日記の部屋1963(17)/Diary1963(17)

1963/9/23〜1963/10/24
(2000/4/16開設:since April 16,2000)
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(2000/6/24掲載)
年月日 曜日 日記本文
1963.9.23 Monday ◆僕の心の中に凡俗に対するこれほどまで仮借なき憎しみを刻みつけたのは一体何なのだろう。ぼくは電車の中で、街頭で、しばしばいたたまれないほどの激しい憤りを覚え、凡俗の連中に対して軽蔑の一瞥を投げつけるのだ。ああ、人間であることを抛棄して道化役者を演じている者どもよ、お前の着飾ったきらびやかさで、お前の心の虚ろさとお前の瞳の無気力とを粉飾するつもりなのか。なお悪いことには、自らが道化役を演じていることにも気のつかぬ連中の多いことだ。彼らはますます華美に着飾ってクレオパトラ気取りでしゃあしゃあと歩き回る。絢爛たるローブの陰からのぞいているその貧弱でか細い足腰は、まさにお笑い種だ。もう一枚その上にミンクのコートでも羽織ろうものなら、お前はその重みにさえよろめいて倒れ伏してしまうに違いない。
 ビー玉の目玉と鉛の心臓の道化者よ、お前に注がれる嫌悪の視線さえ、お前は、自分の豪奢な衣装と巧みな芸当に与えられた惜しみない賛辞と勘違いしてにっこり笑い返すしまつだ。ぼくはそんなお前に苦笑せざるを得ない。その愚鈍の救いのなさに時には哀れみさえ感じる。どうしてお前は同じ人間でありながら、かくも盲目であり、かくも愚かなのだ。
 お前の瞳は、自分自身の纏っている道化の衣装も見分けがつかず、お前の心は、自分が哀れな道化役者であるということに少しも気づかないのだ。凡俗よ、無口よ、愚鈍よ、ぼくの前から去れ。
1963.9.24 Tuesday ◆今夜は里見さんのところに招待されて夕食をご馳走にあずかり、楽しい一時を過ごした。
 あい子さんの妹のとも子さんが来ていた。彼女も姉さんくらい小柄で、眼がとっても大きい。見上げるようにして覗き上げられると、ややきつい感じさえする。八重歯が笑った口元にこぼれる。少々ニキビが多いので損をしている。もう少し口数が多ければ話し相手になるのだけれど、どうも話が長続きしない。
 少々ぼくの欲しているようなセンスと差があるような気がしないでもない。いや、それよりも彼女がまだ幼すぎるのかも知れない。すぐ彼女の頬は赤く染まってしまうのだ。たった一言二言話しただけで。

◆小林君から先週葉書を貰った。驚いたことには彼と小島さんは両国高校でクラスメートだったのだそうだ。だから、僕が配属先を報せたために同じ課に小島さんという人がいないかどいう葉書を寄越したわけである。小島さんから彼宛の手紙には、「今年は優秀な新人が入りこちらがタジタジとなることがあり、暑いのにすっかり悲鳴を上げているところ」とあったらしい。まだ、盲腸になる前に書かれた手紙らしい。同様の趣旨のことを先日16日のコンパの時にも小島さんは言って、その後に「彼が盲腸になったのでほっとした」と付け加えたものである。
 それはともあれ、今夜は彼の便りに対する返事を書いた。僕の仕事の内容とか、英会話の会についてなど。

