当初は、「今月の一冊」と銘打って、書評ともども毎月お勧めの本を一冊掲載するつもりでしたが、ちょっと方針を変更して、とりあえ ず、私のリアルタイムの読書状況をご紹介することにしました。
私自身の備忘録も兼ねた肩の凝らない部屋ですので、気軽に立ち寄って、おしゃべりをして行って下さい。
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読書録/読書中の本/「つん読」中の本/最近購入した本
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上下二巻、900ページを越える大作を、今週の月曜日(3/29)に買って、水曜日(3/31)には読み終わっ
た。先を読まずにおれなかったのだ。400字詰め原稿用紙で言えば、2300枚もの長編である。読者を飽きさせることなく、破綻もなく書ききる筆力は、並
大抵ものではない。恐れ入った。この作家の作品を読むのは今回が初めてだが、今後が期待できる。
モウル(男)、ジラフ(男)、ルフィン(女)と呼ばれる3人の主人公たちが小学6年生だった1979年当時と、それか
ら17年経ち、それぞれに29歳の大人になった現在(1997年)とを一章毎に交互に配しながら、物語は展開される。このがっしりと組まれた構成の中で、
謎を孕ませながら、最後の一ページまで、読者を連れていき、読む楽しみを満喫させてくれるのだ。
この三人の主人公は、両親との葛藤で精神に異常を来し、愛媛県にある児童精神科を持つ医院に入院していて知り合い、意
気投合し、霊山(石鎚山)登山中にある事件を引き起こすが、その日のうちにばらばらに別れる。17年後、彼らは、弁護士、刑事、看護婦として多摩川下流一
帯に住み着いており、あるきっかけで17年ぶりの再会を果たす。彼らは今もその事件の後遺症を引きずっていて、それが次なる事件を引き起こす発端になる。
主人公はもとより、彼らを取り巻く、家庭や、職場などの登場人物の造型、性格付けが見事で、末端の人物にまで血が通っ
ており、読者は、たちまち物語世界に引きずり込まれる。とりわけ主人公の造型、心理描写が的確で、空々しさがないので、読者も素直についていけるし、すぐ
にでも主人公の側に立たされてしまう。会話の密度が濃く、内容がある。ほとんど無駄なやりとりがなく、登場人物の性格や置かれた立場に良く即したかたちで
行われるので、納得がいく。とにかく、デティールが十分に書き込まれているので、作品にリアリティがある。
人間とは、家族とは、親とは、子とは、夫婦とは、男とは、女とは、愛とは、性とは、人間形成とは、人間関係とは、生き
るとは、老いとは、病とは、教育とは、医療とは、仕事とは、幸せとは・・・実に様々な答え難い問いに対して、真摯に思考し、物語を渋滞させることなく、随
所にするどい洞察と考えるヒントをちりばめた作者に、読者は、感銘を受けながら、自らも思考を巡らしつつ、読み進めることだろう。
ひとつ難を言えば、ミステリーというカテゴリーに拘りすぎて、犯人に犯行を重ねさせるのだが、犯意が今ひとつ説得的で
ないことだ。とくに最後の殺人については、あまり納得がいかない。この殺人がなくても、物語は展開できたように思うし、著者は、これだけ深みのある物語世
界を展開しうる能力があるのだから、あまりミステリーに拘らないほうがいいのではないかと思った次第。
読んでいて、浮き浮きするような明るい物語では決してないが、絶えず胸を締め付けられるような共感を持って、物語世界
に没頭することができる希有な作品だ。
| ポール・オースター「偶然 の音楽」柴田元幸訳新潮社1998.12.5第1刷 |
| 偶然転がり込んだ遺産で、赤い車を買い、まる一年、全米を走り回ったナッシュは、偶然、ジャック・
ポッツィという若者と出会う。この賭ポーカーのギャンブラーを、車に乗せたところから、この物語は始まるのだ。 例示:自分の人生をわが手に引き受けているのだと、感じられるこ
とこそ。p. |
1998/12/10
1998/10/19
本屋で最初に見つけたのは、「考える力をつける本3」であった。面白そうなので、ぺらぺらめくっていたら、近くに第一巻(この本)と第二巻もあっ
