった。ありもしない才能を自分ではあると思い、一生懸命努めながらもついには大をなさず、そのまま田舎の絵の先生として一生を終わる。そんな行く末が僕の眼裡にまざまざと映るのだった。色に対する感覚がまるでないのだ。自らの中からわき上がってくるような美しい色がないからスケッチブックの中には死んだ色の組み合わせがあるに過ぎない。大胆に描こうとする意欲も、才能に裏付けられていないから単なる奇を衒う手合いのものに終わりかねない。僕は人間が努力することは尊いと思う。しかし、その弱々しいデッサンとあの色彩感覚を持ってしては、イソップの蛙同様お腹をパンクさせてしまうことになりかねないという気がするのだ。

1963.7.23 Tuesday ◆一昨日の夕刊だったかと思う。通産省の人事本決まりのニュースが産経の一面に出ていた。福田通産相の方針が貫かれて人事異動と言って良い。かねて噂の高かった佐橋企業局長の事務次官昇任は福田通産相の方針の7月人事の留任で完全に望みを絶たれ、今井特許庁長官が事務次官に決定した。今井の退いた空席を佐橋が埋めて特許庁長官となった。

 佐橋が企業局長となり、今井が特許庁長官となったときには勝負あったと言われたものだそうだ。佐橋にしても今井にしてもまさに複雑な面もちであることだろう。それにしても佐橋が退官せず、特許庁長官として残った点に今度の人事の難しさが現れているように思われる。通産省の事務当局と福田通産相との意見が食い違ったのだ。松尾事務次官は当然佐橋にバトンタッチして身を退く予定だったらしい。事務局の方もそうした状勢読みの下に人事を行ってきた。ところが今度の逆転劇である。佐橋の線を完全に崩したくない事務局の方が佐橋を省内に留めて時期事務次官の可能性を残したものらしい。総選挙も近い。福田通産相の人気もそう長くはあるまい。という予測が今度の人事の底にあったように見受けられる。
 昨年12月のコンパの際に佐橋氏自身に尋ねて、福田通産相との仲のあまり良くないらしいことを知った。その席上、我々の採用方針について触れた後で、「オレがいる間は、オレに見込まれていない奴には日は当たんよ」というようなことを鬼の佐橋氏は言ったように覚えている。
 今度の人事で佐橋氏退陣の噂を聞いた我々38年入省者は、佐橋氏に見込まれた仲間であり。その息のかかった連中であるだけに、こうも早々と佐橋氏が退陣してしまうことに少々不安を覚えたものであった。とにかく通産省首脳陣の一応の改変は終わった。しかし、台風の目はブキミに静まりかえっているがごとくである。

1963.7.25 Thursday ◆退院してから今日で丁度一週間たったことになる。ウカウカ過ごす一週間ぐらいあっけないものはない。まったくアッと言う間に過ぎてしまった感じがする。この一週間僕は一体何をしただろうか。はなはだ収穫の少ない一週間であったとは言えそうだ。不名誉なことではある。今からでも遅くない。そういうことのできる勇気のある限りにおいては。

◆中学2年の愛くるしい女の子。ちょっと僕のことを意識しているところが何とも可愛い。庭の芝生に藤の寝椅子を持ち出して二つも日傘をさしかけてお涼みと洒落る。水着姿でかいがいしく、あっちに行ったりこっちに来たり。二回の窓から僕の視線が覗いていることをご存じのくせに素知らぬ顔。小さなオッパイが水着の隙間から覗いても彼女は全然気にかけぬ。

◆今夜はルネちゃんにお客がある。ケイコちゃんというイトコらしい。ルネちゃんより小さくて12かそこらであろう。隣のルネちゃんの部屋で話し声がする。時折ルネちゃんの素っ頓狂な叫び声がする。あんまり大きな声なのでお母さんが階下から「ルネちゃんもう夜ですよ。あまり大きな声を立ててはいけませんよ」
と。ルネちゃんは「だって・・・だもん」と反発した。また時折そうした奇声が聞こえてくる。でも今夜もいい夜である。静かな。

1963.7.26 Friday ◆ああ何という涼しい風だ。
僕の部屋は朝からは本当に風通しが良くて暑さを忘れさせる。部屋の見取り図を描くと右のようになる。しかし、この絵には窓が二重になっているところの感じが出ていない。北と西とに一見幅の窓があるがどちらも二重になっている。ちょっと豪華な感じだ。冬などには外の寒気を防ぐのに役に立つだろう。出窓になっているから、約一尺2枚のfenetresの間には幅がある。ここが実に重宝だ。そこの腰を下ろして涼むも良い。ポットとかグラスなどを置けば食事の時には役に立つ。図にあるのは西側の窓だ。ここから実にいい風が入ってきている。まるで快哉を叫ばせるようないい風だ。ところで今ラジオで今日の最高気温は34度Cに登でしょうといっている。この実にいいかぜもお昼過ぎになると、いたたまれないような夏の直射日光に取って代わられる。そうなるとこの部屋はちょっとした焦熱地獄だ。どこかに逃げ出さなければならなくなる。そのためにもこの朝のさわやかな涼風の中でこそしっかり勉強せねばならないのだ。
 今10時17分。ラジオでは井上靖の<岩の上>を山本安英が朗読している。昨晩11時過ぎにやったものの再放送である。何となくいいなと思って聞いていたら井上靖の小説ということがわかった。今も何となく聞いている。知子という少女の一人称で書かれていて、最初聞いたときは女性の回想録かなと思った。いかにもそうした女らしい繊細な感覚、心理が溢れていて、作者を女性かなと思わせるものがある。
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