1963.9.25 Wednesday ◆今日は雨の一日だった。
 昼間降ったり止んだりしていた雨は夜半にはいって勢いを増した。今も窓に打ち付ける雨足はかなり激しい。雨のせいか寒いくらいである。長袖のシャツを引っ張り出したり、毛のスポーツウエアを重ねたり、4枚も着込んでやっと震えが止まった。
 今夜はいつもよりやや早めに帰宅して、それからずうっとチェーホフの戯曲を読んでいた。「桜の園」と「熊」の二編である。熊は30頁足らずの短編。最後のポーポワのセリフのシャレが効いていて思わず笑ってしまった。
 桜の園はそれに比べると比較的長く登場人物も豊富であるが、筋は大した波瀾もなく極めてゆっくりとしたテンポで組み立てられている。しかし、そうしたゆっくりしたものの中に、一つの時代の流れというものが、巧みに表されているところが、この戯曲を他のものと区別するゆえんであろう。押し寄せてくる時代の波に一様に押し流されながら、各人がいろいろに反応する様が描き出されている。
 無為に浪にもてあそばれるもの、必死に泳ごうとするもの、それらの人々の姿を描いて作者の筆はまるで秋の空のように冴え渡っている。この脚本の中に漂う一種の香気にも似た雰囲気は一面で僕を強く引きつけ、一面で僕に少々退屈を与えた。
 桜の園は東山千栄子の当たり役だと言われる。いつか舞台で見たいものだ。戯曲を読みながらつくづく感じることは、戯曲は小説などと比べると行間により豊かな空間を持っていると言うことである。そしてそれを読む人により研ぎ澄まされたイマージネーションを必要とする。演出家の難しさはセリフの中からその人物のイメージをつかみ取り、行間から舞台の雰囲気を嗅ぎ出すところにあるのだと思う。それさえできれば後は自ずから動き出すものである。
1963.9.29 Sunday ◆お昼少し前から夜の8時半頃まで碁会所に行って碁を打ってきた。大体実力伯仲する好敵手が見つかったので面白い碁が打てた。成績は7割程度の勝率であった。

◆昨夜は卒業後初めてのClass会であった。総勢10人集まった。あまりいい集まり具合ではなかったけれど、コンパの方は面白かった。集まったのは、松尾、寺本、清水、茶谷、片桐、岩沢、川下、岡田、加藤、それにぼくの10人である。
 東大前の「梅ずし」で、9時頃までいろいろと歓談した。新しい職場での自分の仕事が主な話題だった。みんなはなかなか活躍しているらしかった。
 「梅ずし」の後、タクシーで渋谷に行き、"Bon Soir"で飲み、そこを11時頃出て、暫くぶりに駒場に行った。駒場は黒々と静かであり、星がキラキラ光っていた。本館の側を通りながら「T先生のクラスはあの二階の端っこの部屋だった」とか、「むかでを作ったのは、あの隅っこのところだった」とか、銘々が学生時代を懐かしむようなことを盛んに言い合った。
 そう言えば昨夜は学生時代の思い出話が一番盛んだったと言ってよい。そしてなんながよくそれを覚えているのだ。「おれがT先生の時間に間違えたのは左側の頁で下から5行目位のところだった」
 みんなある程度、学生らしくなくなっていたけれど、まだあんまり変わってはいなかった。それで安心して話し合えた。帰宅したのは午前1時近くだった。

◆今月は既に6冊、本を読んだ。大小さまざま、100頁ちょっとの小冊から350頁近いボリューム豊かなものまで。頁数を合計すると1316頁。30日で日割り計算をすると1日につき約44頁になる。

◆その中で「車輪の下」は良かった。簡単な流れるような訳文が良かったせいもあるだろうけれど、とても楽しく読めた。訳者も書いているように、いろんな意味で自らの少年時代を見る思いがした。ハンスという少年の心理が、ぼくのその時代の思いと二重写しになってほんとうに良くわかるのだった。瑞々しいまでの新鮮さでもって少年の心の動きを描き出している28歳のヘルマン・ヘッセはやはり素晴らしいと思った。
 ぼくもあんな美しい文章で何か小説を書きたいものだと思う。だけどやはり毎日毎日修行しなくては容易にあれほど感激を与えるものは書けるものではない。いや、修行したって人には一人一人限界がある。世界的な作家になるにはちょっとやそっとの修行ななんぞで目的が達せられるものではない。しかし、一冊でも酔い。僕の名とともに滅びない立派な文学を完成したいものである。