た。とりあえず、この本を買ってみたのだ。読み終わって、カバーの裏を見たら、111刷となっている。出張で宇部に持って行ってホテルで読み終えたのだ
が、たまたまその日の毎日新聞にこのシリーズの広告が出ていて、三巻で85万部、第一管が56万部、第二巻が23万部、第3巻が6万部となっている。大ベ
ストセラーなのだ。
読みやすく、具体例が豊富なところがよく売れる理由だろう。著者は、元新聞記者で、地方支局の体験も、「事件記者」やテレビ局のメインキャスターとして
ベトナムへ出掛けたの経験もある。最後は、朝日新聞の夕刊に8年間にわたり「素粒子」というコラムの担当を務め(1996年まで)、現在は同社顧問。こう
した広範にわたる経験と、あらゆることを対象とするコラム欄の執筆が、著者に、世の中の森羅万象に対する興味を植え付けたのだ。
話題や引用が豊富で、実体験に基づいて、議論が展開されるので、説得力が有る。自分の恥でも洗いざらい話す率直さも、親近感を覚えさせる。
Jリーグの川淵三郎チェアマンと大学でいっしょのチームだった、サッカーマンで、生き方、考え方に独自のスタイルを持ち、それを貫き通したことが、よく
わかる。
「読書とは本を買うことである」「自分の時間を持て」「遊び上手は仕事上手」「書くことは考えること」などなど、日頃私が考えていることを裏付け
るような話が多く、そうそうとあいづちを打ながら楽しく読み終えた。
いろんなことに興味を持って人生を楽しく生きたい人にはお勧めの1冊。
パトリック・モディアノ『1941、パリの尋ね人』白井茂男訳 作品社 1998.7.30第1刷
ゴングール賞受賞作家パトリック・モディアノのノン・フィクション作品である。作者は、8年前、1941年12月31日付けの昔の新聞『パリソワー
ル』をめくっていて、尋ね人の小さな記事をみつける。
「尋ね人。ドラ・ブリューデル。15歳、1メートル55、うりざね顔、目の色マロングレー。・・・パリ、オルナノ大通り41番地、ブリューデル夫妻宛に情
報提供されたし」
オルナノ大通り界隈は、作者が昔から良く知っている地域だった。この少女に興味を覚えてからしばらくして、この少女が、作家と同じユダヤ人でアウ シュビッツの犠牲者だったことを知り、作者のドラさがしの旅が始まるのだ。貧乏な移民の子であったドラの足跡は作者の懸命な努力にもかかわらず、ほんのわ ずかしか確かめられなかった。
そうはいうものの、われわれにとってみれば、それは驚くほどの事実を発掘しているのだ。まったく無名のわずか15歳かそこらで、ユダヤ人であった というただそれだけの理由で、この世から抹殺された少女の、50年も昔の足跡を辿るという想像を絶する難問に作者は挑み、断片とはいえかなりのものを明か にしたのだ。その探究の道筋をこれ以上ありえないほど淡々とした筆致で描いたのが本書である。
収容所の記録簿に残された、数々の名前、中には身元不明児童146号として名前さえ記入されていないものもいる。その多くがアウシュビッツに移送 され、殺されたのである。「もはや名前もわからなくなった人々を死者の世界に探しにいくこと、文学とはこれにつきるかもしれない」と作者は、この本に寄せ られた批評を引用して述べる。
この本は次ぎの文で締めくくられている。
「彼女がどんなふうに(逃亡したあとの(筆者注))日々を過ごしたか、どこに隠れていたのか、そして、最初に逃亡した冬の数ヶ月、逃げ出した春の数週間、
彼女は誰と一緒だったのか、私には永久にわからないだろう。それは彼女の秘密なのだ。哀れな、しかし貴重な秘密であり、死刑執行人も、布告も、いわゆる占
領軍当局も、警視庁留置所も、獄舎も、収容所も、歴史も、時間も(私たちを汚し、打ち砕くもろもろすべてのものも)、彼女から奪い去ることのできなかった
秘密であろう。」
訳者によれば、フランスでは、「人道に背いた罪」という法律が1964年に制定され、1994年にはフランス人にもこの法律が適用され、ドイツ軍 による占領下ドイツに協力して、ユダヤ人を強制収容所へ送り込んだヴィンシー政府の高官が裁かれている。フランスは、こうして第二次世界大戦下において自 国の犯した犯罪についてもきちんと裁こうという姿勢をしめしている。この裁判を伝えた『ル・モンド』紙は、日本に触れ、「連合軍による東京裁判以外、戦争 犯罪を問う裁判は一切なかった。”パンドラの箱”は閉じたままにしておきたいようだ。」