1963.10.3 Thursday ◆MITI のhallで映画「切腹」を見た。
 見応えのあるいい映画だった。監督小林正樹。主演仲代達也、石浜明、三国連太郎。これほど最初から最後まで熱気に満ちた映画を見るのは久しぶりだった。ぐいぐいと圧倒的に迫ってくる量感はさすがで、外国で審査員特別賞を貰っただけのことはあると思った。小林正樹の演出、主演者連の熱演、撮影、音楽、そうしたものすべてが一つに結集して、まさにこの熱気を帯びた映画を作りだしたのだ。
 構成の妙というか、いかにも映画的な手法が大変効果的に活かされており、あれほどの迫力は文字では到底期待し得ないのじゃないかと思った。またテレビ、演劇もこの映画と同等の迫力は期待できないであろう。ここにやはり映画は映画として生きる道があるように思う。あまりのすさまじさに目を背けたくなるような場面もあるが、それが単なる興味本位に落ちず、ピンと一本筋の通った監督の倫理観に支えられ、一つの充実した力感溢れる主張を強める効果を出している。仲代達也のスケールの大きな演技は三国の冷徹な演技とともに見事であるし、石浜の演技も熱演と言ってよく、賞賛に値しよう。
 仲代と三国の会話が全編を通じて会話らしい会話で相当な部分を占めるのであるが、さすがこの実力派の二大スターだけのことはあり、少しも緊迫感を殺ぐことがない。しかも、会話の内容も非常に豊かなものを持っていて、我々は色々と考えさせられるのである。
1963.10.5 Saturday ◆猟人日記(上巻)読了。
ツルゲーネフの代表作の一つという。一つ一つ独立したと言ってもよい13の小説で、この上巻は構成されている。前にロシア短編文学全集の中で「ベージンの草野」というのを読んだということをこの日記にも記録した。それもこの猟人日記(上)の13の小説のうちの一つだったのだ。
 その時にも書いたが、ツルゲーネフの筆致は、しなやかで、自然の風物、人間の性格をくっきりと浮き彫りにしてみせる。13の小説に一つ一つに新手の人間が登場してくる。ツルゲーネフはそうした夥しいほどの人間を次々と登場させながら見事に彼らを描き分ける。本当に感嘆させられてしまう。
 そうした登場人物とは、19世紀ロシアにおいて最も普遍的な存在であった地主層とそれに隷属する農奴、またはその中間に立って支配人となったり、事務員になったりしているものである。一人の狩人が語り手となっていて、彼はほとんど感情を交えずに淡々と物語るけれど、我々はそうした冷静な、といって冷徹に走ることのない描写の中に、芸術的な薫りとともに、作者のきりりと引き締まった強靱な主張を見るのである。
 この小説は、農奴制度に対するヨーロッパの眼を開き、その制度打破のために大いなる力があったと言われている。農奴が人間的にいかに愛すべき人間であるか、いや彼らの中にこそほんとうの人間性が見られるのではなかろうか。同じ人間が主人と奴隷とに分かたれる不合理。そうしたものへの憤り。作者の手腕は鮮やかにそうした主張を一つの芸術の中に表現し尽くしているのである。
1963.10.24 ◆さあ、僕のメモ帳を取り出して、10月5日以来、僕の生活がどのように展開したか振り返ってみましょう。10月6日からの一週間には大したことも起こっていないようです。8日に<The Third Man>を見たのがせいぜいニュースになりそうです。ハリーライムのテーマソングがまだ耳朶に残っています。ティターの響きが白黒の美しい画面にとてもよくマッチしていて何とも言えぬ郷愁ののムードを醸し出していました。