この本は、フランスの戦時下における自己責任を、静かに問いただすものであるが、昨春出版以来たちまちベストセラーになり、世界13国で翻訳され
ることになったという。
日本の主な都市は、ほとんど例外なくクマネズミに占拠されているのだそうだ。すばらしい造りの駅ビルも、デパー トも、有名なホテルも、クマネズミでいっぱいで、都心のレストランや、居酒屋では、厨房の棚上はネズミの糞だらけだそうだ。知らないうちに、ネズミの糞尿 で味付けされた料理を食べさせられているかもしれないのだそうだ。
クマネズミは、本来田舎のネズミだったのが、いまや都市のネズミ化しており、その用心深く、粗食に甘んずる習性 で、それまで都心を占拠していたドブネズミに取って代わったらしい。著者の見るところ、その無血革命が起きたのは1970年代半ばのことらしい。
日本の都市が、クマネズミで占拠されたのは、次のような理由による。
まず、クマネズミには、優れた登攀力と綱渡りの能力があり、建物内に巣を作る習性、強い警戒心、殺鼠剤に対する抵抗性
があること。一方都市のほうでは、建物が大型化し、それにともなって飲食施設が必然的に併設され、ネズミの通行や営巣を許す構造を持ち、冬でも暖かく保た
れること。道路は、電線や電話線などが交錯し、地下街が、クマネズミの遺伝的生態的交流を助けること。防除技術は、お粗末で、住民のネズミ駆除に対する意
欲も関心も低いこと。
わたしも、本当のところ、この本を読むまで、東京がクマネズミに占拠されたという意味で、世界でも最先進国であ ることなど、まったく知らなかった。この本を読むきっかけになったのは、つい一月ほど前、我が家にネズミの姿を見つけ、これはなんとかしなければと思い、 本屋の書棚をあらためていて見つけだしたからである。発売が今年の6月25日、クマネズミ問題が、今や、我が家だけの問題ではないことがよみとれる。
この本を読んで、我が家のネズミが、クマネズミであることも初めてわかった。終戦後の田舎では、夜ともなると、 天井裏をネズミが、駆け回っていたものだったが、あれはドブネズミだったらしい。このクマネズミは、ドブネズミに比べ、小型で、肉食よりは穀物や種子など 粗食に甘んじ、はるかに用心深く、殺鼠剤にかかったり、ネズミ取りにかかることが少ないようなのだ。
区役所に連絡したら、最近、近くで家の取り壊しは有りませんでしたか、という。あったどころの話ではない。近く も近くで、しかも、米屋さんが改築のため家を取り壊したのである。そこからクマネズミが我が家に引っ越してきたのだ。区役所から、殺鼠剤から、本書で、子 ネズミにしか効果がないと非難されている粘着罠まで、いろいろ貰ってきたが、まったく利き目がない。日本は悲しいながら防除技術の面ではまだ途上国なのだ そうだ。
さて、どうしたものか。中東へ行く飛行機のなかで、滅茶苦茶に頭のいいネズミとの智恵比べを描いたコメディ映画 を見たのだったが 、我が家でも、クマネズミとの智恵比べが始まったのである。これはコメディではないのだ。
マーガレット・アトウッド『ダンシング・
ガールズ』岸本佐和子訳 白水社 1989/11/25
1939年生まれのカナダの女流作家アトウッドの短編小説集。収録されて6つの短編のどれもが、冒頭から読者をたちま
ち、物語の世界に引きずりこまずにおかない。それだけ、語り口が巧みなのだ。
ごくありふれた日常を目配りの利いた正確な描写力で、ディテールまで淡々と語る魅力に付いていくと、いつしか、 主人公たちの、繊細で感受性豊かな独特の感じ方や考え方の世界、それゆえにありふれた日常ではあり得ない世界、に誘い込まれている。冒頭の、カナダの女性 とベトナムからの留学生との奇妙な交流を描く「火星から来た男」と、表題作で末尾に置かれた、アラブからの留学生を同宿の女性の目を通して描く「ダンシン グ・ガールズ」は、カナダ社会におけるアジアやアラブという遠い異国から来た小数者の置かれた、一種惨めな境涯を淡々と描く点で共通している。事実を淡々 と物語るだけで、いいとも悪いとも言うわけでもない。しかし、そくそくとして迫って来るものがあるのだ。
このように、この短編集に描かれているのは、言わば社会的弱者だ。エリートコースを脂ぎって邁進する人物より、 ある意味ではそこらにいるような人物、悩みや劣等感を人一倍抱え込んだ人物である。そうした人たちの感情の起伏が手に取るように描かれているので、すんな りと感情移入ができる。なによりも、登場人物一人一人が、的確に捉えられており、しかもひとつひとつの物語の世界について作者の用意周到の知識量が感じら れるだけに、小説世界に安心して没頭できる。全くの破綻を見せず、6つの異なった世界を描き、魅力的な主人公を造型した作者の力量には感心した。人生や人 間を実によく知っているなと思わされた。
緑陰で、ゆっくりと静かに読むにふさわしい一編。
(1998/7/29)
テリー伊藤『大蔵官僚の復讐 お笑い大
蔵省極秘情報2』飛鳥新社1998/7/8第1刷
第1巻の方は読んでいないが、この2巻目、なかなかよく出来ていて、面白く、一気に読み終えた。
大蔵省の現役のキャリア、ノンキャリ、それぞれ二人ずつのインタビューを取りまとめたものであるが、匿名で ニュース源を絶対に公表しないという条件で、彼等の本音を余すところなく引き出すのに成功している。次官、財務官、局長はじめ、話題にのぼる官僚も、すべ て実名で登場する。
キャリア組、ノンキャリア組、それぞれの生態・体質が、言葉の端々ににじみ出ていて、笑わされる。今回のよう な、大不祥事があっても、なお権力の美酒に酔いしれ、驕り昂り反省もせず、自らに都合のいい論理で、まくしたて、自己弁護をし、一方で国民を愚弄し、自ら の論理的矛盾や、限界に気付かず、気付こうともしないいい加減さが、透けて見える。
もちろん、ここに登場する4人が、大蔵「官僚」のすべてを代表するものではないし、もっと立派な人がいるのだろ うが(いてもらわないと困るが)、ここに語られた限りにおいては、大蔵省・大蔵官僚についての一応整合性のある世界が描き出されているように思われ、その あまりにもお粗末な実態に、暗然たる思いにさせられる。日本という国の政治・行政の、張り子の虎的底の浅さが、あからさまに暴露されており、この難局を招 いたのも、いままた手を拱ねいているよりないのも、これじゃ仕方がないということがよくわかる。
4人の語る世界が、日常からあまりに遊離した世界なので、思わず笑わされるのだが、笑ってばかりいられない。本
当に国の前途が思いやられてくる。
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こんな女性がいるだろうか。10年ひたすらに、待つ女。アルベローニの『エ
ロティズム』を読んでも、男女のエロスは大いに異なっており、女性は、きわめて現実的だという。一度跡絶えた恋愛感情を10年も維持でき
るようには、とうてい思えない。
相手の男は、妻がありながら、10年前の約束を守って航空券を送り付け、10年振りのバリ島での再会を誘う。こんな男
性もあまりいそうにない。この二人の一週間のバリ島での滞在が描かれる。
この小説から、どことなく、うそっぽく、しらじらしい印象を受けるのは、この二人の人間像にリアリティがないか らだろう。一応、簡潔で踊ることのない文体で書かれているけれど、あまり買えない。
この本を本屋で見つけたとき、まったくためらいもなく、すぐ購入した。というのも、バッハ自身に関心があったこ ともさることながら、この本の訳者が畏敬する山下肇先生だったからだ。先生は、大学時代の担任で、卒業後も、おつきあいいただいているが、性は温厚ながら 情熱的な行動家で、現在もお元気で活躍しておられる。また、ドイツ文学者、文筆家としても著名であるが、書かれる文章には品があり、けれん味がなく、情が こもっており、何を読んでも、当たり外れがない。
この本を読んでみて、さすが期待を裏切らない訳であった。いや、この本は先生が30歳のときの訳で、「毎日出版
文化賞」の音楽部門で、第一位に推挙され、いわば先生の出世作(訳)となり、その後のドイツ語訳者としての地保を築く機縁となったもので、以来ロングセ