◆さて13日からの一週間にはちょっとニュースバリューのあるものが控えています、15日から20日まで初出張で名古屋方面へ行って来たのです。旅行の直接の木的な11日に行われる名古屋保安表彰式に参列することだったのですが、その前後に神岡鉱山と金生山石灰石鉱山を見てきました。
 神岡は、日本有数の大鉱山で採鉱から精錬までのすべての設備があり、従業員2600名近く、坑内の施設もなかなか行き届いています。ここは人口も2万人ちかくのちょっとした町で上高地へも近く、神岡古川間の神原峠の紅葉の美しさは本当に筆舌に尽くしがたいものがありました。前夜に降った雨に洗われて、楢、漆、栗、ケヤキなどが赤、黄、茶、とそれぞれの持ち味豊かな色に染まってそれはそれは見事なものでした。四方を紅葉の山に包まれてドライブ。ちょっと予想以上の旅行の収穫でした。
 15日に東京を発って神岡に着いたのはすでに日もとっぷり暮れた7時過ぎ、自動車のガラスに付いた露を拭うと東京では絶対見られないような無数の星が黒々と聳える山々の向こうに輝いていました。
 神岡鉱山の第一クラブのお湯にゆったりとつかってまず一日の度の疲れをほぐしていると権藤技師長がお迎えに来られ、「今市」という料亭に連れて行かれました。
 僕と阿久津さん、それに名古屋から同行して下さった小川さん、鉱山側からは権藤さんと藤原さん、この5人がおときさんという人の世話でおしぼりを当てていると襖の陰から「こんばんは」と行ってまず相当年輩の芸者が現れました。それから二十歳前後の芸者が二人ニッコリ笑って入って来、やや遅れて、こっちがビックリするような大きな挨拶をしながら、同じく二十歳前後の若い芸者が入って来ました。この最後の娘が一番べっぴんで、名前は<光>と言います。
 一番年輩の人は文太郎、光ちゃんと美鈴ちゃんが21、ちょっと内気なために年を取った感じのする邦子ちゃんが20歳。文太郎をのぞけばどの子もまだ可愛らしさが残っています。僕の両脇に若い二人が付いて左右から酒を注いでくれたり、鮎の骨を抜いてくれたり、たばこの火を点けてくれたり大変な親切ぶりです。
 酒も相当回って三味線が入り、邦子と光が神岡音頭を踊って見せてくれました。どちらも小柄、ちょうど同じ背丈で、2、3曲続けて踊りましたが、ちょうど可愛らしいお人形さんみたいでした。それが終わるとその神岡音頭とかの手ほどきを受け、全員が文太郎の三味線に合わせて部屋の中を何回も踊り回りました。
 さてその次にダンスが始まりました。僕は美鈴と踊りました。この子はやや大柄な気性のさっぱりした子で何となく好感を抱かせるものを持っています。一緒に踊りましたけれどなかなか上手です。阿久津さんも<光>に引っ張り出されて踊り始めましたけれど、どうもうまくいかないようです。とにかく2、3曲踊って全員着席しました。
 美鈴が大きな声を張り上げてこう申すのです。
「ほんまにしびれるわ。アベさんはリードがうまいわねえ」
そしてしびれるしびれると繰り返すのですが、根が開けっぴろげの娘ですから誰からも反感を持たれません。
「光ちゃん、踊ってもらいなさいよ」
と光に盛んに僕と踊るように勧めるのです。僕も先ほどから光が一番気に入っていましたし、一緒に踊りたいと思っていましたので、すぐ隣に座っている光のほうを見ますとちょっと見上げるようにして大きく白目をむき出して僕を見るのです。そのままそれが肯きに変わって僕らは両手を取り合いながら立ち上がりました。
「歌って」
と光が申します。僕らのカップルだけで踊るのです。文太郎の三味線が入り、僕らは踊り始めました。彼女もなかなかダンスはお手の物らしくとっても上手です。僕らは本当にぴったりと合ってうまく踊りました。美鈴が半ばからかうように
「まあ二人して陶然と踊ってはるわ」
と言った時、僕も「陶然と・・・」と口に出したくらいです。2曲ほど踊ると光は僕の左手から自分の右手を外してそれを僕の身体に回してぴったりと抱きついてきました。と3曲目で歌が切れてしまいました。
「もっと歌って」
と光が申しても誰も歌ってくれようとしないのです。僕はといえば光がぴったりしがみついているのですからどうしようもありません。
「それなら、自分で歌うわ」
と光は申して自分で歌い始めました。ぼくらはまた踊り始めました。
 とにかくこんなに快いダンスはまたとありません。僕は相当酒は入っているし、僕の胸には美しい21歳の芸子が胸を押しつけているのです。
 美鈴が
「まあアベさんもいい気なものね。二人で気持ちよさそうに踊ってはるわ」
と嫉妬します。僕らがやっと席に着くと光が
「ああ、しびれた」
と申します。酒が相当入って品のよろしくなくなった阿久津さんが
「どこが」
としつっこく絡むのを光は軽く
「全身が」
と受け流しております。邦子がそばから、
「ほんまにお上手やなあ、アベさんはタンゴもお出来なんでしょ」
と覗き込んできます。
「ええ、まあ」
とタンゴは苦手の僕は少々逃げ腰で申しました。文太郎が僕のそばに来て酒を注いでくれだした頃には阿久津さんは酒を卒業してお茶を飲んでいらっしゃいます。
「坊や」
けしからんことには、文太郎は僕のことを坊やと言うのです。僕が坊やと呼ばれるのを少々いやがる振りをすると美鈴が
「ええやないの」
とまた少々お姉さんぶったことを申すので僕は<坊や>になりすましているのです。
「坊や、あんたはきっと出世するわ。出世したらあたしのことを思い出して」
と文太郎はしゃきしゃきしたものの言い方をします。
自分の娘のことや戦死した夫のことをしばらく話し合い、小川さんの所へ行くと、僕のほうを指さしながら、
「あの坊やは絶対に出世するわ」
と藤原さんや権藤さんに言っているのです。長年の経験から間違いないと申すのですから僕もテレながらも少々嬉しく思ったものです。
 光は僕のそばに座ってかにの肉を出してくれたり、みかんの身を剥いて、口元まで運んでくれたりします。たばこを吸うというので、僕がマッチを擦ってやるとまるで倒れかかるようにして頭を押しつけてくるのです。一瞬目と目がカチッと合って暫くじっと見つめ合っていたこともあります。それは何とも言えないほど身体のぞくぞくするものでした。僕の膝の上においた彼女の手の上に僕は何気ない振りをして両手を組みそのまま触れ合ったままでいたこともあります。
 美鈴のように
「アベさんに一目惚れした」
などと感情をあからさまには出しませんが、彼女が僕にいろいろと好意を寄せてくれたことは確かでした。
 阿久津さんはどうも評判が悪いようで気の毒でした。それというのも、どうもその場にそぐわないようなことを口になさるし、あまりに西洋かぶれが甚だしくて、すぐドイツでは、アメリカではなどということをおっしゃるからです。しかも、落ちたは落ちたで結構ですが、ちょっと品のなさすぎることをおっしゃるし、おまけに酒は飲めず、お茶を飲むときては、評判が良かろうはずもないものでした。
 おかげで、僕のほうはMMKとはあんなことかしらと後で思ったほど当夜はもてたような気がします。
「あんたほんまに酒強いわ。赤くなってからいけまんのやな」
と文太郎が感嘆したようにいくら飲んでも悪酔いもせず、愉快な気持ちでいられました。
 11時過ぎに今市を出ましたが別れ際に車の中から光の手をしっかりと握りました。あちらでもきつく握り返してくれたのです。
 こんなわけで、神岡の一夜は僕にとっては大変愉快な思い出の多い一夜となったというわけです。