ラーを続けるとともに、NHKや民放で朗読紹介され、音楽関係の必読の教養書として取り上げられるなど、名訳の誉高いものであったことを知るにつけ、不明
を恥じるばかりだ。一読、心が洗われるような気がしたのも無理はない。もともとはダビッド社から1950年に出版されたものを、今回講談社の学術文庫に収
められることになり、この種の本にしては珍しく版を重ねているという。これは、先生から直接伺ったことである。
嬉しそうな先生の口振りをいまでも覚えている。
著者となっているアンナ・マグダレーナ・バッハは、バッハの後妻である。訳者もあとがきで著者について「当初か ら一抹の疑念を拭いさりきれないでいた」が「この疑念の追及詮索は専門研究者の手に委ねる」として、真実の著者については言及せず、「戦後のバッハ研究が 進むにつれて、この疑念の真偽の問題もしだいに明らかにされて、本書がマグダレーナの真筆ではないという見解が有力視されるようになっているが、だからと いって、本書の声価はすこしも失われていない」としている。
1988年にフランスで出版されたベルナーレ・ピヴォー他編『理 想の図書館』(世界の名著を49のジャンル毎に、49冊ずつあつめたもの)(パピルス 1990/7/6第1刷)では、音楽のジャンルの 名著として、エステル・メイネルという真実の著者名で取り上げている。その中で20世紀に書かれた小説であると紹介されているが、真実味あふれる上質な品 格高い本書は、著者がバッハの後妻であろうとなかろうと、その価値がいささかたりとも減ずるものではないことは、訳者の言う通りである。
これは、夫婦愛、家族愛の物語であり、信仰篤い、創造的人間の姿を、日常生活のレベルで見事にとらえた読みごた えるのある小説でもある。作曲家として、オルガニストとして、また、音楽の理論家、教育者として、溢れるような才能の持主ながら、必ずしもそれに相応しい 職を得ることが出来ず、また、常に良き上司にめぐまれるわけにもいかず、そうした人間関係の葛藤や軋轢に悩まされる一方で、少年合唱隊の指導などの煩瑣な 日常的な仕事に貴重な時間を奪われながらも、倦まず弛まず、盲しいて死の床にあってさえ、創作の意欲を失わなかった、バッハの姿を、夫を愛し、敬い、13 人もの子を成し、献身的に尽くす、妻の鏡とも言うべきマグダレーナの視点から鮮やかに描き切っている。
生涯を通じて、自分の家族と彼を知り彼の音楽を理解してくれる小数の友人をしか必要とせず、名声とか賞賛を求め ず、まったく時間を無駄にすることなく、65才の生涯のうちに、信じられないほど多くの優れた作品群を残した「音楽の父」バッハが、この本を読むことに よって、その厳格そうな容貌にもかかわらず、きわめて身近な親しみやすい人と感じられるようになった。
同年の同郷の生まれである作曲家ヘンデルとの対比が面白い。ヘンデルを、敬っていたバッハは、ヘンデルに会おう と努めるが、必ずしもヘンデルの側からの好意が得られず、ついにその願いは叶わなかった。「けれどヘンデルは世間を求める人でした。自分の身のまわりに限 りない大浪を打たせて、たくさんたくさんお金をこしらえる人でした。それに対してゼバスティアンの方は、大げさなことはいっさい嫌いで、世俗を逃れ、自分 の家庭で、家族の者たちの懐の中で、静かに黙々と仕事に打ち込んだ生活でした。」(p.77)
バッハの死後、めったに聴かれることもなくなった「彼の音楽は、(いまもてはやされている)息子たちのものとは ぜんぜん違います。わたくしの感じますところでは、それは人をまったく別の世界に連れて行ってくれるのです。明るく朗らかに澄んで、この世のものとも思わ れない高い世界、そこではもはやこの地上の煩らいはすべて力を失ってしまうのです。彼の心の中には、平和と美の核心がひそんでいました。」(p.134)
いま、キース・ジャレットの演奏するバッハの『ゴルドベルク変奏曲』を聞きながらこの読書録を認めているが、ま
さしくその通りと思う。バッハが音楽に占める大きさは、戦後益々認識されるようになってきたが、今後とも増大することはあっても、減ることはないだろう。
近年に至っても、ギドン・クレメールやキース・ジャレット、ペーター・シュライヤーをはじめ、多くの世界の名手が、精力的にバッハに挑んでおり、わたしの
ようなファンには嬉しいことである。
半藤一利『ノモンハンの夏』文芸春秋 1998/4/20第1刷1998/5/25第5刷
「論文の部屋」に集録している拙論『強硬論と日本の自己主張』を、書いたきっかけは、この本に
も登場する辻政信や服部卓四郎を頂点とする陸軍内部での、いわゆるエリート参謀の、己も敵も知らぬ、強気一辺倒の強硬路線が、国をいかに誤った方向へ引っ
ぱっていったかを、太平洋戦争に関する様々な戦史を読み、考えさせられたからであった。
この本も、わたしのそういう方面の関心に応えてくれる戦史として興味を持ち、読んでみたのだが、その期待を裏切らな
い、出来映えになっていると思う。
ノモンハン事件と称される戦闘における先の両名の、傍若無人ぶりが、能う限りの文献に照らし合わされて、事細か に検証されており、これらのエリート参謀の引き起こした無謀、独善、泥縄的な戦いの陰で、いかに多くの将兵が、過酷無残な戦いを強いられ、戦場の露と消え て行かなければならなかったかを、怒りのこもった筆致で、著者はみごとに描き切っている。戦後国家の選良となった辻政信に議員会館の一室で対面したとき、 この世に存在することはないとずっと考えていた「絶対悪」を眼前に見るの思いをしたという筆者が、その日以来、「ノモンハン事件」をいつの日にかまとめて みようと思いたったという。
統帥権を無視して戦端を開いた上、敵をあなどり、自らを過信して、さして意味の無い国境線の維持にこだわり、泥 縄的で逐次投入の弊に陥っている関東軍の作戦参謀に対し、スターリンとジューコフ将軍のコンビは、この戦闘の重要性を認識し、万難を排して、砂漠の涯のノ モンハンに、近代戦を戦い得る兵力と装備を結集し、日本軍に襲いかかるのだ。結果は、ひとたまりもない。
事件後、責任を明らかにする人事異動が迅速に行われるが、幕僚に対する処断はきわめて甘く、「積極的な軍人が過
失を犯した場合には、人事当局は大目にみるのを常とする。処罰してもその多くは申訳程度ですませた。いっぽう、自重論者は卑怯者扱いされることが多く、そ
の人が過失を犯せばきびしく責任を追及される場合が少なくなかった。」(p.340)
「こうした信賞必罰ならざる悪しき慣例が、最前線で勇敢に戦った指揮官たちに適用され」「かれらは戦死または自決し、あ
るいは自決を強いられてほとんどが逝った。」(p.341)「そのために、この戦争における統帥の非合理さと拙劣さ、作戦計画の粗雑や誤断、指揮の独断な
ど現場からの批判は、すべて曖昧なものとなった。」(同)「のみならず戦い終わったのちの、誤解や上長の悪感情が、悪戦苦闘した部隊長を殺した。」(同)
損耗率76パーセントという「ノモンハン事件」から、こうして、日本陸軍は、ほとんど何も学ばないまま終結し、太平洋戦争で同じあやまちを繰り返すことに
なるのである。
この本の末尾は次ぎの言葉でしめくくられる。
「ノモンハン敗戦の責任者である服部・辻のコンビが、(いったんは責任を問われて左遷されたが、いくばくもなく三宅坂上
(陸軍参謀本部作戦課)に華々しく復帰し、)対米開戦を推進し、戦争を指導した全過程をみるとき、個人はつまるところ歴史の流れに浮き沈みする無力な存在
にすぎない、という説が、なぜか疑わしく思えてならない。そして人は何も歴史から学ばないことを思い知らされる。」と。
『三本の矢』とこの本を合わせて読むと、「昔陸軍、今大蔵」といわれるほどの絶対的な権力を握った組織内の、いわ
ゆるエリート幹部の思い上がりと独善と不勉強が、国の行くべき方向を誤らせ、国民に故なき苦しみを強いるという構図が、今も昔とかわらず厳然と存在し、日
本が何も歴史から学ばないことを思い知らされ、慄然たる思いがするのである。
宮部みゆきのデビュー作『魔法のささやき』を読んだときから、彼女の並々ならぬ才能を感じていた。少年の心理描 写一つにしても、みずみずしく、その息遣いが分るように書き込まれていて、妻にも一読を勧めたのだが、すぐ、テレビ劇化され、それだけを見た家内はこれは 何だという感想を持ったようだ。テレビ劇のほうは明らかな失敗作で、彼女には気の毒な出来だった。