◆さて20日に東京に帰ってきました。帰ってきたのは良いのですが、旅行中は毎日規則正しい生活をしているので酒を毎日飲んでも平気だったのですが、帰った途端、食事時間が不規則になってしまい、お腹をこわしてしまいました。今日はもうほとんどなんともありませんができるだけ規則正しい生活をやりたいものです。
 20日帰った日にN.鈴木さんからから一風変わった手紙が参りました。「阿部さんは恋愛はなさらないのですか」と面と向かって聞かれたのには少々面食らいました。でも、いい手紙です。我々の心が通じ合っている何よりの証拠ともなる手紙です。
 昨夜は、長田、佐伯、山下とMahjongをやり僕は+8でまあまあの成績でした。
 今日帰ってみるとN.Sさん、M.Wさん、加藤君、それに父から手紙が来ておりました。是非今週中に返事を出したいと思います。とにかくこのところ長い手紙を書いたことがないのです。こんな点で学生時代の良さを失っていくのは惜しい気がします。

◆常に希望をいだくように運命づけられた人の諦めきった顔つきをして
◆美の探求とは、芸術家が敗北せぬうちからすでにおびえて悲鳴をあげる一つの決闘である。
◆そして御身、我が主、神よ!願わくは、私が人間の最下等の者でないことを、私が私の軽蔑する人々より劣った者でないことを、私自身に証明する、美しい数行の詩句を作る力を私に恵み給え。
    以上はボードレール<<パリの憂鬱>>から

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