とは言いながら、その後の活躍振りは目を見張るものがあって、現代ものだけでなく、時代物まで手を延ばし、こと
ごとく成功している。そのうちに読もうとと思い、これも現代の問題であるクレジットカード業界を題材にした『火車』も買ってあるが、そのままになってい
る。
最近、この小説が評判になっており、ある書評を読んで食欲をそそられたので、『火車』
より先に、読んでみた。期待を裏切らない出来と言えるだろう。570頁を超える長篇をかなり短時日で読み終えた。
事件は、激しい雨の夜、「ヴァンダ−ル千住北ニューシティ」という豪華なマンションの一室で起こる。「一家」四 人が皆殺しになるのである。著者は、伸びやかで気配りの行き届いた文章力と、例によって巧みなストリーテラーぶりを発揮して、読者を一気に物語の中に誘い 込む。地の文と、この事件の関係者から事情を聴取するインタビュー形式とを巧みに混ぜ合わせた語り口で、地の文だけで通すやり方に比べ、人物の心理の襞に より深く入り込んでいくことに成功している。
作者は、この物語を通して、日本の現代の家庭といううものの虚構性に肉迫する。家庭らしい家庭の構築に、日本と
いう社会は必ずしも成功しているとは言えないのではないか。重たい問いであるが、滞ることのない語り口に乗せられて、スピーディに読み進めるうちに、次第
次第に、作者の問いかけに気付かされる。登場人物の一人一人について十分に書き込んであるので、事件の展開に説得力があり、安心して付いていける。
ただ、惜しむらくは、真犯人を、物語展開の必要性から殺してしまううので、真犯人にインタビューできないことだ。その
ため、犯罪の真の意図や、犯人像が、どうみてもぼやけてしまい、関係者のインタビューで外堀を埋めてみても、説得力が薄いのだ。それにベランダから転落死
するシーンが、今一つ説得力に欠ける。若い女性と争ったぐらいで、大の男が、そんなに簡単に、豪華なマンションのベランダから転落するものだろうか。
先日も新聞で、女流の力量の有る作家が特集されていたが、その四人、篠田節子、桐野夏生、高村薫、宮部みゆきは 一通り読んだことになる。いずれ劣らぬ筆力の持ち主である。一層の充実を期待したい。
今週の日経(1998/7/12)のベストセラー欄の6、7位に、宮部みゆきの歴史体験エッセイ『平成お徒歩日 記』とこの『理由』が並んでいる。ますます多方面にわたる才女振りを発揮しているようだ。
ところで、第8刷の日付が1998/7/30になっているのは間違いではない。新しく刷ったと思わせたい出版社 の都合で日付は勝手に決められるものらしい。
(1998/7/7)
フランチェスコ・アルベローニ『他人をほめる人、けなす人』大久保昭男訳 草
思社1997/10/6第1刷 1997/11/18 第10刷
この本には、59人もの人が登場する。「楽観的な人、悲観的な人」「他人を認めない人」「他人を指導する人」「他人を
ひきたてない人」「高貴な魂をもつ人」「何が善かを知る人」などなど。しかし、「他人をほめる人、けなす人」は、登場しない。ところが、このネーミング
が、この本がヒットした理由だという。
このネーミングから、軽いハウツー物を期待しがちだが、決して中身は軽くない。作者のアルベローニは社会学者で、哲
学、宗教、文学にも造詣が深く、文章のなかに、以下に掲げるような、人々を縦横に引き出し、説得力に富む論理を展開する。アリストテレス、シェークスピ
ア、ゲーテ、フロイト、アドラー、ユング、ベートーヴェン、ベルディ、モーツアルト、カント、ホメーロス、ウェルギリウス、ダンテ、ニーチェ、ハイデッ
カー、マックス・シェラー、ルター、ヘーゲル、カルヴァン、ミルトン、エンリーコ・フェルミ、マーシャル・マクルーハン、ドストフェスキー、ロナルド・
フィッシャー・・・
イタリアを代表する新聞に連載したエッセイをまとめたもので、ひとつひとつの文章は短く、読みやすい。人生の機微に通
じ、博識で洞察力に富む作者の言葉にしばしば、なるほどとうなずきながら、読み終えた。自分自身の性向を知る上でも、周りの人々の言動の真の意味を解し、
理解しがたい人々のことを理解する上でも、役に立つ。この本が、ベストセラーになるのなら、読者も捨てたものではない。味読するに値する本だ。